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ソースコードの春  作者: 鈍寺
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前半

 一  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 慌ただしく帰ってくるなり、大輔は私を起動させ、「この世界」にログインする。ちゃぶ台の上には、いつものように、卵かけご飯が盛られたどんぶり茶碗と野菜ジュースのパックが置かれる。視線を私に向けたまま、ときおり、むせるほど一気に卵かけご飯を掻き込んでは、ストローで野菜ジュースを音を鳴らして吸う。すべてを共有している我々は、大輔が殺人者、幼児性愛者、クレーマーではなく、生真面目な青年であり、なかなかの詩人であることを知っているが、こういう下品なところはどうも慣れることができない。

 現に今も、ユニットバスの蛇腹の扉をあけたまま、盛大に音を立てて小便をしている。手も洗わずに戻ってきて、わたしを見る。それほど時間が惜しいのだろうか。大学生の身でありながら、勉強もせずにネットゲームに夢中になっているのもどうであろうか。若い人間には他にやるべきことがあるはずだが、大輔はこの世界に入り浸り、出てこようとはしない。

 「この世界」のどこがそれほど魅力的なのであろうか。

 舞台は核テロが起こり、人口が百分の一となった地球だ。どこの誰が、そんな凄まじいテロを起こしたかについての説明はない。また、そこは現実の地球とは大陸の位置がかなりずれてしまっているが、それが核テロが原因なのか、単に今から数億年後が舞台となっていて、大陸プレートの移動があったからであるかは、わからない。これは他のことにもいえるが「この世界」で示されるのは結果だけであり、原因と経緯は各自がそれぞれ解釈しなければならない。この世界にすべてを賭ける「永住者」(彼らは自分たちをそう呼ぶ)たちは、それについての己の解釈をウェブ上であれこれと語り合うのがまた愉しいらしい。

 この世界で、彼らはまず、ひとつの町を与えられる。町の人々はは工場で生産されるプランクトンクッキーを食べ、ソーラーパネルからエネルギーを得て生活している。廃材を獲得することで ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場は、その設備を拡大することができる。廃材はプランクトンクッキーと交換することで手にいれられる。

 つまり、ともかく、この世界ではプランクトンクッキーがなければ何も始まらないといえる。プレイヤーたちは掲示板やメッセージ上でプランクトンクッキーをプラクと略して呼んで、プラグが足らない。プラグがあればとプラグの欠如を日々嘆いている。プラクが生産され貯まるのを待つことができなければ、現実社会に立ち戻ったうえで、ネットマネーやクレジットカードを利用し日本円とプラグを交換することも可能であった。この世界の運営会社はそのスキームで利益を出していた。ただ、永住者たちのほとんどは金はないが、時間だけはともかく持て余しているような者が多く、プラグを購入することは稀であるようだった。永住者の中では、プラグを日本円で購入することをある種の裏切りのようにさえ捉えられていたし、持たざる者である大輔もそこは越えてはならぬ一線のように感じていた。

 プラクを貯めて、廃材と交換し、ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場を増設していくと、次第に町に住む人々が増えてくる。過酷な状況であっても、人びとが集うと子どもは生まれるものなのかもしれないし、あるいは周囲の荒野に住んでいた人びとが豊かな生活に呼び寄せられることもありえよう。先ほど、触れたように、この世界における原因と経緯は想像するしかない。

 グラフィック上で大きく、美しなっていく彼らの町であるが、常に危険に晒されている。魅力的な町であればあるほど、他の町から侵略を受ける可能性が高い。彼らは複数の町を支配下におくことも可能でサーバー上のデータを共有する彼らの中には好戦的な人物が多くいる。他の誰かに町を奪われてしまうと、彼らはこの世界を一からやり直すこととなる。どれだけ、町を大きくしても、見事なグラフィックで表される周囲の地形に愛着をもちはじめていても、己の町を奪われたプレイヤーは辺境のまったく違う環境で新しい小さな町を与えられ、また一から町をつくりあげていかなければならない。だから、彼らは町を守るために住民の中から、兵隊を集う。兵隊は市民兵、それに核テロ前には軍隊に所属していた元治安部隊の二種類がある。彼らの徴兵に際しては、やはり、プラクが必要になる。元治安部隊を集めるには市民兵の二倍のプラクを要する。元治安部隊は自分たちのキャリアの価値をよくわかっている。

 もちろん、彼らは集めた兵隊で他の町を攻撃することができる。この世界の戦争のルールはいたって明快なものだ。数の多寡が勝利を決する。そこには車懸りの陣も、連環の計も存在しない。ただし、攻撃時の戦力は元治安部隊が二、市民兵が一となり、守備時の戦力は元治安部隊が一、市民兵が二となる。繰り返しとなるが、あくまで、その戦力と兵隊の数だけが基準となる。たとえば、攻撃側の市民兵が二百、元治安部隊が百一で、守備側の市民兵が百で、元治安部隊が二百であれば、攻撃側が必ず勝利し、守備側の兵隊を全滅させる。なお、細かい計算方法は省くが、兵力が伯仲しているほど、戦闘に要する時間は長くなる。攻撃側が勝利すれば、その町を奪い、自分の支配下におく。

 この世界の複雑さとそれによる詩情は、プレイヤーが結成しては解消する数多の同盟によってもたらされる。同盟はまったくの自由意志で結成できるため、この世界にはありとあらゆる同盟が生まれてきた。巨大な同盟から小さな同盟。繋がりが強固なものから緩いもの。ある大学の出身者だけで結成されたもの、同性愛者に限定されるもの、釣りの愛好者たち。韓国人の排除を主張するもの。原発の推進者たち、原発の反対者たち。ただ愛を唄うものたち……。

 同盟内においての意思の伝達は、通常、この世界に用意されたその同盟専用の掲示板やメーリングリストで行われる。敵対同盟への攻撃作戦から、各人の世界で起きた部活動の話や恋愛のスキル向上まで、さまざまなことがそこには書き込まれる。これらのやりとりの中で同盟内では笑いが生まれ、怒りが湧き上がる。まるで駆け落ちのように気のあった者同士が結託の上、脱退し新たに同盟を作ることもあるし、風呂では足から洗うべきか頭から洗うべきかといった程度の言い争いから感情的なもつれに発展し、同盟が二分されることもある。どの同盟もその発生の経緯や盟主の性質などから、個性を有するようになる。

 たとえば、大輔が加入したホワイト・ライオットは、もともと同盟「エクスポ95」から派生した同盟であった。エクスポ95は、「おもしろきこともなき世をおもしろく」との「三日間戦争」に敗れ、いまは存在しない。三日間戦争の際に、講和を拒み、徹底抗戦を主張した者どもが中心となり、ホワイト・ライオットは結成された。平和を希った連中は駆逐されたが、抗い、戦い抜いた者は生き残った。ホワイト・ライオットにはこの時の経験が色濃く残っている。

 どんなに独立心に富んだ人間でも、たいていはどこかの同盟に加入することになる。この世界おいても、現実社会においても、孤立主義を貫くことはきわめて難しい。

 はじめは、大輔も、同盟にくわわるつもりはなかった。あれこれ規則で縛られるのは煩わしかった。この世界自体、単なる暇つぶしに過ぎずに、「永住者」を名乗りもしなかった。大輔は、ときおり、町の中に入っては、溜まったプラクを廃材と交換し、ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場を増設するだけで満足していた。誰にも攻められなかったために、町は順調に発展していた。兵隊は忘れたころに、募兵する程度ですんだ。他人の町を奪いとるつもりはなく、守備力の高い市民兵のみを徴兵した。幸いなことに、大輔のいた北西三地区はこの世界の中でもっともといってよいほど平穏な区域だった。荒れ果てた世界であったが、皆の模範となるような、平和で、豊かな町を築いていこうと考えてはいたが、それが現実社会においては何にもならないのはわかっているように見えた。もともと、大輔は、集中力や持続力に欠けるところがあり、長時間、ゲームに没頭することが難しくもあった。さらに、オンラインゲームを自己実現の場にしたり、現実世界からの逃げ場とするのは弱い者のすることだとの論説に触れる機会があり、それを真に受けていた。

 だから、あの事件さえなければ、大輔はこの世界の中に役割をもとめてホワイト・ライオットに入ることもなく、この世界への関わり方も違っていたことだろう。夢中になれるものができたことがこの若者にとってよいことであったのか、出会ってからの一年を振り返ってみても、わたしにはよくわからない。


 二 携帯電話 2.7インチ部分 


 ボランティア相談会の天幕の下に入った瞬間から、大輔は違和感を覚えていた。襟付きの服を身につけ、あらかじめ、適切なお悔やみの言葉さえ調べてあった大輔はこの場の雰囲気に膝から力が抜ける思いがし、腹立たしくさえあった。ふざけることだけが目的であるサークルの連中が多数おり、受付の場で突然大輔の知らない曲を揃って口ずさみはじめると踊りだしたりしていた。サッカー部の連中がジャージ姿のまま集団で受付にいた。登録担当の若い女が「えっ。杉並の天沼なの? アタシも!」と声を上げる。周囲が「おっ、同棲コース?」とはやし立てている。パイプ椅子に背中を丸めて座る大輔はなんらの連絡もないはずなのにじっと私を見つめる。ずいぶん前に届いた母親からのメールを読み返したりしている。ゴールデンウィークが終わり、大輔以外は日に焼けていて、健やかであった。今年のゴールデンウィークは皆、大人しくしているのだと安心していたら、観光地を応援すると言い出して、こぞって皆はどこかに出かけだしていた。金のない大輔は実家に帰ることもせずに、ただスーパーマーケットのレジ打ちとファーストフードの清掃に身をささげていた。

 面接相手の男は奇妙な笑みを浮かべ、さてと、君はなにができるかな。しっかし、ほっそいな。運動部所属の経験は? と怒鳴るように訊く。大輔は首をふり、「一度もないです」と答える。

「だったら、学部の専門性を生かしてはどうだろうか。頭を遣う方だ」と日に焼けた男が自らの頭をぽんと叩いて笑う。学部の専門性という言葉に対して、大輔は戸惑う。こいつはこの大学の実情を知らないのかと思う。

「頭も悪いんで無理そうです」

「そう。なら、どうする?」

「すみません。やめとこうと思います」

「えっ。あのなあ。まあ、待ちなさい。今、ここで何ができるかを一緒に考えてみよう。だって、ここには何かしようと思ってきたんだろう? 誰かの役に立ちたいと思ったわけだ。その気持ちがあれば何とでもある」

「はあ。気持があればですか……」

「どうした?」

「いや、なんか、やっぱり、僕にはできそうにないかなと思いまして。その気持って面でも、ちょっと」

「うん? どういうこと?」

「だから、やめとくっていうことです。ボランティでしょう? やりたくなくなっちゃったんです」

「あっ、そう。そうなんだ」

「ええ」

「いいぞ。帰れ。ほら、はやく帰れって言ってるんだよ」

 大輔は立ち上がり、面接官に向かって頭を下げるべきか悩むが、結局、何も言わずに立ち去った。ともかくこの場から離れたかった。ちょっと待ってと面接官の男は大輔を引き止めにかかった。

「本当に帰っていいのか。日本中、いや、世界中の人間が、自分ができることを必死に探して、それをやろうとしているんだ。ボクもね、実は介護士になりたくて勉強していたんだけど、自分自身のことにかまっているような状況ではないことに気がついて、ここにいるんだ。そりゃあ、はじめはあまりの惨状に何もできなかったよ。。とにかく、必死になってからだを動かすしかなかった。それで、ようやく、現地の人に信頼されるようになって、こうして、ある程度、現場を任せされるようになった。でもねえ、俺は別に他人とくらべて偉い訳じゃない。少しだけ、人より長くやっていて経験がある。ただ、それだけだ。気持の面ではみんな、一緒なんだ。

