1 出会い
【幸(小六)の日記】(猫:生後二カ月)
母さんは六月のある日、買い物のついでに、小さなのら猫を拾って来た。私が拾って来るといつもおこるくせに、自分は「すごく弱ってるから見ていられなくて・・・」なんて言い訳している。
その子猫は小さなダンボール箱の中に入れられていた。そのダンボール箱の中をそっとのぞいて私はぎょっとした。全身が一体なに色の猫なのかわからないほどよごれていて、ろっ骨や背骨が見えるほどやせ細っていた。子猫は私をぎょろぎょろした目でじっと見ていた。私は思わず目をそらした。
私は今まで、何匹も猫を拾ったけど、ここまできたならしい猫は初めてだった。
「母さん。じゅういさんに行く前にこの猫、洗ったほうがいいんじゃない?」
と私が言うと、母さんは
「その子ね、脚にケガしているでしょ。お風呂に入れたらかえって細菌に感染するかも知れないから、先にじゅういさんの所へ行くわ」
「私も行く」
子猫の入った箱のふたを閉め、母さんの運転する車に乗って、一番近くのじゅういさんのところに行った。
じゅういさんの診察が始まった。箱から子猫を取り出した。子猫は「みぃみぃ」と鳴いた。ここで初めて、私は子猫がキジ猫だと知った。
じゅういさんはすごく深刻そうな顔をしている。
「あしのレントゲンをとりますね」
レントゲンを撮ってみると、右後ろあしの大たい骨がふくざつ骨折していることが分かった。そして左後ろあしはどんなにしげきを与えても反応がない。
「左あしはもしかしたら神経が切断されているかも知れません。おそらく、自転車の車輪か何かに巻き込まれたんでしょう」
え!神経が切断って、よく分からないけどおおごとなんじゃないの。母さんまで深刻な怖い顔になっている。じゅういさんは言った。
「この子、どうされますか?」
母さんは言った
「飼うつもりですけど・・・」
でもちょっと自信なさそうだ。前足は両方とも無事だった。右あしの傷口を消毒する時、痛いのか子猫は「みぃみぃ」鳴いた。かわいそう。涙が出そうになった。
「右あしは手術が必要です。体力が出て来たら、手術をしましょう」
「今日していただくことはできないんですか?」
「恐らく、ますいに耐えられないと思います。栄養点てきをしたので、様子をみましょう。でも、とても重とくな状態です」
ジュウトクって?よく分からないけど、ひどい状態ってことかな。
「この子は生後二カ月ですが、二カ月の子の半分の体重しかありません」
だから、こんなにやせているんだ!
母さんとじゅういさんとの間で色々と話がされて診察は終わった。あしの消毒、点てき、レントゲン、お腹のなかにいる寄生虫のくじょ、ノミのくじょ、盛りだくさんな診察だった。時計を見ると、診察開始から一時間半もかかっていることがわかった。
子猫は点てきと傷口の消毒のため、毎日通院することになった。拾ってきたその晩は、箱の中に敷いた布の上で子猫は眠った。
母さんが言った。
「ねえ幸、この子、何て名前にしようかしらね?」
「え、いきなり言われてもわかんないよ。花子とかは?」
「もうちょっと、現代的な名前がいいわね。そうだ、死にかけているところを拾われたから、ラッキーはどう?」
「でも、死んじゃうかも知れないんでしょ?」
「この子は大丈夫だと、母さん、思うわ」
と母さんは、今度は勝手に自信満々で答えた。それで、母さんの拾った子猫の名前は「ラッキー」になった。
「ラッキー、死んじゃ駄目だよ」
と私がラッキーをなでようとすると、ラッキーは怖い顔をして、私にかみついた。
「痛っ!」
私の声を聞いて、母さんが言った。
「ラッキーはここに来るまで、これだけのケガをして、ひとりぼっちで怖い思いばっかりしてきたから、今はそっとしておいてやるのが一番だよ。幸、消毒液持って来なさい。かまれたところ、消毒してあげるから」
