後半
十九 スマホ 3.7インチ部分
テストを終えた教室から、多くの学生が出てくる。扉のところにいる大輔をみて、声をかける学生はいない。大輔はその存在を無視されている。時々、笑い声があがるが、伸びた髪を輪ゴムでしばり、穴の空いた運動靴をガムテープで巻いた大輔をみてのものではないようだった。若者とは不思議なもので、暗黙の了解というものを見事な早さでつくり上げる。大輔は話題にしてはならない存在だった。話題にする奴は内にもわかっていないとみられてしまう。
大輔は目当ての男をみつけられないままだった。家に篭もる生活にいい加減に飽いたし、さすがに不安になって登校してみたが、暑さにめまいがするし、春には影を歩くようなところがあった他の学生たちは夏になるととたんに日の下を好むようになり、大学はますます耐え難い場所になっていた。用事を済ませて、部屋に帰りたいと思った。大輔は、顔がわかる同級生たちにどうにか声をかけ、例の男が大学に来ているかを尋ねた。丁寧語で話す大輔を笑う者はいない。やはり彼らは大輔という存在をいかに意識しないかに気をかけているように私にはみえる。大輔は探そうとしている男の名前を知らなかった。背が高くて、お洒落な男だと説明し、一緒に洋服を買いに行くことになっているというと「ああ、その軽い感じは、ロトっぽいね」と集団の中のひとりがいい、皆がその意見に頷いていた。
ロトはサークル・マトリックスのたまり場である九号館ピロティにいるらしかった。休み時間は終わりに近づいていて、学生たちは次のテストを受けるために教室に向かっていた。ピロティには二、三人の学生しか残っていなかったが、その中にロトはいた。大輔がお~いと声をかけると、ロトはうつろな目で大輔を見上げた。「あいつ、今、かなり下がっているぜ。ダウナーもいいところ」と同級生の一人が言っていたのを大輔は思い出した。
「よお」
と大輔は挨拶をした。ロトは「よお、相棒」と言い、隣に座る男と顔を見合わせた。学生にはとても見えない老けた男がしたを向いて、つばを吐いた。老けた男の首のうしろに彫られた蜘蛛のタトゥーが覗きみえた。
「洋服を一緒に買いに行く約束をしていたけど、行けなそうだから、それを伝えに来た」
「洋服?」
「ああ。やっぱり、覚えていないかな……」
「いや、覚えている。忘れるなんて、ありえねえ。なんだよ? 楽しみにしていたんだぜ」
「色々と。それで、お金がなくなったし、はっきりいって、気分もすぐれない」
「そうか。それは俺も一緒だ。コンプリート・アグリーだ。実はよお、被災地でボランティアをしてきてたんだけどよ。なんか、俺らの行かされた場所が原発周辺の瓦礫をわざわざ運びこんだところだって噂があったわけよ。実際、俺はボランティアの次の日、鼻血が止まらなくなったのよ。ありえなくね?」
「ひどいな。誰がわざわざ瓦礫を運んだの?」
「政府だ。そんなの、決まってんだろう。俺ら、善意のボランティアに対する嫌がらせよ。あいつらはボランティアとか、大嫌いなんだ。なにしろ、税金をとれねえからな。俺たちはパブリック・エナミーなわけだ」
学生の本分は勉強で、被災地に行くのは大事なことだが、それだけが復興に貢献することではないんだよと大輔は甲高い声でつらつらと語りだした。ロトと老けた学生は顔を見合わせる。ロトは頭の上でくるくると指を回す。老けた学生の方は下を向いて、また唾を吐いた。
「じゃあ、まあ、ともかく服は買いにいけないからね。会って、話せてよかった」
さすがに会話を続けても仕方がないことに感づいたのか、大輔は家に帰ろうとする。背中をみせると「まてよ、相棒」とロトの声がした。
「メガネ君2.0よ、おめえは俺らの奉仕の精神を馬鹿にしたわけだよな」
「えっ? いや、ボランティア活動も大事なことだって言ったじゃないか」
「でも、結論としては、無意味だっていいたいわけだろう? 違うか?」
「違うよ。それは絶対に違う」
そうかとロトは頷くと、傍らのリュックサックの中を漁り、「だったら、これをやる。これを今すぐ着ろよ」と汚れたTシャツをつまんでみせた。がんばろう、日本!という文字が背中にプリントされている。
「ロトちゃん、それ、俺が体育のときに着ていたやつでしょう」
と老けた男は笑う。
相手の気分によって忽然と温度が変わり、この手の無理難題を強いられることに大輔は慣れていた。わらいものにしてやろうという圧迫感も知っていた。大輔を下の人間だと見ているゆえに、彼らは自分に意見されることを極端に嫌う。――だが、俺はおまえらが思っているような人間では絶対にないのだ。大輔はロトがつきつけるTシャツを手で払いのけた。
「今、銃があったら、おまえらを撃ってるぞ」
大輔はそう言ってのけた。どうして、そんな言葉が口から出たかはわからない。大輔はこのところ、インターネット上で海外ドラマを見続けていたから、その影響を受けていたのかもしれない。
笑うことも困惑することもなく、ロトはゆっくりと手を振りかざすと、素早く大輔の頬を張った。パチンという音とともに、大輔の顔が横にぶれた。メガネがふき飛び、それを老けた男が蹴飛ばして、さらに遠くに滑らせた。大輔は急ぎメガネを拾いに駆けた。このうえ、メガネを失うなどありえなかった。背中を見せたところで背後から蹴りを入れられ、そのまま動きの自由を失い、地面に伏した。大輔の喉元に私が刺さる。大輔は噎せ返り、私の無事を確認したのちに、「うぉおおおお」という声とともに猛然とロトに向かっていく。と、からだが宙に浮く。老けた男の足か、もしくは、元々あった段差につまづき、大輔は己のすべてを賭けた勢いがままに、隣のベンチに突っ込んでいった。私はフォルダーから外れ、地面の上を滑っていき、花壇の段差で止まった。
大輔は白いベンチにもたれかかっている。私のすがたをみつけると這うように進み、掴む。私のディスプレイにひび割れがあることを見出して、悲鳴をあげ、嘆き悲しむ。何人かの生徒は今の残酷な光景を目の当たりにしていたが、鼻血を滴らしながら、私を何度もさする大輔に近づいてくるものはいなかった。老けた男が交通整理の真似ごとをする。知り合いに何をしているのだと声をかけられ、男は「ロトがキレた」とだけ答える。「酷暑だね~」と誰かが口にする。こんなことには慣れている。こんなことはいくらでもあると大輔は自分に言い聞かせる。
大輔は立ち上がり、からだを一通り動かしたのちに、メガネを拾う。レンズは割れていないようだが、弦が折れて、かけることができない。
眼鏡の弦を嵌め込もうとしている大輔にロトが近づいていく。大輔は上半身を起こしロトに唾をかけようとする。ロトはそれを避け、拳を振り上げ、殴る真似をする。大輔は腕をあげ、やめろ、やめろと叫ぶ。ロトは大輔の腹に足をただ載せる。大輔はうずくまる。その上から、ロトはいう。
「次にこの大学に来たら、マジで追い込む。教員も事務員も動員して、マジで追い込む。おまえはもう二度とこの大学には来れない」
大輔はロトの顔をみあげる。頷けと命じられ、大輔はこくりと頷いた。
「ショウ、俺、ちょっと気分よくなったわ。ドリンクバーにでも行かねえ」
ロトはそういい、歩き出している。
大輔は自分のせいで倒れていたベンチを直す。まるで、友達同志がからかい合っていたかのように、まったく、どういうことだよと笑みさえ浮かべながら、元に戻したベンチに腰を下ろす。それから、ふいに怒りに駆られる。俺はヤるときはやってしまう男だ。俺は野生を忘れかけている。高校のときだって、カッターナイフをちらつかせて、靴を馬鹿にした奴を追い回しことだってあったんだぞ。それで、高校ではいじめられずに済んだんだぅああ。いじめられるよりも孤独を選ぶ強さを持っている男なのだあああり。
天を仰ぎ、鼻血の味を大輔は噛みしめる。弦が折れた眼鏡が地面に落ち、滴る鼻血を左手で抑えながら、右手で拾い上げる。
「血がなんだっていうんだ!」
鼻を抑えて、ベンチに寝転んだ大輔はそう叫ぶ。ロトの言葉がただの脅しだと思う奴は何もわかっていなかった。あの手の男は、実際に教員などの学校すべてを味方につけることができるのを大輔は知っていた。一方、大輔は孤独であった。いつもひとりで戦ってきた。味方はいない。ハワイ史の講師は非常勤でここでは力を持っていない。鼻血をすする大輔はメガネを片手で持ち、私をベンチに置いた。この世界の仲間たちに助けを求めるのだろうか。私はどうしてここまで自分が大切にされたのか、知った気がする。私は現実社会ではなく、この世界の方に存在するものであった。
緊急指令と題名がついたメッセージがひとつ届いていた。大輔は鼻血をすすると急ぎ、本文を開いた。
十五時より、緊急幕僚会議を開催する。参謀、副参謀、外務大臣、方面長、副方面長のうち、出席できるものは以下のチャットルームに集合すること。ハナゲバラ
すでに時刻は一四時を回っている。「やべえ」大輔は片手でメガネを支え、歩きはじめる。「やべえよ。幕僚会議に出なきゃ。やっぱり、大学なんかに来ている場合じゃなかった。俺はいつもどうして、こうなんだ」。鼻血混じりのつばを吐き、どけよ。ホワイト・ライオット北西副方面長のお通りだぞ。課金もせずに、俺がいくつの町を持っているのか知っているのか? 周囲からの視線を跳ね返しながら、大輔はキャンパスの中を駆けていった。
二十 PCディスプレイ 15.6インチ部分
サーバー2の全住民の移住がはじまる十月一日を控え、サーバー4では移民の排斥運動が具体的な行動を伴うものになりつつあるのは、大輔も篠崎から聞いてはいた。サーバー4の大手同盟の中には、移住後の保護を保証するかたちで、サーバー2の住民たちに周辺住民の殺戮指令を出しているところさえあった。彼らは、移住してくる住民がひとりでも減れば、それだけサーバー4への影響が小さくなると考えていた。大手同盟の保護を得るためには五人の首が必要とされ、魂を売った殺戮者たちははじめ、町を一つか二つしか持っていない弱い者を標的としていたが、大胆にも小規模の同盟に戦争をしかけるものも現れていた。ホワイト・ライオットはユダに狙われるのではないかと篠崎は指摘した。正義の味方のような顔をして、難民を広く受け入れたホワイト・ライオットはただでさえ頭に来る存在であったし、町を一つか二つしかもたない難民を多く抱えるために、同盟間順位の割には、戦闘能力そのものの評価も決して高くはなかった。
そのため、はじめに緊急幕僚会議の召集を聞いた際は、大輔は名を伏せた殺戮者たちから、何らかの攻撃があったのだとばかり思っていた。幕僚会議の前に情報を集めようとして、家に帰ってくるなり、その件で、篠崎に連絡を試みようとしていたし、この世界を扱うブログで現状を知ろうともしていた。
だが、実際は今度の相手はもっと巨大で、仄暗い相手だった。篠崎がインターネットの世界は結局はクソだと言っていたことが思い起こされた。情報担当相からの説明のあいだ、大輔は眼鏡の弦に巻いたセロテープにたまる汗を何度も拭きとっていた。血がこびりついた、その顔にときおり、痙攣のようなものが走っていたのは痛みのせいだけではないように見えた。「一番の幸運は生まれないこと」は具体的に数値となっているものも大きかったが、大輔はその背後に控えている暗としたものと向かい合っていた。それは大輔にとって、ずっと相対してきたものだったのかもしれない。ながく、執拗に他人を虐める人間が共通して抱えているものをそこに感じとり、大輔は怯えていた。
「一番の幸運は生まれないこと」は謎の多い同盟であった。「ゲームの廃人」から派生したとされていたが、その説の出処さえ不確かなものだった。「ゲームの廃人」はこの世界に一日中常駐しているがために、現実の社会ではまったく役立たずであった者どもが、自嘲的なやりとりをするために集まった同盟だった。それが、なぜ、この世界の破壊そのものを目論むようになったのかは、ホワイトライオットやその友好同盟も把握できずにいる。盟主とされた「痴漢者トーマス」は町を一つしかもたない無名のプレイヤーで、何者かにアカウントを乗っ取られ、傀儡として祭り立てられているだけのようだった。だが、いったい、どこのだれがここまでやるのかがわからない。
プレイヤーがこの世界をやめることを選択した場合、その町は以後、マップ上では灰色で表示される。サーバー2の廃止が決まる以前は、一定の時間を経て、新規加入者に新たに与えられたが、今は新規募集を行っていないがゆえに、灰色の町のままサーバー2の終わりを待つことになった。どういうプログラムであるのか、灰色になった町にはうっすらと町の名前が残り、それがまるで墓標のようでもあった。幸運はこれを「灰化」といい、サーバー2のすべての町は灰化した状態で10.01を迎えるべきだとした。サーバー4で新たに苦労を背負い込むことなどしなくともよい。サーバー4への移住は運営への迎合であり、己自身の堕落でもある。幸運は自らの町を「灰化」することを解脱と呼び、ひとり十の町を灰化せねば成仏できないとした。十以上の町を道連れにすることを功徳を積むと表現し、できるだけ多くの町を灰化することが奨励された。
未来を不要とする「幸運」の狂信者たちは俗世間の面倒を嫌う。彼らは不戦条約や、相互援助条約の締結など考えもしない。共同出兵や戦線の構築などの作戦なども立案されず、ただ、ひたすら全軍で一つの町に攻め込むのが彼らのスタイルだ。神風アタック、蝗の群れと比喩されたかれらの攻撃が、次第にサーバー2を席巻するようになっていた。狂信者たちは生産されるブラグをすべて徴兵にあてるために多くの兵隊を持てた。現実社会にて、他にやることをもたないために執拗に、何度でも相手の町に兵を出した。十以上の町を支配下においた者は、己のすべての町を「灰化」させ、サーバー2から消えていくのだが、一番の幸運は生まれないことに加わる者は後を絶たず、その勢力はむしろ拡大する一方であった。
たしかに、彼らの生き様がある種の美しさを持っていたのを大輔は否めなかった。細々とプラクを貯めて、ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場を少しずつ増設していき、ここは不戦条約を結んだ相手の町、ここは相互援助条約を結んだ町とがんじがらめの中で生きているのに比べて、彼らはこの世界の真髄である戦争を十二分に楽しんでいる。
ホワイト・ライオットでも、何の断りもないまま、幸運に入るものが幾人か出始めていた。その多くは元難民だった。彼らは元々、ホワイト・ライオットらしからぬ人物で、戦争狂いの連中でもあった。ホワイト・ライオットの庇護下でしばらく安穏な生活を送ったのち、その非戦的な態度に嫌気がさして、最後に徒花を咲かせることを望んだとみられた。だが、昔からの同盟員の中からも、「幸運」に参加する者がではじめていた。「二段階右折」、「ルイ21世」、みな、先の大戦で多くを学んだはずだった。平和のありがたみが身にしみたはずであった。彼らの心に何が巣食ったのだろうか。
情報担当相からの「不幸」に関するレクチャーを終えたのち、各方面長による「灰化」についての報告があった。各方面で 「一番の幸運は生まれないこと」は町々を急激に灰化させていた。幸運はまず全兵力をもって隣の町に攻め込む。そして、相手が手強いと「殺したいリスト」にその町の名を載せる。それをみて、幸運のうち、兵が出せる人間が全兵力をそこに注いでいく。つまり、「一番の幸運は生まれないこと」は勝つまで戦争を続けるのだった。
もちろん、ホワイト・ライオット以外の同盟もただ手をこまねいていたわけではなかった。ホワイト・ライオットは参加資格をもたないトップ20会議でも、「対幸運」戦の発動が議題にあがったようだった。だが、残念ながら、そこでは対幸運共同作戦の発動は見送られてしまった。外務大臣の「千代の不治」が少数精鋭タイプの同盟が反対したらしいことを報告した。少数精鋭タイプの同盟は、サーバー4の移設後は勢力が縮小されることが予想された。彼らが、一種の人減らしである「幸運」の動きを好意的に受け止めているのは容易に想像できた。彼ら自身は灰化の被害に遭う可能性も少ないであろうことも千代の不治は合意に至らかった理由として上げた。
好意的に思っているどころか、はっきりと援助しているのだ! ハナゲバラがそう書き込んだ。「幸運」の中には、四十以上の町を持っているのに灰化していない畜生共がいる。そのうち、二名はトップ二十の「はい、苦しんで!」の元メンバーである可能性がある。名前こそ変えていたが、その持っている町の配置に記憶がある。ハナゲバラはそう断言して憚らなかった。
――いいかい。ホワイト・ライオットは、今すぐに、無期限の「対幸運」戦を開始すべきだ。同盟結成以来、大戦を控え、外に和を訴え、内に力を蓄えてきたのはこの日のためだったんだ。強さよりも誠実さの素質で同盟員を求め、栄光よりも挫折を知る者を加えてきたのもこの日のためだったんだ。
