種無し葡萄
俺にはひとつ秘密があった。恋して愛して、将来をユメ見て、付き合う彼女が結婚したい、等とかわいい夢をちらつかせる仲までになり、貴方と似た子供がほしい、二人は欲しいな、とありふれた、無邪気な未来を語れば……。
程なく二人の仲は解消となる。子供の話題に希薄な俺は、子を妊み子孫を残す遺伝子が目覚めた彼女に、大抵こう言われる。
「なに?どうしても黙り込むの?もしかして……、私との子供はイヤなの?」
キミと結婚はしたい、そうだな。子供はどっちでもいいと言えば。
「……、何それ。もういい!」
こうなる。そして寛大なる彼女の場合は、話しても仲は上手く進み、挨拶に行く。未来に向けて話を進める内に、当然、早く孫の顔をと言われ、曖昧に誤魔化していると。
……、数日後。
「やめておいた方がいいって……友達もみんなそう言うの、だって赤ちゃんの話をしたら、はぐらかすでしょう、不誠実だっていうの……」
こうして物分りの良さそうな女のコとの話は終わり、何時しか『遊び人』との、レッテルが貼られる始末。
そんな時に出会ったのが、妻の加奈子だった。箱入り娘、お嬢様な彼女、直ぐに終わると思いきや、意外にもトントン拍子に話は進んだ。
俺は資産家な轟木の家に、入り婿という形で、一緒になり、直ぐに子供に恵まれ、郊外の一軒家にて、親子三人で幸せに暮らしている。
「おかえり」
「あら来てたの?先に言ってくれてたら、何か買って帰って来たのに、ろくなもの無いわよ」
いいよ、酒があれば。たまにはね、部屋の管理状態の確認のために、と彼女をからかう様に話す。
「うふふ、ちゃんと掃除はしてます。こう見えても家庭的なのよ、先に飲み物用意するわ、どうせなら店に来てくれたら良いのに」
「店も良いけどね、ゆっくり話せないし。それより君狙いのお客が男がいた、なんてがっかりさせちゃ、売り上げに響くかなっと思ってね」
お心遣いありがとうございます。リビングに接している、アイランドタイプのキッチンから声がする。
……グッゴト、カチャリ、ンパタン冷蔵庫を開け閉めしている音、ガタ……冷凍庫を開け、バタン!閉める音。パタパタ、足音。コト、ザザザ……、コトコト……。
やがて用意が出来たのか、小さなワゴンをベビーカーの様に押しながら運んでくる。
「ミスト、でいいかしら?」
テーブルの上にコースターを置き、上にワイングラス、細かくクラッシュされた氷が山になってる、アイスペール、ガラスの小鉢にはスライスレモン、そしてウィスキーがひと瓶コトンと置かれた。
「ありがと、後は自分でするよ」
そう言うと、そう、じゃあ果物とチーズ位しか無いけど、何か持ってくるわね、と再びキッチンに向かう。
……、グラスに氷を縁まできっちりと詰め込む、琥珀色のウイスキーをゆっくりと注ぎ込む。ウイスキーは希釈熱に揺れ、粒の小さい氷によって急激に冷やされていく。
クラッシュアイスのピピピ、ききき、チチ……、鳴く音と共に、霧のような水滴がグラスを曇らせる。穏やかにウイスキーは霧に包まれた。
霧、それが『ミスト』
最近蒸し暑くなり、ウイスキー・ミストスタイルの、これにハマっている。スライスレモンを一枚、表面に載せる。グラスは霧に包まれた、淡い琥珀色に光っている。
これをどうぞ、オーナー様、とふざけた様子で彼女は、海の色をした琉球硝子に、一房の葡萄をのせ運んできた。
「種無しの巨峰ですって」
ぱっつんぱっつんに皮がはっている紫紺の巨峰が一房、うっすらと表皮には霧を纏ってる。ところどころに、小さく丸い水の珠が、照明の光を反射し弾けるように光る。
「君のようだな」
ぷちん、とひとつ摘み取る種無し葡萄。ひと粒の果実、子をなさぬ子房。
「どういう事?」
「甘くて美味しそうということ」
