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菊花の約 (現代語ラノベ調)  作者: 本好きの図書室
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菊花の契り

 春の柳は青々として美しい。だけど、もし自分の庭に柳を植えようと思っているなら、それはちょっとやめておいた方がいいかもしれない。それと同じで、軽薄な人との付き合いはやめておいた方がいいだろう。立派な柳はすぐに茂って青々となるけれども、秋の初めの冷たい風が吹き始めるともう耐えられないものなのだ。同じように、軽薄な人との付きあいは簡単ではあるけれども、離れていくのも速いものなのだ。いや、柳のほうがまだマシかもしれない。なぜなら、柳は春が来るたびに葉を新緑に染めて愉しませてくれるけれども、去ってしまった軽薄の人が訪ねてくることは、もう二度とないからだ。


 ***


 丈部(はせべ)左門(さもん)は清貧の儒学者だった。左門を支えるのは母一人だけだった。左門の母はとても賢く堅実で、左門がなりたい自分になれるように、懸命に働いて左門を支えていた。じつは左門には妹がいたが、すでに嫁いでしまっていた。妹の嫁ぎ先は裕福で、左門とその母の堅実な人柄を慕って、いろいろな贈り物をくれようとする。だけど、左門はいつも「人の世話になるわけにはいかない」と言っていて、一度たりともそういった贈り物を受け取ろうとしなかった。


 ある日のこと。左門は、宿に泊まっている旅行者の中に、疫病にかかってしまって、ろくな治療も受けられずにいる武士がいるのを見つけた。その武士は、どうやらずっと遠くの西の国から来たようだった。周囲の人たちは「そいつは流行病だから近づかないほうがいいですよ」と左門に勧める。しかし左門は笑って「人間の寿命なんて計り知れるところではないですよ」と言って、かまわず病人の面倒を見るのだった。じっさい、左門はまるで兄弟の面倒を見るように武士を看病した。


 疫病にかかっていた武士は、左門が親切に世話をしてくれることに感激していた。やがてだんだんと病気が良くなってくると、武士は左門とよく話すようになっていった。


 武士は自分のことを赤穴(あかな)(そう)右衞門(えもん)と名乗った。赤穴は左門に御礼を言って、自分の身の上を話した。赤穴の専門は軍学だった。二人はいろいろと話をして、人柄の上でも学問の上でも意気投合した。


 ある日のこと。左門を深く尊敬するようになった赤穴は、左門にこう言った。

「このご恩は一生をかけて返しします」

 しかし左門は

「そんな当然のことにいちいち御礼の必要なんてないですよ。滞在を続けて休養されるといいです」

 と言うだけだった。そんな左門の誠実さに赤穴は打たれて、宿への滞在を続けた。やがて赤穴はほとんど完全に回復した。


 この数日間、左門は赤穴という心が通じる相手と出会ったことに感激していた。左門は赤穴と昼も夜も親しくして、いろいろな話をした。赤穴は左門の専門分野については控えめだったけれども、するどい質問をしたり深く理解したりする能力が大変優れていて、非常に賢い人だと左門は思った。それだけではない。赤野は自分の専門分野のことになると、自信たっぷりにいろいろなことを教えてくれる。左門と赤穴は、お互いの心がぴったりと一つになったような気がした。感心したり喜んだりすることが続いた。このようにして、赤穴と左門は、お互いを尊敬するようになり、ついに義兄弟の契りを結んだ。