どうしようもない境遇を前にして、人としての尊厳を捨て置き、他人を無理やり巻き込もうという「幸運」たちの行動は許し難い。灰化に巻き込まれた者の中には、この世界を生活の糧とし、サーバー4で新たなスタートを切ることを望んでいた者も多くいたはずだ。たしかに、灰化されたとしても、新規会員を募集しているサーバー5で新たな会員となればいい。だが、それでは、サーバー4に移るであろう、戦友たちと離れ離れとなり、これまでの物語は断ち切られてしまう。人間同士の愛着やつながる心を打ち砕いては、絶望を強制し、自分たちの弱さを押し付け、希望を断ち切る彼らの行為が見過ごされる世界にしてはならない。今まで、戦争の相手にも敬意を持って接してきた我々であったが、「幸運」はそれにも値しない。
今後、ホワイト・ライオット八八名がひとりも欠けることなく「殺したいリスト」に載ることを望む。激しい戦いの末に、全員が対幸運戦を乗り越えることを誓い合おう。この世界サーバー2に正義だけを残し、我々はサーバー4に移住するのだ。サーバー4で我々は最大限の敬意を払われるはずだ。誰も我々を臆病とも卑怯とも言わないであろう。言えるはずもない。
真の勇気を備えたものとして、ホワイト・ライオットはサーバー4のソフトパワーの王として君臨するのだ。
二十一 スマホ 3.7インチ部分
いつ帰省するのだとの私の向こうで美希が言っていた。アルバイトが忙しいから、もう少し待ってくれと大輔はやや突慳貪に答える。保護者宛に送られる大学ニュースレターに掲載された授業風景の写真に大輔らしき男の子が写っていたけど、気がついた? 女の子と話しているように見えたよ。そういう美希の声に大輔はわずかに身を震わせる。「大学」も「女の同級生」もとうに大輔が捨てたものであった。気が付かなかったよ。いつのまに撮ったのだろう。ありえないことであるのに、大輔は無理して明るく振る舞っている。
美希は仕事をやめて、家で療養する和哉の看護に専念していた。パートに出られなくなったために、まとまった金を借りたようだった。パパがよくならないとどうしようもないのよと美希は言った。パパが元気になれば、また、二人で返すけれど、パパが駄目ならば、この家は売り払って、母さんはアパートでも借りるよ。美希の言葉に、さすがに大輔はこの世界の相手の町との距離を測る手をとめた。ねえ、あんた、経済学部なんでしょう? なんか、お金儲けの話とか知らないの? 株とかさ。そう美希は続ける。大輔の表情は強張った。大学の経済学の授業を受けているというだけで、無計画だった自分たちの人生を救うような知恵が授かれると期待する魂胆を怒鳴りつけるのかと思ったが、変に穏やかな口調で「考えてみるよ」とだけ言う。
大輔にも世間の基準というのが否応なしに見えてきていた。自分の両親がどの程度のものであるか、わかってきていた。学生に図書館が楽しいものだと思わせるために漫画を充実させる大学に通い、レジが三つしかない小さなスーパーマーケットでレジを打っただけでも、むしろ、そういう生活を送っているからこそ、そこで見知る人間と両親を同定することで、よりよく理解できた。
「バブルの時も、震災の時も、結局、政府は何もしてくれないでしょう。嫌になっちゃうね」
と美希はいう。
「そうだね。お金のことを俺も考えてみるよ」
大輔はマップ上で相手の町との距離を測る作業を再開する。心を揺れ動かすことなく、ともかく、母親との会話を無事に切り上げることだけを大輔は願っているようであった。
折れたフレームをセロテープでとめた眼鏡を恥じているわけではないのだろうが、近くのセブン-イレブンに買出しにいく以外、外に出ることもすっかりなくなってしまった。セブン-イレブンでは、私を首から下げたまま、卵と野菜ジュースを買うだけで、すぐに部屋に戻った。風呂の中でソフトクリーム型のアイスを食べる贅沢もこの頃は我慢している。先月のアルバイト代は計算よりも五千円ほど多く振り込まれていた。おそらく店長が口止め料として、すこし足したのだ。人のことを舐めているのかと突き返してやることを大輔は考えたが、今はすべての意識を対幸運戦に向けるべきだと思いとどまった。戦争の指揮官はリアリストでなければならない。五千円は一日、五百円で生活すれば十日分の戦費になりかわる。サーバー4への移転が始まる十月一日まで、大輔はどんなことをしても戦い抜くつもりでいた。からだは痩せこけ、顔色も土のようであったが、目だけは輝きを強めている。
二十二 PCディスプレイ 15.6インチ部分
対幸運戦はホワイト・ライオットにとって悲惨な戦いとなった。開戦初日でホワイト・ライオットの二十近くの城が奪われた。ホワイト・ライオットが宣戦布告と三日後の攻撃開始を予告すると、幸運は雲霞のごとく、ホワイト・ライオットの方々の町に攻め込んできた。幸運が得意とする乱戦を避けるために、戦線を構築するという当初の作戦は、幸運の進軍の勢いにまったく機能しなかった。大輔はこの事態に唖然とし、憤慨していた。ホワイト・ライオットの幕僚たちはあくまで今までの戦争と同じように戦おうとしていたのが間違いであった。立案当初から、彼らは事を誤っていることはわかったが、それがどの部分でどう誤っているのかを具体的に指摘することができなかった。あの暗がりについて、言葉で知っているのではなく、実態を先に知ったがために、かえって言葉で表し辛かった。作戦の失敗の責任をとり、参謀長の「ロバートパチーノ」は辞任し、全兵力で幸運の町に特攻攻撃をしかけたが、空になった町を目ざとく奪われ、すべての町を灰化された。ハナゲバラは各方面で個別に作戦を立てて対処するように指令を出した。守備が手薄なところを選んで、兵を差し向けてきたと思われる幸運の動きから、当然にスパイの存在が疑われた。指揮命令系統の何度かの混乱を経て、掲示板内での討議による全体的な作戦の検討を停止し、各方面では方面長と副方面長がメールで個別に作戦を立案することになった。各方面長からの報告をあつめ、ハナゲバラが全体の調整を行うことにしたが、実際のところ、ハナゲバラにその余裕があったのだろうか。ハナゲバラは外交を通じて、「幸運」包囲網の形成をいまだ諦めていなかったし、その動きのせいで、個人としても「幸運」の殺すリストに掲載されたようで、自分自身の町の守備に忙殺されていた。
そんな中、大輔は対幸運戦の初日で、幸運の町を四つ落とした。二日目は続けて五つの町を落とした。三日目には六つの町を落とす計画であったが、逆に獲得した町をすべて失った。いつものくせで、獲得した町にはまず善政を施そうとした。荒れ果てた町にプラクを送り、廃材と交換し、プランクトンクッキー工場とソーラーパネルステーションを増設した。灰化されようとしていた町にまず、食料と燃料を供給しようとしたのだ。だが、内政が効果を出すまえに押し寄せる幸運の連中の軍隊に城を奪い返された。大輔は自分自身もやり方を誤っていたことをみとめざるをえなかった。無駄にプラクを失っただけだった。そのプラクを徴兵にあてるべきであったのだ。ここは戦場であった。
ホワイト・ライオットの同盟員たちは、作戦について言及することを注意深く避けながらも、この戦争について掲示板で語り合い続けていた。みなが一様に幸運が徹底して戦争に純化していることに恐怖を覚えていた。幸運から奪いとった町は破壊され、搾取しつくされていた。生産力はほとんどなく、町の人間は限界まで徴兵されている。彼ら幸運にとっては、そこはいずれ灰化する町であった。いずれ、十月一日をもって、サーバー2はすべて消えてなくなってしまう。どうなろうとしったことではなかった。彼らは正しいのではないかとホワイト・ライオットの中には考え始める者もいた。
それでも、内政を行うべきだというのはハナゲバラの主張であった。たとえ、無駄であっても、町の復興を図るべきだとハナゲバラは書き込んだ。世界が終わるとわかっていても、朝、コーヒーを淹れて呑み、いつもの時間の電車に乗って、出かけるのがプライドというやつだとハナゲバラは記した。どうせ、この世界は終わるとなどとは絶対に考えてはならない。その一点が心を曇らせ「一番の幸運は生まれないこと」を作り出す。ホワイト・ライオットの一部ではこの開戦のころから、ハナゲバラへの反発が高まっていた。ハナゲバラのこの書き込みに対しても、同盟員のひとりが「同志ハナゲバラさん、毎日、電車に乗って通うところなんてあるんですか?」とあげつらうような反応を見せた。それに対してハナゲバラは「今の僕には毎日、通うところはありません。ついでに、毎日朝に呑んでいるのも玄米茶です。これは比喩です」と静かに答えていた。ウイットはそこにはいっさいなかった。誰もそのあとに何も書き込まず、長い間、ハナゲバラのその書き込みだけが残された。
ホワイト・ライオット内の何かがおかしくなり、瓦解しはじめていた。あれほどの結束を誇っていた同盟であったが、次々と町が奪われている中で、皆がこの状況に戸惑い、憤っている。大輔の目にも、北西方面方面長のポンペイウスの怠慢が赦しがたく映った。もっとログインしなきゃダメです。朝も昼も夜も、この世界のことを考えるべきなんだ。今は、非常時なんです! 戦争中なんです! スマホからメールを幾度となく送ってもいた。北西方面の同盟員である「アユ・ラブ」が幸運からの攻撃で町を攻略され、支配下の町がひとつになるところまで追い詰められていた。最後の町にも、南の方からとんでもない大軍が進軍中だった。大輔は自分自身の町も攻撃を受けており、ひとりでアユ・ラブを守れるほどの援軍を出せる状況ではなかった。比較的余裕のある他の地区の同盟員に攻撃主の城を攻めてもらうか、北西方面内で、どうにか援軍をやりくりするかの方法が考えられた。「アユ・ラブ」は足手まといになりたくないので、援助はもう必要ないと言い始めていた。少しでも、相手の兵隊を道連れにするために、旦那の一円玉募金の缶をくすねてプラクを購入し、兵隊に替えたと彼女は大輔へのメッセージに書いていた。「わたしは子供を三歳の時に病気で亡くしていて、あの子の闘病のことを思うと、ゲームだとしても、あいつらの同盟の名前は絶対に許せないのよ」とも彼女は記していた。
「サーバー2の閉鎖が決まっていなければ、ここで死んでも、またサーバー2でやり直せたのに、それも赦されない。ホワイト・ライオットの中での何気ない会話とか結構好きだったのにな。わたしは、この世界でもついていなかった……。最後までかっこよく戦っていた。そう皆には伝えて。ホワイト・ライオット万歳!」。最後の町が陥落する寸前に、彼女から送られたメッセージを大輔はそのままポンペイウスに転送した。北西方面の同盟員十七名がひとりたりとも欠けることなく、サーバー4に移住するという目標の達成が早くも不可能になった。大輔はその後も幾度となくポンペイウスにメッセージを送った。北西方面の同盟員はもともと、この世界の住民歴が浅く、戦力としては期待できなかった。町を百以上持っているポンペイウス自身の出兵が頼りだった。
二十三 スマホ 3.7インチ部分
「地元の祭りがあって、商工会での仕事で忙しかった」。ポンペイウスからようやく返事が届いたときには、アユラブに続き、三名の北西方面在住の同盟員が幸運に打ち破られ、町を灰化されてしまっていた。元方面長の大仏も灰化されてしまった。それでも、ポンペイウスは、無策だった自分の責任についてはいっさい反省せずに、幸運との戦争を「しなくてもいい戦争」と表現し、この戦争自体を詰るだけだった。今後の展開についても、「とにかく、互いになんとか生き残ろうぜ」としか書いていなかった。
大輔は意を決し、ポンペイウスに電話をかけて直接話すことにした。方面長と副方面長の「特別の信頼関係」に基づき、以前、メッセージ上で携帯電話の番号を教え合っていた。同盟の存亡に関わる重要な事象が発生した際はホットラインをつなげて対応しようと約束してあった。同盟の存亡が危ういのは今をおいてほかになかった。
大輔の予想に反してポンペイウスはすぐに電話に出た。小うるさい副方面長からの電話だというのもわかっていたようだった。大輔は電話は無視されるものだと端から諦めていたところがあったため、吃りながら、「この電話はあなたのホットラインでございます」と妙なことを口走ったが、ポンペイウスは笑いもせずに「ああ」と答えた。しばしの沈黙ののち、朝から祭りの子ども山車の警備をしていて、今は公民館で休憩中だとポンペイウスは口にした。夜は青年会でも出店を出すから、これからシャワーを浴びて、また、すぐに出かけなければならないとも言った。電話の向こうから、祭りのお囃子が確かに聞こえていた。大輔にはそれさえが、ポンペイウスが用意した言い訳の演出のように響いた。大輔は深呼吸をする。相手は敵ではなかった。これから一緒に戦わなければならない仲間であった。だが、許しがたかった。ひとりだけ遠くはなれた場所で、勝手に醒めきっていた。
「昨日、俺は幸運の町を三つ落としました。アユラブさんの敵討ちのつもりです」
「幸運か。本当に大変みたいだな」
「大変みたい? 他人ごとじゃない。とっくの昔に開戦してるんですよ」
「幸運は攻められた攻め返すんだろう? 普段は放置されたような町を攻めているだけで、自国の防衛のためだけに戦う。おまけに彼らは敵を同盟単位でとらえない。大人しくしていれば、幸運は攻めてはこない。違うか?」
「いや、そんなことはないんです。それはデマです。そのデマも彼らの作戦なんだ。実際には、彼らはここぞという時には全力で攻めてくる。だいたい、彼らは交戦歴の管理なんて七面倒臭いことはしていませんよ」
「しかし、実際問題として、アユ・ラブさんも幸運の町を攻めたことがきっかけだろう?」
「だから、違うって言っているだろう! わからない人だな。それは奴らの嘘だ。策略なんだ。アユ・ラブさんは対幸運戦にはまだ出兵していなかった。彼女をサポートしてあげて、2つ目、3つ目の町を一緒にとったときのことをポンペイウスさんも覚えているでしょう? 彼女はその町をただ、サーバー4に移る前に、できるだけ大きくしよう。レベル200を越えて、町の外観が変わるのが見たいとがんばっていただけなのに、その町を奪われて、灰化されてしまった。彼女自身も殺されてしまい、移住もできない」
「殺された?」
「ああ、殺されたんだ。確かにこれはゲームだが、それがなんだっていうんだ? なあ、それがなんだっていうんだ?」
「彼女は殺されてなんかない」
「いや、それは違う。それは絶対に間違っている。地球ではなくて、月で死んでも死は死だろう。それと何がちがうんだ? 俺もおまえもアユラブさんとはもう連絡がとれない。これが死じゃなくて、なんなんだ。『緊急時ホットライン』だなって言っておいて、いまさら俺の言っていることがおかしいなんていいだすのか? この野郎!」
そこから大輔は自制を失い、沸き立つ怒りをそのままぶちまけた。私自身を激しく揺らしながら、ポンペイウスをなじり、攻め立てた。ただ、祭りの会場で電話を受けているポンペイウスは大輔の話に耳を傾けるよりも、聞き耳を立てている周囲に話の内容を隠すことに意識が向いていて、話が咬み合わないままでいる。次第に大輔も発する言葉が底をついてくる。大輔も疲弊し、参っていた。大輔はやがて戦時にうちわで揉めるのはよくない。言い過ぎたと謝罪をはじめる。ホワイト・ライオットはあなたの兵力を必要としていると懇願さえした。ポンペイウスは「戦時か」と小さく笑った。「戦時だろう」と大輔は再び食って掛かる。
「おい、少年。もう、いいよ。そのキンキン声を聞くと、頭が痛くなる」
とポンペイウスは少し声を大きくする。それから、ホワイト・ライオットを抜けること、ハナゲバラに新しい方面長に大輔を推薦しておくことを静かに大輔に伝える。
「俺はもうこの世界自体もやめるよ。アカウントを君に譲り渡そう。あとでパスワードを君の電話番号に変更しておくから、俺の町と兵隊を好きにつかってくれよ。もともと、この夏の前ぐらいから、考えていたんだ。甥っ子たちが節電だって言って、スイッチ消して歩いている中で、伯父がゲーム三昧じゃあ、バツが悪いよ」
ポンペイウスは自分はすでに納得したような物言いで、じゃあ、がんばりなよと電話を切ろうとする。大輔は声をあげて、まだポンペイスを引き留める。
「ポンペイウスさん、頼みます。切らないでください。話を聞いてください。俺たちはまったく新しい局面にいるんです。もうひとつの世界を築きあげることができるかもしれないんです。僕は大学の一般教養で「進化学」をとっているんですけど、人は森から離れて初めて人間になれたんです。はじめに森の木を降りた猿はおそらく、森にどこか馴染めなかった猿で、普段からバカにされていて、おそらく、森を出るときも、気が狂ったぐらいにしか思われなかった。背中に罵声と嘲笑を浴びながら、森から離れていったんです。でも、その猿は結果的には人間としての一歩を踏み出していた。今では、森を出た猿は森に残った猿どもを動物園で飼っている。
これは示唆的だと思いませんか?
