第7話
スカッシュは悩んでいた。
スカッシュは困惑していた。
田吾郎兵衛の様子がおかしい。
スカッシュの使命は、理沙を守る事。
スカッシュの任務は、自分の命に代えても、理沙を守る事。
だが、今のスカッシュにはそれができなかった。
自分の主人である田吾郎兵衛。
自分を育ててくれた田吾郎兵衛。
田吾郎兵衛の様子がおかしい。
妙に心配になったスカッシュは、理沙のそばを、
応接室を離れ、田吾郎兵衛の後を追った。
応接室を出て、廊下を歩くスカッシュ。
この長い廊下を、どれだけの回数で走り回った事か。
自分がまだ子犬の頃、若き田吾郎兵衛の腕に抱かれて、
この家に連れてこられた時の事を思い出していた。
じゃれて、家の中の柱や壁にいたずらした事もあった。
自分が熱を出し、寝込んでいた時も田吾郎兵衛は、
ずっとそばにいて看病してくれた。
たまには、ご主人の田吾郎兵衛から、然りを受けた事もあった。
スカッシュの頭の中で、走馬灯のように、昔の記憶が駆け巡る。
田吾郎兵衛を追いかけ、長い廊下を歩くスカッシュの頭の中で、
そんな昔の、懐かしい記憶が巡らされていた。
スカッシュは長い廊下を抜けて、田吾郎兵衛の部屋の前まで来た。
スカッシュにとって、このコテージは「我が家」。
迷う事なく、一直線に田吾郎兵衛の部屋まで歩き続けた。
だが、不安にさいなまれたスカッシュのイヤな予感が的中した。
いつもなら、やさしく柔らかい光が漏れている田吾郎兵衛の部屋で
あったが、明かりがついていない。
真っ暗だ。
田吾郎兵衛のにおいもしない。
スカッシュはどんどん不安になってきた。
どこだ?
田吾郎兵衛は、ご主人様は、
どこへいったんだ?
薄暗い通路のあちこちを探すスカッシュの目に、
いつもと違うところに明かりが灯っているのが見えた。
裏口だ。
このコテージの裏口に、ぼうっと明かりが灯っている。
スカッシュは、希望の光を持って、裏口へ続く長い廊下をひた走った。
きっと、きっと、そこに田吾等兵衛が、自分の主人がいるに違いない。
スカッシュにしては、めずらしく全力で走ったようで、
裏口にたどり着いた時は、激しく息をみだしていた。
不安と緊張に包まれていたスカッシュであったが、
そこに田吾郎兵衛の姿を見た時、胸が飛び出しそうなくらい、安心感に包まれた。
田吾郎兵衛は裏口のドアの前で、一人考えていた。
自分の背後にスカッシュがいる事さえ気づかずに、一人考え込んでいた。
「...おかしい、...なぜだ?
予定では、この時間にジャンプしてくるデストロイヤーは
一人のはずだ...? なぜ、デストロイヤーが、2人もいるんだ...?」
スカッシュは、田吾郎兵衛の後ろで、ずっと待った。
自分の事を気づいてくれるまで、ずっと待っていた。
「...どちらが本当のデストロイヤーなんだ...。」
裏口のドアに手をついて、険しい表情の田吾郎兵衛が、考え込む。
彼の頭をさげたその時、スカッシュの身体が視線に入り込んだ。
「...スカッシュ...。」
その瞬間、先ほどまで厳しい表情を浮かべていた田吾郎兵衛であったが、
スカッシュの顔を見て、柔らかい表情へと変化した。
「...何だ、スカッシュ。どうしたんだ? こんなところで何をしてるんだ?」
そう語りかけた田吾郎兵衛は、腰を下ろし、スカッシュの頭をなではじめる。
スカッシュはうれしかった。
田吾郎兵衛にこうやって、頭をなででもらうのは、つい最近はなかった事だ。
スカッシュは全力でしっぽを振って、それに答えた。
「お前、理沙の事を見てなくていいのか...?」
田吾郎兵衛の言葉を犬のスカッシュがわかるわけはない。
本当ならスカッシュは、職場放棄で田吾郎兵衛に怒られてもおかしくはない状況であった。
だが、スカッシュには怒られる気がしなかった。
田吾郎兵衛も、スカッシュを怒る事を忘れていた。
「...そうか、お前、心配してきてくれたのか。」
そう語りかけた田吾郎兵衛の言葉に、スカッシュはとてもうれしかった。
もちろん、人間の言葉などわかるわけはない。
だが、生き物と生き物。言葉が通じなくても気持ちで会話できる。
スカッシュは、田吾郎兵衛とはじめて出会い、ここに来た時の、気持ちがよみがえった。
「いけ、スカッシュ。理沙の元へ。」
しばらくスカッシュの身体をなで回した田吾郎兵衛であったが、
すくっと立ち上がり、これまでにないやさしい表情でスカッシュに語りかけた。
「それがお前に与えられた使命なのだろう。」
スカッシュは、田吾郎兵衛のしゃべっている言葉の意味を理解した。
理解はしていたが、なぜか、すぐには立ち去ろうとしなかった。
なぜなら、スカッシュの頭の中のイヤな予感は払拭はされなかったからだ。
何かある。
きっと、何かイヤな事が起きる。
そう思うと、スカッシュは、すぐには自分の使命の遂行に移る事が、
とても不安であった。
その不安は的中した。スカッシュは人間の言葉はわからなかったが、
気持ちとその態度でわかる。
田吾郎兵衛の身に、きっと何か起こるに違いない。
田吾郎兵衛が最後に投げかけた言葉が、スカッシュにとって、
とても重く感じられた。
「後をたのむ。俺はこれから、ちょっと出かけてくる。