ラッキーにかまれたところは穴になっていて少し血がにじんでいる。母さんに消毒してもらって、ラッキーのそばを離れた。
私は寝るとき、「ラッキーが明日も生きていますように」とお祈りして寝た。
次の朝、私はおそるおそるラッキーのいる箱に近付き、目をつむってそうっとのぞいてみた。
「ラッキーが死んでませんように」
そう言ってから目を開けた。すると、ラッキーはキラキラした大きな目でこっちを見ていた。気分ももしかしたらだいぶ良いのかもしれない。
「母さーん、ラッキー元気そうだよ!」
台所から母さんが来た。
「そうでしょう?昨日の点てきが効いたのね。ラッキーを今日もじゅういさんのところに連れていくからね。幸が学校に行っている間に行くわ」
「えー!私も行きたい!」
「幸が帰って来てから行くと、晩ご飯の支度が遅くなっちゃうの。ね、ラッキー、おばちゃんと一緒にお医者さんに行こうね」
「おばちゃん?何それ。私は何なの?」
「あなたはねえ・・・・ママ!」
「えー!ママ?」
「ラッキー、この子がママだからね」
ラッキーはこの何でもない会話を、キラキラした大きな目で私たちを見ながら聞いていた。
【ラッキーのつぶやき】
アタシはジメジメした暗いところにいた。脚が痛くてとても立てない。寝たままの状態がもう数日続いていた。おなかはペコペコだけど、食べ物を探しに行けない。きょうだいもお母さんもみんな去って行った。今晩は雨がふるらしい。屋根のないこの場所でアタシはずぶ濡れになるだろう。そして、死神がやって来るだろう。意識が遠のいていく中で、通りがかりの人間がじっとこちらを見ていた。その人はアタシを持ち上げ、両手でしっかり抱いて歩き始めた。
「一体、どうするつもりだろう」
アタシは抵抗する力もなく眠りに入った。
気が付くと、アタシは小さな手作りっぽいベッドに寝かされていた。アタシの苦手な人間の子供がアタシをじろじろ見ている。
「ここは一体どこだろう」
と思いながら、また意識は遠ざかった。
次に目覚めたときは、動物病院の診察台の上だった。白い服を着た人が、アタシの脚を観察している。そして、脚にとてもしみる液体をかけた。
「しみる、しみる!」
とアタシが鳴くと、その白い服を着た人は
「ごめん、ごめん」
と言った。その後、背中にちくっとした痛みがあって何かが体の中に入っていった。
アタシは思った。動物病院とは痛いことをするところなんだって。だから動物病院は嫌いになった。
今日一日だけで色んなことがあって、アタシはすっかり疲れてしまっていた。アタシを拾った人の家に戻ると、アタシはすぐ寝てしまった。外の雨音を聞きながら、今日一日は濡れなくて済んだなと思いながら。
次の日、アタシはどういう訳か少し元気になって目を覚ました。そして、自分が人間達に「ラッキー」と呼ばれていることに気付いた。信じられないことだけど、アタシに勝手に名前をつけて、勝手にアタシを家族の一員にすることにしたみたいだ。アタシを拾ってくれた人は「おばちゃん」、おばちゃんの子供で小学六年の幸、通称「ママ」。この二人がアタシの家族になった。喜んでいいのかどうなのかわからない。
おばちゃんは毎日車を運転して、アタシを動物病院に連れて行った。そこでは、あのしみる変な液体を毎日かけられ、毎日ちくっとやられた。痛いことばかりやるのに、おばちゃんときたら、
「今朝、起きた時に、ラッキーが昨日より元気そうな顔をしていたんですよ」
なんてどうでもいいことを言う。
「点滴をすると、子猫ですから効き目が現れやすいんです」
と白い服を着た人もにこにこしながら言う。肝心なアタシの主張は何も聞いてくれない。でも、毎日少しずつ、体調が楽になっていくのはわかる気がする。
「そろそろ、ミルクをやってみて下さい」