俺らにとって、「この世界」は森の向こうなんだ。他人にとっては、何もないところかもしれないけれど、俺にとってはそうじゃないんです。森に居場所がないと知る勇気、森の木から離れる勇気、その二つの勇気を持った猿だけが、人間になれた。
俺はこのまま、森の向こうに向かいます。絶対に、何かがあるはずです。一緒に行きませんか? ねえ、ポンペイウスさん」
ポンペイウスはすでに電話を切っていた。大輔は急ぎかけなおすが、相手の携帯電話は電源が落とされ、ついには着信拒否の設定がなされた。ホットラインは二度とつながることはなかった。
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ポンペイウスが戦列を離れ、北西方面の指揮は大輔に任された。ポンペイウスの推薦によるものではなく、戦時中に方面長がいなくなった場合、副方面長が自動昇進する内規に基づくものであった。
ポンペイウスは自ら町を灰化していった。北西の雄、ポンペイウスの灰化はブログ「今日のこの世界」でも報道された。彼が隠れ幸運であったとの説も紹介されていた。直接ポンペイウスと話した大輔は違う考えであった。ポンペイウスはただこの世界に飽きていて、それゆえ、無為であっただけだ。
アカウントを譲り渡す約束をポンペイウスは守らなかった。彼の百超の町があれば、ホワイト・ライオットの戦いがどれほど楽になるのかを知りながら、あえて町を灰化させた。自分へのあてつけであることは大輔にもわかった。電話を切ったあとの胸糞の悪さをポンペイウスはかたちで残したのだ。大輔は、どうにかして、彼の所在を暴き、自宅を急襲してやることも考えたようだが、方面長としての職責がそれを押し止めた。今、大輔はこの世界を離れるわけにはいかなかった。
大輔は戦い続けることを選んだ。ときおり、どこかにある疵が疼くのか、スーパーマーケットの店長の名や、ロトの名を検索にかけて、SNSでその過去を知ろうとしたりもしたが、押し寄せてくる幸運との戦いにすべてを費やしているといってもよかった。
北西地区に残る同盟員四名には比較的平穏な南に町を一つ持つことを勧めた。他人のことを守る余裕が大輔にはなかった。北西地区は巨人ポンペイウスの灰化によって、パワーバランスが大きく崩れてしまった。ホワイト・ライオットはプレゼンスを失い、幸運以外の同盟から攻撃を受ける可能性さえあった。もっとも、南に逃げたところで安穏に暮らせる保証はなかった。北西方面以外の地域でも、ホワイト・ライオットは幸運に町を奪われ続けていた。すでにトップ五十位内の地位も失っていた。幸運はホワイト・ライオットに的を絞りつつあった。
他の同盟とともに幸運包囲網を構築することをついにハナゲバラは諦めた。相変わらず、大手同盟のいくつかは灰化運動を後押ししている向きが見られた。中小同盟においては、幸運へ加わるために脱退者が後を絶たず、中には自棄になって同盟単位で幸運に加入した同盟さえあった。夏の暑さに多くの者が苛つき、傷つき、死ぬための戦いに惹かれていく者は増える一方だった。
ブログ等の報道によれば、サーバー2のプレイヤーはすでに全盛期の三分の二まで減少してしまったらしい。ただ、単純に辞めていった者もいるだろうが、灰化運動に巻き込まれていった者がほとんどだと説明されていた。
お盆に帰省しなかったため、美希からは、頻繁に電話が来ていた。大学は半期ごとの単位取得の結果について、親元に封書で知らせている。大輔は期末のテストを受けていないがために、いくつか単位を落としていた。これを美希は気にかけていた。大輔は二年の前期は普通、単位は取らないんだと嘘をついた。三年で単位をとった方が就職が有利なのだと適当なことを口にしていた。大学に行かなかった美希はそんなこともあるのかと納得したようだった。
美希は和哉がテレビばかりみるので、ケーブルテレビのサービスに加入したことを話した。血液をサラサラにし、脳梗塞予防となるサプリメントも購入し、和哉に飲ませているし、念の為に自分も呑んでいるとも言っていた。パパが少しよくなったら、近場の温泉にでも行こうかと思っているんだ、あんたも一緒にどう? と誘われもした。美希は手元にまとまった金が入ると、急に気が大きくなる人間だった。どこかからか借りた最後の金も、きっとすぐに遣いきってしまうのは容易にしれた。馬鹿な親だと大輔はつくづく思った。そんな金があるのならば、仕送りをしてくれた方がどれほど助かるだろうか。
「お金はとっといた方がいいよ」
と大輔は美希の話を遮り、言ってみた。「うるさいな。何を生意気いってんだよ」と美希が急に語気を荒らげた。「おばあちゃんみたいなこと言わないでよ」と彼女は笑い話にしようとしたが、死んだ義理の母のことを今でも悪く言う美希とはさらに話す気が失せた。電話を切ろうとするが、美希がこちらの機嫌をとるようなこと口にしているのに乗じて、金を送ってくれるよう大輔は頼んでみた。友達との旅行だととか、服を買ったりだとか、少しは若者らしいことをしてみたいのだと言ってみた。美希は一瞬渋っていたが、先程、怒鳴りつけたことに引け目を感じているのか、単位も取らずに仕方がない子だねと言って、三万円を振り込むことを承諾した。
コンビニで三万円分のネットマネーを購入すれば、三万プラグと交換できた。三万プラグで市民兵ならば六千人、元治安部隊ならば三千人が徴兵できる計算となる。
大輔は今まで、「この世界」で金銭を払うことを頑なに拒んできたのを私は知っている。ただ単に金がなかったこともあろうが、金銭を払ってしまえば、それは違う次元のゲームになってしまうことをわかっていたのだと思う。金銭の多寡で勝負をするのならば、大輔に勝ち目はなかった。手間と時間をかけさえすれば、この世界ではそれなりの成果を出すことも可能であった。実際に、大輔は地道な努力を重ねることで五十の町をもつまでになれたのだ。
それが、対幸運戦の中では日本円を支払って、兵隊を徴兵することに抵抗を覚えなくなっていた。
まず、はじめに支払ったのは千円だった。その日の食事とひきかけに、ネットマネーを購入して、市民兵二百名を徴兵した。ホワイト・ライオットで実行された共同作戦に所定の数の兵隊を出兵することを約したのだが、当日になってどうしても、兵が足らなくなってしまったゆえだった。
ハナゲバラと大輔、それに古参の同盟員数名は、幸運との戦いの中で、作戦の根本的な見直しに迫られていた。戦う相手の整理が必要であった。各人が遠くはなれた場所で、死んでは沸いてくるゾンビのような幸運と戦っていても疲弊するだけで、事態の打開は望めなかった。そこで、密かにメッセージ機能を使用した話し合いをもち、皆がすべての兵を率いて、一箇所に集い拠点を構築することにした。北海道、東京、九州、沖縄に散らばっている同盟員たちが、それぞれ個別にどこに潜むのかもわからない四方八方の敵と戦うのではなく、長野の山奥に根拠地を作り、全兵力を移動させ、互いに背中を守るかたちで、周囲と対峙するようなことを目指した。
根拠地の候補は中央砂漠と呼ばれている地域であり、かつてはMD世代と名乗る同盟の支配地だった。MD世代は先の大戦での勝者であったが、賠償プラグの分配でひとりの同盟員が不平不満を持ったがために分裂をし、ついには同盟員同士で戦う事態に陥っていた。内ゲバ的な戦いに嫌気がさしたのか、一人、二人と、この世界から離れていっていて、今はどの町も放置されたままになっていた。そのため、比較的与しやすいうえに、それを奪う罪悪感もさほど覚えずに済んだ。大輔は中央砂漠内の北西に位置する三つの町の攻略を担当した。計画では、従来の根拠地は兵隊をおかずに捨て置くことになっていたが、大輔は苦労して大きくした町を失うのがどうしても惜しく、独断で一定数の兵隊を残すことにした。そもそも、移住作戦はろくに索敵もできない幸運を混乱させ、時間をかせぐ目的もあった。従来の町にある程度、兵隊を残した方がその目的に叶うはずであったし、一日中、この世界にいる今となっては、統治する町が多少増えたところで、指揮が乱れたりもしないと考えた。――俺は自分の町を捨て石にするようなことはしないのだ!! それで兵隊が少し足らなくなり、そのときはじめて日本円でプラクを購入し、プラグで兵隊を徴兵した。大輔は食事を抜いて、ひもじい思いに耐えた。結果的に大輔はこの移住作戦で、再び五十以上の町を支配下におくことになった。
「長征」と名付けられた中央砂漠への移住作戦は、幸運に気がつかれることなく、無事終了した。荒れ果てていることが予想された町が存外に生産力を保っていたのは嬉しい誤算だった。ホワイト・ライオットの精鋭はプラクの生産量にあわせて、少しずつ徴兵を行い、戦力の回復をはかった。彼らはここを拠点に第二次幸運戦を開始するつもりだった。組織的な索敵をしない幸運であってもマップをたどっていけば、いずれ、自分たちの移住先を嗅ぎつけることは覚悟していた。もしかしたら、すでに、幸運の標的は他の者に移っているかもしれないなどと淡い期待を持つ者はいなかった。砂漠の中に灰化をした町を立ち並ばせるのはいっそう、彼らの嗜好に合うだろう。相手にすればするほど、彼らは喜ぶ。皆で背中を寄せ合い、刀を向けるこの姿はさらなる攻撃の対象となることを、ホワイト・ライオットの強者たちは感じ取っていた。
守るべき町が増えた大輔はともかく戦力の増強を急いでいた。メールで確認すると美希がすでに振り込んだと答えたので、さっそく現金をおろしに郵便局に行くことにした。
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ほとんど、ひと月ぶりに、真昼間に外に出た。九月に入っていたが、日差しの強さもアスファルトの照り返しも、いまだ強かった。大輔の目に入るものすべてが黄みががっていた。毎日、扇風機だけで耐えていたのでからだは暑さに慣れているはずだったが、やはり、外の日差しは格別で、一度、日陰に入り、息を整える羽目になった。
郵便局の二台のATMには人の列ができていて、自動ドアから外に伸びていた。今が昼休みの時間であることに大輔は気がついた。列にならぶ人間は揃いの入館証を首に下げていた。彼女たちは、線路の北側にある、健康食品を扱う会社のコールセンターに勤めているようだった。今日は彼女らの給料日らしい。彼女ら一人ひとりはATMでかなりの時間を要した。建物の中に入れた大輔が観察するに、どうやら彼女たちは金を下ろした先から、どこかに振り込むことをしていた。「だから、空気を読めないのよ」。「何を言っているかわかりません。って言おうかと思っちゃった」などと、前後で盛んに職場の愚痴をぶつけあっていた彼女らはATMを前にすると、きまって急に押し黙った。携帯電話や手書きのメモをたよりに、真剣に振り込み作業をはじめる姿を目の当たりにすると、嫌でも美希のことを思い出さずにはいれなかった。まともな職を探すことができない愚かな彼女らもまたきっと、自分では残額の計算もできないようなローン、月賦の返済をしているのだ。大輔は、自分が金を下ろす順番が回ってきた際に、彼女らの会話が止んだのは気のせいにはできなかった。そこにいる皆がだいたいのことはわかっていて、おまえのような子供がいるから、私らは誇りのない仕事をし、金を返さなければならなくなるのだと非難する声が耳に入ってきた。
郵便局を出てから、大輔は、美希が送ってくれたこの三万円で土産を購い、実家に帰ることもできるのだと考える。はじめは罪悪感ゆえのわざとらしい思案だったが、次第に、現実的な選択肢になりかわってきた。「ただいま」と突然、顔を見せた際の美希と和哉の喜ぶ顔が目前に浮かんだ。大学が始まる九月二十一日まで、実家で親孝行に精を出そうか。和哉の看病を手伝い、美希の話しをきちんと聞こう。汚れたままになっている家の窓を掃除するだけでもよかった。美希はどこで聞いたのか、窓は拭くと余計に汚れるというのを頑なに信じ込んでいた。掃除のアルバイトで覚えたように窓を拭いて、光がよく入るようにすれば、家の中も明るくなり、雰囲気もだいぶ変わってくるだろう。帰省すると美希と和哉は決まって、大輔をマクドナルドに連れて行った。今度は自分が三万円のうちから美希にご馳走してやろうかと大輔は考える。
ネットマネーを購入できるコンビニエンスストアの前を大輔は通り過ぎて行く。シャッターを下ろした店の前で、制服を着た女子高生たちがあぐらをかいている。大輔が目の前を通ると、汚らしい嬌声が上がった。「マジでマジでマジでマジで」。大輔は眼鏡にセロテープを巻いているのを忘れていた。靴をガムテープで巻いているのを忘れていた。ただ、彼女らはなにか違うことで笑っているのかもしれないとも思った。あいつらの考えることはよくわからないし、何かおかしな薬をやっている可能性だってあるのだ。どんな理由にしろ、その笑い声は不快に響いた。中年の男が自転車でベルを鳴らしながら前から突っ込んでくる。ギリギリのところで避けるが、向こうからは詑びの言葉は一切出てこない。舌打ちだけが残り、汗ばむ男の背中を大輔は凝視する。ロトたちとやりあったときに痛めた膝がうずく。死ねばいい。男の背中に向かってそう言葉を投げつける。また、女子高生たちの大きな笑い声が響いてくる。苛つかせることばかりが存在している。相変わらず、馴染まないものばかりが立ち並んでいる。大輔は歩みを速めた。窓を開けている家から、老夫婦が喧嘩する声が響いている。家の前の電信柱には人間ども、猫、犬、小便するな! 聖人のみを可と殴り書かれた張り紙が張られてあった。八百屋は開いているが店員はおらず、その隣の本屋はシャッターを下ろしている。LEDライトの掲示板が道にはみ出しながら、怪しげなマッサージの案内をしている。日差しがじりじりと背中をやく。いやなにおいが自分から放たれる。建物の影は短く、日差しをさえぎらない。やけっぱちな気分が高まり、鎮めてくれるものもない。俺が未来のない、愚か者だったら、「この世界」の方面長という重責がなかったら、この日のこの瞬間に、通り魔的な殺傷事件を引き起こしていたぜ。馬鹿野郎。大輔は立ち止まり、うっすら笑みを浮かべる。わざとらしい戯れは消えずに残る。ロトにナイフを刺すところを想像して、悦に入っている自分がいる。灯油の入ったポリタンクを持って、スーパーマーケットに乗り込んでやろうか。店長を出せ。店長を出せや。大輔はわたしを手にする。笑い、顔を歪める。何かの際に今、こいつは立っている。
酒の自動販売機に大輔は目をやった。
ゲームに金を払うぐらいならば、ビールでも呑むよ。その方が幸せになれると篠崎は言っていた。大輔は体質的にアルコールを受け付けないし、酔っ払うことにも興味をもてなかった。酔っぱらいを前にして楽しいと思ったことがなかった。
大輔は壁ににじりよる。電信柱に手を当てて、からだを支える。えずくものをどうにか堪えている。顔が真っ青で、目玉は赤く充血している。歩き出すが、唐突に倒れこみ、地面に手をつき口を大きく開けるが、なにもでてはこなかった。ただだた、苦しかった。唾を吐き、アスファルトの上の白線が剥げたあとに視線を落とした。涙が浮かぶ瞳を拭った。だいたい、暑すぎるんだよと口にした。揺れている。確かに揺れている。だが、これが余震であるのか、勘違いなのかわからない。尋ねる相手がいない。
ふいに誰かに名を呼ばれたかのように、大輔は頭を擡げる。じっと目を凝らし、一点をみつめる。目を見開き、奇妙な声をあげる、
大輔は視線の先に敵の姿を認めていた。
まさか……
そいつはひとりだった。はっきりと人のかたちをしていた。大人の男であった。
てめえが幸運か……
大輔は思わずそうもらし、にじり寄ろうとする。男の姿が音もなく消えて見えなくなった。大輔の汗がひいていく。
てめえが幸運だったのか。
大輔はもう一度、口にする。姿の消えた相手の笑う声が残る。
くそたっれ。完全にだまされたぜ。くそったれ、くそったれ。
――俺たちは、ずっと、幸運は集団だと決めてかかっていた。俺たちホワイト・ライオットは多くの、絶望した人間と戦っていることに恐れていた。それが、まったく、なんということなんだ。幸運が健康で、豊かな生活を送るたった一人の男だったとは! 奴はカフェの外の席に座り、女と笑っている。奴は女と海外旅行のパンフレットを見ている。こんなときに旅行だなんて我々は恵まれ過ぎている。少し募金をしよう。君の誕生日が10月20日だから、1020円を募金するなどとふざけたことを言って女と微笑みあっている。奴は一番の幸運は生まれないことなどとは考えていなかった。そう思う人間を蔑み、笑うだけだった。奴は、俺たちがどこかで楽しんだり、充足している姿が気に食わないし、どこか恐ろしさも感じている。絶対に赦すべきではないと密かに怒りに震えている。
大輔は私を強く握る。ほとんど外出をしなくなり、家でパソコンでやることになったとしても、今日このときのために私を購入してよかったと大輔は思った。
大輔はこの世界に入った。ホワイト・ライオットの掲示板に「幸運をみた!」と書き込んだ。「この目でしっかりと俺は敵を捉えた。今から、幸運の陣営へ突撃する」とも書いた。自分の軍勢はプルトニウムのかたまりとなり、敵を未来永劫燃やし尽くすと高らかに宣言した。
二、三人の同盟員からすぐに自分のところに来てくれとの要請があった。中央砂漠に移住した者以外では、もはや、十名程度の同盟員しか生きながらえていなかった。彼らさえも幸運に包囲され、殲滅されるのを待つ身だった。
コンビニエンスストアに駆け戻り、大輔は三万円でネットマネーを購入した。レジでの処理にもたつく店員をはやくしろと怒鳴りつける大輔には、かつて細切れに千円を遣った際の躊躇はもうなかった。
