第6話
スカッシュは悩んでいた。
スカッシュは戸惑っていた。
スカッシュは目の前で起きている事態が、理解できなかった。
自分が何をしていいのか、わからなかった。
スカッシュは、なぜか怖かった。
だが、怖がってはいられない。
自分は、自分の任務を果たさなくてはいけない。
混乱したスカッシュは、飼い主の田吾郎兵衛の方を見た。
スカッシュの主人で、スカッシュに「使命」を与えた、田吾郎兵衛の表情を見た。
距離はそれなりに離れていた。
だが、自分の主人、田吾郎兵衛の表情が非常に困惑している事くらいは、
問題なく確認する事ができた。
スカッシュは悩んでいた。
自分はどうすれば、いいのか、と。
スカッシュは結論をすぐに出した。
もう悩んでいる場合ではなかった。
スカッシュの使命は「理沙」を守る事。
自分の命に代えても「理沙」を守る事。
彼は、すぐさま自分の身体を理沙の前へと乗り出して、義務を遂行した。
事態は予想外であった。
田吾郎兵衛の目の前で起きた展開は、まったくの想定外であった。
突如天空から滑空して出現した黒騎士は、猛烈なスピードで、
彼に、「白騎士」に向けて突進した。
呆然としていた白騎士は、黒騎士の猛アタックをまともに食らい、
数十メートル先に吹き飛ばされた。
だがその直後、彼が変貌した。
まるでスイッチがはいったかのように、白騎士は変貌した。
それまで、歩くのさえままならない様子であったのに、俊速の、
まるで豹のごとく俊敏に身をこなし、黒騎士と対峙した。
長い髪を、まるで華麗な馬のようになびかせ、眼光輝くする
どい目つきに変貌した彼は、まさに「白騎士」その物であった。
戦いがいったん終息し、お互いの出方をさぐっている時に、
最初の接触は終わりを見た。
静かに戦闘態勢を整える白騎士の元に、綾乃が駆け込んできた。
彼女はきっと、彼を、白騎士をかばうつもりであったのだろう。
それを見た黒騎士は、とまどい、綾乃や理沙、
そして田吾郎兵衛の顔を見て、苦悩の表情を浮かべた。
苦悩の表情を浮かべたのは、何も黒騎士だけではない。
事態を飲み込めない田吾郎兵衛は、それ以上に驚愕の表情を浮かべていた。
今は、まずい。
立ち去るしかない。
そう思った黒騎士は、納得がいかない状況ではあったが、
身をひるがえし、草原の奥へと駆け出した。
理沙は、謎の黒騎士が走り去る際、彼が自分の方を目視した事を確認した。
誰だかわからない、何だかわからない人物に見られる事はとても不満だ。
ましてや自分たちの目の前で戦いが繰り広げられたわけだから、
理沙はとても不安になった。
だが、そんな理沙の不安は、スカッシュの行為によって和らげられた。
スカッシュが自分の身体を盾にして、理沙の前で身構えていたからだ。
理沙は、そんなスカッシュの対応を見て、うれしかった。
理沙の不安は安心に変わり、そしてスカッシュにやさしく声をかけた。
「もういいのよ、スカッシュ。大丈夫だから。」
そう語りかける理沙の前で、はじめてスカッシュは警戒を解いた。
謎の黒騎士が走り去った方向をじっと見つめる理沙。
そこには、もう人影はいない。
「...なにが、いったい、なにが起きたの...?」
誰もいなくなった長く続く草原を見て、理沙はそうつぶやいた。
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<混乱>
「...なにが、いったい、なにが起きたんだ...?」
田吾郎兵衛は混乱していた。
田吾郎兵衛はわからなくなっていた。
整理しよう。
何が起きているのか、整理しよう。
そう心でつぶやいて、田吾郎兵衛は一人自分の部屋で、考え込んだ。
私の名前は吉田田吾郎兵衛。
ここの世界での名前だ。
私の名前はエルグ・ノール。
ここに来る前の名前だ。
ここの世界を仮に「A世界」としよう。
私はこことは別の「非A世界」から来た。
そう、こことは別の「異次元世界」からやってきた。
この世は、全宇宙は「多元宇宙」からなっている。
ここへ来て、もう何年になるのだろうか。
もはや「何年いるのか」は問題ではない。