やだわ、シャワーを浴びてくるから、それ食べて待ってて、七夕だからって、かこつけたお客様からの頂き物だけど。と彼女はクスクスクスっと笑いながら、浴室に向かった。
七夕、文月か……。早いものだな。葡萄といえば、秋の味覚だったのではないのか、ニセアカシアの白い花が咲く頃、葡萄も花を咲かせる。種無しにするには、ジベレリン処理をしなくてはいけない。葡萄に雌しべの柱頭に花粉がついたよと、雌しべを騙すのだ。
花が全て咲いた時、薬剤にとぷんと房を浸す。
これは果実を種無しにする。
丸い実がついた時、薬剤にとぷんと房を浸す。
これは果実を膨らませる。
ちなみにジベレリンは植物ホルモン、自然界にある存在。詳しく述べると長くなるが、要は『伸びる』筍等に含まれるものである。薬剤ではない。日本人が発見した素晴らしき物資なのである。
葡萄の雄しべとしてみたら、たまったものじゃないだろう、雄しべの存在どこに!なのだから。雌しべはジベレリンにより、受粉したと錯覚をさせ、子房を実りへと膨らませる。
だが所詮紛い物、一度で済ます方法もあるらしいが、実を結ばず膨らんだ子房を、固く小さくならない様に、二回目、肥大をさせる為にもう一度液に浸される場合もある。
その後鋏で、丁寧に一房ずつ形よくする為、小さな実育ちの悪い実を間引きし、袋を掛け手間暇をかけて、ようやく種無し葡萄が出来上がる。勿論、そのまま放置していても葡萄は実る、味も何ら変わらない、ただ不揃いで見目悪く種がある。
そしてやはり、見目は綺麗な方が美味しそうに見える。
そしてやはり、種は有るより無いほうが俄然、食べやすい。
大粒な紫紺の珠を、天井のシャンデリアの灯りにかざす様に眺めていると、中身を吸いだし食べるより、剥いて食べようと思いつく。
右の手のひらにころん、と転がしてみる。しっとりと濡れるような冷えている感覚。再び左手の親指と人差し指でつまむ、軸穴?というべきそこに、右の親指の爪先を、少しばかり入れる。
人差し指の腹と親指の爪先、その間に巨峰の紫紺の表皮。口の中に吸い込むように食べると、厚みを感じるのに、いざ、蜜柑の様に剥こうとすれば、薄さを感じる不思議がある。
香りもそうだ。ワインに詳しい知り合いが、うんちくを述べていた。皮に含まれるあの高貴なる香りは、酒にならねば昇華出来ないと。
くっと力を入れそろりと丸みに沿い、皮を下に剥いていく。綺麗に剥きたくなった。大切なひと粒を、ゆっくりと剥いて裸にしていく。
濃い色の下には淡い翠色した半透明な果実。名残の筋が紫に残る。口に入れて噛むと、かしゅりとさくい。舌は種を感知をせず、みずみずしい葡萄の甘いそれを味わっている。甘い、美味しいがどことなく香りは薄く感じる。
剥かずにそのまま、穴に唇を当て、チュッと吸い込むように食べるほうが濃厚な、何かを得れる気がする。
昔……、そう、熱を出して入院していた時に、見舞いで差し入れられた巨峰は、味は同じだが、種があったと思い出す。
洗い数粒程を皿にのせられ、ベッドの上でだが、ようよう起き上がる事が出来るようになった自分に、食べる?と聞かれ差し出された。汁気が飛び色が散らぬ様に、胸元から大きく、バスタオルを広げられていた上で食べた。
……、粒を摘む指先、親指と人差し指、離れているそれを合わすように力を込める。紫紺の皮に唇を当てる。軸とつかながっていた穴。チュッと吸い込む。中の実が口の中に、勢いをつけて飛び込んでくる。
紫紺の皮がペタンとしぼむ。甘い香りも甘い果汁も、皮の渋味も一度に味が広がる。噛むと舌が知らせる『異物』の存在。皮を捨てた後で、それから種を口からぺろりと出す。数粒の子らが手のひらの上に居た。