 さっきは怒鳴って悪かったな。どうだ? 考えなおすか? それともやっぱり気持はもうなくなったか。だったら、帰ってもいいぞ。俺は何もいわない。これは結局君の問題だ」

 天幕の下にいる皆が、大輔のことを気にし始めていた。大輔は無条件で歓迎されると思っていた自分を恥じた。まさか、ここでも無能な田舎者として除け者にされるとは思っていなかった。面接相手の男は自分の怒りが共有されるのを知っていた。個人的な義憤を不器用ゆえにぶちまけているかのように装っているが、その実、皆に聞かせて、自分が多数派であり、誤ってはいない無言の言質をとっている。サッカー部の連中の目配せや小声のやりとりが気に触った。この手の奴らは本当に厄介だ。それを知りながら、関わろうとした自分が悪い。大輔が立ち上がり、逃げ去ろうとすると、「本当に帰っちゃうのかい~」とテントの奥で誰かがいい、小さな笑いが起きる。隣で面接中だった男が白河での集合場所を聞いていた。嫌味な奴だった。殴りに舞い戻ってやりたかった。奴らの悲鳴を聴きたかった。

 大輔はキャンパスの中を進む。多くの人間とすれ違うが、今、この出来事を話せる相手はいない。彼らが所詮、上から目線の自分よがりの人間なのだと同調してくれる人間は見当たらない。えらいねといわれて、うれしそうに「いえ、当たり前のことをしているだけです」と答えるあいつらは気色悪いと笑いあいたかった。この傷口は風呂の中でソフトクリーム状のアイスを食べるいつもの贅沢では塞がらない。自分が感じているのが本当の余震なのか、四六時中揺れているゆえの勘違いであるのかを確認する相手さえ俺にはいない。せめて、それだけでも、誰かに聞きたい。大輔は私を握り、立ち止まる。私は大輔が叫びだすのではと待ち構える。だが、大輔は何もいわない。ゆっくりと歩き出し、キャンパスをそのまま後にする。


 三 PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 大輔がホワイトライオットに加入したのはその日の夜だった。

 あの頃、この世界で行われていた「子供が子供を産んだよ(親の方)」と「こどもがこどもをうんだよ(子の方」との抗争は多くの同盟を巻き込んでいた。当時、ホワイト・ライオットはどちらにも与していなかったが、心情的には子の方に傾きつつあり、参戦に向けて、同盟員の拡充をはかっていた。以前より、多くの同盟から、勧誘のメッセージを大輔は受けていた。たいていの同盟にはリクルーターと呼ばれる役目を担うプレイヤーがおり、彼らは競い合うように勧誘活動を行っていた。ただ、彼らの誘い文句の大半は、――同盟に入っていない町は危険だ。やがて大きな同盟に攻められて、町を奪われるだろう。といった脅しめいたものであり、大輔はそれが気に食わなかった。また、――北方の虎が西の伏龍のドアを叩く。といった風の、いかにもゲームおたく的な誘いにも相容れないものを感じていた。そんな中でホワイト・ライオットからもらった誘いは紳士的であったし、「二週間放置されて、「見捨てられた町」と化した付近の二つの町を目ざとく平和裏に吸収した君の力が必要だ」という具体的かつ個別な誘いの文面にも心が動かされた。

 大輔の見立てたとおり、ホワイト・ライオットは極端な人物の少ない、穏やかで平和な同盟であったようだ。同盟内の掲示板でのやりとりも、たとえば、親戚にジャガイモをたくさんもらったんだけど、どうすればいいかなとといった、いたって平凡な、近所同士が道端で話すような、日常的な会話が交わされていた。同盟によっては、頻繁に戦争をしかけたり、中で関西人を揶揄して、内ゲバに突入したりするようなこともあるようだが、ホワイト・ライオットにはその手のこともなかった。

 ホワイト・ライオットのかもし出す温かみは盟主ハナゲバラに負うところが大きいことを大輔は次第に知り始めていた。ハナゲバラはあけっぴろげで、人に対してともかく親切で優しかった。言葉や顔文字も多く知っていて、行き違いが起きがちなインターネット上のコミュニケーションにも長けていた。

 この世界においては同盟間の留学制度が発案され、所属する同盟を意図的に離れ、提携する他同盟に一時的に加盟することが行われていた。ちょうど、現実社会の駐在武官のように、相手の同盟に入り、同盟専用の掲示板を覗き込むことで、秘密裏な外国戦略や侵略計画が立案されないように、相互の監視を行う意味合いが強かったが、実際に留学先で他同盟の運営や規則を実地で学ぶことも期待されていた。留学生は時には実戦に参加したりすることもあった。ホワイト・ライオットに加盟後、しばらくしたのち、大輔も交換留学生に選ばれ、相互不可侵条約を結ぶ「ゲット・ワイルド2012」に短期留学する機会があった。ゲットワイルド2012で、さっそく盟主相手にメッセージで外交方針に質問したところ、町持ち五〇以上でないと、盟主に直接、話してはいけない決まりになっているのだと咎められた。ホワイト・ライオットでは考えられないことだと大輔は唖然としてしまった。

 ホワイト・ライオットでは同盟員の公募を行なっておらず、ハナゲバラの方針にしたがった個別の勧誘のみで同盟員を増やしていた。該当者が過去に裏切り行為をおこなっていないか、その言動を不興を買い、他の同盟から追い出されたりしていないか、各同盟の出すプレスリリースをハナゲバラは逐一チェックしていた。さらに、候補者に声をかける前にはホワイト・ライオットの同盟員の中でおかしな評判を耳にしたものがいないか、確認をとる念の入れようで、なんらの問題がないことを確認したのちに、はじめて勧誘のメッセージを送っていた。そこまで厳選して勧誘したとしても、相手が加入してくれる場合は稀であった。したがって、ホワイト・ライオットの同盟員の数は熱心な活動の割にはなかなか増えなかったが、それでも、ハナゲバラはむやみやたらな拡大路線よりも、少数精鋭型の同盟を目指すべきだと考えているようだった。そんな同盟に選ばれたと各同盟員も高い意識を持って同盟での責務についていた。

 同盟に入るのも悪くないと大輔はしみじみ思った。クルーを選べない現実社会よりもよほど、自分は楽しくやっていけると感じていた。アルバイト先のスーパーマーケットではこうはうまくいかなかった。大輔が密かに書き進めているブログではいつもKこと角中の悪口が綴られている。レジ係を並んでやることが多い角中はどうしようもない馬鹿であるらしく、大輔にとって一緒にいるだけで不快極まりないし、アルバイトの時間が結局は人生の無駄であることを強く認識させられる存在だった。甲子園常連校の野球部員だった角中は、校内の体育祭における部活動対抗リレー大会で、野球部が陸上部に競り勝った話をとにかく繰り返した。角中は補欠であって野球部の試合そのものには出ていないようだが、そのリレー大会だけには出場していたのだ。「俺も含めて足に自信のある奴らを集めたら、練習もなにもしなくても、陸上部の連中に勝っちゃうんすもん。陸上部が足の早さで負けるって、なんでやねんってはなしですよ」。夏も冬も、晴れの日も雨の日も、いつも、あの日のことを角中は思っては愉しんでいた。パートの女性たちが子供の出来の悪さを嘆き、結局は血は争えないなどと笑い合っているときに、運動会の話しを持ち出すのはわかるが、店長が他店舗がはじめたタイムセールの成績がよくて売上も伸びていると語っているときに、運動会の話を持ち出すのは一帯どういう料簡であるのか、大輔には見当もつかなかった。おまけにそんな角中がアルバイト先では人気者ともいわれているのがなんとも解せない。馬鹿ばかりの船に乗ってしまうと、自分自身が馬鹿になるか、孤独を囲いやがて海に飛び込むほかなくなるのだ。

 

 四 携帯電話 2.7インチ部分 


 大輔はいつか角中と対峙するつもりであることを宣っている。自分はいいにしても、近頃角中のランに対する態度はひどすぎて、見過ごすことはできない。ランはおとなしいからいつも角中のくだらない話を聞かされている。常日頃、穏やかに笑みを浮かべては角中の話に相槌を打ち、笑うランをみて、中国の男は角中みたいなやつばかりで、あれが普通であるのかとさえ大輔は思っていた。だが、四月の冷たい雨が降る、客がほとんど来ない夜に、「俺って、結構ラップが上手いことが判明」と角中がいいだしては、「ダダダダダダダッ。俺レジ打ち、君家の中、ダダダダッ」と永遠と繰り返しているのをさすがに見かね、角中が便所に行った隙に、「あまり角中君の相手をしなくてもいいんだぜ」と大輔が小声でいうと、ランは困ったように笑ったので、やはり、嫌は嫌なのだと大輔は知ってしまった。ランは明らかに自分が多くの客を処理しているとわかっていながらも、「次の方どうぞ」と積極的に声出しをする性格の良い子であり、大輔にああは言われたものの、その後の、角中のラップにも付き合ってやり、すごいですねと感心さえしてあげていた。

 ランは大輔が「この世界」のことを語ったことがある唯一の相手でもあった。大輔はこの世界の話を他人にしたことはなかった。どこからどう話せばいいのかがわからなかったし、やったことがない人間にゲームの話しをするほど無駄なことはないのも知っていた。そもそも、東京に出てからの大輔は、話し相手という存在を持っていないともいえた。

 その日は、いつもは九時半に仕事を終えるランがバックヤードで廃棄前のパイナップルを食べて遅くなったがために、十時にあがる大輔と帰りが偶然一緒になった。従業員用出口を出たところにちょうどランがいて、互いに先に行かせることも、追い抜くこともできずに、上井草駅までの道を並んで歩いた。間引きされた外灯が遠くで灯るだけの、暗い夜だった。余ったパイナップルをもらい受けてレジ袋に下げていたランは、甘く、熟れた匂いを漂わせていた。

「ちょっと待ってもらってもいいですか」

 ランが立ち止まり、携帯電話を取り出した。アンテナを左右に向けてから、入力をはじめる。

「もしかして、位置ゲー?」

 と大輔が訊く。そうだとランは頷く。携帯電話の位置情報を利用したそのゲームは赴いた場所によって様々なアイテムを獲得できる。一度、行ったことがある場所でもまれにアイテムが落ちていることがあるのだとランは言った。

「ゲットできた?」

「ダメでしたね。前にここで拾ったことがある」

「へえ。僕は位置ゲーってやったことがないんだけど、面白いの?」

 面白いです。でも、どこにも行かないから、アイテムが増えないねとランは笑う。それに最近はスマートフォンで皆が遊んでいるために、旧型の携帯電話でのプレイはもうすぐ終わってしまうのだといった。

 だったら、「この世界」で遊べばいいと大輔はいう。この世界はスマートフォンでなければ遊べないけれど、どこかに行かなくともいいので、家のパソコンで十分だし、パソコンは中古であればいくらでも手に入る。

「そのゲームは面白いですか?」

「面白いね。俺は部屋にいるときはずっとやっている」

「でも、とてもむずかしそう」

「簡単だよ。同盟に入れば、みんなが教えてくれる。ホワイト・ライオットっていう同盟がいいよ。僕が推薦してあげる。普通は始めたばかりの人間は入れないけれど、僕が口をきいてあげれば、大丈夫だよ」

 それから、大輔はこの世界の話しをランに話して聞かせた。戦争があること、ひとりきりでは生き残るのは難しいこと、百戦錬磨の強者が多くいるホワイト・ライオットに入れば、心配をしなくてもいいことを語る。

 駅までの道を大輔はホワイト・ライオットについて語リ続けていた。ランは大輔の話しをほとんど聞いていなかった。この世界をはじめなよと繰り返す大輔を軽くいなして、まるで別のことを、遠い中国で飼っていた猫のことでも思い出しているかのように見えたが、大輔は気がついていない。プラグだね。とにかくプラグなんだよと繰り返している。


 五  携帯電話 2.7インチ部分


 家に着いてから、「この世界」のことを他人に話さないようにランに口止めするのを忘れていたのに大輔は気がついた。アルバイトや社員の中にこの世界のプレイヤーがいないとも限らず、ランから話を聞いてホワイト・ライオットへの加盟を大輔に求めてくるかもしれない。真面目なランだからこそホワイト・ライオットに加入する資格があると思い誘っただけであった。他の人に推薦を求められても、応じることができない。

