第Ⅱ話『揚げパンと宴の終わり』(前編)
町の最西端にある館では、祝願祭の騒がしさも嘘のように静まりかえっている。
教会からリヴォーラ山脈に向かって伸びる通りは、最西端に建つ館でその道を終えるのだ。その館こそ辺境伯エヴァルト=フォン=カリスの住まいであった。
エルは静かになっていく祝願祭を抜け、館へと戻ったのだった。
門衛によって開けられた門を抜け、館へと向かうエルを、庭園に出ていたメイドや庭師たちから声を掛けられる、しかし、その応対はそっけないものだった。
館へと戻ってきたエルを待っていた人物が一人、扉の前に立っている。黒色の燕尾服に白い手袋、ダークグレーの髪に灰色の長い耳が飛び出た兎人族の男性である。
「お帰りなさいませ、エルネスト様。」
右手を胸に当て、恭しくも見惚れるほどに美しく一礼した彼の名は、ニース・シュバリエである。彼はカリス家の家人を取り仕切る筆頭執事としてその手腕を振るい、エヴァルトの側付きとして、その才を認められた程の人物である。
「ただいま、ニース。」
そっけなく返すエルはニースが苦手である。
いかなる時も冷静沈着に表情すらも変えずに努める仕草は、さすが筆頭執事である。しかし、子供であるエルにとっては冷たく映る姿に一抹の不安を抱いていたのだった。
「本日は午後から、経済学について学んでいただく為、王都から学者を招いていますので遅れないようにお願い致します。他にもエヴァルト様からの課題が多く出ておりますので、外出はお控えくださいませ。」
「・・・わかった。お父様は戻ったのか?」父の行方を尋ねるエルにニースは答えた。
「いえ、まだお戻りになっておりません。祝願祭中にはお戻りになる予定でございます。」
「・・・そうか。」
短く答えるエルの表情は暗い、幼いころからエルを見続けたニースには見破られていることはわかっているが、それが何だというのか。貴族としての教育は遊び盛りの子供にとって苦痛以外の何物でもないのだ。何故自分は町民として生まれなかったのかと思わずにはいられないのであった。
「エルネスト様。」
「わかっている、貴族とは常に感情を表に出すなと言いたいんだろ?」
「それならばよいのです。ですが・・・。」
ニースの言葉を最後まで聞かず、エルは自室へと向かったのだった。
町の住民たちの中で、エルの正体を知る者は少ない。
ヴィターリ商会の商会長であるミーナの両親、その娘のミーナ、残るは同じ年のガッチョとアルテミアの5人だけである。
大商会長であるミーナの父は領主邸で行われた晩餐会へと招かれた際にミーナを連れて参加したのだ。
それがエルとミーナの初めての出会いである。
歳の近さもありすぐに意気投合した二人はそれからの付き合いであり、エルにとって唯一無二の幼馴染となったのだ。幾度となく訪れた領主邸で家人に見守られながら二人は遊んだ。
だが、外出許可の出ないエルにミーナは嫌気がさし、ある計画をたてたのだ。おてんば娘のミーナは、ガッチョとアルテミアに声をかけエルを街へと連れ出したのだった。
馬車で通り見る事はあれども一人で街に出ることなどエルにとって初めての経験であった。見るものすべてが新鮮で、ミーナ達と街を散策しのんびりと過ごす時間は領主の息子として育てられたエルにとっては心躍る出来事だったのだ。
しかし、エルが館からいなくなった事で館は騒然としていたのだ。すぐさま捜索部隊が組まれ街へと捜索の手が伸び、4人を取り囲み大騒ぎになったのだ。
エヴァルトは子供のしでかした事だと冷静な判断を下し、連れ出したミーナ達に何のお咎めも下ることはなかった。
エルにも経験は必要だとして、正体を隠す事、無断では出掛けない事、勉学は休まずにする事などを約束しお咎めを受けることはなかったのだ。
一度自由な世界を見てしまった少年には、自由に暮らす子供たちが眩しく見え、町での生活に憧れを抱いてしまった。
それからというもの、街へと出掛けることを許可されたエルは幾度となく町へと繰り出し、楽しい日々を過ごした。それは全ての子供が享受するものであり、求めるもの。
自由を手にした少年は、父との約束を守りながらの生活ではあったが、自由気ままに過ごしたのだ。だがその貴族らしからぬ姿に見守っていた家人達は戸惑うような視線を向けるようになる。