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ホワイト・ライオット内で、本当の敵の姿を捉えたのは自分だけであった。あの姿を頼りにこの世界での所在を突き止めて、抹殺しなければ、この戦争に勝利はなかった。大輔は眼鏡の弦にたまる汗をぬぐう。何かをしなければならないのに、今すぐ、動き出さなけれなならぬに、何からとりかかっていいかわからず、頭をかきむしる。
奴、カフェ、男、一番の幸運は生まれなかったこと。滅茶苦茶な言葉で検索をかける大輔の手が止まる。篠崎が電話の会話の中で話題にしていた男が「奴」ではないかと思い当たった。その男は大手商社に勤めていて、結婚もしていれば、子供もいるのに、「この世界」を楽しんでいると聞いていた。その他もいくつかゲームをやっていて、そのうちの一つのオフ会で、篠崎はその男と出会った。いい奴だったよと篠崎はその男を評していた。
「だいたい、ゲームのコミュニティで知り合って、盛り上がって実際に会ってみても、まともな会話が成り立たないような奴でがっかりっていうのがパターンだ。だけど、そいつは、なんだか、風貌も爽やかで、会社でも頼りにされていそうだし、家庭でも、嫁さんや子供にも邪険にされずに、愛されていそうな感じだった。頭にくるけどな、ああいう奴っているんだよ」
何事にもケチをつけなければ気が済まない篠崎にそんな印象を与えるのがいかにも怪しいと大輔は考えた。大輔はさっそく篠崎に電話をかけた。商社勤務の男の、この世界での名前と所属同盟を聞いた。篠崎は当然に、その人物のことを話題にしたのを忘れていたし、大輔の切羽詰まった調子に面食らったようだった。大輔は自分が何を言っているのか理解させるまで、何度も言葉を変えて辛抱強く説明しなければならなかった。
「で、端的にいうと、なんで、あいつの名前が知りたいんだ?」
「奴が幸運の指導者だ」
「あいつが幸運? 本当かよ。ちょっと信じられないな」
「俺は見たんだ」
「見た? どこで?」
「町でだ。おかしなことをいうようだが、俺にしか見えないかたちでだ」
「そうか。まあいいや。俺は誰かがゲームに魂を奪われていくのを見るのは嫌いじゃない。
あいつのこの世界の名前は確か「ボルボパパ」だ。ツイッターのアカウントもそうだ」
「ありがとう。助かるよ」
「頑張れよ。しっかしさ、おまえはまだ、サーバー2でこの世界をやっていたのか。もう、誰もいないんじゃないか? 今はアーマーオブザアーツの時代だぜ」
大輔は、この世界で索敵活動を行った。確かにボルボパパなる人物が南西地区にいて、十七の町を支配下においていた。所属同盟はスターライトアライアンスだった。SLAと呼ばれるスターライトアライアンスは、同盟順位五位の大手同盟であり、幸運の背後には大手同盟の存在があると主張していたハナゲバラの考えとも符合した。ボルボパパが幸運の指導者であるのは間違いがなかった。
大規模な戦争に発展する危険性があるため、同盟に所属する者への攻撃は、ホワイト・ライオットの内規への重大違反行為となる。だが、大輔は独断で開戦することを決意した。九月末日まで、あと二週間を切り、同盟同士の戦争に発展することもないだろうと踏んだ。戦争になったとしても、SLAが幸運を操っていたことを暴けば、他の多くの同盟ホワイト・ライオット側で参戦してくれると信じた。
三万円で購入した兵隊に加えて、大輔はさらに支配下にあった五十四の町で、ぎりぎりまで徴兵を行った。それから、ずいぶんと苦労して宣戦布告文を作成し、ボルボパパにメッセージで送った。不意打ちなどでこの戦争を汚したくはなかった。相手と同じレベルに堕ちるのではなく、あくまで正しさをもったまま戦い、勝利することを望んだ。
「拝啓 ボルボパパ殿 この度の「一番の幸運は生まれないこと」でのご暗躍、ご苦労様です。幸運に果敢に挑んだ我がホワイト・ライオットですが、貴軍ほ手ごわく、開戦からわずか二週間で壊滅状態となってしまいました。同盟員の八割は灰化され、彼らはサーバー4への移住も叶いません。もちろん、戦争に敗北はつきものですが、生きている者がいる限り、戦争が続くのもまた戦争の理なのでしょう。この戦争をはじめたときから、あなたはそのことを覚悟していたはずです。わたくし、相沢商業二組三番は、ボルボパパ殿に対して宣戦を布告します。降伏や謝罪、賠償の申し出などの機会を与えるために、十二時間と少しの猶予を設定します。この宣戦布告は九月十一日の十八時に貴殿に到達したみなし、九月十二日の六時に我が軍は貴殿への敵対行動を開始いたします。敬具」
宣戦布告をしたのち、大輔は私の電源を落とした。私を休ませるともに、自分自身が休息を必要としていた。薄れる意識の中で、床に寝転がり、天井を仰ぎ見る大輔を私はみていた。その目が閉じられて、からだから力が抜けていくのをみていた。
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目を覚まし、私で時間を確認したのちに、嘆きとも笑いともとれる妙な声を発していた。それから、仰向けになり、拳を握ったり、閉じたりしている。どうやら、寝過ごしてしまったらしいが、頭が働かないのか、即座に行動に移ろうとはしない。カーテンがない窓から光がさんざんと差し込んでいた。
大輔は起き上がり、PCを立ち上げた。起動までの時間を待てずに、私からこの世界にログインした。何度も、リロードをしていたが、目当てのものは届いていないようだった。大輔は自分が送りつけたメッセージを改めて読み返している。どこにも趣旨が不明瞭なところはないはずであった。ボルボパパは降伏などしないにしても、幸運云々の部分についてはしらを切るだろうとみていた。それはボルボパパにとってあってはならぬ疑いのはずだった。自分が暴いた犯罪者がどんな風に言い逃れをするのか、大輔は暗くほくそ笑んで待っていた。そうであるのに、もはや言い訳など必要ないと判断したのか、あるいは、ごまかす言葉が思いつかないのかはわからぬが、ボルボパパは沈黙を通し、大輔の宣戦布告は黙殺されていた。
調子がよいときの大輔は、この世界のマップを覗きこむ巨人のような感覚をもちえた。町と町がどの程度離れており、どの町が豊かでどの町が貧しく、兵隊はどれほどいるのか。兵隊はどの町からどの町に向かっているのか。それが瞬時に俯瞰できた。大輔がホワイト・ライオット内で天才呼ばわれされるまでに至ったのは、その感覚に負うところが大きかった。
偉大な戦いがはじまるこの瞬間であるのに、プログラミング言語を俯瞰できる神の感覚を大輔は喪失していた。私の小さなディスプレイの中で、自分の町がどこであるのかを指し示すのさえ危うかった。このまま一世一代の大戦に臨むのは心もとないが、予め予告してあった開戦時刻の朝の六時はとうに過ぎてしまっている。このまま、何もしなければ、ただのはったりをかましただけとなった。大輔は起動したPCに向かう。首を廻し、腕を並行にあげて肩の筋肉を伸ばす。それから、私のカメラで自画像を撮る。ねぼけた目をした写真を何枚も撮り続ける。
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大輔は兵隊を集めておいた中央砂漠の町から、当初の目標地へ第一陣を出発させた。ボルボパパが持つ一七の町のうち、みき、たくみと子供の名前をつけた町が二つあった。あとの町は、ボルボ1というふうに、自分の名に数字をつけてあるのみだった。ボルボパパがはじめに与えられた町、はじめに落とした町だけに子供の名前をつけ、あとは、大輔もそうしているように管理上の理由のみをもって数字だけにしたのは容易に想像がついた。
子供の名がついた町を市民兵で急襲し、ボルボパパが他の町から応援の兵隊を送り込むタイミングに合わせて、元治安部隊を出兵し、他の町を一挙に奪いとるのが大輔の立案した作戦だった。子供の名前をつけた町は思い入れも強いはずで、そこに隙が生まれるだろうと考えた。
大輔が兵を置く中央砂漠の町から、南西地区の二つの町「みき」、「たくみ」までの距離はそれぞれ五十一マスとなり、市民兵がたどり着くまでに一五三分かかる計算であった。ボルボパパは昼休みに一度この世界にログインするというのが、大輔の見立てだった。自分の子の名前をつけた町へ派兵があったことを知り、ボルボパパは子を守るべく、周辺の町から応援の兵隊を送るはずだ。それを待って、昼休みが終わるであろう一三時過ぎに手薄となった他の町に向けて兵を出す。南西地区のボルボパパ支配下にある他の町までは、だいたい、五十マスから六十マスの間で、足の早い元治安部隊であれば、七五分から八〇分でそれぞれの町に着く。そのころ、ボルボパパは午後の就業時間の真っ最中となる。これが、アルバイトや期間工相手であれば、仕事中にスマートフォンを盗み見て、場合によってはその後の仕事を休んで対応を練ることもありえるが、東証一部上場企業の正社員はそんな振る舞いはできないと大輔は考えていた。
姑息で卑劣な作戦であることは大輔も認めていた。だが、巨大な相手と戦うために弱者は手段を選んではいられない。仮にボルボパパがプラグを購入し始めれば、資金力で叶うわけがなかった。さらに、戦争にルールもクソもないのだという思想をはじめに持ち込んだのは、ボルボパパ自身であった。その報いを奴は受けるだけだと大輔はみなした。結局のところ、大輔にとってボルボパパは罪人に過ぎなかった。
出兵後、しばらく、震える手で、ひたすらアラーム画面をリロードしていた。SLAからの軍勢が大輔の北西ベース、中央砂漠の拠点に向かってくるのを待った。ボルボパパはいよいよ化けの皮を剥ぎ、幸運の死兵が押し寄せてくることも覚悟の上ではあった。肉を落として骨を断つ。いや、刺し違えるのも致し方なかった。まとめて炊いたご飯をレンジで解凍し、生卵と醤油をかけるいつもの朝飯兼昼飯も今日は口にしていない。のども渇いていたが、水道水をコップに入れる手間さえ惜しい。
十二時を回り、昼休みの時間となったはずだが、ボルボパパからは相変わらずなんらの返答も届かなかった。大輔は不安を覚えながら予定通り、元治安部隊でボルボパパの各町を急襲させる。三万円で購入した三千人とそれに五十の町から集めた四千人をあわせた計七千の元治安部隊の大部隊が、この世界の諸悪の根源の抹殺に向かった。
兵たちを送り出してしまえば、指揮官ができることは限られていた。あとは己の作戦と兵を信じるのみだった。
幸運、あるいはSLAからの出兵があった場合、北西地区はもちろん、中央砂漠の町々も諦めるつもりだった。どの町にも、せいぜい、三十程度の僅かな市民兵しか守備として残していない。一度攻めこまれれば、彼らは瞬時に抹殺されるであろう。大輔は南の端に一つの町を持っている。町は荒れ果てたままで、生産力は低いが、実はここに多くの兵隊を残してあった。上京する際に持参した漫画にCD、それに教科書を売って作った金で徴兵した元治安部隊三百人と市民兵二千を駐屯させていた。この隠れ砦の存在はホワイト・ライオットの同盟員にさえも明かしていなかった。仮にSLAや幸運との全面戦争に突入した場合、この隠れ砦に身を潜めるつもりで大輔はいた。
外でカラスが鳴いただけで、大輔は声をあげて驚き、机を叩き、壁を蹴飛ばした。このまま気を張り詰めたまま、画面をリロードして数十分を過ごすとすれば、発狂してしまうことは自分でも気がついていたようだ。こういう時に睡眠をまとめてとればいいのだが、あいにく、昨晩から寝すぎているうえに、興奮してとても寝つけられそうにはない。それで、一度、外に出ることにした。太陽の下にいけば、以前、敵であるボルボパパの姿を捉えられたように、新たな啓示を得られるかもしれなかった。
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アパートの階段を降りて、細い道を通り、入り口に二軒のコンビニエンスストアが連なる商店街を歩いた。白い壁とガラスでできた美容室の前で休憩中の男の美容師がスマートフォンの画面を見ている。まわりにまわって、あの金髪の男が手にしているスマートフォンが自分のものである可能性を大輔は思いつく。美容師がこちらを見ているが、特に挨拶はない。向こうは大輔を覚えていないようだった。上京した直後の、入学式の前にあの美容院で一度だけ髪を切った。五八〇〇円という値段の高さと「っすか」という男の美容師の話し口調が耐え難く、以来一度も訪ねてはいない。あのときは空いているのに外から見えない奥の席に案内されたのは、店にとって好ましくない不細工の客だからだというのを後になって知った。通り魔事件を起こした犯人が、犯行前に世の中への怒りをぶちまけた書き込みに「美容室に行っても奥に案内され」とのフレーズがあったのだ。事件についての感想を述べたSNSのブログ記事の中で、大輔はこの犯人に共感を示していた。精一杯、自分がおしゃれだと思う服を着こんでいき、「いいっすね。大学生っすか」なんて言われて真に受けて、そんなことないですよ。手に職をもっている人を俺は尊敬しますなんて白々しい言葉を口にした自分を大輔は今さらながら強く恥じた。
商店街の端まで歩き、再び、ただ、戻ってくる。ベビーカーを押した若い母親二人とすれ違う。母親たちが同時に赤ん坊をあやす。スケートボードを手にした若い男の三人組が笑い、肩を組んで歩いて行く。小学生たちが歓声を上げながら自転車で通りすぎていった。
大輔は私を見た。誰かの連絡もなかった。
三月十一日の十四時四十六分、大輔は自分の部屋にいて、眠っているような、漫画を読んでいるような曖昧な時間を過ごしていた。二度目の揺れがおさまるとすぐさまアパートの階段を駆け下りていき、そのまま朝まで居場所を探し続けた。人知れず、アパートの屋根につぶされて死ぬことだけは避けたかった。実家に電話をするも携帯電話はつながらず、今、実際に何が起きているのか、誰かと話し、知りたかった。三駅分を歩いて向かった大学は門を閉ざしていた。アルバイト先のスーパーマーケットに向かうことにしたが道に迷い、余震に怯えながら、暗くなった見覚えのない道をさ迷った。職場から帰宅する人びとの群れも次第に消えていき、みな、自分の家に戻っていった。大輔は公園に行き着き、広場の中央でひざを抱えて座り、朝を待った。なぜ、誰も避難しようとしないのか。何が起きているのかみな知っているのか。どうして、自分には誰も何も教えてくれないのか、ここでこんなことをしていいのか、何もわからず、おぼつかなかった。やはり、今まで他人から散々に指摘されてきたように、自分は問題を抱えた人間であって、この孤独がその結果であるように思えて、涙が滲んだ。心もとないなかでも、うつらうつらとし、朝を迎えた。生暖かい風が吹き、雀や鳩が手の届く範囲に集まっていた、それがまるで食う食われるの関係など存在しない天国の証のようであって、ああ、俺は死んだのだと勘違いしたことを大輔は思い返している。
ビルの一階に入居するモスバーガーの前で急激に空腹を覚えた。初老の男がコーヒーを呑みながら新聞を読んでいるのが見えた。あの男の余裕を大輔は憎んだ。わかっていながらも、財布の中身を一応確かめた。千円札どころか、五百円玉だって入っていない。嫌でも美希に電話をして、仕送りをしてもらわなければならない。家賃や電気代、ガス代の引き落としがある月末までにまとまった金が必要だった。
いよいよ、ボルボパパから賠償金をせしめることを本気で大輔は考えはじめていた。そもそも、この世界に日本円を注ぎ込むことになったのは、ボルボパパが主謀者である幸運に対抗するために強いられたものだと大輔は考えていた。その原因を作ったものにそれ相応の犠牲を払わせるのは法的にもさほど根拠の乏しいものとも思えなかった。最後の一つの城まで追い詰めたのちに、賠償金の交渉に入ることを大輔は考えていた。篠原によれば、ボルボパパは一流商社に勤めているそうだ。影で幸運などといった不誠実な同盟を操っていたことが暴かれるのはよろしくないはずだった。そこを突いて、口止めと引き換えに賠償に応じるのが得策だと考えるように仕向けるのだ。相手が持てる者であることを逆に利用してやるのだ。
幸運の首謀者をひそかに葬り、賠償金を手にしたうえで、サーバー4に伝説の男として移住をすることを大輔は夢想した。こちらの人の世では賠償金を元手に生活を立て直す。大学にももう一度行くようにして、アルバイトもきちんと探すつもりだった。今度はもう少し、時給のよい職場をみつけた方がいい。それと適性も軽視してはならない。自分は接客業には向かない。目つきがおかしいというだけで、クレームが入ったりする仕事はどう考えてもふさわしくない。肉体労働に適しているとは思わないが、滅茶苦茶にからだを酷使しては眠る日々がいいような気もしていた。
ボルボパパを打ち負かすことがすべての始まりであることが見えてきた以上、商店街をただ往復することは無駄に過ぎなかった。結局は、こここでは自分は市民兵でさえもない。ただの一住民であり、この町をどうすることもできない。
大輔は道の真ん中で足を止める。この世界にログインし、マップ上で、自分の支配下にある町を見て回る。――この世界の中で、俺が町を歩いたら、どうなるだろう。俺が姿を見せれば、多くの市民たちが集まってくることだろう。かつての善政で、俺は今でも少しは人気があるだろうか。それとも、正義を振りかざし、頻繁に徴兵しては戦地に送り込むようになった狂信者の俺には怨嗟の視線しか向けられないだろうか。将軍や幕僚たちは俺が町を歩くことに反対するかもしれない。この世界に将軍などというプラグラム上の設定はないが、俺の軍には備わっていることにしてある。俺の軍には参謀もいれば、良い兵隊、悪い兵隊もいる。彼らはプログラムなんかではないのだ。町の中には敵の刺客が潜んでいるかもしれないし、群衆が襲うかもしれない。だが、俺は、自分の町を歩くだろう。あれは俺の町なのだ。俺がいなければはじまらなかった町だった。終わりの時を見届けるのも俺だ。決して、幸運ではない。