 それで、大輔は次の日に三十分早くスーパーマーケットに赴き、ランを待ちぶせした。店に入ろうとするランに声をかけて、この世界のことは決して人に話してはならないと伝えた。ランはうなずいてくれたが、戸惑っているように見えた。理由もなく、秘密を明かされたことを負担に感じているのかもしれないと大輔は気がついた。秘密の共有は特別な好意の証だと深読みされるのを恐れた。「この世界」についてランに語ったのは、彼女がゲームについて話題にしていたからであるし、異国で真面目に働くランを励ましてあげたいと思っただけであって、それ以上の感情はなかった。垢抜けないランを彼女にしたいなどとは思いもしなかった。

「いうなよ。ただ、それだけだからね。ともかく、絶対に言うな。わかったな」

 大輔はそう言い捨てると、ランの反応が怖くて、男子便所に駆け込んだ。

 この種の経験を大輔は過去にも持っている。

 国際経済Ⅰのグループ討論の際に、二度、同じ女の子と口を開くタイミングが重なった。「二回目だね」と笑いかけたとたんに、相手の顔がこわばった。隣の男が笑いを堪えていた。以来、その女は二度と、グループ討論では発言をしなくなった。

 自分に好意をもたれることは多くの女性にとっては迷惑であるのは大輔もとうに知っている。だが、大輔にしてみれば、自分は簡単に人を好きになったりはしないし、好きになっても、それはおまえなんかでは絶対にないと叫んでやりたい。だが、その言い分さえ、聞き入れてはもらえない。気味悪がられるだけとなる。

 いったい、どうすればいい? 女なんて、朝のテレビ体操を見て行う自慰行為だけで十分なのだと額にでも彫ればいいのか。

 

 六  PCディスプレイ 15.6インチ部分


 ホワイト・ライオットに加入後、大輔は三つの町を新たに自分の支配下においた。三つの町は一度の戦争で落とした。北西地区の方面部隊長「ポンペイウス」に誘われ、個人プレイヤー相手に共同で戦争をしかけた。この個人プレイヤーはマップ上に表示される町の名の脇に絵文字の日の丸を必ずつけていて、それがポンペイウスの気に触った。ポンペイウスは町を三十以上保持しており、大輔ぬきでも、五つの町しか持っていない相手にはたやすく勝つことができたはずだった。ポンペイウスは北西方面部隊長の役割として、新人の実地研修を兼ねて、大輔と共同作戦を行ったのだ。ホワイト・ライオットは中期計画として、同盟の規模の拡大に努め、この世界のオフィシャルサイトで発表される同盟間順位トップ五〇内に入る目標を立てていた。ホワイト・ライオットは、リクルート活動に制約があり、どうしても同盟員の大幅な増加は難しかった。同盟の規模を拡大するために、個々人がより強くなる方法を選ぶほかなかった。大輔はこの戦争の後に、プラクを増産し、兵を集め、さらに一つの町を落とした。プレイヤーに見捨てられた町を加えることで、大輔の持つ町の数は十に達した。この世界では、二桁の町を持って、はじめて一人前だと言われており、大輔はこの戦果をひときわ喜んだ。大輔は新しく支配下においた町でも内政に力を入れた。プラクを廃材と交換し、ソーラーパネルステーションとプランクトンクッキー工場を増設することに努めた。既存の町ではプラクを貯めては募兵を行って、兵力の増強を図った。大学とアルバイト、それに睡眠以外の時間はすべてこの世界に費やすようになっていた。家に帰るとすぐに私の電源をいれ、私の前で食事をし、私の前で眠りに落ちることさえあった。

 ホワイト・ライオットと大輔が勢力の拡大を急いでいるのには理由があった。「戦神たち」と「魚鱗の陣」との戦争が他の同盟を次々と巻き込みはじめ、大戦の様相を呈してきていた。

 この世界を扱うブログの報道によれば、当初、戦神たちと魚鱗の陣は「平成維新だ、この野郎」に対して共同作戦を展開する予定でいた。実際に、池袋の居酒屋で幹部同士が集まり、作戦を立案するまではよかったが、金の支払いの段階で、プラクで換算して送付しようとした戦神たちとそれをよしとしなかった魚鱗の陣とのあいだで口論となり、この世界で勝負を決することになった。馬鹿馬鹿しいことであったが、ホワイト・ライオットが、相互不可侵条約を結んでいた戦神たちの外相に照会してみると、プラグで払うというのは冗談半分で言い出したとの弁解はあったもの、概略は事実だと認めた。

 戦神たちと魚鱗の陣はともに古くに結成された同盟で、多くの同盟と友好的な条約を結んでいた。両者とも同盟順位が共に三〇位程度の中規模同盟であり、単独の戦力は伯仲しているがために、外交戦でいかに他の同盟を引き入れるかが勝敗を決することとなった。それぞれの外交担当者は関係をもつ同盟に共闘、援助を熱心に働きかけた。ホワイト・ライオットも戦神たちから、相互不可侵条約の遵守はもちろん、即時の参戦を要請された。また、魚鱗の陣からもメッセージが届き、新たに不可侵条約を締結すること、または事態の静観を求められた。

 この件について、ホワイト・ライオット内の掲示板で全体会議が開かれた。戦争がはじまった経緯がどうであれ、これまでの関係から戦神たち側で参戦すべしとの意見を書き込むものがいた。二つの同盟がさかんに行っていた外交戦の結果、トップテン内の同盟のいくつかが両陣営にわかれて参戦しはじめていた。戦闘が拡大していくのは必至の情勢であった。いずれ、参戦しなければならないのならば、早い段階から主体的に血を流すべきだと強く主張するものもいた。

 参戦を否とする意見も多かった。ハナゲバラも同じ考えだった。ハナゲゲバラは戦争の原因も、その後の両同盟の行動も気に食わないと書き込んでいた。愚かで、信義のない戦争だと断じて憚らなかった。

 参戦派はなかなか譲らず、一度目の全体会議で方針を決定することはできなかった。その後も、同盟内では活発な議論が交わされていった。学内やアルバイトの行き帰りにも議論の流れを追うために、大輔はついに決意し、スマートフォンを買った。わたしだけでは、部屋にいる間だけしか、この世界にいることができなかった。部屋の外でも、大輔はこの世界に入ることを望んだ。大輔のとなりの町が魚鱗の陣に属しており、いざ戦争となれば最前線を請け負わねばならなかった。つねに最新の情報を追っておくのが自分の責務だと大輔は感じていた。いざとなれば、食事を抜いてでも、最新型の機種代を上乗せされた電話料金を払うしかないと覚悟していた。

 大輔はともかく己の戦力の拡充を急いだ。北西方面は大輔以外には、方面長のポンペイウスを含めて五、六人の同盟員しかおらず、開戦となると、圧倒的に兵力が不足していた。ポンペイウスであっても、大手同盟の幹部と比べるとその戦力は見劣りがした。北西方面の手薄さは幹部のあいだでも認識されており、緊急時規則により、北東方面と南西方面から援軍が送られることが定められてはいたが、全面的な戦争になった場合、彼らが他の方面まで助けるような余裕があるかは疑わしかった。また、大輔は端から他人の援助をあてにすることに違和感があったようだった。戦力の拡大のために最も時間を要しない手段は、プラクを日本円で購入し、そのプラクで兵隊を徴兵することだった。ちょうど、運営会社は夏休みを前にしてプラグのセールを行っていた。ただ、日本円をゲームで使うことは、空いたペットボトルに水道水を入れて持ち歩く大輔には、越えてはならない一線であった。大輔の中ではスマートフォンの購入代とゲーム内の課金は明確に区別されるべきものであった。プラグを購入してしまえば、この世界の魅力は半減してしまう。貧乏性の大輔がこのゲームに魅力を感じたのは、無料でも十分に楽しめるし、課金して楽しんでいる金持ちを打ち負かすことも可能な点であった。大輔は今までと同様、自らの努力で道を切り拓くことにした。毎日、付近の町に斥候を出しては、無人となったもの、どこの同盟にも入っていないものを探すことに努めた。いつまでも結論のでない会議の様子を追いながら、いざそのときに備えて、少しでも自分の戦力を拡大することに勤しんだ。

 大輔は常にこの世界に身をおいていたいはずであったが、不思議なことに、大学には毎日通い、授業にもきちんと出ているようだった。大学に入学して一年数ヶ月が経っていたが、体調不良以外の理由で大学を休んだのを見たことはない。

 大輔は平日の昼間は大学に行き、夕方から夜にかけてスーパーマーケットで働いていた。土日もスーパーマーケットでレジをうち、二週に一度の土曜日には、夜間にファーストフードの定期清掃のアルバイトもしていた。生活費を稼ぐにはまだ足らず、夏期休暇か冬季休暇には昼間に日雇いのアルバイトもしていた。十分な仕送りのない大輔の生活は苦しく、贅沢は望めなかった。生活の厳しさを抱えつつ、この世界ではプラクを必死になって貯めているのだから、気が休まる暇もないだろう。大輔が求めているものを完璧にこなすには二人分の人生を必要とするようにみえた。大学の授業を休みたいと思うことはよくあるようで、そのころはじめたSNSにもよくその旨を書き込んでいた。一度や二度、休んだところで、単位や成績に影響がないことぐらい、大輔もわかっていた。だが、徹底的にケチな性分の大輔は、入学料や授業料をあわせたうえで大学の授業の一コマを換算すると、三八〇九円になると聞いて以来、休むことなど考えられなくなってしまった。おまけに、卒業に必要な単位以上の、取得単位の上限まで取得すれば、その単価は二一〇二円まで下がると聞かされてからは、そちらを目標として捉えるざるをえない性質だった。

 ただ大輔は目先の損得だけに囚われて、授業に出ているわけではないようだった。周囲の学生へ強い反感や四六時中揺れることへの不安などが大輔を駆り立てているようでもあった。大輔の通う大学では、震災からまだ三月も経っていないのにコンピュータ室では『ワンピース』が違法にスキャンされ、図書館はセックスする学生に封鎖された。時間と電気が無駄に捨てられるばかりだと大輔はSNSで頻繁に怒りも吐露している。

 大輔はことあるごとに、東大のサイトにアクセスし、今年の入学式に、総長が行ったスピーチの原稿を読んでいた。ボランティア相談会で怒鳴られたのちに、いろいろと検索で調べているうちに行き当たったものだ。このスピーチはいま、大輔が抱えるぼんやりとした考えを言葉で形にしている上に、後押しもしてくれていた。

 

 この春、東京大学に入学なさった皆さん、おめでとうございます。また、これまで皆さんの大変な受験勉強を支えてこられたご家族の皆さまにも、心からお祝いを申し上げます。

 本年度の入学式は、例年とは大きく異なり、武道館での開催ではなく、この小柴ホールで代表の皆さんだけに集まってもらう、小規模な式典としました。これは言うまでもなく、東日本大震災とその後の状況を考慮したものです。今年は入学式を中止する大学も少なくなく、東京大学もさまざまな可能性を検討してきましたが、最終的に、このような形で実施することとしました。

 東日本大震災による人的被害は、昨日の段階で、死者が一三一三〇人、行方不明者が一三七一八人という数に上っています。想像を絶する数字です。ただ、数字というものは全体の規模感を直観的に理解するには有用ですが、往々にして、現実の被害の生々しさを抽象化してしまうきらいがあります。一三一三〇人、一三七一八人という数字をみる時に、この大きな数字を構成している一人ひとりの方々が、ついこの間まで皆さんと同じように生活を送り、喜び悲しみ、生きていらしたことを想像してもらいたいと思います。それが一瞬にして失われたことの重さを、深く受け止めて下さい。また、幸いに命をながらえた方々も、治療を受けたり不自由な避難生活を送ったり、生活再建の厳しい現実に直面しています。皆さんがこれから知識というものにかかわっていくときに、そうした「現場への想像力」をつねに持ち続けてもらいたいと思います。

たしかに、被災された方々や被災地という現場への想像力をたくましくすればするほど、皆さんは、その重さに打ちひしがれ、茫然自失に陥るかもしれません。しかし、だからといって、現場への強い思いから逃げるのではなく、その重みに耐えて前に進んでいくのが、知識というものにかかわる私たちの使命です。今日、大震災による被害がまだ続いている、決して終わっていない中で入学式を迎える皆さんには、この地震によって起こった事実を、たんなる数字や紙の上の知識、抽象化された知識としてではなく、生きた体験として自らの心に刻み込んでもらいたいと思います。それによってこそ、皆さんがこれまで学んできた知識、そしてこれから学ぶ知識を、本当に人々に幸せをもたらす力として成熟させていくことが出来るはずです。