しかし、それはエルが寂しさを埋めるべくしての行動であることを、大人は一人を除き、知ろうともしないのであった。
祝願祭が催される期間は3週間と長い。一つの町に多くの店が出店を希望するため、遠方から仕入れた品を販売する店は完売した段階で店をたたみ、次の店が出店へと移るのだ。価格の設定も希少価値を踏まえて算出し人気の店では初日完売もあり得るのである。
余談だが、「僕様」おじさんが買い込んでいた希少な果物ジャムの店も、その日のうちに完売となり、早々に店をたたんでいたのである。そして、商魂たくましく次の商品の買い付けを祝願祭で行い宴を楽しむのだった。
祝願祭の初日に遊びに出て以来エルは館へとこもり、父の課題と向き合っていたのだ。そして、父の課題を終えたのは2週間が過ぎた頃であった。
やっとの思いで課題を終わらしたエルは、一人町へと繰り出したのである。
残すところあと数日となった祝願祭も賑わう人の姿に変わりはなく、違う店が並んでいる姿が見て取れた。
館からもほど近い、西通りの骨董市と薬市を観ていると不思議な品が数多く見られた。
歪な形をした壺、山であろう物が描かれた風景画、海の生物を模ったクリスタルの置物や中には割れているものまで並んでいる。
骨董市はまだ見てわかるものも多い、だが薬市では全くわからないものが多く並ぶのであった。
薄い木を渦巻き状に巻いたような物に甘い香りのする黒い木の幹にも似た物、葉っぱにしか見えない物まで並びエルの興味は皆無であった。
芸術にも薬にも興味のないエルには面白みも感じられず、その場を後にしようとした時である。
「これは、もしかして〝Ⅵ〟のバニラビーンズか?」
通りを進むエルは、聞き覚えのある言葉に反応してその足を止めた。
『バニラ?』ミーナとの会話に出てくるバニラと同一か確かめるべくエルは声の聞こえた方へと顔を向けたのだった。
〝Ⅵ〟とはある国を現す呼び名である。ある法則に従って〝Ⅰ〟から〝Ⅻ〟の国が存在し、それぞれを、その愛称の数字で呼ぶのだ。
「おっ!お客さんお目が高いね!その通りだよ、これは〝Ⅵ〟の国でも最高の品さ。いやー私は色々な国に行くのが好きでね。〝Ⅵ〟の国まで仕入れに行ったときに見つけたんだよ。」その価値を見極めたお客に、店主は嬉しそうに話を続ける。
「いやーでも、この町じゃ中々売れなくてね、どうだい買っていかないかい?」
値札には特価100g/銀貨1枚と書かれている。
「ちょうどなくなったところだったんだ、全部もらえるか?」
「全部!!」
驚きを隠せない店主、それもそのはずである。
〝Ⅵ〟のバニラビーンズはその希少性から高値で取引されている。
港町ポルトの大人の平均月収は銀貨20枚程であり、銀貨1枚で日雇い3人分の日収を上回るのだ。
特価と書かれていても閑古鳥が鳴くわけである。
買い手がつかない理由は他にもある、価格も然ることながらバニラビーンズを欲しがる人が単純に少ないのである。町民には、まだお菓子を作る文化が根付いておらず、バニラビーンズを知る者すらほとんどいないのだ。
「・・・全部で1000gとちょっとだけど、おまけしても銀貨10枚がせいぜいだ。でも、いろんな意味で大丈夫かい?」
大人の平均的な月収の半分を占めるのだ、疑うのも頷けるというものである。そして、その量にも驚きを隠せないのだ、〝Ⅵ〟のバニラビーンズが肉厚で豊潤な香りを持とうとも、1本の重さは5gにも満たないのだ。
「すぐになくなるから大丈夫だよ。」
「そっ、そうかい。なら包んでしまうからちょっと待っててくれ。」
そういうと店主は後ろを向き注文されたバニラビーンズを包み始めたのだった。
エルはその店の向かいに立ち止まって見入ってしまっていた。声の主は何者なんだろうか?姿を見ようにも、声の主が背負う大きなリュックが邪魔をして見えないのだ。
「おまたせしちゃったね。」
包みを受け取り、銀貨を渡すと大きなリュックを背負った人物は骨董市の方へと歩き去ったのだった。
見守っていたエルも〝Ⅵ〟のバニラが気になるも、買い占められてしまっては手の出しようがないのである。
ミーナを見つけたら話してやろうと、町の中心にある教会へと向かうのだった。