大輔は自分の部屋に戻ることにした。巨人になって、この世界を見下ろせるような、あの感覚が手足の隅々まで満ちはじめていた。昼も夜もなく、満足に食事もとらない生活の中で、手に入れた、孤独な戦士の感覚だった。それを大事に抱えるようにしながら、大輔はアパートへと急いだ。
三十 PCディスプレイ 15.6インチ部分
サーバー4への移住まで一週間を残すことになった九月二三日の秋分の日に、大輔はホワイト・ライオットを脱退した。「プロフィール設定」の「同盟」の部分をクリックし、脱退を選択した。マップ上に表示される大輔の町の右上から、ホワイト・ライオットの同盟カラーである白色が消えた。すべてはホワイト・ライオットが攻撃目標となるのを避けるためであった。ボルボパパへの宣戦布告は同盟順位五位SLA全体への敵対行動とみなされ、大輔はSLA全二二〇名から追われる身となっていた。
ボルボパパからは開戦日の夜になってようやくメッセージが届いた。ボルボパパは先週から出張中でログインできなかったと記していた。幸運なんて同盟は名前は知っているぐらいで、自分は関係したことはないし、まして、実質的な盟主だなんてありえない。あなたの言っていることはまるで意味がわからない濡れ衣だとそこには書いてあった。いかにも善人面した悪党の言い訳だと大輔は思った。その時点で大輔はボルボパパの町のうち、みき、たくみをはじめとする十の町を落としていた。陽動部隊のつもりだった市民兵たちは子供の名前のついた町をたやすく撃破し、その他の町も元治安部隊によって制圧された。強くなり過ぎた自分に大輔は酔いしれていた。五十以上の町をもち、常に臨戦状態にあって兵の増強につとめていたし、戦争経験も豊富だった。いかに、裏で幸運を操る策士であるボルボパパとはいえ、一対一で相対すれば、大手同盟内の恵まれた環境の中で、片手間でこの世界にいる者にすぎないのだと高らかに笑った。
ボルボパパが同盟に訴えたがために、大輔はSLAから敵対国の認定を受けた。SLAの同盟主日本赤痢軍から、謝罪及び賠償として、ボルボパパの町を返還し、さらに一〇の町を明け渡さなければ、同盟をあげて対処するとのメールが送られた。脅しではないことの証明として、SLAの二〇人以上のメンバーから派兵された一万を超える元治安部隊によって、北西地区の一つの古い町が奪われた。それでも大輔は迷うことなく、戦争の継続を選んだ。謝罪などできるはずもなかった。こうとなった以上、謝ったところで赦されるはずがないことを大輔は己の半生で身に染みて知っていた。背中を見せれば、蹴りつけられるだけであった。何も堪えていないような顔をして、あと一週間、闘いぬくほかないのだ。戦い続けるために、ホワイト・ライオットを脱退することも迷わなかった。SLAは同盟間戦争も辞さないと宣告していた。対幸運戦と同時に上位同盟も敵に回すとなれば、ホワイト・ライオットの存続はますます危うくなる。ホワイト・ライオットの掲示板はすでに三日以上前の書き込みが放置されたままになっている。ボルボパパが裏の顔をさらけだして幸運も巻き込んで復讐を企てる可能性もまだ十分にあった。ボルボパパが幸運であるとの見立てについて、大輔はほとんど自信を失っていたが、まだ、その可能性が残されている以上、仲間たちを巻き込むわけにはいかなかった。大輔は同盟を脱退したこと、この件についてホワイトライオットは一切のかかわりはないことを日本赤痢軍に伝えた。
脱退に際して、友よではじまる長いメールをハナゲバラに送った。ホワイト・ライオットに入ってよかったとどれほどつよく思っているかをきちんと伝え、礼を述べたかった。愛しているがゆえにホワイト・ライオットを離れたことをわかって欲しかった。自分が敵を引き受けることでホワイト・ライオットが生き延びられることを願っていると最後に記した。
ハナゲバラから返事はなかった。それで、大輔はこの世界内に設置されたホワイト・ライオットの専用掲示板に脱退する旨を書き込んだ。その後、すぐに脱退してしまったので、大輔の書き込みに対して、誰のどんな反応があったかを追うことはできなかった。ただ、引き止めや名残惜しいようなことを書かれることはないだろうとの諦めはあった。ボルボパパへ攻撃をしかけた頃から、大輔はあまり同盟を顧みることはなかった。中央砂漠への移住作戦でも、従来の根拠地を捨てなかったことにみな、気がついていたはずだった。すでに、独善的な行動が反感を買っていたかもしれない。現実社会で好かれない男はこの世界でも嫌われ、避けられるのだ。
大輔は脱退する旨を書き込んだのちに、有名な挿話をもじって、次のようなことを書き残していた。
蠍が川を渡ろうとしているが、蠍は泳ぐことができない。
それで、蛙に川の向こう側に渡してくれるよう頼んだ。
蛙は、君は僕のことを刺すからイヤだという。
蠍はそんなことはないと尾を振る。僕が君を刺してしまったら、誰が川を渡らせてくれるのだという。
蛙は納得し、蠍を背中に乗せて川を渡り始める。
蠍と蛙はそこではじめて個人的な会話をする。どこで生まれたのかとか。暇なことは何をしているのかとか。そういうことを。
蛙はそこで、蠍も自分と大して変わらないのだと思う。花を美しく感じ、ときおり、親を恋しく思う。寒い冬を厭い、春を待ち望む。蛙は今まで遠くに感じていた蠍を身近な存在に感じる。いたずらにおびえるのではなく、もっと早く、会話を交わすべきだったと後悔する。
川を渡りきろうとするそのときに、蛙は痛みを覚える。痛みははじめは鋭く小さいが、やがて、感じたことないような、からだの水分がすべて蒸発していくような恐怖が全身に回り行く。
薄れる意識の中で、なんで? と蛙は蠍に聞く。
だって、ここはネットの世界で、俺は相沢商業二組三番・井原大輔だぜと蠍は答える。
三十一 PCディスプレイ 15.6インチ部分
九月二四日、土曜日の静かな朝であった。大輔はSLAの外務次官の「こびと」に降伏の条件について交渉したいとメッセージを送った。「こびと」は条件などない。無条件降伏のみだとすぐに返信をしてきた。だったら、俺は自分の町を空にしてでも、おまえを攻めるぞ。俺がいくつの城を持っているのか知っているのか? と大輔はメッセージを返した。こびとは本部に聞いてみると言った。その隙に大輔はボルボパパの残りの町をすべて落とした。ボルボパパは援軍を求め、実際にSLAの幾人の同盟員から応援が送られてきたが、それらもすべて撃破した。ボルボパパに援軍を出したSLAの同盟員の町もいくつか占拠した。長い間侵略から免れていたSLAの豊かな町から新たに兵を徴兵し、大輔は戦争前よりも兵力を増やしていた。巨人になってマップを上から見下ろすような感覚は冴える一方だった。巨大な大輔には、SLAの怯えや、弱気と言い逃れが広がっていく様が手に取れるかのようだった。すでにボルボパパはこの世界から駆逐され、SLAは戦う理由を失っていた。こびとを通じて、ともかく、つぎにはじめに攻めてきた奴に全戦力を注ぎ滅ぼすと脅してあった。今日を入れてあと六日でこの世界サーバー2は消失する。いなくなった者のために、町を百近く持つ男に戦争をしかける人間はいないはずであった。ボルボパパなんて名乗ってしまうような奴が同盟内で強く愛されていたとも思えなかった。この世界は車も家庭も持てないもののためにあるのだ。
ただ、残念ながら、ボルボパパが幸運を背後で操っているとの見立ては誤りだったと認めざるをえなくなっていた。ボルボパパの最後の町が落とされそうとしているその時も幸運はいっさい援護をする動きをみせなかった。それどころか、ボルボパパのいくつかの町を火事場泥棒のように奪いとることさえやってみせた。
悪いことをしたと思いはするものの、大輔に後悔はなかった。大輔にとって、結局は、ボルボパパははじめから最後まで気に食わない奴であり、幸運の首謀者でなかったとしても敵でしかなかった。その相手を駆逐した勝利の高揚感のほうが優っていた。すべてを賭けたこの戦いの相手として、力不足であったことが腹立たしいぐらいとさえ思っていた。大輔は戦争に酔いしれている。すでに、ロトのことも、スーパーマーケットの店長のことも、検索することはなくなっていた。
大輔は、SLAのうち、支配する町が少ない者から順繰りに、刈りとるように攻撃をしかけた。はじめは町を一つしか持たない者、つぎは二つ持つもの、三つ、四つと法則性がわかるように派兵を行った。この方法であれば、上位者からの派兵を避けることができた。順番を飛ばして自分自身が百の町を持つ大輔から狙われる可能性があるのに、軍を出す上位者はいなかった。
この作戦は自分にしか思いつかなかっただろうと大輔は思う。。本当の意味で人間に対する絶望体験を持たなければ考えつかない。ひきこもりにも無理な話しだ。彼らはネットに愛を求めている。現実社会とネットの両方で戦ってきた人間にしか見えないものがあるのだ。
玄関のドアを叩く音がした。新聞の勧誘だろうと大輔は玄関に視線をやりもしない。
ドアと叩く音とともにダイスケ、ダイスケと名を呼ぶ声が響く。大輔はマウスの手をとめる。それから、机を叩く。一度、二度。なんでだよ。とうめき声をあげる。
大輔は私の前から動こうとはしなかった。覚悟を決めたような顔をし、相手の町までのマス目を数えて、例のサイトで到着時間を計算している。ドアを叩いていた人間は通路側の窓をこじ開けようとしている。とつぜん、大輔のスマートフォンが光る。大輔が手を伸ばす前に机の上でスマートフォンは音を立てて振動する。あんた、いるんでしょう! 女の半狂乱の声が耳をついた。大輔は両腕をあげた。うっせえな。と外に向かって声を張る。巫山戯るな。これで、戦争に負けたら、あいつのせいだ。俺はあいつを許さない。いつもあいつが邪魔をする。あれで本当に親なのか?
大輔は私の電源をきった。
三十二 スマホ 3.7インチ部分
「おまえ、金を送れ。金がない。はやく送れってメールばかりで、理由を聞いてもなんの返事もしてこないし、いったい、どういうつもりなんだよ」
「なあ、聞いているんだよ。親が聞いているんだ。答えろよ」
部屋に上がるなり、美希は大声をだして、手にしていたベットボトルのお茶をのどに流した。ベットボトルのお茶なんてお金の無駄遣いの最たるものだと日頃から言っていた美希は髪を脱色し、凹凸が目立つ肌の上に塗られる化粧も濃くなっている。襟元に切れ目がはいり、ブランド名が胸に大きくプリントされているTシャツは大輔の目からみてもセンスがない。かつて、大輔くんのお母さんは着るものが若いねと近所の人に言われたことがあった。あれは決して褒められたのではなく、馬鹿にされていたのだと今になって思い知る。自分はなんと人のよい子どもだったのだろうと大輔は思った。
母親が窓を開けて、手を盛んに仰いで空気を入れ替えようとするが、建物に挟まれたアパートではどうにもならない。腹立ちげに、布団を足でどこかすさまを目の当たりにしながら、大輔の脳裏を楽しかった小学校の修学旅行のことが走りゆく。あの旅行では、大輔が退屈を紛らわすために京都の天龍寺か竜安寺かの池に石を投げ入れたのが、クラスメートたちの興味を惹き、珍しく輪の中に入れてもらい、皆で池という池に石を投げては笑い転げていた。奈良を訪れたあたりで、同級生や先生のリュックサックに河原や神社の石を密かに入れて運ばせることがはじまり、大輔も途中で、誰かにリュックサックに石を忍ばされていたのがわかっていたがそ知らぬ顔をし、家まで持って帰って、旅の思い出として残そうと机の上に鎮座させた。旅行が終わったのちは、元のとおりに一人に戻った。やはり俺はかわいそうな子だったんだと大輔はいま、あらためて思った。くさい、くさいと母親は玄関のドアを大きく開け閉めして、空気を入れ替えようとするが、トアが軋みを立てるだけであった。指を挟み、「おまえ、ふざげるなよ」と怒りを大輔に向ける。大輔はその姿に自分をみとめる。俺たち親子はかわいそうな存在だ。面白みも可愛げもなく、ただ無様で物悲しい。
「あんた、悪い遊びでも覚えたんじゃないの。学生がどうして、そんなにお金がいるのよ」
「普通は仕送りするもんだろう。無理なんだよ。生活費を自分で稼ぎながら、大学に行くなんて」
「学費は出してあげたでしょう。生活費を自分で稼ぐって言ったのはあなたじゃない。男なら、発言に責任を持ちなさいよ。新聞配ったりして、お金を稼いで大学にかよっている子もいっぱいいるでしょう。そんなにいい電話持って、無駄遣いをしているんじゃないの?
だいたい、今日は学校じゃない? 学校はどうしたの?」
「毎日、大学に行く大学生なんていねえって」
大輔は母親に構わず私からこの世界にログインする。掃討戦の再開を大輔は望んでいた。五つの町を支配している者どもを駆逐しなければならない。彼らを恐怖にしばりつけておく必要がある。六つ、七つとレベルを上げていき、SLAを恐怖で縛り付けながら、彼らのすべてを撃破するには時間がいくらあっても足りない。サーバー2はもう少しで閉鎖されてしまうのだ。
「で、何しにきたんだよ?」
大輔がそう訊くと、美希は急に勝ち誇ったような顔をする。大輔が部屋にいたうえに、何らの悪事の証拠も抑えることができずに肩透かしをくらった美希が表情を明るくする。嫌な奴だと大輔はあらためて思った。誰かが誤って、自分が正しいという貴重な機会が、嬉しくて仕方がないのだ。美希は笑ってさえいた。
美希は芝居がかった声で、「あのね、パパが昨日死んだんだよ。知っていた?」と言った。
三十三 スマホ 3.7インチ部分
美希と一緒に駅まで行き、ホームで電車を待った。昔住んでいたところに、このあたりは似ているわと美希は変に明るい声でいい放った。大輔は母親から、若いころの一時期、横浜に住んでいて、パン屋で働いていたと聞いていた。実際のところ、彼女もおそらく、横浜とは名ばかりの、市の中心部から離れた郊外の小さな町に住んでいたのだろうと大輔は思った。そして、朝がともかく早い生活から抜け出したくて、中古のベンツに乗っていた和哉と知り合い、結婚した。ベンツもピンきりで、中古ならば軽自動車よりも安く仕入れられることを美希は知らずにいた。よりによって、言い寄ってきた男のなかで、一番、貧乏な奴と結婚したと美希はよく嘆いていたが、自分の母親がどれほどの選択肢がありえたのか、今の大輔にはよくわかる。
大輔は私からこの世界にログインする。あんた、喪服ってあったっけ? 高校の時の制服じゃ変かなと美希が話している。「変だろう」とこの世界に目を向けながら、大輔は答える。「だったら、パパのかな。あんた、パパよりも小さいけれど、つめればいいか」。光の当たり加減で、私のディスプレイが大輔自身を映し出す。大輔は、血のつながった父親の死について、まるで悲しんでいない自分自身と対峙する。昼も夜もない生活を送ってきて、脳の働きがおかしくなってしまったのか、または、あまりの事実に、心が自己防衛のために、固まってしまっているのかとも考えるが、その余裕がそもそも、心が痛んでいない証左にも思えた。それどころか、大輔は、これから葬式で、親戚や和哉の知人などと顔をあわせる気苦労の方に気が滅入っていた。スーツの丈をどうにかつめようとする美希との現実的なやりとりを厭わっていた。決して、尊敬すべき立派な人間ではなかったが、和哉は殴る蹴る、生活費を遣い込むといった悪逆非道を行った人間でもないはずだった。今日まで育ててくれた、愛すべきところも備え持った、たった一人の父親のはずだった。
大輔は影の中に入る。私の液晶をようやく見ることができる。大輔が派遣してあった部隊が五つの町をもつSLAのメンバーを何人か駆逐するのに成功している。大輔は即座にその町で徴兵を行う。
「あんた、パパに最後に会ったのはいつだった?」
と美希がきいている。
「地震のあとで、実家に行っていたときかな」
「行っていたって。あんた」
大輔は私から目を上げて、美希を顔をあわせる。お互いに何かを口に出そうとする。親子は違和感だけを共有している。この感じがなぜ生じるのか、別のところに住んでいるせいであるのか、父親が死んだからなのか、互いに相手に答えを見いだせずにいる。
電車が知らぬ間にホームに滑りこんでいた。
各駅停車であるその電車に美希は乗ろうとする。次の急行の方が早く着くと大輔は口にした。美希はそうねとわかったような返事をした。
大輔は私を見ることをやめ、ホームの乗客に向けて立つ看板に視線をやる。不動産屋とビールの看板のあいだに視線を投げかけながら、和哉とのよい思い出を探っている。釣りやキャッチボール、キャンプといった世間では男親が息子に教えるとされているものについて、和哉はときおり、思いついたように大輔と試みようとした。たいていのものが世間並みにできない和哉が同じ血を受けた大輔にものを仕込もうとしても、教師が三流であれば、生徒も三流であり、おまけに釣り竿、グローブ、テントといった用具も粗悪なしろものばかりのために、無様な結果となるのが常であった。釣り針は自転車のサドルに刺さって抜けなくなり、軟球は叢に消えた。周囲にいた慣れた人間たちが助け舟を出してくれるときがあり、そういう時の和哉は相手が息子に近い年齢の若者であっても、徹底した低姿勢で、代わりの釣り針などを分けてもらえるようなことになればヨダレでも垂らすんじゃないかと疑うほど、感謝の言葉を並べたのを大輔は思い出していた。大輔はそういう和哉を恥じていた。まだ幼い頃から恥じていた。無能も、それゆえの貧乏も、救いがなかった。だから、家の中でテレビでも見ていればよかったのだといつも後悔した。
大輔が大学に行くことに決まったときも、和哉は入学金と授業料の心配ばかりしていて、祝いの言葉をいっさい口にしなかった。