何時から?大粒の中に連なる小さな種が、薄翠のど真ん中に、軸と繋がりぶら下がらなくなったのは。幼い頃は小粒のデラウェアしか覚えていない。
紫紺の果実の翠を味わい飲み込むと、ミストを飲む。お楽しみである彼女の風呂は長い。それほど酒に強くない、自覚はある。なので飲み過ぎないようセーブをする為、葡萄をもうひとつ、ぷちんと摘み取る。
時間つぶしに皮を剥く。丁寧に、実を傷つけぬ様に……、少しばかり爪を立てるとえぐれてしまう。硬そうに見えて柔らかな葡萄の実。
――、「貴方、今日は夜は実家で過ごそうとお申し出がございましたの。泊まりになりますがお仕事は大丈夫ですの?」
朝、妻が玄関でそう話した。そう、七夕は彼女の姉の命日だ。その日は仕事を休み、息子も学校を休ませ墓参りに向かう。そして家族水入らずの食事を済ませる。入り婿である俺の、日中は最大規模の家族サービスの一日となる。
「ん、そうだな、泊まりか。私は遠慮をしてもいいかな、少しばかり仕事が立て込んでるし……、晴之と親孝行してきなさい」
「はい、わかりました。頑張ってきますわ」
そう返事を返してきた。堅苦しい本邸には出来れば向かいたくない。それは晴之の母であり、俺の妻もそう。向こうに行けば出来の良い娘の皮を被らなければならない。息子を置いて先に逝った姉の様に、振る舞わなくてはいけないのだ。
出入りの弁護士が手続きを怠らなかった為、息子晴之は俺達夫婦の実子となっている。が、本当のところ、母親は妻の姉。本妻の娘である。妹である妻は実のところ妾の子と、妻の知らぬ場で開かれた、会席において知らされた。
「野心もあり、頭もきれる、先を読む力もある。娘の加奈子と付き合っているそうだが。地位と財産が目的か?」
はい、とりあえず正直に答えた。まあ、と上品そうな加奈子の母親が、小さく声を上げた。会食も終わりに近い時、塗の座卓の上には、磁器の器に、皮を捲られた葡萄がころりころり。彩りなのか木の葉が一枚。
「それ込みで愛しております、なので私は事業も加奈子さんもどちらにも、身を呈して尽くそうと思っております」
腹を据えて答えたのだが、蛇蝎の如く見てくる目の前の父親、その背後で全てを見極め、糸をひいている女郎蜘蛛の様な母親に、ぺろりと飲まれそうだった。入り婿を狙う青二才等、履いて捨てるほど会い排除してきたのだろう。
「……、事業が先に来たか!正直で良い。どうだお前、そろそろこの辺りで手を打たないか?美和子が引き寄せたのやもしれん」
「……貴方様が良ければ、わたくしは『轟木』の血筋さえ守れればそれで良いのです。美和子の子供が、長じて当主になれば、それで良いのですから」
美和子の子供?病院で姉が病に伏しているとは、聞いてはいたが……事の次第によれば、この場で加奈子との破談を申し込もうと考えていた。
「ホーホホホ、計算高い事、今そのこずるい頭で、加奈子を捨てる事を考えておられましたわね。そう、あの子には轟木の血は一滴も流れてません。四郎の妾の子ですもの。本来なら何処かに出すべき娘。しかし、御先祖様が導いて下さった、唯一無二の道。これもわたくしがお子を、たった一人しか産め無かったのが元凶なのですから、泥芥も飲み干しましょう」
「良いのか、もしや子を産めば正気になるやもしれん」
おいおい、加奈子の父も、もしや婿殿……。
「いいえ、酷ですが、あの子の心は壊れてしまいました。もう戻りません。母親として、腹の子を育てる事はできません、わたくし達が引き取り育てる事も考えましたが、少しばかり不安も御座いましたわ、でも……最適な娘を、貴方はおこしらえになられておりました。何かあった時のために、わたくしは引き取り、手ずから育てた甲斐が御座いましたわ……そして、最高の婿がねが目の前に」
ニッコリと見てくる、見てくる、見てこられる!