 赤穴は左門に言った。

「私は両親に先立たれて親がありません。義兄弟となったからには、私もお義母さんに尽くします」

 左門は大変感激してこう言った。

「母は、私が独り身なのをいつも心配しています。いまの真心を母が聞いたら大変喜ぶでしょう」

 左門は赤穴を宿から引き揚げさせて、自分の家に連れて行った。


 家に着いて挨拶したとき、左門の母は赤穴にこう言った。

「たいした才能も無く、時代に合わない学問ばかりして、鳴かず飛ばずの息子です。どうか見捨てることなく、兄として導いてやってください」

 赤穴は心から感激して

「男にとって一番大事なのは利害を捨てて尽くす心です。有名だとか金持ちだとかは関係ありません」

 と答えた。赤穴は、もうしばらくの間、左門の家に滞在することにした。


 桜が散り初夏の訪れを感じる頃のある日のこと。赤穴は左門と義母の前に座ってこう言った。

「私の旅の目的は、西方にある出雲の様子を見に行くことでした。これから出雲に向かって旅立ち、すぐに帰って来ます。帰ってきたら、お義母さんに尽くしてご恩返しするつもりです」

 左門が言う。

「それでは兄上はいつお帰りになるのですか」

「月日が経つのは速いものですが、遅くても秋よりは前に帰ってくるつもりです」

「秋っていったい何日ですか。どうか何日に帰ってくるのか約束してもらえないでしょうか」

「では九月九日、菊の節句の日にこちらに帰ってくることにいたしましょう」

「兄上、絶対に日付を間違えないでくださいね。私はその日、菊の花をかざって、心ばかりのお酒を用意してお待ちしています」

 赤穴と左門は互いの言葉に誠意を尽くして別れを惜しんだ。やがて赤穴は西へと旅立っていった。


 ***


 月日は過ぎて、あっという間に約束の日になった。左門はいつもよりも早く起きて、菊の花を飾り、有り金をはたいて酒の席を用意をした。左門の母は左門に言う。

「出雲は遠いのだから、赤穴が帰ってきてから準備してもよいのではないですか」

 左門は答える。

「赤穴は約束を守る人です。帰ってきてからあわてて準備するようでは恥ずかしいではないですか」


 この日はよく晴れた日だった。たくさんの旅人が行き交っていた。しかし赤穴は帰ってこない。夕方になり、旅人たちの足取りがせわしなくなる。左門は、赤穴がいつ帰ってくるのかワクワクして待っていた。ずっと外ばかりを見ていて、少しぼーっとした気持ちになっていて、何を言ってもうわのそらだった。


 それを見ていた左門の母は、左門に言った。

「菊が綺麗なのは今日だけじゃないでしょう。帰ってきてくれるなら、少しくらい遅れても良いではないですか」

 左門は

「母さんがそう言うなら仕方がありません」

 と答えて母に従った。しかし、母が寝静まると、左門は外に出て、星明かりの下で赤穴を待っていた。やがて月も沈む頃、あきらめて戸締まりをしようとしたとき、人影が見えた。よく見ると赤穴だった。


 左門は飛び上がって喜んだ。

「兄上、お待ちしておりました。約束通り帰ってきてくれてうれしいです」

 しかし、赤穴はただ頷くだけで何も言わない。


「遠いところをお疲れでしょう。一口だけでも召し上がって、それからお休みください」

 左門は赤穴をねぎらい、酒と食事を勧めた。しかし赤穴は袖で顔を隠して、料理の匂いを避けるような様子だった。


 それを見た左門はこう言った。

「たいした料理ではないですが、精一杯ご用意しました。どうかそんなに嫌わないでください」


 赤穴はため息をついて、ついに口を開いた。

「あなたの心のこもったもてなしを嫌いになるわけがありません。本当のことを言いましょう。驚かないでくださいね」

「兄上、どうしたのですか」

「じつは私はもうこの世の人間ではありません。汚れた死霊のかりそめの姿です」


 左門は驚いて言った。

「兄上、どうしてそんな変なことを言うのですか。現実にはあり得ないことです」

「故郷に帰った私は、新しい主君に仕えることを拒んで、けっきょく自宅に軟禁されることになりました。それで自宅から出ることができないまま、今日、菊の節句の日を迎えてしまいました。もしこの約束を破ったら、かわいい弟が私のことをどう思うか」