と白い服を着た人がおばちゃんに言った。ミルク?何だそれ?おばちゃんは病院帰りにペットショップと呼ばれる店へ行き、猫用ミルクだけでなく、猫じゃらし、つめとぎ板、エサ入れ、猫用トイレ、トイレ砂ととりあえず猫を飼うときに必要なものを全て買った。どうやら本気でアタシを家族にするみたいだ。複雑な気分。
ペットショップではなんと本物の猫がガラスケースに入っていっぱいいた。アタシのきょうだいがいないか探したが、すぐに、この子たちはお嬢様、お坊ちゃまだと気付いた。何だか可哀想な気がした。
【幸(小六)の日記】
今日、学校から帰ると、ラッキーの使う物が色々置いてあった。猫のトイレとか猫じゃらしとか。母さんが、病院のついでに買って来たそうだ。今まで何度も猫が飼いたいって言っても許してもらえなかったのに、今度こそ、ラッキーと一緒に暮らせるんだと思うとわくわくしてきた。
じゅういさんはラッキーに猫用ミルクを飲ませるよう言われたそうだ。今までは自分の力で飲んだりできないほど弱っていたけど、日ごとに元気になって来ているからそろそろ自分で飲めるそうだ。
母さんが、浅いお皿を用意した。そこに、買って来たてのミルクをほんの少し入れる。タオルを敷いた段ボールの中にいるラッキーのそばに置いてみた。飲めるかな?しばらく、ラッキーは鼻をひくひくさせてミルクを見ていた。そして、小さい舌を出してぺろっとなめた。やった!ぺろっとなめたと思ったら今度はごくごく飲み始めた。母さんがお皿にもっとミルクを注いだら、ラッキーはそれも全部飲んでしまった。「ラッキー、えらいね」と私がラッキーの頭を思わずなでたら、ラッキーはかみついたりせず、じっとしていた。
【ラッキーのつぶやき】
猫用ミルクがあんなにおいしいものだとは知らなかった。この世で一番おいしいものだと思う。たくさん飲んだら、ママである幸っちゃんが「えらい」とほめて頭をなでてくれた。気持ち良かった。ママのことは怖くなくなった。
ママが学校へ行っている間に、おばちゃんがアタシを動物病院に連れて行く。消毒液がとてもしみるので一番嫌いだったが、最近、段々しみなくなってきた。そして、ミルクを沢山飲むようになったら、背中へチクっもなくなった。動物病院では両脚に巻かれた包帯の交換をするだけになった。「脚の傷口は治ってきたなあ。体力がついたら、大腿骨骨折の手術をしましょう。ミルクもたくさん飲めているようだし、そろそろ普通の子猫用のごはんをあげて下さい」と獣医さん(白い服の人は獣医さんと言うみたいだ)が言った。おばちゃんはまたペットショップに行き、子猫用と書いてある袋入りのごはんを三種類見比べ、そのうちの一つを買った。
ママが学校から帰って来た。おばちゃんに今日の診察の結果を聞くと、ママは
「じゃあ、早速、ごはんをあげようよ」
と言った。
「とても高いごはんだったのよ」
とおばちゃん。
「色々見て一番高くて良さそうなのに決めたの。だってこの子はこれから大手術が待っているんだから、質の良いごはんを食べてしっかり体を作らないとね。ほら見て、ここに書いてある。『獣医の考案』って」
「ほんとだ。獣医さんが作ったってこと?」
とママは言う。
「そうよ、さ、ラッキーがさっきからこっちをじーっと見ているわよ。気になるんじゃない。早くあげましょ」
じっと二人を見ていたことがばれてしまった。
ママが底の広いエサ入れにほんの少し、ごはんと呼ばれるものを入れた。茶色をしている粒だ。これが、ごはん?アタシはよく鼻で匂いを確かめてから、一粒口の中に入れてみた。おいしい!!!アタシは今までミルクが一番おいしいと思っていたけど、それよりずっとおいしい。アタシはお皿の上のごはんを一気に全部口の中に入れて、もりもり食べた。お皿の上が空になったのを見て、ママがもう少し、入れてくれた。
ママもおばちゃんもアタシの食べっぷりに笑っていた。
「そんな急いで食べたら、喉詰めるよ」
「誰も、ラッキーのごはん、横取りしないから、もっとゆっくり食べなさい」
と二人は言った。