 ほとんどの皆さんにとって知識というのは、受験勉強の中で抽象的なものであったと思います。それはそれでよいのです。知識というものは抽象化されることによって、多くの人々に時代を越えて伝えられていきます。また、直接的な経験とは切り離された知識を、集中的に蓄積していく時期というのも、人生の中で間違いなく必要です。大学でのこれからの勉強もまだ、すぐには現場とのかかわりを意識することは難しいかもしれません。しかし、そうして学んだ知識が現場と強いかかわりを持つことを、これからの人生の中で皆さんは、いずれ気付いていくだろうと思います。

 私自身の学生時代の経験を振り返ってみると、知識が社会の現場で具体的に意味をもつことを感じたのは、公害問題とかかわった時でした。「公害関係の立法過程」というテーマのゼミに参加していた時のことですが、法律の制定過程に影響を与えるさまざまなステイクホルダーについて、ゼミ生がそれぞれ分担して東京大学新聞に記事を書くことになりました。私は労働団体を担当しましたが、その折に熊本県の水俣に行って、原因企業の労働組合の人たちへのヒアリングを行ったことがありました。これは、私が最初に自分の勉強の成果を公表したという意味で、思い出深い機会なのですが、それ以上に、自分が学んでいる知識が社会的・現実的なものであることを、はじめてはっきりと意識した機会でした。皆さんにも在学中に、どういう形であれ、自分の知識が現場とかかわる経験をしてもらえると、素晴らしいと思います。

 それでは、私たちは、このたびの東日本大震災がもたらした事態に対して、どのようにかかわることができるのでしょうか。皆さん、そして皆さんのまわりの人たち、そしてすべての国民が、また世界の多くの人々が、自分がこの惨禍に対して何を出来るのだろうかと、自ら問うてみたことと思います。私も、個人として、また東京大学として、何が出来るのか、ずいぶん悩みましたし、今も考え続けています。人々が、肉親を失った悲しみと、あるいは生活基盤を破壊された苦しみと格闘している時に、大学の拠って立つ知識というものが何を出来るのか、無力感を感じることもあります。また、知識よりも、食料、水、毛布、あるいはガソリン・灯油といった援助物資の方が、はるかに目前の役には立つように感じます。

 そうした中にあって、東京大学でも、ボランティアとして活動しはじめている皆さんがいることを、心強く感じます。もちろん、ボランティアの活動では、必ずしも自分たちのこれまでの知識が役立つわけではありません。子どもたちへの教育や医療支援、あるいは法律相談など、自分の知識がすぐに役立つこともあれば、家の中に流れ込んだ汚泥の除去や瓦礫の片づけ、あるいは介護や物資の積み下ろしなどの作業に直面して、とまどうことが多いかもしれません。しかし、そうした作業こそ、今を必死で生きている人々が切実に求めているものであるのを知ることは、皆さんがこれから、知識のあり方、社会が必要としている知識の多様さを考えていくために、得難い経験となるはずです。

 こうした活動を紹介すると同時に皆さんに申し上げておきたいのは、このように、被災地の現場で実際に行動することは大切ですが、被災地に行かなければ何の役にも立てないのだと考えるのは、間違っているということです。被災地の状況は、いまメディアを通じていろいろな形で伝わっており、すさまじい被害の光景はもちろん、被害の苦しみ、悲しみ、その中での人々の勇気、思いやり、きずな、さらにこれから復興に向けて求められている事柄など、皆さんは十分に理解しているものと思います。そうした現場からの情報を自分自身の中で徹底的に消化し、吸収し、そのようにして、いわば「身体化された現場」との緊張感を、皆さんがこれから知識を学ぶ時に、またそれを社会で生かしていく時に、絶えず持ち続けることも、このたびの惨禍に対する行動として同じく重要なものです。

この東日本大震災がもたらした惨禍からの復興には、これから長い年月がかかるだろうと思います。そして、それは、日本社会全体の活力の復活の動きとも重なっていく、非常に大規模なものとなるでしょう。いま入学したばかりの皆さんも、大学を卒業してからも長く、直接的にしろ間接的にしろ、この復興のプロセスにかかわっていくことになるはずです。また、ぜひともかかわっていただきたいと思いますが、そうした見通しを持てば、今あせることはありません。

 すぐにボランティアなどの行動に出るのもいいでしょう。そのための枠組みを東京大学も準備しつつあります。昨日、大学として救援・復興支援室をスタートさせましたので、これからの現地への継続的な支援の窓口になると考えています。しかし、この大学という場にあって、じっくりと自らの知的な力を磨き続けることも大切です。現場への想像力、現場との緊張感さえ忘れなければ、皆さんは被災地の復興に、そしてこの国の未来に、さらには世界の人々のために、間違いなく大きな貢献が出来るはずです。

 皆さんのこれからのご健闘を祈って、式辞といたします。 

  

  七  スマホ 3.4インチ部分


 大輔はミクロ経済学、経済学史の授業に毎日出て、丁寧にノートをとり、期限通りにレポートを提出した。

 経済学の目的は、生産や消費の流れ、規則性を見出し、その効率性を高めて、国民の幸福に資することだと学んだ。そうであれば、今のこの時代にこれほど必要とされる学問はないはずであった。経済学部は他の学部から、勉強しない学部、勉強してもあまり意味のない学問だと思われていたが、それはとんでもないことであった。少し、勉強してみれば、これほど役に立つものはなかった。大輔は全員が教養として、マクロ経済学の単位ぐらいはとるべきだと考えていた。たとえば、サンクコストの概念などは、原発の問題について語るのであれば必須の概念のはずだった。

 大きな災害が起き、どこかのある地域では、経済学を学んだのは自分ひとりになってしまうことを大輔はよく想像していた。トレードオフやインセンティブといった基礎的な経済学の概念でさえ、誰も知らない社会の中で、自分の知識が役立ち、希われる。そこでは自分は唯一無比の経済学者だった。人びとは大輔に教えを請い、指導を仰ぐ。そんな日が来ないとは絶対にいえない。これからは、絶対はない。たとえば、政治家、弁護士、一流企業に勤める人間などが皆、国外に脱出してしまい、馬鹿ばかりが残されることだってありえた。大輔はその日を想像して、気を引き締めた。

 雨の日に、大輔は米を送ってくれた和哉と美希に電話をかけた。パパと二人で、ジャスコのくじ引きで当てたのよ。すごいでしょう! 電話に出た美希ははしゃいでいた。ありがとうと再び大輔は礼を述べた。父と母の暮らしも余裕があるものではないことを大輔は知っていたので、心底申し訳ないと思っていた。そうそうと、美希は裏の小さな公園が立ち入り禁止になったことを教えた。放射線の量が既定の値を越えたのだった。「遊具も古くなっていたしね。ここらはもう子供もいないし、たぶん、このまま閉鎖されちゃうんじゃない?」。赤ん坊のころはよく遊びに連れて行かれた公園であったが、物心がついたころにはあまりに身近にあるのと、滑り台と砂場の遊具だけでは物足りないのとで、見向きもしなくなっていた。だが、宇都宮の南まで放射性物質が拡散しているとの事実は、大輔にとって、着々と世界は崩壊に向かいつつある証左とも思えた。「そっちは大丈夫なの? 鼻血とか出ていない?」と大輔は訊いた。「平気よ。どうせ、私らは煙草も吸うし、お酒も飲むしね。パパなんていまだにスカック菓子を毎日一袋も二袋も食べちゃうしで、いまさら放射能なんてね」と美希は笑っていたが、笑い飛ばせる話として大輔には受け止められなかった。それで、東京に越してくればいいと口にした。「ありがとうね。でも、大ちゃんのアパートじゃ、狭くてどうにもならないじゃない」と美希は笑った。早く働いて、二人を呼べるようにするよと続けると、美希は笑いながらも涙混じりに「また、一緒に暮らせるといいね」と漏らした。

 電話のあと、隣の建物が間近に迫る窓を開けた。少し離れたところに立ち、建物との隙間から見える外灯を凝視して、雨粒が光り輝いてはいないことを確認した。いつもは寝る時間であったが、このままだと眠れそうにもなく、また、眠りたくもなかった。近くの公園まで、散歩に行くことにした。私を手にして、大輔は部屋をでる。そのまま走り出しそうな勢いで階段を降りていく。大輔は、三日間の緊急対応番を無事に終えて、開放感を覚えていた。ホワイト・ライオットは不戦の方向に意見を集約しつつあったとはいえ、突発的な戦争が起こる可能性は否定できなかった。開戦となった場合、一次応戦するのは緊急対応番の大輔の役目だった。三日間、大輔は緊張を強いられていたのだ。

 大輔の足は高速沿いにある細長い公園に向かっていた。コンビニエンスストアの前をとおり、ガードレールで仕切られた狭い歩道を進んでいった。

 深夜の公園ではダンスの練習に精を出す若い男がひとりいた。ヘッドフォンをつけた男の、スポーツウェアの衣擦れする音がシュ、シュと響いていた。大輔はベンチに腰を下ろした。背中に触れるものがあり、振り返ると紫陽花が花を咲かせていた、外灯の下ではそれは赤にも青にもみえた。公園沿いを走る高架の道路から車のライトが漏れ光り、踊る男を照らしていた。大輔は立ち上がると自動販売機まで行き、午後の紅茶を買った。ベンチに腰をおろして、午後の紅茶をゆっくりと呑んだ。雨が上がり、地面から水蒸気が上がっている。高架の上を走る車のライトが断続的に水蒸気を照らしだした。――世界はどうしてこうも美しいのだろうか。大輔は唐突に目の前のすべてを唐突にたまらなく愛おしく思った。SNSに「世界は美しい。それを見いだせないのは愚かだ。生きていてよかった」と書き込んだ。この美しさのためならば、どんな犠牲を払っても構わない。立ち上がってそう叫びたくもあった。

 ダンサーが踊りを終える。彼はヘッドフォンを外して、地面に転がり、荒い息を吐いていた。ダンサーの周囲を靄が覆う。

「上手だね」

 そう大輔は声をかけた。

「サンキュー、フロアー」

 寝転がったまま、男は両手をたかだかと掲げた。

 そのやりきった姿を大輔はずいぶんと長い間、見つめていた。


 八  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 梅雨は明けたが、この世界の状況は悪化する一方であった。戦神たちと魚鱗の陣の戦争は大手同盟が介入することによって全面戦争の態を呈してきていた。

 戦争に巻き込まれた北西地区の町々では連日のように支配主が入れ替わっていた。ただ単に一つの町を単に二人の人間が争うのではなく、複数の同盟が共同戦線を張って、大量の兵を投入し、執拗に激しく戦っていた。よほど、ひどい戦いであるのか、不戦を表明しているホワイト・ライオットの大輔のところにも幾度ともなく救援要請がきた。

 かつては、この世界では大戦は起こらないといわれていた。各同盟、特に古くからある大手同盟間では網目のような条約が結ばれており、これが足かせになるとみられていたのだ。たとえば、A同盟がB同盟それにC同盟とのあいだで、相互援助条約を結んだとする。相互援助同盟の締結国は、敵から侵略を受けた場合に共に戦う義務を相互に負う。仮にB、C間で戦争になった際は、条約の性質からAはどちら側にたっても参戦できない。また、BがDから侵略され、さらにD側にCが加わったとしても、Aは参戦できないとみられていた。つまり、この世界においては、多くの同盟が参戦することで、結果的に戦争がより限定的になっていき、やがて鎮まるものだと考えられていた。