良い思い出を求めたはずなのに、無残な過去ばかりが表出する。生まれてから、なにもうまくいかなかったくせに、病気は何とかなるだろうと勝手に思い込み、ポテトチップとカップ麺の食べすぎで、あっけなく死んだ敗残者。
美希は携帯電話を操作し、病院のベッドで漫画を読む和哉の写真を探し当てると、それを大輔に見るようにせまった。大輔は父親の写真と対峙し、黙ってうなずく。ああ、父親が漫画を読んでいるとの感想以上のものをどうしても持てない。
「この漫画、あんたが前に置いていったやつだよ。大輔が面白いって言っていたから読んでみるかって、パパ、これを読んでいるの」
「別に俺はそれを面白いって言ったわけじゃない。暇だったし、ブックオフで安かったら、買っただけだ」
ぶつぶつという大輔を前にして、美希がやにわにホームの上でしゃがみこんだ。
「ねえ、パパが死んじゃったんだよ? わかってる? ダイスケ、あんた、本当にわかっているの? なんで、そんな平気なのよ」
大輔はその言葉に応えることができなかった。泣くことも、そうしない理由を語ることもできなかった。何も変わらない空気の中で、立ち上がることもできず、美希は蹲ったままでいる。その姿を見ているうちに、大輔はますます、どうとでもよい気分が募っていく。美希の視線がないことをいいことに、大輔は私からこの世界にログインする。己の兵隊順調にSLAの町を落としていることに満足する。
三十四 ノートPC 15.7インチ部分
大輔は私から「この世界」と名付けられたゲームに関する設定を行う。
「いまどき、ウィンドウズ2000かよ」
と口にして、ペットボトルの空き容器に入れられた水道水を呑む。こぼれた水がTシャツに垂れていく。ふいに立ち上がると、エアコンのリモコンを探しだして、電源をつける。エアコンから吹き出す冷たい風を全身で浴びてから、よっしゃと叫び、私の前に腰を下ろす。
三十五 スマホ 3.7インチ部分
美希には大学に寄って忌引の申請をしてから行くと嘘をついた。また、交通費を貸してくれと頼み一万円をもらい受けてもいた。新宿から宇都宮湘南新宿ラインに乗る美希を見送ったのち、私で検索をかけ、宿泊費も安く、清潔でエアコンディショナーもついている飯田橋のビジネスホテルに逃げ込んだ。
通称ハローワーク通りに面するこのホテルは、一泊税込みで四、三一五円で泊まれるが、一日五百円のPCレンタル料を合わせると美希からもらった一万円では二泊分の前払いしかできなかった。二日後の九月二八日のチェックアウト時間午前十時には部屋を出て行かねばならない。いちおうは田舎に帰る準備はしてあったので、着替え等は持っていたが、ここを出ても、行き場がなかった。すでにアパートは安全な場所ではなかった。和哉の通夜は明日二七日で、葬式は明後日の二八日となると聞いていた。たやすく激情する美希は「ごめん、どうしても、行けない。俺には他にやるべきことがある。すべてが終わったら、きちんと話す」と書かれた息子からのメールに今頃、我を忘れるほど怒りに駆られているはずだった。美希の電話番号は着信拒否の設定にしておいた。知らぬ番号からの電話にはいっさいでないつもりだった。それでも、美希が誰かを部屋にやって、大輔を連れ戻そうとするかもしれないし、下手をすれば葬式を擲ってでも、自ら大輔の部屋に再度押しかけることもありえた。まだ幼稚園生のころに、隣家に遊びに行って、バナナのにおいつき消しゴムをくすねてきたときは、お母さん恥をかかされたといって、五十円のその消しゴムを十個買ってもたされたうえに、玄関で頭を地面につけた土下座を長々とさせられたのを大輔は忘れていなかった。
友達がいないというのは、こういうときに困るのだと大輔はつくづく思った。友達がいれば、その家に転がり込むことができた。金だって借りられた。三月の地震のあとは、あれほど人とのつながりを持つことを希っていたことをすっかり忘れてしまっていた。この戦争が終わったら、友達を作ろうと決意を新たにした。大学でも新しいアルバイト先でもいい。あと四日間を戦い抜いたら、以前とはまったく違った人間になっていることに疑いは抱かなかった。他人に何かしらの敬意を抱かれる人間になっているはずであった。親の死さえも顧みずに、自分の生き方を賭けて戦うことを経験した奴はそうはいない。笑いものになることを拒む、使い勝手のない男から、おのずと自分は脱却しているはずだった。アニメもアイドルも興味がないと答えても、うそをついているだけなんて思われはしない。空間の無駄だなどと罵られたりもしない。
友だちができれば、ロトも手出しはできなくなる。少しでも多くの者から好かれたいあいつは、仲間がいる者を襲わない。輪の中心にいる俺にすり寄ることさえするだろう。
大輔は小さな机の前に座り、ノートPCの画面を凝視している。画面には無数の警告が表示されていた。大輔の支配下にある多くの町が攻撃を受けていた。大輔は息を呑んだ。立ち上がり、ホテルの部屋の中を歩きまわる。私を手にして、誰かに連絡をとろうとする。急にその手をとめ、ベッドに私を置いて、机に戻る。やはり、名に見覚えのない数多の敵が、画面をいくらスクロールしても読みきれないほどの数の者が大輔の町に襲いかかっている。
彼らの名前をクリックしなくとも、その無茶苦茶なやり方と、くだらないプレイヤー名のせいで敵の正体はすでに見当がついていた。幸運だった。やつらが最後に大輔をターゲットにした。幸運は、すでにいくつかの町を奪い取っていた。
最悪のときに最悪の敵が現れた。大輔は笑いたい気分だった。悪いときにさらに悪いことが起こるのがこれまでの人生であったから、こうなる予測はある程度はしていた。だが、実際に直面するともはや笑うほかないようでもあった。
大輔は私を手にした。呼び出し音を聞きながら、ずっと前に自分はこうするべきだったと後悔する。
篠崎が電話にでるやいなや「金が必要だ。今すぐに」と大輔はぶちまけた。なにが起きた?!と篠崎が聞いている。「兵隊が必要なんだ。この世界の全員をすべて征服できるほどの兵隊が必要だ」ディスプレイをみながら、大輔はそうひとりごちた。
三十六 スマホ 3.7インチ部分
交渉する時間などないので、言い値で売るか売らないかを決めると大輔は言った。十分待てと篠崎は答え、電話を切った。
大輔はPCでこの世界のマップを開きながら、何が起きているのか知ろうとする。幸運はホワイト・ライオットではなく、大輔のみを標的にしているようであった。今さら、なぜ、大輔を標的にするかについて、幸運は何も語らない。ただ、大輔は見に覚えがないわけではない。和哉が死んだと知る前に、この世界のプレイヤーが集まる掲示板で相沢商業二組三番と名を明かしたうえで、幸運に対して挑発を行っていた。「お前らの名前が気に障る。だったら、現実社会で今すぐ、死ねや」。「いつでも相手にしてやる。攻めてこいよ」。あの書き込みを幸運のしかるべき人物が見て、殺すリストの上位に再び名前が掲載されたのだ。
今はやられるがままのSLAも大輔が幸運とも事を構えると知れば、攻勢に転じる可能性があった。大輔もさすがにSLAと幸運を共に敵とする無謀はわかっていた。だが、むしろ、終わりに向かう中で、あらゆることがおざなりになりつつあるこの世界では、利用できる面もあるようにも思えてきた。たとえば、大輔の町だと思い込み、SLAがすでに幸運に占領された町を攻め込むようなことがあれば、両者のあいだで突発的に戦争となりえた。大輔にとって、これほど望ましいことはなかったし、このことを思いついた自分の戦士の感覚はますます研ぎ澄まされているように思えた。
そこで思い切って、SLAから奪った豊かな町を打ち捨てることにした。実質的にあと三日と数時間でこれらの町から徴収できるプラグはたかがしれていた。それよりも、無人とした町で、SLAと幸運が潰し合うことに賭けた。
戦いの根拠地として大輔はふたたびホワイト・ライオットが陣取る中央砂漠に舞い戻ることにした。内規違反を犯し、ホワイト・ライオットを辞めた身ではあるが、知った者と背中をあわせる安心感は他では得られなかった。そもそも、ホワイト・ライオットを辞めたのは対SLA戦に同盟員たちを巻き込みたくはなかったからであって、大輔が一人でかたをつけたといってもいい今となっては、内規違反は実質上帳消しになったとも考えていた。幸運に多少の町を奪われたものの、脱退したころにくらべて、大輔の勢力は二倍近くに膨らんでいた。ランキングの更新はひと月前から停止されていたが個人プレイヤーとして、トップ十以内にも入っているはずであった。大輔は、中学生の時に受けたキャリア設計の授業で、篠原の未来は傘オジサンだと担任に言われ、同級生たち皆から笑われたことがあった。傘オジサンとは中学校の前のスーパーで、濡れた傘を入れるビニール袋を膨らませては振り回すのを日常にしている男だった。気の触れた男になるとみられていた自分であったが、機会と場所さえ与えられれば、こうしてそれなりのことを成し遂げられる。父親の死を顧みることなく戦い続けることで、殻を破り、壁を壊しつつある。
気分が高まるばかりの大輔は緊急との件名で、脱退以来、ハナゲバラにはじめてメールを送った。SLAとの抗争を生き残り、今はまた幸運と戦っていることを伝えた。幸運がホワイト・ライオットと再びことを構える気配がないかを尋ね、いつでも援助する用意はできていると申し出た。一緒に戦ってくれそうな友好同盟に心当たりがないか聞き、さらに、願わくば、ホワイト・ライオットとも不戦条約の締結を望むことも書いた。脱退の際に友よで始まる長いメールを送ってあったが、あれから、ハナゲバラからの返信はいっさい届いていなかった。
大輔は自分の父親がハナゲバラではないかとやにわに夢想する。父と子が知らぬ間に共闘していたとすれば、美しい話であったが、それはありえないことだというのを大輔自身がよく知っていた。和哉はせいぜいゲームボーイぐらいしかできやしない。あれほどの統率力も人間的魅力も備わってはいなかった。
約束の十分を過ぎても篠崎から電話はかかってこなかった。幸運がいくつか大輔の町を奪っていったが、大輔はそれをただ見ていることしかできなかった。
一時間近く待たされて、ようやく私が振動した。五十万だと篠崎は告げた。
「それ以上は出せない。ほかなら、もっと高く買うかもしれない。だが、明日になったら、おまえの番号を欲している車のディーラーが死ぬかもしれない。そうなると、この話はなくなってしまう。ただの電話番号が五十万円だ。悪い話じゃないだろう」
「売るよ。交渉はしないっていっただろう。五十万円もあれば十分だ」
「いい決断だ。後から振り返って、きっと自分の決断に感謝するだろう」
「具体的にはどうすればいい?」
「手続きがいくつかある。免許証は持っているか? 原付きでもいい。よし。それと印鑑は? まあ、井原なんて名前ならそこらで売っているな。こっちの人間に用意させて、持っていかせるよ。あとはいくつかこちらが用意した書類にサインをすればすむ話だ。たぶん、おまえが思っているよりも、ずっと簡単に済む」
大輔は篠崎の代理人と飯田橋駅で待ち合わせることになった。彼女が持参する契約書に記入をし、一緒にキャリアーの支店に行き譲渡届けを提出して、金を受け取るまでの流れについて篠崎はくどくどと説明を繰り返した。その間、大輔の目と意識はノートPCのディスプレイに向かっていた。篠崎とのやりとりをあざ笑うかのように幸運が大輔の出立の地である北西地区の町々を襲っていた。長い善政とその後の圧政で荒れ果てた、思い出深き町々であった。大輔は町の住民たちの嘆きの声を聞く。なんとしても、幸運に灰化されてしまう前に、これらの町々を取り戻さなければならない。
「五十万円を全部、プラグにかえて、兵隊にするつもりか?」
と篠原が聞いていた。
「ああ。それがどうした?」
「サーバー2は終わるんだろう? なんで、今さら、そんなに兵隊が必要になるんだ? この世界は最近やっていないんだけど、何か仕様が変わって、面白くなったのか」
「やめた奴には何も言いたくはない。言ったところで、しょせん、わからない。やめたような奴には何もわからない」
そうか。まあ、がんばれよ。相棒! 篠崎はそう言い、電話を切る。小馬鹿にしたような篠原の口調が大輔の気に障った。大輔は再度、私から篠原に電話をかける。だが、篠原はいつまでたっても電話に出ない。大輔はPC画面を見遣る。幸運が大輔の町に群がっている。もはや、篠崎を相手にしている時間はない。大輔は電話を切り、ホテルの部屋を出た。
三十七 スマホ 3.7インチ部分
斉藤と名乗った篠原の代理人は肌の白い若い女だった。
「こんなに綺麗な人が来るとは思わなかった」
気持が上ずっているのか、大輔は普段であれば、絶対に口にしないような軽口を叩いてみせた。斉藤は気味悪がることなく、微笑みさえしたので、大輔はますます調子にのり、下の名前は何だとか、女性の年齢を尋ねるのは失礼だと思うけど、年上ですよね? 僕ですが、現役で入った大学二年生ですなどとしつこく話しかけている。
注意深くみれば、斉藤の笑いには冷ややかなものがあったし、着ているスーツはサイズが大きすぎて明らかに借り物だった。ピアスの穴も片耳だけで、五個も六個も開いていて、普段はまるで違う服装をしていることが見て取れたはずだが、大輔はそれを気色どることができない。
午後二時の窓口は混み合っていたが、番号の名義書き換えは別の窓口のために、並ぶことなく受け付けられた。予め齋藤が用意してあった書類を提出し、追加で大輔の原付き自動車の運転免許証と学生証を窓口の係員に渡してコピーをとらせるだけで、手続きはいとも簡単に終わった。斉藤は大輔に番号の売買についてキャリアーの係員には話さないようきつく言い含めてあったが、若い女の店員からはなんらの質問も出てはこなかった。
キャリアーの店舗を出たところで斉藤は学生証のコピーを一枚取らせてくれといってきた。大輔はなんでですか? というが、斉藤は顔をしかめ、電話で話しただけの相手にポンと五十万円を渡すと思う? 身分証のコピーぐらい取らせてという。
大輔は歩道の上で、財布の中から学生証を取り出して、斉藤にみせた。斉藤はカバンの中からリストを手にして、学生証とつきあわせている。何度も確認したのちに、斉藤は「この大学、本当にあるの?」と訊く。大輔は顔を赤らめ、ありますよ。駅伝大会だって出てるでしょうと答える。通行人が自分のことを振り返っているように感じる。
斉藤はどこかに電話をかけに行く。その間、大輔は路上で待たされる。私からこの世界にログインしようとするが回線はすでに切り替わっていた。公衆無線をひろおうとするうちに、斉藤が戻ってくる。
「あのねえ、やっぱり、ダメだって。国際学生カードを取ってきてもらっていい? 私も行くからさあ」
斉藤はそういうと、大輔の手を握って歩きだす。「こっち、こっち。こっちだよ。あっ、そうだ。ガムあげるね」。斉藤は急に華やいだ声を出す。大輔は突然のことに戸惑う。斉藤の変わりかたや、女に手を握られていることに即座に対応できなかった。赤い顔をして、ただ、斉藤に連れられるがままになっている。斉藤が女に不慣れな自分を陥れようとしているのはわかっているつもりであった。国際学生カードなど訊いたこともなかった。ただ、億分の一であっても、国際学生証は単なる手続きであって、手を握っているのももっぱら自分に親しみをもっているだけという可能性もあった。その可能性を考えると、大輔は何もできなかった。
外堀通り沿いの古い雑居ビルの中に大輔の手を引っ張るようにして斉藤は入っていく。狭いエレベータの中で斉藤は「ラブホのエレベーターみたいだね」と笑う。ラブホテルに行ったことなどない大輔は何もいわずに汗をかく。手のひらの汗が気にかかる。
エレーベータは五階に止まった。どっちっだっけな? と斉藤は廊下を歩いて行く。法律事務所、会計事務所などの表札がドアにかかっている。斉藤が立ち止まったドアには、ISU(国際学生会館)とある。斉藤は手を握ったまま、大輔をその部屋に引き入れる。
部屋には眼鏡をかけた中年の女性が奥でパソコンのディスプレイをみている。大輔達に気がつくと、カウンターまで来て「御用はなんでしょう?」と訊く。斉藤は国際学生カードの作成を依頼する。
「ほら、学生証をみせて」
と斉藤は大輔に促す。大輔は学生証を中年の女性に渡す。中年の女性はそれと引き換えに申請書とその書き方を記した用紙を渡してくる。さっさと書いちゃいなよ。そのあと、お茶でもしようよと斉藤は大輔の耳元で囁いた。
歩道の上で、大輔は斉藤から金の入った紙袋を渡された。数えるかと訊かれたので、いや、信用すると答えた。「あとでないって言ってもだめよ」と斉藤は言った。大輔は頷き、無造作にポケットに入れた。五十万円の入った封筒は意外なほどに薄く、軽かった。大輔は斉藤に金に困っているように思われたくはなかった。切羽詰まっての行いではなく、五十万円の札束などいつも扱いなれていて、どうとでもいいと思っているように振る舞いたかった。
国際学生カードが実際に発行されるのは二週間後であった。大輔は国際学生カードの受取証を斉藤にあずけた。斉藤は国際学生証のコピーをとったのちに自宅に送ってくれるというが約束は果たされるだろうか。国際学生カードがいったい、どんな代物であり、どんな悪用の方法があるのか、見当もつかない。大輔は斉藤をみる。悪い奴には見えない。理由はなかった。ただの直感であった。
「お茶はどうします?」
と大輔は斉藤にいう。あそこにしない。わたし、慣れないヒールでもう足が痛くてと斉藤は駅に併設されている小さなコーヒースタンドを指さした。二人は連れ立って歩いて行く。大輔はもう少し、食事ができるような場所がいいのではないかと思い始めていた。これから向かう先では斉藤と並んで座ることができるかも怪しい。制服を着た小学生たちが改札から出てくる。突然、斉藤は腹を抑える。どうしたの? と大輔は慌てる。