「ほほほほ、加奈子はわたくし、轟木の家には逆らいません。そう育てたのはわたくし。既に名跡を継ぎ、嫡流のお子を育てる覚悟は出来ております」
そうにこやかに笑顔を向けてきた母親。シュッと衣擦れの音を立て、居ずまいを正すと三指を付き、頭をひとつ下げてから顔を上げ……突き付けてきた、誰にも敢えて話していない事を。
「貴方の事は全て調べましたの。生い立ち、学歴、病歴……大人になられてから、子供の病気にかかられ、お熱を出されて、しばらく入院された様ね」
跡取りに関わる、お家騒動は避けねばなりませんからね、加奈子夫婦に子供は独りで良いのです。ましてや妾の子など、加奈子一人でよい。轟木の家をよろしく。
「夫婦仲良くであれば、女遊びの一つやふたつ、あの子は何も言いません。四郎の様にヘマをしでかし、子を作らねば良いのです。本妻を蔑ろにしなければ、妾をひとりふたり囲うのは、男の甲斐性だと私は思うのです」
「あ、あれは……済まなかった、加奈子の母親に、してやられた、お前には感謝してもしきれない」
「良いのですわ、あちらも女の子でしたし、妾の子が轟木の血を引かぬ男の子ならば、どう抹殺しようかと、悩まなくて良かったのですわ」
女郎蜘蛛は、俺を絡めとった。いつの間にか張り巡らされていたのか、ベタベタとはり付くのは横糸。獲物を捕らえる横糸に……俺は囚われ、もがいても、もがいても、最早巣から逃げれぬ事をその時知った。
「やだぁ、何をしてるの?葡萄の皮なんか剥いちゃって」
ごめんね、お風呂は私の癒やしの時なのよ、色香を漂わせながら、俺の横にすとん、と座る彼女。ふわりと薄い花びらを集めて縫い合わせた様な、夜着の裾が踊る。
「退屈だったから」
「うふふ、今日は泊まれるの?」
「うん、泊まれる」
「私も少しだけ飲もうかな」
「今から?」
「お風呂あがりだもの、喉が乾いちゃったの」
そう言うと彼女は立ち上がろうとした。悪戯に手首を掴み引き寄せる。きゃっ!と声が上がる。不意をつかれて、バランスを崩した彼女は、ドサリと元いた場所に尻から落ちる。
足が開く、捲れ上がり柔らかい白さを、艶めかしく顕にする。
「もう!危ないわ!」
紅を剥がし、艷やかに色付いた桜桃の唇が文句を言う。
テーブルの上、琉球硝子の皿に幾つかコロン、コロンと剥いた巨峰の翠の果実。紫紺の筋が走っている。
種無し葡萄。
花が全て咲いた時、薬剤にとぷんと房を浸す。
これは果実を種無しにする。
丸い実がついた時、薬剤にとぷんと房を浸す。
これは果実を膨らませる。
人間が便利よく食べる為だけの物なら、花粉等要らないのだ。手間と暇をかければ、立派な果実を実らせる。
ぷぅ、とふくれっ面で起き上がる彼女。笑いながら俺は、喉が乾いてたら葡萄はどう?皮を剥いてあるよと話す。
「やだ!手で摘んだらベトベトするじゃない」
不機嫌そうに話す彼女。そう、じゃあ食べさせてあげようと、俺はコロンとした実を、ひとつ取り上げると、口の中に放り込む。
そして……、彼女に被さると、それを蕩りと食べさせた。
終。