 ただ、それは、各同盟が条約を遵守するという前提があってのだった。一度、参戦し、兵を出して、町を奪い、奪われ、旗がゆらめき、折られという高揚感を味わってしまうと、遠い過去に条約を結んだ同盟が相手側についたとしても、戦争をやめる理由にはなりがたかった。盟主が同盟の遵守を望んでも、好戦的な同盟員に「もう、今さら、後戻りは赦されない」、「動くも死、動かないのも死。ならば、俺は前のめりで死にたい」などと勇ましい言葉で詰め寄られると、彼らを抑え、平和を説くのはさらに困難が伴った。武闘派の脱退による新同盟の設立、過激派によるクーデーターも多く見られた。条約は次第に重さを失い、簡単に反故にされるようになった。きっかけとなった戦神たちと魚鱗の陣はともに、相手方陣営の最優先の標的にされて、すでに死に体であったが、もはや、彼らの存亡はさほど意味をもたなかった。これが白木屋の支払いをめぐる諍いであったことなど誰もが忘れていた。各同盟はすでに怨恨や欲望をぶつけるべき具体的な敵のすがたが目前にあらわれていた。自分の町を取り返すために、相手の町を奪取するために戦争は続けられた。

 戦争の拡大の原因を技術面に求めるむきがあったが、大輔はこの意見につよく引きつけられた。悪魔の新技術だと書かれていたが、確かにうなずけた。自分の町と標的の町を入力すると、攻撃までに要する時間を自動的に算出できるウェブサービスが何者かによって立ち上がっていた。この世界では、複数の町から出兵がなされた場合、はじめに兵が到着してから三分以内に戦争が行われる。三分以内に到着しない兵は戦闘に参加できない。元治安部隊の移動速度で縦横五〇日の距離をもつ広大なこの世界で、移動速度の異なる治安部隊と市民兵を組み合わせて、複数の町から標的の町に到着時刻をあわせて出兵するのはそれなりに複雑な計算が必要だった。各人の計算時間を確保するために少し先の到着時刻を同盟内で打ち合わせても、日常生活においてさまざまな事情を抱える同盟員たちが必ずきちんと所定の時間にログインし、約束の時間に間に合うように出兵するとは限らなかった。一方、守備側は常に応援を受け入れることができた。攻撃を受けるほうは、敵が着陣する一時間前にはアラームが届くが、攻撃側は守備側の応援については知る由もない。この世界の戦争は、相手の町に着陣しなければ相手の兵力がわからないという意味でも、守備側に圧倒的に有利になっていた。実際に、北西地区でもホワイト・ライオットの同盟員が個人プレイヤーに攻められたことがあり、大輔ともうひとりで応援兵を出し、守備側の戦力を甘く見ていた攻撃兵を殲滅してみせた。ただ、報復戦のときは、夜型の生活を送る同盟員たちと敵の町への到着時刻をあわせるのが難しく、結局、大輔ひとりで戦争をする羽目に陥って、撤退を余儀なくされた。あのときは翌日に英語の中間テストがひかえていたために、大輔も時間を十分に割くことができなかった。中間テストはテキストで配られたキャプテン翼の英語版から出題されることが予告されていた。吹き出しが空欄になり、正しいセリフを挿入するだけでよいのだが、大輔は日本語版のキャプテン翼を読んだことがなく、本来の英語の実力だけで受験しなければならなかったのだ。

 それが、くだんのウェブサイトの登場で、状況が大きく変わってしまった。たとえば、同盟内の掲示板でのやりとりで、どこの誰の名前が気に食わないという気分の盛り上がりから実際に攻めるまでの具体的な時間と手間が圧倒的に減じた。この世界の住民のうち、大半を占める怠惰で二次関数を解けない愚か者たちがとんでもなく遠方から兵隊を出せるようになった。この世界にはもともと、戦争など一度もしたことがない者も多くいた。自分の町の内政にひたすら徹するだけでも楽しめたし、主のいない町、放置された町を接収することで支配する町の数を増やせた。それがひとつのウェブ・サイトの登場により、途端に、好戦的な状況になってしまった。

 盟主ハナゲバラは各同盟に対しても自制を呼びかけていたが、この世界はすっかり戦争に熱狂しており、その呼びかけに耳を傾けるむきは少なかった。ハナゲバラはホワイト・ライオットの同盟員に対しては、この戦争に加担しないことを徹底させていた。納得が行かないものは脱退してもよいとまでいい切っていた。同盟内での不満の声はそれほど大きくならず、当初見られた好戦的な意見も次第に萎んでいった。ホワイト・ライオットの世論形成に寄与したのは、ハナゲバラが積極的に受け入れた難民たちであった。ハナゲバラは同盟の方針に逆らった脱退者、壊滅した同盟の生き残りを積極的に受け入れた。彼らは戦争よりも、内政や同盟内の親交に力を入れたい平和主義者であり、ハナゲバラの主張に強く賛成する書き込みを多くしていった。四六時中、この世界で、警戒しなければならない日々、次々と町が落とされていく仲間たち、獲得した町も荒れ果てていて、プラグの生産量はほとんどない。戦争に敗れれば、この世界でこの名前で生きることは赦されない。別の名で、辺境で新たに一からはじめなければならない。降伏したくとも、大手同盟の中には賠償金として、プラグを要求するところが出始めている。戦争に破れた同盟は降伏するために皆で日本円を出しあい、プラグを購入することさえあるという。この戦争に勝利はない。勝利を続ける大手同盟であっても、ある一定数以上になると必ずといっていいほど分裂を起こした。この世界には同じ同盟に加入するもの同士は戦争ができないとの設定以外の統制システムが用意されていなかった。同盟内で禁じられているのに勝手に戦争をはじめるもの、過度な援助を求める者などを制御できない。結局は内ゲバ的な戦争がはじまり、同盟は瓦解していく。

 ハナゲバラの不戦の方針は、かえってホワイト・ライオットの同盟順位を上昇させることとなった。同盟員の兵力を合算して算出される同盟順位について、大戦前はトップ五十位圏内を行き来していたのが、トップ三十以内を確実に確保するようになった。三月に一度、プレイヤーサイドが勝手に開催する先進同盟首脳会議への出席資格が与えられる二十位以内も見えてきた。解散、消滅した同盟が多く出たこともあるが、亡命者を多く受け入れたことによって、同盟員が急増したことも無視できない要因であった。また、各人はハナゲバラの方針に従い、内政を充実させ、戦争に頼らずとも、戦力を着実に充実させていた。戦争により多くを失った難民には同盟内でプラクの援助を行い復興を支援し、復興を果たした難民が今度は支援する側に回るという好循環が生まれていた。

 外は嵐でも、ホワイト・ライオット内のやりとりは温かく、優しさに溢れていた。プラクがほしい人間には滞り無く行き渡り、僅かでも攻撃を受ける気配があると相手の倍の応援兵が集まり、威圧した。盛岡市に住む同盟員がひとりおり、市役所職員として、復興に奔走する彼の元を皆でお盆に訪れる話題で盛り上がっていた。


 九  スマホ 3.4インチ部分

 

 大学の昼食の時間、スーパーマーケットの休憩時間にはかならず私からこの世界にログインし、掲示板の新たな書き込みをむさぼるように読んだ。新たな書き込みがなければ、昔の書き込みを読み返した。大輔が自ら何かを発することはなかった。そこで問われていること、たとえば「携帯電話の家族割りって、住所が違っても適用されんだっけ?」といった問いに対して、経験に基づく回答を持っていても、書き込みをしなかった。ただ一度だけ、各方面長の報告の中で、北西方面長が、我が方面の躍進は相沢商業二組三番さんの存在が大きいなどと言及したために、そんなことはないですよとだけ書き込んだことがあった。褒められて黙っているのはさすがに印象が悪いと思った。大輔は本当はもっとそこでなされている会話に参加したかった。だが、面白いことを考えて書き込むのは苦手であったし、ある事件のことで気が塞いでいた。人と触れ合うのが怖かった。最後の楽園で、狂った人間であるのが露見するのを恐れた。

 事件の日、大輔の心は浮かれ、弾んでいたはずだった。大学の授業が連続で休講となり、一度部屋に戻り、アルバイトの時間までこの世界にログインできることとなった。普段は、午後の早い時間に自分の部屋にいることなどなかった。一度、家を出ると、大学からアルバイト先まで直接行くために、部屋に戻るのは夜中の十一時ごろになるのが常であった。

 帰宅を急ぐ電車の中で、突然、地震警報が鳴り響いた。いっせいに、私を含めて誰も彼もの携帯電話が音を出していた。皆が身構えるが、揺れはこない。じりじりとした時間がやがてすぐに緩む。静まり返った車内で、まず女子校生たちが会話を再開する。席が空いているのに議論に夢中になるあまり、立ったままであったサラリーマンたちが再び声を大きくする。「ドアが閉まり発車します」。自動音声がアナウンスをする。大輔はふらつきながら立ち上がり、電車から飛び降りた。誤報であったとの確信をもてずにいた。高架橋の上を走る電車の中で地震に遭いたくなどなかった。大輔はやたらめったに私に入力をはじめる。気象庁、地震ナウ。地震。またか。揺れ。

 他にホームに降りた女がひとりいた。女はベンチの椅子に腰をおろしていたので、大輔もその隣に座りこんだ。

「こわいですよね」

 女のほうから、大輔にそう話しかけてきた。学生ではなく、働いている女にみえた。きちんとした格好をしていて、ブランド物のバッグから社名の入った紙袋が覗いている。彼女の中でもっとも子供じみたものである携帯電話からぶら下がったキティのストラップが揺れている。

「本当に誤報でよかった。わたし、こわいんです」

「まだ、誤報って決まったわけじゃない。ちょっと、今、気象庁のホームページで確認しています」

 大輔も他の乗客たちが電車に乗り続けたことが信じられなかった。――冷房の効いた車内にいることがそれほど大切なのか。彼らは、散々報道されたことを忘れてしまった。それを分析し、今後の活動に生かそうとしないんだ。だから、死ぬんだよ。津波警報を軽くとらえて、死んだ人間が多く出たっていうのにさ。中には一度逃げて、財布を取りに戻って被害にあった人間もいたんだろう。浅ましいよな。馬鹿だよな。大輔はブツクサと言いながら私を遣い、気象庁のホームページにアクセスした。今さきほど、福島で震度四の地震があったことを大輔は知る。

「地震があったんだ。福島だ!」

 と大輔が女をみたとき、すでに女は電話で誰かと話していた。彼女は迎えに来てくれるように小さな声で、泣くように頼んでいた。電話から男の声がもれ聞こえている。

「迎えに来させるなんて危ないよ。とんでもない話だ。死ににこさせるようなもんだよ」

 大輔は突如、声をはりあげた。相手が愛する人間であるならば、線路沿いのもっとも危険な地域にわざわざ呼び寄せるなどおかしな話だとだけ大輔は言いたかった。だが、女は怯えるだけであった。女は立ち上がって歩き出していた。「大丈夫じゃないかも」と女が携帯電話に向かって小声で囁くのが、大輔の耳に入った。大丈夫ではないというのは、自分のことを言っているのだと大輔は知る。さきほど、隣に座った奴の顔をみて、こいつは不細工で、お洒落じゃないと判断して、それで、女は逃げている。

 大輔は女のあとを追った。どういうことですか、大丈夫じゃないって、僕のことですかと迫る。その自らの声の甲高い響きがもう後戻りできないのだと何かを諦めさせる。一年生のころ、愛用しているリュックサックを、後ろの座席でとやかく言ってからかってきた女の同級生とトラブルを起こし、学生課で厳重注意を受けた過去を大輔は誰も読まないSNSで綴っている。「ぶっ殺す」と女を追い回したために、今度やったら、退学もありうると警告されていた。あのときと、同じ熱が大輔のからだの中心に育っていた。熱は頭のてっぺんにもあり、女を追い、階段を一歩一歩降りていくたびに体の中心のものとあわさってはさらに熱せられる。熱の波動が大輔をより狂わせていく。女は壁に追い詰めれていく。背後にパチンコ屋の広告が貼られていた。赤い髪のかつらをつけた胸の大きな若い女が微笑んでいる。その隣で、実在する女が怯えていた。それが余計、頭にきた。なぜ、震える。女よ。なぜ、涙を流さんばかりなっている。俺たちは正しく現実を認識している同志ではなかったのか。ふいに、うしろから腕を強く掴まれた。掴むだけではなく、さらにからだを捻じろうする。痛い。いてえよ。ばかやろう。振り返ると見知らぬ中年の女が立っていた。女は犬でも叱るかのように大輔に向かってコラ!メッ! と言い放った。