 赤穴は続ける。

「きっと嫌われてしまうだろうと、そればかりが気がかりでいろいろ考えました。しかし自宅から逃げ出す方法はなさそうでした。そこで私は、昔の人が『魂は一日に千里を行くことができる』と言っているのを思い出しました。私は自害して、今夜の怪しい風に乗って、こうしてはるばる約束の場所にたどり着いたのです。どうか私のこの気持ちをわかってください」

 言い終わると、赤穴はとめどもなく涙を流していた。


「これで永遠の別れです。どうかお義母様を大切にしてください」

 そう言うと、赤穴は立ち上がり、そのまま姿が見えなくなってしまった。


 左門はあわてて赤穴を引き留めようとした。風に目がくらんでしまって、赤穴がどこに行ったのかわからない。そのうちに左門は何かにつまずいて転んでしまって、赤穴を見失ってしまった。

「赤穴、赤穴、…………」

 左門はその場に座り込み、大声で泣きわめいていた。


 左門の母が驚いて起きてきた。

「どうしたの」

 しかし左門はただ泣くだけだった。母は言った。

「赤穴が約束を破ったと思って泣いているのですか。もし明日に赤穴が帰ってきたら、恥ずかしいとは思わないのですか」

 左門は答えて言う。

「兄上は約束を果たされました。そしてこうおっしゃったのです『私は約束を破るわけにはいかなかったので、自害して魂だけになって帰ってきました』」

 それを聞いた左門と母は互いを呼び合い、その夜は声を上げて泣き明かして過ごした。


 翌日、左門は母に申し出た。

「私はずっと勉強ばかりしていて、いままで何の務めも果たしてきませんでした。兄上は約束を守り務めを果たす心を貫いて死にました。せめて兄の墓を建てるのが私の務めだと思います。できるだけ早く帰ってきますから、旅立つことをお許しください」


 左門はそう言って旅立つと、明けても暮れても赤穴のことばかりを考えていた。食べることも寝ることも忘れて、ひたすらに出雲に向かっていた。


 ***


 左門は赤穴の家を訪ねた。家の主人の丹治は左門を出迎えて、座敷に案内した。丹治は左門に言った。

「どうして赤穴宗右衞門が亡くなったことを知っているのですか」

「武士は、金持ちになれるかとか、自分がどうなるかとか、そういうことを気にしません。ただ約束を守って務めを果たすためだけのために生きています。兄上である赤穴宗右衞門は、交わした約束を守り、からだのない魂だけになって、百里の距離をものともせず、私のところまで戻ってきてくださった。そこで、私は兄上との約束をはたす務めのため、急いでここまで来たのです。あなたは兄上の家族なのに、なぜ兄上のことを逃がしてあげなかったのですか」


 丹治は恥じ入っているのか、うなだれるばかりでなにも言わない。左門は続ける。

「兄上は約束を守る人だったから旅に出ました。あなたは昔の主君を見捨てて裏切りました。それは武士の務めを果たしたとは言えない態度です。兄上は私たちと約束のために命を捨てて帰ってきました。これこそ務めを果たしたというものです。それにひきかえ、あなたは家族である兄上を閉じ込めて、無念の死に至らしめた。一族の繁栄のためにはそれも仕方が無いのかもしれません。でもそれは務めに反する行いです」


 左門は立ち上がってこう言った。

「私は約束を守るためにここまで旅をしてきました。貴様はここで、道に外れた者としての汚名をのこすがいい!」


 言い終わらないうちに、左門は刀を抜いて切りつけた。丹治は一太刀で倒れた。左門は急いでその場を立ち去り、そのままどこかに行ってしまった。


 丹治の主君はこの事件の報告を受けたらしい。けれども、赤穴宗右衛門と左門の義兄弟が固い約束で結ばれていることにとても感動して、あえて左門の後を追わせなかったという噂だ。そう、軽薄の人と深く関わってはいけない。この一件はまさにその通りだった。



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