「あたし、昨日、子どもを堕ろしたのよ。ちょっとお腹が痛くなっちゃった」
「えっ?」
「帰っていい?」
と斉藤は下から大輔を見上げる。大輔はかすかにうなずく。口を開きかけるが、斉藤と目があったままであったので、臆する。
「じゃあね」
斉藤は自動改札を駆けぬけていく。大輔はあっと声にならない声をあげ、手を伸ばして引きとめようとするが、斉藤はホームに早々と降りて、その姿を消し去る。黄色い帽子をかぶった小学生の集団が次々と自動改札を出てくる。大輔は誰に向けるわけでもなく「まったく、いっつもせっかちなんだからな」とひとりごち、親しい友人を見送るような態をとりつくろう。それから、回線がつながらなくなった私をじっとみる。
三十八 スマホ 3.7インチ部分
大輔は外堀通りを飯田橋のビジネスホテルまで歩いていく。ときおり、怒りがぶり返すのか、ぶつぶつと文句を漏らして、見えない傘を振り回すが、立ち止まったり、引き返して斉藤を探しだそうとはしない。ポケットの中の札束をかたく握りしめ、先を急いでいる。斉藤との経緯を即座に忘れられたわけではなかったが、五十万円を持って外を歩いているという事実の方に大輔は次第に怯えはじめていた。落としたり、奪われたりすることは絶対に避けなければならなかった。
大輔は、さっさと四十万円をネットマネーに換えてしまうことにした。残りの十万円は今日を含めた四日の生活費と、ビジネスホテルで借りたノートパソコンの補償費に充てるつもりだった。フロントでノートパソコンを借り受けた際に、壊した場合一律五万円を貰い受けると言い渡されたときから、どういうわけか自分が最後にこのノートパソコンを床に投げつけ、踏みつける姿が頭から離れなかった。最後に待っているのが勝利であろうと敗北であろうと、割れたディスプレイに向けて吠える己の姿ははっきりと具体性を帯びており、実現しなければならない決められた未来の一場面のように思えた。
四十万円をウェブマネーに換えるために、大輔はコンビニエンスストアを回っていった。端末機を使うとはいえ、最後はレジフロントで現金を支払わなければならず、一度で四十万円を封筒から出すのは憚れた。それで、一軒につき、五万円の金額に抑えて、目に付くコンビニエンスストアを二軒訪ねていくが、いずれの店員も驚く様子をみせなかった。それで、三軒目で三十万円分を一気に換金した。申し込まれたアルバイトは一度、バックヤードに戻り、そこで小さな笑い声が響いているのを大輔は気がついた。どうせ、オタクが馬鹿なことをしているとでも話しているのだ。人がこれから、大きな何事かをなそうとしているときに、どうして、現実社会ではこうも具体的な行為が必要となるのかとげんなりした。子を堕ろしたとまで言って、逃げていった斉藤の姿が目の前にちらつく。大輔はすべて笑いたくなってくる。どいつもこいつも大馬鹿で、クズだ。ものごとの本当のことを知らない。誤った材料で誤った判断ばかりしている。
大輔はホテルのフロントで二泊の延泊の申し出た。アトピーをこじらせたフロント係りははっきりと不審な顔をしていたが、大輔はそれも無視した。
階段を昇っていく途上にあった消火器が視界に入った。かつて、これで人を殺した男の話を聞いた気がするが、どこであったかを思い出せなかった。それに付随して大きな欠落が生じているはずだったが、構わなかった。階段を昇るごとに背中にあったはずの現実が崩れ落ちていっているのを感じた。もう、後戻りはできなかった。戻る先はなかった。
三十九 ノートPC 15.7インチ部分
大輔はウエブマネーで、元治安部隊を十五万人徴兵した。一定額以上の金銭を使用する場合、考えなおすように警告が発せられると聞いていたが、何のアナウンスも出てはこなかった。サーバー2の住民への贖罪のつもりであるのか、運営会社はサーバー2限定で、プラグの単価を大幅に値下げしており、想定以上の数の兵隊を徴兵することができた。
二十数名がかかわったホワイト・ライオット最大の共同作戦においてでさえ、市民兵を含めて五万程度の兵隊を動員するのがやっとであった。それが今では、元治安部隊だけで二十万人を超える大部隊を大輔は一人で動かしている。大輔の気分は否が応でも高ぶった。
大輔がこの世界から離れている間に、幸運は抜け目なく多くの町を奪っていた。攻撃側に回れば力を発揮するが、守備にまわると戦闘力が下がる元治安部隊ばかりを徴兵していたために、受身に回ると戦況が格段に不利となった。奪われた町の半分ほどがすでに灰化されてしまっている。大輔がこの世界にはじめて与えられた町も灰化されてしまった。中央砂漠の根拠地に兵隊をすべて移す作戦ではあったので、他人のものになる覚悟はしていたはずだったが、やはり諦めきれないものが残った。和哉が死ななければ、美希が部屋に殴りこんでもこずに、「空白の五時間」は生じなかった。あのまま、臆病ものどもを一人ずつ刈り取って、ひとりでSLAを倒すことさえなしえたのだ。運命を呪っても何も始まらないことは理解していた。だが、やはり、己の生まれ持ったものを大輔は思わざるをえなかった。自分は、どうしたって、苦労するように生まれてきた。一歩先には自分を起因しない闇が常に待っている。それが萎縮を生む。
この世界のマップを見渡し、ここ数日で灰化された町が急激に増加していることに大輔は気がついた。すでに、この世界の三分の一は灰化されているようだった。
いよいよ終局が近づいている世界において、大輔は、まず、己の軍を再編成することにした。北西地区の町は取り戻すことを諦めた。北西地区は、中央砂漠から兵を繰り出すにはあまりに遠い。南の隠れ砦は維持しつつ、中央砂漠のひとつの町を攻撃の根拠地に定めた。結果的に中央砂漠のひとつの町にとんでもない数の兵隊が駐留することとなった。大輔は、砂漠にある小さな町の住民の気持ちを慮った。一方的に軍事基地にされた、彼らは怯えているのだろうか。それとも、噂で聞く幸運の灰化運動から守っているものとして、多くの兵の駐留を歓迎しているのだろうか。
軍の再編成を終えると、十以上の町を持ちながら、灰化していない「幸運」の姿を大輔は追い求めた。その目は鋭く、力が宿っていた。いまや、大輔はこの世界と完全に同化している。神のように巨大な姿をして、上から見下ろすのではなく、この世界の町中に己の姿を観ていた。ボロ布のようなデザート柄の迷彩服を着こみ、テントの中でひとりで地図を広げて敵を求めている。ホテルの机の上に置かれた水道水の入ったコップが、砂でざらつく机の上にも置かれてあった。ときおり現れる報告者以外、誰もテントには立ち入ろうとはしない。古参の参謀や上官たちは何もかも知っていた。司令官が父親を亡くしたことも、その死さえも、結局は司令官の決意を揺るがせなかったことを。あとは、司令官のあらたな命令をテントの外で静かに待つのみだ。南の隠れ砦や、北西の湿潤地帯から集められた彼らは疲弊しているが、その目は死んではいなかった。数多の町を占領し、いくつもの戦いを戦い抜いてきた自分たちの王が復讐戦をはじめるのを待ち焦がれていた。大輔はビジネスホテルのドアの外に視線をやる。
待っていろ。もうすぐだ。
次に俺がクリックをするとき。そのとき、かつて誰もみたことがない戦争がはじまる。
四十 ノートPC 15.7インチ部分
友よ。返事が遅れて、ごめん。
実はこの夏、体調を崩していて、入院をしていたんだ。
高齢の母親が化学的に無理やり妊娠して生まれたボクは生まれついて、からだのあちらこちらに不備がある。血管一つとってみても、あるべき路線がなかったり、欠けていたり、過剰だったりとひどいもんだ。体調を崩すことは珍しくもなんともない。
ボクの人生の中での病院は、プロ投手のローテショーン投手にとってのマウンドぐらいに馴染みのあるものなんだけども、やっぱり、好きになれる場所ではない。ボクとおなじように幼少のころから、入退院を繰り返す人間の中には病院内で仲のよい、医師や看護婦が多くいて、居場所をきちんと造る奴もいる。だが、ボクはそれができない。気分の悪さや痛みを隠すつもりもない。運命は素直にひたすら呪うだけで、健気に頑張る素振りもみせられない。「僕が死んだら」なんて手紙を書くことで涙を頂戴することもできない。ボクは病院でもやはり、嫌な奴で。爪弾きに合っている。
だから、君からのメールは見ていたけれど、返事をする気力がなかった。脱退の連絡も読んでいたが、なにも対策をとれなかった。友よ。赦してくれ。ホワイト・ライオットをはじめたそのときから、同盟主としてボクはずっと失格だった。偉そうなことをいって、肝心なときになにもできなかった。ホワイト・ライオットは一度はトップ二〇の地位まで登り詰めたのに、愚かな対幸運戦を引き起こし、多くの者を死に至らしめた。彼らが人生の中で、貴重な余暇の時間を割いて、築き上げたものを、まったくの無駄にさせてしまった。学校や職場で得られなかったものを反故にしてしまった。友よ。今や、ホワイト・ライオットにはボクを含めて、六人の同盟員しか残っていないのを君は知っているだろうか?
この前もらった君のメールによると、幸運どころか、SLAとも戦争をしたそうだね。しかも、君はいまだにこの世界で生き残り、より翼を広げている。幸運とスターライトアライアンスを一度に相手にしながら、いったい、どうやって、無事でいられたのだ。僕は君のことを正直、武力一辺倒の男かと思っていたが、それは誤りだった。君には知恵もある。本当は君が盟主になるべきだった。
友よ。
ボクを赦してくれ。
心の底から申し訳なく思っている。いくら詑びても足りない。
追伸
もちろん、不戦条約の件は了解だ。ホワイト・ライオットは君に一切の敵対行動は行わない。するわけがない。本来であれば、共同出兵まで踏み込みたいんだが、ボクはこんな状態だし、同盟員にも余裕がないだろう。もう、ボクは彼らに無理強いができないんだ。
ああ、今の君はひたすらに眩しいよ。
友よ。頼みがあるんだ。
一度会えないか。
九月三十日の午後十一時五十九分。
一緒にサーバー2の終結の瞬間を迎えるのはどうだろうか。(君が十九歳の可愛い女の子だったら、どんなにいいかと思うけれど、そして、君も俺が十九歳の可愛い女の子だったら、どれほどいいかと思うだろうが、成り行き上、そこは互いに目をつぶろうぜ!)
俺はサーバー4へは移住しないつもりだ。
俺はすべてを犠牲にして、サーバー2で戦ってきた。もう、からだも心も持たない。
それに、知っているかい? サーバー4ではひとつの同盟には五十人しか所属できないことになっているそうだ。これほど人を馬鹿にした話しがあるか。サーバー2で遅れてきた俺たちがいったい何のために苦労してきたのか。幸運の影の広がりをどれほど恐れたか。それに、同盟員が五十名足らずでは、この世界の統一は不可能だ。結局、俺達に一生、戦争をさせておいたほうが、運営元は儲かるんだ。彼らにとっては、宥和的な同盟による外交をメインにした統一など悪夢に過ぎないんだ。
世界を作り上げていくのは俺たちだとしても、究極的には、運営の一存で何でも決まるというのは、興ざめするよ。俺はもうこの世界をやめる。二度と、やらない。
友よ。だから、俺たちが会うのは、これが最初で最後だ。
気楽な気持ちで考えてくれ。それと、もちろん、俺が君に会いに行く。盟主を呼びつけるようなことはしない。
友よ。メールありがとう。
君の提案について考えてみた。
君が十九歳の女の子ではないのはボクも残念だけれど、ボクも君に会ってみたい。
でも物理的にそれは難しいと思う。
まず、ボクは都内にいない。
つくば市にある個人経営の病院に入院している。
つくば市がどこにあるか、知っているかい? 病院は市内でも辺鄙なところにあって、車であれ、電車やバスをつかうのであれ、二時間はかかる。
大戦の最中にそんな移動ができるかい? スマートフォンでは操作ミスが怖いだろう。
それに、ボクは今、無菌室にいる。無菌室といっても、臓器移植の患者が入るような、完全なものではないが、それでも見知らぬ人間が入るのはきわめて難しい。看護師が監視もしている。君がボクの部屋に入れたとしても、ふたりきりというわけにはいかない。見知らぬ人間たちの前で、一番の幸運は生まれてこないことについて語り合えるだろうか。
ボクがここを抜けだそうとしても、今は、歩けないぐらいに弱り切っている。
残念だけど、会うのは無理だ(戦時であるから、難しいなんてあいまいな言葉を遣わない)。でも、九月三十日の午後十一時五十九分には、ディスプレイの前に必ずいる。ホワイト・ライオットのみんなにも声をかけてみる。距離は離れていても、サーバー2の最後の戦いを見届けるよ。
友よ。困難な状況の中で、返信をしてくれてありがとう。
たしかに、物理的に会うのは無理のようだ。
実は俺も今、自分の部屋にさえも戻れない状況におかれている。ビジネスホテルが貸し出すノートパソコンでこの世界に入っている。ある事情でスマートフォンは回線がつながらない。
確かに、君のいうとおり、長時間に渡る移動は不可能だった。
今は一日中、戦っている。SLAは沈黙させたが、幸運が相変わらず俺のところに押し寄せてきている。いつものごとく、滅茶苦茶なやり方だけど、なにしろ、絶対数が多いから、厄介極まりない。今朝、ホテルの部長だかなんだかが部屋を訪れてきた。ゲーム宿泊プランっていうのを新設しようと考えていたので、市場調査をさせてくださいなどと白々しいことを口にして、根掘り葉掘り、俺のことを聞いてきた。まったく、人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしいものだ。市場調査にどうして、俺の親の所在地が必要なんだ? しかも、なぜ、俺がゲームをしていると知っている。あいつらが俺を怪しんで、ログを調べたり、身辺調査をしようとしているのは明らかだった。指名手配中の逃亡犯か、もしくは、自殺を死にきた田舎者だと思われているのだろう。
確かに自分でもひどい状態だというのは想像がつく。今のままで、君に会いに行っても、不審者だと追い払われるだけだ。君の意見はいつも正しい。
それに、実際に会ってどうなるというわけでもないしな。たぶん、君も口下手な方だろう? 変に誤解が生まれては残念だ。
戦友同士、戦場でのみ会話を交わしていた方がずっといい。
会う代わりいうわけではないが、一つだけ頼みがある。迷惑をかけておいて、言い出しにくいのだけれども、この世界が終わる、その前のほんのわずかな時間でいい、ホワイト・ライオットにもう一度、俺を入れてくれないか。
俺は一時期のホワイト・ライオットが本当に好きだった。あれほど楽しい思い出を俺は他にもっていないんだ。脱退してからも、いつも、ホワイト・ライオットのことを思っていた。あの掲示板のあの書き込みの続きはどうなったのだろうかとかそんなことばかり考えていた。
今残っている同盟員の中に、俺に対して悪い感情を持っている人がいるかもしれないし、対幸運戦に巻き込まれるのを恐れるかもしれない。
だが、最後の五分でいいんだ。それならば、さすがに敵も攻めてきたりはしないだろう。
最後はホワイト・ライオットの一員として戦いたい。ただ、それだけだけど、みんなの気分を害するだろうか。
友よ。君を歓迎する。勇者の帰還に文句をいう奴なんていやしない。みんなで待っているぜ。また、あの掲示板で、長い物限定しりとりをしよう。
ありがとう。本当にありがとう。最後まで生き残れるようにがんばってみるよ。
二十九日の午後、大輔には中央砂漠の三つの町のみが残されていた。五十万円で購った兵隊も、すでに大半を失っていた。頼みにしていた南の隠れ砦も、五十人を超える幸運の同盟員からの派兵をうけて、二十三時間の籠城戦のすえに奪われた。隠れ砦が陥落した際には、幸運の連中からご愁傷様と書かれたメッセージが一度に大量に届いた。大輔はそのいちいちにおまえのことは忘れない。絶対に殺すと返事をした。雲霞のごとく押し寄せる幸運の連中との戦いに大輔は疲弊しきっていた。向こうは無能であっても、時間をもてあます無数の指揮官がいて、昼も夜も攻撃してくるのに対して、大輔はひとりきりだった。ビジネスホテルから借りたパソコンは外に持ち出すことを禁じられていた。スマートフォンの回線は閉じられているうえに、無料の無線回線は不安定であり、どうしたって、外に買い出しに行くあいだはこの世界から離れることとなった。このビジネスホテルのどこかにスパイが潜り込んでいるのではと疑ってかかるほど、食事や睡眠の間に幸運は浸透していき、町が奪われて、兵が死んだ。
この世界の設定においては、流民も敗残兵も存在しないのだが、大輔はホテルの部屋のドアの外に、彼らの気配を感じている。ずいぶん以前に、民たちには他に逃げろと伝えてあったはずだった。だが、終わりが決められている世界の中で、困憊のあまり判断することもできずにただ惰性でついてくるのか、それとも今なお大輔に何かを期待しているのか、共に行動しようとする者があとをたたない。兵たちもいっそう言葉少なくなり、建物に寄りかかり、眠っているのか起きているのか定まらぬほど消耗してしまっている。砂嵐が収まった見晴らしのよい日には、ホワイト・ライオットの根拠群を望むことができた。ホワイト・ライオットの町々は小さいながらも、暴力や破壊からは免れていた。参謀や上官の中には、ホワイト・ライオットに助けを求めてはどうかと考えている者も多いだろう。自分たちがどれほどホワイト・ライオットに尽くしたか、彼らはそれなりに自負がある。だが、大輔はハナゲバラとの約束どおり、最後の瞬間にホワイト・ライオットに加入する方針を変えるつもりはなかった。今や幸運は大輔ひとりを相手にしていた。大輔が一秒でも長く生き残れば、それだけ、ホワイト・ライオットをはじめとしたサーバー2の住民たちが平穏な生活を送ることができた。サーバー4への移住が叶う可能性が高まった。それだけで、戦う理由となりえた。