「もう、行きなさい」

 中年の女は女に告げた。女は会釈のようなものをすると、駆けていった。大輔は自分の手を握ったままでいる女の顔をまじまじと凝視した。見覚えのない女であったが、彼女ははわかっているというように大輔に向かって大きくうなずいてみせた。

「あなた、うちの息子にそっくりね」

 中年の女は大輔の目を捉えたままいう。白髪をおかっぱにした女は踝まであるスカートを履いていて、紙袋を下げている。さきほどから遠巻きに事態を見守っていた駅の利用客たちが、若い女が逃げたところで安心し、階段の上と改札の外に向かって消えていく。

「同じ病気の人って、顔も似てくるっていうけど本当にそう。その上半身だけキツツキみたいに動いて怒るところまで似ている」

 中年の女性は怒っているのか、笑っているのか、定かではない。今度は大輔が動けなくなる。女の魂胆があまりにわからなかった。ちょっと、ねえ、あなた、きをつけてね。女は大輔の腕をつかんだまま腕を上下に激しく振った。

「うちの息子は刑務所に入れられちゃったわ。女の子を消火器で殴っちゃったのよ。ボーンって」

「お、俺はそんなことはしないです。今だって、暴力を振るうつもりはなかった。でも、あの人が、あの女が頭がおかしいんだよ。誤解なんだ。なんで、俺が悪いんだ?」

「うちの息子も普段はとてもやさしい子だった。でも、それは母親の贔屓目だったのかもね。あの子は女の子が落としたハンカチを追いかけて渡してあげたら、私のじゃないって言われて、それは、どうやら、本当に違ったみたいだけど、息子は嘘をつかれたと思ったみたいなの。それに女の人は息子が変な方法で声をかけてきたと勘違いもしたみたいで、冷たくあしらったそうよ。それで、息子はキレちゃったってやつ? ドスンと一発!!! ボーンじゃない、ドスンよ。一発だったわ」

 中年の女はふたたび、大輔の手を掴んだまま、上下に振った。

「だから、あなたも気をつけてね。いい、わかった??」

 あのババアの方こそ、頭がおかしいんじゃないか。大輔は今になってそう思い返す。激高している若い男に近づいていって、止めようという神経もそうであったし、あの滅茶苦茶な手の振り回し方は常軌を逸していた。手を握られたときのぬめりという気味の悪い感触は思い出すと肌が粟立った。あのとき、とんでもないことをしたという記憶は、あの中年女性のせいで作られたものなのかもしれない。あのババアのせいで、自分が重罪を犯した気でいる。単に、若い女の人に話しかけて、向こうはナンパか何かと勘違いしただけの、小さな諍いごとに過ぎないのだ。そう大輔は考えたかった。

 篠崎も大輔に同じようなことを言ってくれた。

「その手の勘違い女はたくさんいる。地震警報への対応をみても、もともと被害者意識が強いんだ。自分だけが可愛いタイプの女だよ。大輔ちゃん、逆に、それぐらいのトラブルで終わって良かったんじゃないか。変に事件になったり、裁判沙汰になったら、大変だぜ」

 篠崎は携帯電話の番号を扱う古物商であった。いきなり電話をかけてきて、大輔の携帯電話の番号を売ってくれと迫ってきたときは、さすがに人をあまり疑わない大輔も相手にせずにすぐに電話を切っていたが、ある日の電話の際に、大輔のPCから流れるこの世界のBGMに気がついて、「この世界か。俺もやっているぜ」と言い出して、おまけにサーバ4まであるこの世界の中でサーバー2でプレイしていると聞いて以来、篠崎の電話には出るようにしていた。最初は大して面白いゲームだとは思わなかったけれど、同盟に入ると面白いよなと篠崎がいうと大輔は我が意を得たりとばかりに私を強く掴み、本当ですよねとうなずく。「これはよく出来たゲームですよ。伝説になるんじゃないかな」。大輔は篠崎に電話の番号は売るつもりはないとはっきりと明言してあった。大輔の携帯電話の番号は覚えやすい良番だという篠崎の言い分に怪しげなものを嗅ぎ分けるほどの分別は大輔にもあった。ただ矢鱈滅多に携帯電話に電話をかけて、何かしらの鴨を探しているだけだと見抜いてはいた。ただ、篠崎は「いいんだ。それよりも、ゲームの話をしようぜ」と言った。互いに、情報交換の貴重な機会だろうという篠崎の言い分は確かに肯うべきものだった。

 篠崎との会話で明かしていたが、大輔は過去にも、こういう奇妙な年上の知り合いを持っていたらしい。地元にいたときに、中古ゲームソフトを扱う店の店長と仲良くなり、ときどき、呼び出されて、店で一緒に昼飯を食べていた。この店長は裏で無修正のアダルトビデオも取り扱っていて、大輔が地元にいるうちに逮捕されてしまった。その顛末を聞いて、篠崎は「大輔ちゃん、俺を胡散臭く思いすぎだよ。仲良くしようぜ」と笑った。大輔は表面的には自己主張が少なく従順であり、根拠のない自信に満ちあふれてもいないがために、ある種の大人に好かれるのだろう。

 篠崎は南東方面で二十の町を支配しており、いくつか同盟を渡り歩いたが、現在は南東の鷲という地域限定同盟に所属していた。大輔は警戒心から自分の所在を明かさなかった。調べてみるとホワイト・ライオットは南東の鷲といかなる同盟も結んでおらず、交戦歴もなかったが、何がどう作用するかわからないのがこの世界であった。 

 ホワイト・ライオットの掲示板では、「俺のリア友に「屋根の上の笛吹」に入っている奴がいて、どうやら、あそこは盟主が結婚することもあって、解散するらしいよ」といった類の書き込みがときおりなされた。大輔は篠崎という知己を得ることで、ついにそれが自分もできるようになるかもしれないと密かに期待していた。相変わらず日常会話には参加できていなかったが、この世界上で起きた重要なことに関する書き込みであれば、自分にもできるし、誰も不快にはならないはずだった。

 先週の日曜日には、スカイプを利用して先進同盟首脳会談が開催されていた。そこでの和平交渉は決裂し、次回の開催日も決められていない状況ではあったが、大戦は終わりつつあるというのが、篠崎の見方だった。ホワイト・ライオット内でも、同じことを言い出す人間がいた。みなが平和の素晴らしさに気がついたのではなかった。この世界は再び大きく壊れ、大々的な戦争を続ける余裕を失ってしまった。

 この世界では、戦争によって主が交代した町は、ソーラーパネルステーションも、プランクトンクッキー工場も、一割の割合で生産力が損なわれる。戦争そのもののによる破壊と、支配主が交代することによって、適用法規の変更などが生じ、生産活動にも滞りが出てくるとの解釈がプレイヤーの中ではなされていた。その町の主が戦争に敗れて再び主が変われば、さらに、町の生産力は一割落ちた。戦時においては、当然インフラの回復よりも、募兵にプラグが使われるために、町の生産力の回復は遅々として進まなくなる。結果的に戦争が激しい地域では、算出されるプラグが加速度的に減少していき、募兵できる数も限られていく。それがこの世界のすべての地域で起きていた。多くの同盟を巻き込んだ大戦によって、「内政の一年」の成果はすべて無駄となった。ホワイト・ライオットが戦時中に同盟順位を上げたのは、他同盟がその生産力を落としていったことが主因だった。

「もう、元治安部隊五万が戦う会戦とか、そういう規模の戦いはおきにくいだろうな。こんなゲームをやっているのは貧乏人ばかりだから、プラクを買うって言ってもたかがしれている。五万人の元治安部隊を買うには、百万円が必要だ。千人規模の大手同盟が一人あたり、千円だせば集まる額だといえばそうだが、まあ、無理だぜ。千円払えっていうならやめるっていうやつがばかりだろう。所詮、オンラインゲームなんてそんなものだ。むしろ、それぐらいの態度でいいんだよ。金を払ってまで遊ぶもんじゃない」

 南東の鷲はこの大戦において、戦神たち側に立って参戦していた。ただ、彼らの参戦の仕方は利己的で、マキャベリズムに富んだものであったようだ。積極的に他同盟に援軍は要請して受け入れるものの、自分たちは他の同盟への援助はいっさい行わず、ひたすら己の勢力拡大に努めていた。辺境の町々が魚鱗の陣側の兵站基地と化している可能性を故意に広めて、他の同盟からの援助を募ったうえで掃討作戦を展開し、町々を自分たちのものにしていた。その甲斐あって、今では、南の辺境にある町のほとんどには南東の鷲の旗がはためていた。

「俺たちの作戦に邪魔はほとんど入らなかった。中央でドンパチやっている間に、端っこの奴らをどんどん駆逐していった。魚鱗側で参戦している同盟の奴らはもちろん、個人プレイヤーも攻撃していった。最後は戦神側で参戦している同盟の同盟員の町も落とした。間違えたことにしてな」

「ひどいな。賛成できないよ」

「ひどいかもな。でもな、その町が落とせれば、俺たち鷲が南東三地区の町をすべて支配下にすることができたんだ。知っているか? 地区をすべて支配下に収めると、マップに同盟旗が表示されるんだぜ。俺たちは「スラムダンクZ」とか名乗るそのおっさんに南西に一つ新しい町を用意するから、交換してくれってはじめは頼んだんだ。俺も仕事でもやらないぐらいに丁寧な文章でメッセージを出した。でも、そのおっさんはこの町に愛着があるからイヤだって言いはってな。それでまあ、最後は実力行使よ。なかなかガッツのあるやつで、多分、プラクを大量に購入したんだろうな。何の仕事をしている奴かは知らないが、五十万近く遣ったんじゃないか。いくら攻めてもとにかく兵隊が減らなくて、甘く見ていた分大変だったぜ」

「ますます、ひどいですよ」

「あのな、これは戦争ゲームなんだぜ。戦争以外に何をするんだよ? サーバー2は反戦自衛官みたいなわけのわからない奴らが多すぎるぜ」

 南東の鷲では、スパイを遣って、敵として想定される町に対して諜報活動を行っていることまで篠崎は自慢気に話して聞かせた。

「毎晩、夕飯を食べに行っているスナックの女が俺の遣っているスパイだ。もう、酒に声をからした四十六のおばさんなのに、十八歳の女のふりをさせている。――このゲーム、ネットで評判を聞いてやってみたけど、やり方がよくわからないよ、あたしも初期のガンダム大好きで、あなたのハヤト(ジュード)って、名前、超ウケたから、とりあえず、メール送ってみたの――。みたいメッセージを相手の町の主の童貞に送らせて、徐々に仲良くなるわけよ」

 篠崎の女スパイは資材に困っているようなフリをして、プラクを支援させたり、兵隊はどれぐらい募兵しておいた方がいいのだと質問して相手の兵力を聞き出したりしていた。もっともひどいときには、一緒にあの町を攻めよう。二人の町にしようと約束をし、出兵したとたんに、スケベが兵隊を空にさせた町を落としたこともあったと篠崎は楽しそうに語っていた。

 篠崎は、約束通り、携帯電話の番号を売る話しはいっさいしなかったが、やはり、信用できる相手ではなかった。大輔はそれに気がついたのちは、ホワイト・ライオットを含む自分のことについて語ることはいっさいせずに、ひたすら、篠崎から話しを聞き出すことだけにつとめた。他にもいろいろなゲームをやっているらしい篠崎はどこでどう情報を仕入れているのか、同盟順位三位の「猫達」内で参謀をつとめるグレイシア伯爵が、二位の「バトルオブこの世界」に引き抜かれるのも、同盟順位一〇位の「ボルケーノ」が解散するのも事前に耳にしていて、大輔に教えてくれた。大輔はそれらの情報をホワイト・ライオットの掲示板で書き込み、情報通だとずいぶんと持ち上げられた。相沢商業二組三番さんは派手さはないけど戦い方も堅実で、新人への援助も惜しまないナイスガイです。北西方面長のポンペイウスにそう褒められ、大輔は浮かれた。ハナゲバラも、よかったら、長いもの限定しりとりとか、方言限定しりとりとか、いろいろやっているので参加してくださいと書きこんでいたので、大輔は思い切って「長いもの限定しりとり」の「運動会のつな」のあとに「長芋」と書いて、図らずも笑いをとったりしていた。