私は、エルグ・ノールは、大司教の命を受け、ここに転移してきた。
紀元六五二五年「非A世界」のミレンコフ大司教の命を受け、
ここで計画を実行している。
私の目的は「綾乃」を育てる事。
私の目的は「理沙」を育てる事。
私の目的は「理沙」を守る「スカッシュ」を育てる事。
私の目的は「大司教の計画」とおり、「歴史を再現」し、
「非A世界」で失った指導者「マザー」を、ここの世界で
「再現」「復活」させる事。
...そして...。
「...おじさん。」
その時、邪魔が入った。
エルグ・ノールの思考が停止した。
綾乃の呼びかけで「エルグ・ノール」は、「田吾郎兵衛」に戻った。
「...なんだ、どうした?」
田吾郎兵衛は、自分の過去の記憶を整理する際、
じっと見つめていた小さな「石板」を、そっと自分の胸元に隠した。
綾乃にはそれが、見て取れたが、今はそれが重要ではない。
綾乃は、田吾郎兵衛が、いつも大事そうに隠し持つ「石板」が気になっ
たが、今は別の案件が重要であった。
「...おじさん、来てくれない? 彼が...彼が目をさましそうなの。」
「彼」とは、もちろん通称「白騎士」の事である。
田吾郎兵衛は、大切な石板をいつも通り袋に入れ、
自分の後ろのポケットにしまい込み、立ち上がった。
「...ああ、わかった。」
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いつもの応接間。
綾乃たちが住む、この山奥のコテージにお客さんが泊まらない時は、
この応接間が、みんなのリビングルームになる。
時はそう、午後十時を回ったくらい。
大きなのっぽの古時計がカチカチと音をたてている。
この古時計は、田吾郎兵衛が、エルグ・ノールがこの世界に来た時に新調
されていたもの。あれから、相当の年月が過ぎている。
いつもの応接間。
そこのソファに白騎士が眠っている。熱かなにかでうなされているようだ。
昼間、出現した黒騎士に対しては、俊敏なパンサーのような動きを見せた
白騎士であったが、今は子猫のように大人しい。
スカッシュは先ほどから、じーっと応接間の入り口で腰を下ろして
白騎士の様子をうかがっていた。
近くで理沙が、真摯に看病をしている。ぬれタオルを何回もしぼったので
あろう、理沙の手は赤くなっていた。
心配する理沙の横で白騎士は時より寝言のような事を口走っていた。
「...ちがう...、そうじゃない...! ...俺は...俺は...壊してたんだ...!」
何が?
何が違うの?
何を壊してたの?
理沙が、そう心で問いかけた時、綾乃と田吾郎兵衛が入ってきた。
白騎士の状況を確認して、田吾郎兵衛は口を開いた。
「どうだ、彼の様子は?」
理沙は、心配そうに田吾郎兵衛と綾乃の顔を見た。
「...あまり良くないわ。かえって悪いみたい...。
それに、何かにうなされてるようで、しきりに何か訴えてるの。
...記憶を取り戻しはじめているのかも。」
そう言いながらも、理沙は看病の手を緩めはしなかった。
だが、理沙のその言葉に、田吾郎兵衛は眉をひそめ、警戒した。
「...記憶を取り戻しはじめている...。」
その言葉に、綾乃は不信感を持った。
綾乃が、自分や姉の理沙が心配している白騎士に対しての、
発言とは思えなかったからだ。
「どうして? 彼が記憶を取り戻すのが、そんなにうれしくないの?」
綾乃の視線が、隣に立つ田吾郎兵衛に厳しく突き刺さる。
田吾郎兵衛は、何事もなかったように応接室内に入り、
ソファに腰を下ろした。
「...えっ?...何がだ?」
田吾郎兵衛と綾乃の押し問答がはじまった。
緊張した空気に応接室内が包まれる。これまで、こんな風に緊張した事は
なかった。田吾郎兵衛と、理沙、綾乃の関係はとてもうまくいっていた。
理沙の記憶によれば、こんな「戦闘態勢」の会話なんか、
これまであった事なんか、ない。
理沙の記憶には、穏やかな、楽しい記憶しか残っていない。
昔の記憶。
理沙は昔の、三人の記憶を思い出そうとしたが、
なぜか、不思議に出てこなかった。
綾乃と初めてあったのは、いつだっけ?