二十九日の夜六時を迎え、大輔は市民兵の部隊を前にして、解散を申し渡した。市民兵はすでに、五十を切っていて部隊の体をなしていなかったうえに、移動速度の遅さがこれからの作戦では足手まといになった。大輔は彼らに逃げて生き延びろと言った。生き延びて、この戦いについてのなにごとかを残してほしいと頼んだ。
残された二万人の元治安部隊をプルトニウム軍団と名づけた。彼らの面前で、大輔は今後、三十六時間の作戦を明かした。作戦はその目的も方法もいたって単純明快なものだった。ともかく、灰化していない幸運の連中の町を奪い続けるのだ。奪った町には守備兵を置かない。残存兵を率いて、すぐに次の町を奪いにいく。幸運を鬼に見立てた、追いかけっこに興じるつもりであった。見てくれはどうであれ、たった一つの町さえ残せれば、この戦いは大輔の勝利となるのだ。
四十一 スマホ 3.7インチ部分
大輔は自分自身の顔の写真を数枚撮った。笑いもしなければ、かしこまりもせずに、ただ自分の顔を撮った。
四十二 ノートPC 15.7インチ部分
逃亡戦を開始する大輔の意識はこの世界の中にある。空腹や眠気も感じなくなっていた。音や光はこの世界のもののみを受け止めていた。この世界サーバー2が終わるまで、あと二十四時間を残すのみとなった零時に、ハナゲバラから件名を「返信不要」とするメールが届いた。そこには、「ホワイト・ライオットの全員が、今、君の戦いを見ている」と書かれてあった。大輔はホワイト・ライオットの面々がいる方角に向けて敬礼をしてみせた。
町から町へと機械的な戦争を繰り返していると、ひとりで電車から車窓を眺めているときのように、人の世で起きたさまざまなことが大輔の頭に飛来するようになった。幼稚園の卒園アルバムの寄せ書きで、急に自分の名前が書けずにパニックに近い状態になったこと、その際に担任の教諭が面倒になって、自らがマジックで書き殴ると、「ずっと思っていたけど、そんなんじゃ、本当にろくな大人になれないよ」と言い放ったこと、小学校の運動会で父親がバーベキューの火を起こすことができずに母親が怒って買ってきた肉をグランドに投げ捨てたことなど、脈絡もなく昔のどうしようもない出来事が浮かんでは消えていった。
東京に出た直後、早朝のマラソンを習慣にしようとした。しばらく、アパートから商店街を経由して公園までの三キロを走った。中学からずっと鈍ったままであるからだを鍛えたかった。健全なからだにこそ健全な精神が宿ると思っていた。あの頃から、自分自身が抱える問題についての自覚はあったのだ。大輔は東京で、大学で、生まれ変わるつもりだった。あのマラソンはどれぐらい続いたのだろうかと大輔は薄く笑う。ゴールデンウィークに帰省するころまでは続いたのか。それとも、スーパーマーケットのアルバイトを八時から十時までに伸ばしたころまでは、続けられていたのか。
ドカッと大きな揺れを感じた。揺れは長く、段階を踏んで、大きくなっていく。古いビルが固く揺れている。やがて、ブレは収まる。どこで飼われているのか、犬が野太い声で啼いている。明日九月三十日にはより大きな地震が起こるとの噂が流れていた。月か太陽かどちらかが地球に接近し、地面に常とは違う重力がかかるらしい。
三月十二日の朝、大輔は公園の広場の真ん中から自分のアパートに足をひきずるようにして戻っていった。町は何も変わっていなかった。アパートの前では、煙草を手にした男が、ぼんやりと建物を見上げていた。音や気配では知っていた隣人とはじめてそこで顔を付き合わせた。大輔はこの男にあまり好意を抱いていなかった。煙草を投げ捨てるこの男のせいで、アパートの階段には、吸殻を道路に捨てるなという注意書が貼られるようになっていた。男はその注意書きにも煙草をあて、燃え跡をつけていた。なんとなく、過去に自分に絡んできたタイプの男に思えた。
「見た目はなんともねえけどな」
隣人は大輔相手に話しかけるというよりもひとりごとのようにつぶやいた。テレビのアンテナの傾きは地震前からのものだった。階段したのタイルが剥げているのも以前からのものだった。
「見た目だけじゃ、わからないですよ」
と大輔は口にした。隣人は大輔に振り向いた。
「だよな。もう、心配しても仕方ないわ。昨日も、みんな、呑み屋で酒とか呑んでいるんだもん。本当に考えても仕方ねえよな」
隣人は煙草を踏み消して、部屋に戻っていった。強い余震が襲ってきたが、隣人は面倒そうに少し立ち止まるだけで、そのまま構わず階段を登っていった。その背中をみて大輔もようやくひとりで部屋に戻る気になれた。
それから大輔は東北本線が宇都宮より北でも再開されるのを待って、実家に避難した。大学の新学期を始まる四月まで、実家で過ごした。
灯油もきれ、計画停電が行われるなかで、父親と母親と寄り添いながら、生活した。古いスーパーファミコンを持ち出して、父親とマリオカートをした。母親と買い出しに行った。ほとんど話すこともなかった中学の同級生と出くわし、互いに安否を気遣った。みなが優しい時期であった。
この世界が終わるまで残り二十時間となった。幸運がより数と勢いを増して大輔に押し寄せてきている。十の町を道連れに灰化したいのならば、大輔ではなく、とうにこの世界をやめた者の支配下にある放置された町を奪えばいいだけであるのに、幸運はひたすら大輔だけを狙った。彼らは必死になって逃げる大輔の姿を悦んでいた。自分が幸運を相手にすることで彼らのなかに会話が生まれ、連帯が出来上がっているのを大輔は感じていた。それは自分たちより下等の存在をみつけてあざ笑う、例の昏くて、冷たく粘着したものだった。大輔にとっては、おなじみの、ずっと抗ってきたものだった。大輔はマントを捨てる。崖の上に立ち、あらん限りの声を出して、兵を激励する。負けられない。絶対に負けてはならない。君たちの戦いをみんなが見ている。
町四つ分の余裕を保ったまま、幸運を錯乱させるためにマップ上の山を一つ越え、幸運が支配する高原の町を一つ奪った。その町に兵隊をすべて移動させたのち、大輔は水を喉に流す。兵も疲弊しきっているはずだが、よくついて来ていた。大輔は空気のよいこの町で彼らに一時の休息をとらせたかった。実際の彼らはただのプラグラム上の要素だとしても、大輔は彼らの息遣いや足音を聞き、その必要を感じていた。また、大輔自身も疲弊しきっていた。大輔はビジネスホテルの小さな机の上に突っ伏した。空高く飛ぶコンドルの鳴き声を遠くに聞きながら、大輔は眠りについた。
騒々しいアラーム音に起こされて、慌てて机上の時計を見た。前の客が設定していって、面倒なのでずっと解除していなかったアラームが朝の六時半を告げていた。この世界が終わるまで、あと、一七時間半となった。この世界でみる最後の太陽が昇っている。
大輔は寝起きのひどい顔のまま、わたしのディスプレイをみる。最後には、ディスプレイのガラスを割って粉々にするつもりだったが、今は五万円を払って、買い取ろうと思うほどに私に愛着を抱いているようだった。自分がここまで出来たという証のために、大輔はこれからさきも私をそばにおいておくことを希っていた。
意外なことに幸運との間にできていた町四つ分のリードは保たれたままであった。幸運もさすがに疲れ、眠りについたのかもしれなかった。兵隊たちを次の町に向かわせて、大輔はホテルのすぐそばにある立ち食いそば屋に赴くことにした。
四十三 スマホ 3.7インチ部分
店内では同じ作業服を着た男たちが肩を突き合わせながら蕎麦と天丼や牛丼のセットを頬張っていった。彼らのうち、誰かが放屁をし、皆が声を出して笑った。ネギの匂いがする笑い声に大輔は吐き気を覚えた。「アナル遣いすぎなんじゃねえか」と彼らは騒ぎ立てている。筋肉と贅肉が混ざりあった背中を並べる彼ら中で働くのはやはり無理だと悟る。
戦争のあとのことを大輔は考えないわけではなかった。美希との関係を修復するのは難しかった。「てめえ、このやろう」、「馬鹿かてめえは。死ねよ」などと騒ぎ立てる美希とは話し合いをもつ気にはなれなかった。家を担保に金を借りた美希はすぐにでも家を失うことになり、仕送りどころか、大学の学費も払えなくなるのは目に見えていた。美希からの仕送りがなければ、大輔は学生の身分を失う。自分で稼がなければ住むところもいずれは追い出される。それを考えると、不安に苛まれ、こんなことをしている場合ではないとさすがに腰を浮かしかける。だが、現実にいますぐできることなどなにもない。あの五十万円は最後の金だった。自分にはこの世界しか残っていない。何もかもすでに賭けてしまった後であった。
若布ののった蕎麦を半分以上残したまま、大輔はホテルに戻ることにした。フロントで声をかけられ、今日のチェックアウトで良かったとか確認された。大輔は頷くが、自分がまた過ちを犯したことにそこで気がついた。案の定、チェックアウトは今日の十時までであり、それ以後は部屋にいることは許されなかった。すぐに延泊を申し出たが、フロントの人間にあえなく断られた。確認もされずに部屋は満室だと告げられた。自殺志願者や指名手配犯ではないとは判断してくれたようだが、それでも、ホテルにとっては歓迎されざる客であることに変わりはないようだった。
フロントの人間と交渉する時間と気力もなく、大輔はともかく自分のアパートの部屋に戻ることに決めた。美希が部屋で待ち伏せをしている可能性は、数日の潜伏でかなり減じているはずだった。十時までにチェックアウトしなければならないのであれば、幸運に動きが見られない今すぐの方が都合がよかった。町四つ分のリードは変わらないが、次の町をいまだ落とせていない。兵隊の数が減り、圧倒的な力で瞬時にねじ伏せることができなくなっていた。
大輔はフロントにノートパソコンを返し、清算をすませた。ノートパソコンを買い取ることは諦めた。感傷に浸るのはまだ早すぎたし、フロント係も自分たちのパソコンを奇妙な若者に託そうとはしないことをわかっていた。
飯田橋の駅に向かう坂の歩道で、多くの高校生とすれ違った。気だるそうに登校する彼らのうち、何人かが大輔のすがたを目の当たりにし、忍び笑いを洩らした。「眼鏡傾きすぎ」と叫ぶ出す者さえいた。「クソが」。「馬鹿野郎が。脱法ドラッグでとんで死んじまえ」。ぶつくさと文句をいい、見えない傘を振り回す自分が本物の狂人のように大輔には思えてくる。自分のことを狂人のようだと思える自分が弱く、消えかかっている。三日前から着替えもしていない大輔は、このまま朝の混雑時の電車に乗って、嫌な顔をされることを厭い、さらに自分自身のからだの気だるさもあってタクシーを捕まえ自宅まで戻ることにした。
タクシーの運転手に素性を尋ねられた場合、なんと答えようかと心配していたが、運転手は行き先を確認したのちはいっさいなにも話しかけてはこなかった。大輔は私で公衆無線を拾おうするが、どうもうまくいかない。カーラジオが、今日の気温が三十度近くになることを告げていた。学校や職場での節電疲れが深刻化しているとディスクジョッキーが話している。大輔は眠らないように窓を少し開けて外をみやり続け、ズンズンズンズンと一定のリズムを頭の中で刻んでいった。信号待ちの人々に機銃掃討をしかけ、隣の車線を走る車にはバズーカー砲を撃ち放つ。ビルに巡航ミサイルを発射し、運転手を背後からダガーナイフで一刺ししてみた。車は右に左に揺れていき、電柱にぶつかってとまる。大輔は後部座席から無傷で降り立って、集まっていた野次馬たちに斬りかかる……
それでも、大輔は眠り落ちてしまった。運転手に起こされ、大輔は五千七百円を支払い、車から降りた。アパートの前で、しばらく何もできずに立ち尽くしていた。首をふり、頬を両手でさすってから、錆びた階段を静かに上っていった。
外から部屋の中の様子を伺うが、誰かが待ち伏せているように思えたし、誰もいないようにも感じられた。逡巡するのも面倒になったので、鍵をあけて、ドアを足で一気に押した。
和哉が死んだのだと美希に告げられたときから、部屋の中は、なにも変わっていなかった。ユニットバスの蛇腹を開けるが、そこに手首をきった美希などいなくて、飛び散った歯磨き粉が白くこびりついた鏡には大輔のすがただけが写っていた。
ドアに戻り、そなえ付けられたポストを漁るが、公共料金の領収証と「特選」と大書されたエロDVDのちらし以外はなにも入っていなかった。美希からの手紙、または美希の意向を受けた誰かからの「連絡乞う」といった手書きのメッセージも見つからなかった。予想していたように国際学生カードなる代物も斉藤から返送されていない。
大輔は卓袱台の前に腰を下ろす。しばらく、エロDVDのちらしを眺めてから、パソコンの電源を入れた。立ち上がるあいだにシャワーを浴びにいった。
四十四 大輔
滴る湯の中で、このまま母親とはあっさり縁が切れるかもしれないと俺は思う。それが悲しくもないし、具体的な行動をせざるをえないような痛みも覚えない。激昂しやすく、己の過ちを認めることがない母とその血を継ぐ息子は、どちらも何も言い出すぬまま、互いの死も定かではない状態で、死んでいくのだろう。フライドチキンを絶つことができなかった父が死に、子がゲームに没入するあまりにその葬式を欠席することで、家族というものが瓦解してしまった。親を失った俺は、大学生ではいられなくなるだろう。
弱いシャワーの音の中では、不安には事欠かない。俺の国際学生カードなるものがどこかで悪用されている。それがどういったかたちで返ってくるかがわからない。住所を替えた方がいいかもしれないと思う。だが、移住にも金が必要だ。現実社会で、俺のできることはほとんど残されていなかった。
水をそのまま吸ったかのように重たくなったからだをひきずり、ユニットバスから出た。新たに身につけるものを探したが、みあたらなかった。仕方なく、バスタオルだけをからだに巻いた。そのまま、リュックサックに詰めてあった分の服も外の洗濯機に入れにいった。洗剤がなくなっていたので、隣人のものを勝手に遣った。すべてが煩わしい。
ひどく空腹であったが、冷蔵庫の中の食料はとうに食いつくされていた。奥に転がっていたマヨネーズを少し吸う。どろりとした油の味に、吐き気を覚える。水道で口をすすぐ。濁った水を流す。畜生。どうして、味などというものがあるのだ。味などなければ、マヨネーズを吸って、必要なカロリーがとれる。それで用が足りる。食べる愉しみなど頼んでもいない。そんなものは俺は求めていないのだ。
四十五 PCディスプレイ 15.6インチ部分
大輔は起動したパソコンの前に腰を下ろすが、どういうわけか、いつまでもこの世界にログインはせずに、腕をうしろに伸ばし、ただ、じっと空の一点を見つめている。ディスプレイがスリープすると反射的にマウスを動かして一度は起動させるが、それ以上のことはしようとはしない。机の上に置かれたマンガ本をパラパラとめくり、何が面白いのか、奥付にずいぶんと長いあいだ視線を落としたままでいる。
立ち上がり、窓をあけて、隣のアパートとの隙間に広がる空を眺める。「空がねえ」。「金もねえ」。「飯もねえ」。「女はいらねえ」。ラップのように身をふりながら、一度だけ、そんな言葉を吐く。そのあとは妙な静粛が部屋を支配する。
パッと椅子に飛び乗って、大輔はキーボードに手をおく。カタカタカタとIDパスワードを素早く入力して、この世界にログインする。
幸運が大輔のことを狩り立てていた。たったひとつ残された、最後の大輔の町に幸運が群がっている。元治安部隊が殺戮されている。
大輔の耳には彼らの声が届いている。詰め寄る参謀たちのすがたが目前にせまっている。司令官! どこかに向かわなければ我々は奴らに敗れることになる。北西の町から出立し、南の海岸から西の高山地帯、中央砂漠まで今までこの世界で何のために戦ってきたのか。どうして、すべてを犠牲にしてきたのか。司令官! 彼らは訴える。
「生まれなければよかったなんて言いながら、たらふく食っている奴らと戦うことに価値があったんじゃないですか。たとえ、誰も知らぬような場所で行われている戦争であっても傍観を決め込む無数の者どもと同等に落ちないことが、人の世の存続そのものに関わってくるのではないのですか。
現実社会をも超えたこの戦いが、この対幸運戦が、猿が森の木から降りたとき以来の、新しい世界の構築につながるのではなかったのですか!!」
大輔は彼らに背を向ける。自分の演説の文言が、気恥ずかしくてならなかった。それはすっかり忘れたい過去になりかわっていた。大輔は設定をクリックし、この世界を退会することを選択する。「本当に退会しますか。データはすべて消去され、復元できません」と確認の表示が出る。私は息を呑む。大輔は躊躇もなく「はい」の文字の上にポインタを移動させ、クリックをする。その瞬間に考えも、迷いもなかった。マップ上にひとつの灰化された町が数秒間表示され、ウインドウが消えた。ただ、それだけのことであった。兵士たちの嘆きも、唖然とする幸運の声も、響き渡らなかった。ホワイトライオットの憤りも、ハナゲバラの怒りさえもなにも伝わらなかった。それから大輔は私に背を向けて、電源コードを抜い………………………………………………………………………………………………………………………
四十六 大輔
俺の目の前に具体的に存在すると認められるのは、カビ臭いバスタオルとエロDVDのチラシだった。感じているのは空腹によるむかつきだけだった。外では洗濯機が妙な音をたてて回り続けていた。
床に倒れこみ、仰向けとなった。揺れているのは気のせいではなかった。揺れは確実に大きくなっていった。窓枠がカタカタと細かい音をたて、やがて、ガラスが割れんばかりに震え出した。
ドカン! ドカン! バッチコイや!
俺は目を見開き、天井がこのからだを潰すのを、最後のその瞬間に青空が垣間見えるのをただひたすら待ち焦がれた。
〔了〕