 他同盟でなされている殺伐としたやりとりや、裏切り、結果的に起こる内戦の様相を篠崎から聞いていた大輔は、ホワイト・ライオットの素晴らしさをあらためて強く感じた。不戦の方針を示されたときは、はっきりいえば、物足りなさを覚えてもいた。こそ泥みたいに、同盟から抜けた町、放置された町を掠め取るだけでは得られない満足感が大戦にはあるはずだった。大戦に参加するために、他同盟への移籍を真剣に考えた時期もあった。数十名が全力でぶつかる会戦を経験してみたかった。だが、平和が一番だと思い直した。みんなが何かに怯えることもなく、のんびりと、楽しく生活できる。それ以上の価値はない。感極まり、大輔は唐突に、ホワイト・ライオット最高! と同盟の掲示板に書きこんだ。そのあとも、何人かが、最高!、最高!、と続き、大輔はますます、熱いものがこみ上げてきた。大輔はこの世界にずっといたいと希った。現実社会との接点は寝る時間だけでよかった。あとは、ずっとこの世界で、羽ばたき、咆哮していたかった。

 

 十  スマホ 3.4インチ部分


 和哉が再び倒れ、美希は少しの間、仕事を休むことになった。大輔によって書かれたSNSの日記によれば、和哉は大輔が中学生のころに一度脳梗塞で倒れている。それで、和哉は文房具の卸問屋を辞めさせられ、それ以来、ガソリンスタンドでアルバイトとして働いていた。美希はずっと倉庫で仕分けのパートをしている。

 ママがパートを増やすけれど、パパの面倒もみなきゃならないから、どこまで働けるかわからないのよ。また、教科書代みたいなことがあるんだったら、はやめにいってよねと美希は苛立ちげに口にする。美希は、大輔が入学直後に教科書代が払えないと泣きついてきたことを言っていた。大学に行っていない美希と和哉は、入学後にすぐさま高額な教科書代がかかることを知らずに、大輔からの相談の電話を受けて、あわてて金を工面していた。両親より仕送りされた五万円は、おそらく、どこかで借りてきたものであることを大輔は感づいていた。入学式後のオリエンテーションで、学部長は保護者達がいなくなった会場を見渡して、君たちの大半はここが第一志望でないかもしれないし、そもそも学ぶということに対する意欲はさほどないのかもしれない。だが、知らないってことは本当に酷な結果を招くことがあるのだと語った。学部長の話はうそではないことをさっそく知ったと大輔はSNSの日記に綴っている。

 大輔は母親に、教科書代は二年生になったときに少しかかったが、自分のアルバイト代で賄ったこと、つぎは三年になるまでは教科書代は必要にはならないはずであるし、それもアルバイト代で賄うから仕送りは必要ないと言った。子供の学習費用を無駄遣いのようにあつかう母親が腹立たしかった。仕送りもせずに、子どもに毎日働かせておいて、さらに教科書代さえ支払わないという親が情けなかった。大輔はそんな脆い支えさえ失いつつあった。

「パパはどうなの? 二回目でしょう?」

 と大輔は訊いた。

「軽い心筋梗塞だって。あぶらっこいもんばっかり、食べているからね。自業自得よ。本当にイヤになっちゃう。勝手に死んでくださいって感じ」

 はじめに和哉が脳梗塞で倒れた直後、美希は血管の詰まりにいいとされる青魚や海藻を毎日食卓に出していたが、和哉は「ストレスが一番良くないんだよ。こんな食事を続けていたら、ストレスでぶっ倒れちゃうよ」と泣き言をいい、次第にそれらに口をつけなくなっていった。和哉は結局、煙草もやめず、ガソリンスタンドでのアルバイトの帰り道に寄り道をして、好物であったケンタッキー・フライド・チキンを食べたりしていた。高校生のアルバイトたちに奢ってやって喜ばれた。あいつらがんばっているからさと自慢気に大輔に話したこともあった。根っからの、のんき者で、常に緊張感が欠いたような和哉の顔を思い浮かべて、大輔は腹立たしくなった。和哉は状況を正しく認識する能力も、それに対処する能力も決定的に欠いている。和哉がこの世界にいたら、すぐに駆逐されるはずだった。彼は内政タイプにも、戦争タイプにもなれないだろう。いきあたりばったりの行動のみで、戦略というものが持てないのだ。なんで、あいつはスナック菓子を食べるのをやめなかったんだよ。どうして、そんなに馬鹿なんだよ。大輔は母親相手にぶちまける。美希は今まで自らが率先して和哉を罵倒していたのを忘れたかのように、あんた、そんなことを言えるの、誰に育ててもらったかわかっているのと激昂しかけるが、その言い分はすでに弱くなっていることに気がついたのか、はたと黙りこむ。

「学費は大丈夫なんだよね。別に貯金してあるって聞いているけど」

「うん。それは大丈夫よ。パパもママもちゃんと、大輔のことは考えてあるんだからさ」

 大輔は夏休みにはアルバイトを入れるつもりだが、とにかく盆だけでもそっちに帰るからと叫ぶようにいった。美希は少し声音を優しくし、駅前のロータリーが工事をしていて、バス停の位置が代わったから帰ってくるときは気をつけてねと言い残して電話を切った。

 電話のあと、便所に立ち上がった大輔は窓に映る自分のすがたに足をとめた。醜悪で、まだ二十歳であるのに、すでに禿かかっている男がそこにいた。笑ってみても、口角が奇妙に鋭利にあがり、感じの良さは滲んではこない。父親にそっくりだというときの母の言葉には無念さがにじみ出ているが、母親似であっても、石ころが木くずになるようなものだ。あんな男もそれを選んだ女も救いがたい愚かな人間だ。

 首筋に浮かぶ血管を大輔は手でさする。このくだを引っこ抜き、吹き出す血を想像する。替りに入れる血がない。誰もくれやしないだろうとガラスに映る自分に話しかける。わざとらしいことはやめようやと口角を鋭利にあげて笑う。わざとらしいと思っているじぶんは弱く、脆い。わざとらしいと思いたがっているだけで、すでに狂っているのではと考える側に立つ自分もまた脆い。大輔は私のカメラを己に向けて、写真を撮る。連続して何枚も己の顔を撮ったのちに、それを友人が一人もいないSNSに投稿する。

 今日、寝るまでに篠崎から電話がかかってきたら、電話番号を売りはらう事を決意するが、あの男からの連絡はなかった。

 

 十一  スマホ 3.4インチ部分


 前期のテスト期間がはじまっており、今週はスペイン語と基礎統計学の試験が予定されていた。スペイン語のテストは単語の穴埋めで、基礎統計学のテストは授業と同じサンプルを扱い平均値を出せば「可」の評価がつくと予告されていた。ふたつのテストは毎日、真面目に授業に出席していれば、特に前もって勉強をしておく必要がない、大輔好みの形式だった。

 試験期間に入ると、きまってノートを携帯電話のカメラで撮らせてくれと頼んでくる男がいた。馴れ馴れしい男で、大輔は苦手にしていたが、大輔に話しかけてくれる唯一の同級生であったし、その態度はかわいそうな子に話しかける偉い子といった風な押し付けがましさもなかったので、大輔はいつもこの男にノートを見せていた。。男がスマートフォンのカメラでノートを撮っているときに、そのTシャツかっこいいなと男の着ていたものを褒めてみた。マジかよ? だったら、今度一緒に買い物に行こうぜと男は笑った。どうせ嘘であろうし、そもそも服を買う金はないだろうと大輔は思った。ただ、就職活動が本格化するまえに友人をつくっておかねばならないことを思い出して、いいぜ。行こうよと答えた。こういう会話の積み重ねが大切なはずだった。無駄に見えるようなことを繰り返して、人と人の関係は出来上がるのだ。

 この世界において、現実社会の友人をもつ人間は情報通だった。大輔も篠崎と知り合うことによって、はじめて、皆の知らないことを教えることができた。就職活動の際に、同じ学校に友人をもたないというのは決定的に不利になる。情報をもたない人間が駆逐されていく様を大輔はこの世界で嫌というほど見てきた。

 SNSの日記によれば、大輔はどうしても東証一部上場の企業に就職を果たしたいらしい。ろくな保証を受けないまま、小さな文具の問屋メーカーを馘首になった父親をみていて、中小企業に勤める恐怖を知ったのだ。去年の卒業生の就職先には、一部上場の飲食業、運輸業、不動産業の企業がいくつか入っていた。それらは、従業員を金を持ち出す鼠のように扱う企業ばかりだったが、大輔にとって大きな問題ではなかった。中小企業ではもっとひどいことをしているにきまっていた。大きなところであれば、世間も厳しく、監視の目も向けられるが、小さなところはそれさえも期待できない。そんなところにしか勤めることができないゴミに救いの手は差し伸べられない。

 大きな会社イコールよい就職先ではないという奴は嘘つきか、現実を直視できない弱虫だと大輔はみなした。それは金があるから幸せだとは限らないとか、美人は三日で飽きるだとかいう言葉と同じ類のものだった。一度、病気になっただけで馘首になった和哉は自分の勤務先を訊かれたり、書き込む必要があった際は、一介のガソリンスタンドのアルバイトであるのに、「エネオス」とまるで自分が製油所のプラント建設に関わっている風に回答していた。和哉は他に親戚の形見分けでパナソニックの株を少しもっているのが自慢であり、会社から届く株主招集ご通知を毎年いつまでも壁に貼って愛でていた。あの背中から何も学ばないとすればただの阿呆だ。

 就職する二年後にも、震災の影響が続いていることを大輔は覚悟していた。これから先、景気など一度も良くならないこともありえた。求人は減っているであろうし、入社後の待遇もいっそう悪くなっているに違いなかった。業種も職種も選り好みはせずに、なんでも、やるつもりで大輔は一応はいた。だが、ひそかな志望として、都市プランナーを第一としているようでもあった。この世界で内政を行っていて、自分の町で人びとが平和に暮らしているのを想像しているうちに、都市プランナーという仕事に惹かれた。愚かかもしれないが、野球漫画が好きで、プロ野球を目指すのとなにが違うのか論理だって説明できる人間はいないはずだった。たとえば、東北でそういう仕事ができれば最高だった。味方によっては震災の被害にあった地域とこの世界は似通っていた。なにもかも消えてなくなったが、勤勉な市民が残っている。誰かが導いてあげれば、復興は必ず果たせる。

 大学の就職課の担当職員にそのことを相談したら、うちの学生なのかとまず訊かれた。そうだと答えると担当の女性職員は無理よ、現実を見たらと叫ばんばかりに答えた。都市プランナーになるのには最低でも一級建築士の資格か、都市工学に対する博士論文が必要だと彼女は諭した。都市開発を行う会社も、就職先としてはかなりの狭き門で、その中でも行政や建設会社、鉄道会社と折衝をしつつ、町をつくるような仕事を行う部門は東大、京大クラスの大学院を出たような人間か、学生時代にロックフェスを企画、実施するような実行力をもつ人間で占められているのよ。職員は子供に言い聞かせるような口ぶりだった。恥ずかしくなってしまったのか、怒りに駆られているのかはわからないが、尋常ではないほどに顔を赤らめ身を震わせている大輔を目の前にして気まずく思ったのか、彼女はそこではじめて、なぜ都市プランナーになりたいのかと訊いた。さすがにこの世界のことを口にするのは憚れたのか、自分の手で住み良い町を作りたかったんですと大輔はどうにか答えた。カウンセラーはそのあまりに子供染みた、真当な理由にやや虚を突かれたようだった。そうだとするととカウンセラーは言った。「たとえば、居酒屋チェーンの店員さんとか、クリーニング店の配送だとか、電線の歪みをチェックしたりする仕事だって、快適な町づくりには欠かせないでしょう」。「……」。「ごめんなさいね。わたしは学生に現実を見せるのも仕事なのよ」。いや、そういった一市民兵ではなくてですね! と大輔は椅子から飛び上がる。カウンセラーは怯えはじめていて、後ろで男性職員が立ち上がっている。ふざけ過ぎだぜ、ババア、いえ、嘘です。すみませんと意味不明瞭なことを口走りながら、大輔は就職相談室のドアを開け、外に走り去っていった。


 十二  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 何かあった日の大輔はすぐにわかる。この世界にログインするものの、せわしなくマウスを動かすだけで、具体的な指令には行き着かない。「ああ」とか「うう」とかときおり奇妙な声をあげ、貧乏ゆすりを繰り返しては、空に拳を突き上げたりする。数分か数十分経つと、大輔の中で何かがかたち作られる。ついに、ブログかSNSにその怒りがぶちまけていく。そこで、私は大輔が夢を嗤われたことを知る。

 都市計画に従事するような人間は頭の良い、立派な人であるのは大輔にも想像できた。三流大学の卒業生には見果てぬ夢といわれても仕方がないのかもしれなかった。だが、自分ほど、まじめに大学にかよっている人間は他にいないのに、その大学の職員から、いとも簡単に届かぬ目標だと決めつけられたことが何よりも頭に来ているらしかった。一般教養のハワイ史の講師は、なんで君みたいな生徒がここにいるのだと常日頃から大輔に言っていた。大輔はひとりしか出席していなかった授業でその講師と大学の惨状についてずいぶんと語り合ったこともあった。この大学の生徒は結局はセックスのことしか考えていない。たいていの奴は新聞さえ読まない。まれに真面目な性質の奴もいるが、残念ながら、彼らこそ、根っからの馬鹿だ。表面上はおとなしくしているが、妙にひねていて、自分たちより上の存在は常に嘘をついていると思い込んでいる。アメリカは月面に着陸していないし、三月の震災もユダヤ人が開発した地震兵器によって引き起こされたと頭から信じこんでしまっている。根っからのもの。治癒可能なもの。進行中のもの。いろいろといるが、ともかく全員馬鹿ばかりなのだ!