...たぶん彼は、黒騎士はこの近くにいるはずだ...。」
-----------------------------
<過去>
田吾郎兵衛は一人、コテージを出て、周辺の夜道を歩いていた。
田吾郎兵衛にとって、この闇夜はさほど大変ではなかった。
「ワームホール」を通過して、この世界に超時空間跳躍した時に
くらべれば、何でもない事であった。
暗闇だ。
何もない、光も、音も、時間もない暗黒の「ワームホール」を
通過するのに、どれくらいの時間がかかっていたのであろうか。
一分なのか、一時間なのかもわからなかった。
まるで、一年くらい暗闇の無重力の世界をさまよっていたような感じ
であった。時には、このまま一生、「ワームホール」から出れないのでは
ないか、との不安に押し殺されそうになった。
だから、ここでの夜の暗闇は怖くない。
「ワームホール通過」に比べれば、怖くない。
もう二度と「超時空間跳躍」は体験したくない。
月夜に照らされて、木々が浮かび上がる。
自分の足下で、虫たちが合唱している。
最初、ここの世界にやってきて「月」を見た時、
それが「宇宙に浮かぶ天体」だという事が理解できなかった。
自分のいた世界、エルグ・ノールとしていた「非A世界」では
そのような物はなかったからだ。
「月」を見たとき、ずいぶん小さい「浮遊岩」だと思った。
自分がいた世界「非A世界」では、いわば空中に「浮遊岩」や「飛中島」が
数多く見られる。この世界にやってきて、ずいぶん「空」がさみしく感じた物だ。
ここの世界でいう「太陽」はもちろん「非A世界」でも存在した。
だがそれは、「太陽」よりももっと大きく、やさしい光を全天に照らす
「エフレーモフ球体」と呼ばれる物であった。
「エフレーモフ球体」の、紫青色のやさしい光につつまれた「神殿」や「城市」の
全景のしばらしさは、とても格別の美しさであった。
月夜に照らされた田吾郎兵衛の足下で、無数の虫たちが歌を奏でている。
最初、田吾郎兵衛は、この「音」が理解できなかった。
なぜ「飛中島」や「浮遊岩」がないのに、この音がする?
なぜ「軌道降下流水」の音がする、と理解に苦しんだ。
田吾郎兵衛の、エルグ・ノールがいた「非A世界」では、
空の彼方高く浮かぶ「飛中島」や「浮遊岩」から「水」が「滝」の
ように数多く流れ落ちていた。
この世界での「虫」の鳴き声が、ちょうどその音に似ていた。
世の中は、不思議だな、と思った。
自分がいた世界とは、まったく異なる環境ではあったが、
「似て非なる物」が多数ある事に、彼は面白みを感じていた。
夜になると、大合唱をする「虫」たち。
田吾郎兵衛は、この虫の鳴き声を聞くのが大好きであった。
田吾郎兵衛は、この虫の鳴き声を聞いて寝るのが、好きであった。
それはまるで「非A世界」に戻ったかのような、
懐かしい感覚を味わう事ができたからだ。
だが、今は違う。
この虫の音を聞いて、眠るわけには、いかないのだ。
-----------------------------
荘厳の音色が響く。
ワレフコフ聖楽師団の楽器と声が響く。
とても清らかな音色だ。
賢人議会が行われる大神殿は、ここシュルムツの丘の上にそびえる。
天空から降り注ぐ「軌道降下流水」の滝がエフレーモフ球体の光をあびて、
紫青色に輝く。
先ほどのワレフコフ聖楽師団の音色が「浮遊岩」に反響する。
「マザーが崩御した!」
賢人議会を仕切る司教会のトップ、ミレンコフ大司教の声が響く。
賢人議会が行われている、この大神殿内の空気が凍り付いた。
数多くの代議員たちは、ただただ息をのむだけであった。
大司教は続けた。
「マザーが崩御した。先日、敵勢力の攻撃により、我らのマザー、
リサ・F・マコロフ・ヴェーテル様が崩御なされた!」
地方の避暑地に滞在していた、リサ・F・マコロフ・ヴェーテルが
敵の奇襲攻撃により、暗殺された。代議員の間にはすでに噂は広がっていたが、
それが事実である事を聞かされると、一同、息をするのも忘れる程であった。
大司教は続ける。
「民に、このような事実を伝播させるわけにはいかない。
我々は、この世界を平和裏に統治するためにも、偉大なるマザー、
リサ・F・マコロフ・ヴェーテル様を復活させなければならない。」
その言葉に、数百を超える代議員のどよめきが、大神殿内にこだました。
「エルグ・ノール!」
大司教の言葉を合図に、中央のドアが空き、一人の人物が入って来た。
大神殿内の前方中央に立つミレンコフ大司教は、エルグ・ノールに指差し、
そして指令を発した。
「偉大なるわが世界の勇者、エルグ・ノール!
そなたは、偉大なるマザー、リサ・F・マコロフ・ヴェーテル様の人格遺伝子を持ち、
彼女を、偉大なるマザーを復活させるのだ!」
大神殿内が割れんばかりに響く。
代議員の数多くの喝采が響く。
エルグ・ノール個人の都合など関係ない。
エルグ・ノールは選ばれた。
エルグ・ノールは、その使命を果たさなくてはならない。
大司教が叫ぶ。
「英知を我らに!」
代議員が叫ぶ。
「我らが英知なり!」
エルグ・ノールは、その言葉に、重く押しつぶされそうになった。