田吾郎兵衛おじさんに拾われて、このコテージへ連れてこられたのは、
いつだったか。
スカッシュとはじめて出会ったのは、いつだったのか。
なぜか、記憶が出てこない。
大切な、重要な記憶であるはずなのに、出てこない。
子供の頃はそんな気にもしなかったが、今、この歳になって、
なぜそんな事も思い出せないのか、そんな自分に不愉快さを憶えた。
理沙は、険悪な空気の綾乃と田吾郎兵衛を止める事ができず、
足下に寄り添うスカッシュに救いを求めた。
スカッシュは、これまでと違う表情で田吾郎兵衛をじーっと見つめていた。
スカッシュは、これまでと違う何かを感じ取っていたのかもしれない。
スカッシュは、自分を育ててくれた飼い主、田吾郎兵衛を
真剣なまなざしで見つめていた。
綾乃はコントロールできない怒りを、田吾郎兵衛に向けた。
「...どうして? 彼が記憶を取り戻すのが、そんなにうれしくないの?」
「...えっ?...何がだ?」
「何がだ、じゃないわよ。まるで彼が記憶を取り戻すの、迷惑そうな顔して!」
「な、何を言い出すんだ、急に?」
「だって、そうじゃない...!」
一瞬、空気が止まった。
時間が止まったかのようだ。
理沙は、このまま時間が止まってくれる事を望んだ。
だが、時間は停止してはいなかった。なぜなら、大きなのっぽの古時計の音が、
大きく、重く響きわたっていたからだ。
理沙は争う二人を止めようとした。だが、止めに入ろうとした理沙の動きを
止めたのは、綾乃の口から発せられた衝撃的な言葉であった。
「...私は、...私は、どんな風にここに捨てられてたの?」
その言葉に、さすがの田吾郎兵衛も、たじろいだ。
綾乃の言葉の真意をさぐるため、田吾郎兵衛はこの場ではじめて
綾乃の顔を直視した。
「えっ?」
思わず理沙も、田吾郎兵衛と同じ反応をしめした。
なぜ、なぜそんな事を今いうの?
なぜ今、その話題を出すの?
田吾郎兵衛同様、理沙も、言葉の真意を確認するため綾乃の顔を
驚いた目で直視していた。
「...いいの! 知ってるもの...。私は、私たちは、本当の姉妹じゃないことも...!
私たちは、どこかに捨てられていて、ここに引き取られたんでしょう?
...私たちは、どこから来たの?」
「綾乃!」
理沙は思わず叫んでいた。妹思いのやさしい姉の理沙であったが、
さすがに介入せざるを得なかった。だが綾乃は、理沙の言葉を無視した。
綾乃の視線は、理沙のすぐそばの、理沙のひざ近くのソファで眠る白騎士へと
向けられていた。
「私は...私は知りたいの! 自分の事が!」
時が流れた。
どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
みんなのすぐ近くには、大きなのっぽの古時計がある。
その気になれば、時間がどのくらい過ぎたか確認する事はできた。
だが、それをしようとする者は誰もいなかった。
静寂が応接間を包む。
沈黙をやぶって口を開いたのは田吾郎兵衛であった。
だが、彼のその口調は、どこか白々しく、珍しく焦っている事がよく見て取れた。
「...ど、どうしたんだ、いったい?
何で急に、そんなわけわからない事、いいだすんだ...?」
狼狽する田吾郎兵衛の顔に、強い意志の塊の綾乃の目が突き刺さる。
「...何か、おかしいぞ!」
そう言って田吾郎兵衛はその場を後にした。
田吾郎兵衛にしては、めずらしかった。
綾乃の訴えに緊張し、狼狽した田吾郎兵衛は、
身体を震わせながら、応接室を後にした。