 これまで、大輔は教員たちの言うことを信じ、守ってきた。もちろん、気に食わないこともあったが、従うことが一番、損をしない合理的なやり方だと考えていた。彼らは若者に教えるのを生業としていて、そのための訓練も受けている。その恩恵に預かるのが賢いやり方なのだ。実際に、自分が偏差値三十台の商業高校から大学に行くことができたのは教師たちの言うことをよく聞いて真面目にやってきたからだと大輔は思っていた。大輔はすべり止めで地元の専門学校も受けていた。親や他の生徒は、大輔がせいぜい専門学校に進学できる程度だと思っていた。彼らの予想を大輔は覆した。大輔の大学進学は、高校のパンプレットに載せられている。その写真は大輔のSNSにもアップされている。受験での成功体験が大輔を強くしていた。就職の機会においても、自分の願いが叶わないとは言い切れない。

 それにあの女はこの世界のことを何も知らなかった。この世界におけるホワイトライオットの存在意義と、ホワイト・ライオット内での大輔の役割を知らなかった。つまり、それは何も知らないことだと言ってよい。

 大輔は平日の昼間は大学に通い、夜はスーパーマーケットでレジを打つ日々を続けていた。土日は、どちらか一日はスーパーマーケットでレジをうち、一日を休暇にあてた。休日はもちろん、平日の夜のわずかな自由時間も、すべて、この世界で過ごしていた。夢中になれば、就寝時間が遅くなることもあるが、もともと、夜には極端に弱い性質であって徹夜にいたるようなことはなかった。また、ラジオ体操をする女を相手にした朝の日課もあって、昼夜の逆転は生じずに済んでいた。

 大戦は終わったが、力の均衡は崩れたままであった。散発的に戦争が起き、町が奪われていた。同盟が分裂し、内戦が起こっていた。ホワイト・ライオットは難民を受け入れ続け、その援助を行った。大輔も町で生産されるプラクの一割を難民救助に当てることを己に課し続けた。この世界の総プラク生産を計算して、ブログで発表している男がいた。弟と二人だけの同盟を結成しているこの男は自分たちのプラクの生産量と己の同盟の順位の変動を変数として、サーバー2全体の生産量を算出するアルゴリズムを組んだのだ。彼の公表する数字によれば、会戦以来落ち込む一方であったプラク総生産高が先週、ようやく下げ止まっていた。大輔はこれは、この世界を知らぬ者であっても、もっと広く報道されてもいい数字だと受け止めた。多くの人間が集うこの世界でのこの成果は平和のありがたみと、援助と復興の関係に深い示唆を与えうるはずだった。そして、この過程に関わっている自分は、学生生活では得られない経験をしているとの自負をますます強めた。極端な話、国連で働いているのと同等の経験をしていると言ってもよかった。それをあの女は、あの大学にいる誰もが知らないでいる。何も知らないあいつらが俺という存在を測れるはずがない。


 十三  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 都の代表で甲子園の常連でもある私立高校の生徒だけで組織された「山口組ユース」は若さに任せた粗暴な同盟で、喧嘩上等を掲げ、ひたすら他の同盟に戦争をしかけるのを方針としていた。いずれ、どこかの大手同盟に滅ばされると大人たちはたかをくっていたが、意外なことに、しぶとく生き残り、勢力も無視できないほど大きくなっていった。外交はまったく行わず、戦争という手段においても、同盟員たちが相手の町への到着時間もろくに合わせられないほどのレベルであったのだが、ともかく豊富なプラクを所持していた。兵隊をいくら無駄死にさせても、すぐに新兵を補充し、出軍させた。

 後に発覚するのだが、山口組ユースはその資金を恐喝によって集めていた。虐げられていた同級生の親がいつのまにか自分の口座から数百万円が引き落とされていることに気が付き、警察に通報することで事件が発覚した。

 世間では、「いじめ」の問題として捉えられたが、この世界にも原因があるとされた。未成年にも課金をすること、さらに、その課金をあおるようなゲーム構造が批判の対象になった。テレビ・ニュースでアナウンサーが「プラスチッククッキーが」などと話すのをこの世界のプレイヤーたちは、いくぶん不思議な気持で聞いていたようだ。ホワイト・ライオットの同盟員は「この世界もメジャーになったな」、「つぎはプラクって言い出すんじゃないか」と茶化すような書き込みをしていたが、大輔はこの世界そのものに対する攻撃の様相を呈してきたことを笑い事として受け止められずにいた。伝えられている内容の不正確な部分が特に気にかかった。有料であることが原則のような報道は誤解を招くと思ったのか、インターネット上のニュースサイトにこの世界を擁護するコメントを書き込んでいった。――プラスチッククッキーは基本的には購入するものではなく、造るものなのです。金銭の多寡がすべてのような説明は、この世界を正しく伝えていないです。――。この世界は人と人がつながる素晴らしさとかを伝えてくれる大切な場なんです。山口組ユースのような奴らは本当に例外的な存在だということをわかって欲しいです。

 大輔の広報活動も虚しく、この世界を運営するゲーム会社は素早い決断を下した。ホワイト・ライオットが存在し数多のデータを蓄積させたサーバー2を九月三十日付けで閉鎖すると発表した。この世界はサーバー1から4まであり、それぞれが同質のサービスを提供している。サーバー2が閉鎖されるだけでは、この世界そのものがなくなるわけではなかった。だが、今度は世間一般がこの世界について理解しておらずまた理解する気もないことが功を奏し、運営会社の決定で問題は解決されたとみなされた。

 大輔たちサーバー2の主たちは十月一日よりサーバー4のマップに移住することになった。従来から運用されていたサーバー4のマップ上にそれぞれが新規に一つの町のみが割り当てられ、使用の有無に関わらず購入したプラクのみが補填されることになった。


 十四  スマホ 3.4インチ部分


 アルバイトを終えた帰りの電車で、大輔はサーバー2閉鎖のニュースを知った。ホワイト・ライオットの掲示板に貼られた運営会社の告知文を読み、すぐに大輔は私の縁でドアに強く一度打ち付け、「嘘だ!」と声を荒げる。座り込み、あたりを見回し、文字通り天地がひっくり返るような重大な事件が起きたのに、車内がいつもの夜とまるで変わらないことにあらためて戸惑いを覚えていた。

 サーバー2の主たちは、当然、運営側の決定をやすやすと受け入れることができなかった。自分たちは責められるところはなく、訴訟を起こすと息巻く者もいた。彼らはせっかく、獲得し、育てた町をすべて失うことに怒りを覚えていた。隣人が誰になるかもわからない見知らぬ土地で暮すのはとてもつらいことだった。あまりに理不尽な決定であったため、こんなことがまかりとおりわけがなく、さすがにどこかで運営側は考えを改めるのではと皆がどこかで思っていたが、運営会社が方針を転換する気配はなかなか表にでなかった。ついに何人かのプレイヤーは運営側に抗議のメールを送ることをしたようだが、運営側の弁護士は有料分のプラクはサーバー4でも使用できることを理由にそれらの抗議をつっぱねた。騒いでいる人間の中で、弁護士相手に法律論を戦わすことができる者はいなかった。

 ホワイト・ライオットは悲しみに打ちしがれた。大戦は収束し、大手同盟が一挙に内政に力を入れ始めたがために、同盟間順位を三十位以下に落としてはいたが、同盟内の雰囲気のよさは変わらなかった。ちょうど、この夏に、東京のどこかでホワイトライオットフェスタを開こうという計画が動き出していたころでもあった。

 ホワイトライオットフェスタで、新執行部のお披露目がされるはずだった。ハナゲバラの提唱により、七月一日よりホワイト・ライオットは民主制に移行していた。六月の終わりにインターネット上のアンケートサービスを利用した総選挙が行われ、盟主への投票がなされた。選挙の結果はハナゲバラの圧勝で、選挙管理委員会を努めたチャオブーによれば、ほぼ満票に近い得票率だった。ハナゲバラは就任演説で、一年したら、自分は身を退き、後進に譲ることを明言し、さらに規定により各方面の部隊長と参謀を任命した。各方面の部隊長が副方面長を選ぶかたちがとられ、北西方面の部隊長ポンペイウスは、大輔を副方面長に選んだ。用兵が巧みな上に、いつもきちんと相手に宣戦布告を行い、夜に奇襲をかけたりはしない、騎士道精神にあふれた人物であると推挙理由には書かれていた。この推挙に大輔ははじめは戸惑ったようだ。まず、辞退を考えて、ポンペイウスにその旨のメッセージを書くまではした。たとえば、同じ北西方面の「山本浩二8番」みたいに、面白い書き込みをして皆を笑わせることが自分にはできない。支配している町の数も少ないし、実戦経験にも乏しい。だが、ポンペイウスが自分のスタイルを支持してくれたことが大輔の心に響いたようだった。今、すぐにはできなくとも、努力しだいでは、面白いこともいえるようになるかもしれない。立場が人を作るということもあるだろう。逡巡した挙句、大輔は推挙を受けることにした。就任に際しての書き込みでは、高校の先生に贈られた「早く成長するものは早く枯れ、遅く成長するものはいつまでも枯れない」の言葉を引いて、ホワイト・ライオットの北西方面における着実な発展を誓ってみせた。大輔は篠崎から、今年のお盆は危ないと聞かされていた。皆が休みをとる時期には大きな戦争が起きやすい。大戦は終わったが、この世界において約束や信義はいとも簡単に反故にされるという不信感が色濃く残った。ホワイト・ライオットのように大戦から距離を置き、力を蓄えている同盟は他にもある。「夏に何かが起きるはずだ。それを俺は楽しみにしている」と篠崎は言っていた。大輔も夏の大戦をこの世界の集大成にするつもりだった。誰よりも紛争の危険を早く察知し、守るべき者は守り、攻めるべき者を果敢に攻める。ホワイト・ライオットの誰一人として死にはさせない。副方面長の責務を果たすためであれば、何だってやれた。己のすべてをホワイト・ライオットに捧げよう。虎となり咆哮し、龍となり翔んでやる。

 そこまで意気込んでいた矢先にサーバー2の閉鎖が一方的に決まったのだった。大輔は国民生活センターに消費者相談をしたが、無料でプレイをしていたオンラインゲームという時点で、真剣にはとり合ってはくれなかった。ゲームのデータについては、他からクレームはあることはあるが、まだ法的保護に値するところまで議論は高まっていないと言われた。これは単純なゲームの話しではないのだ。多くの人間の生き方の問題なのだと大輔は私に向かって叫んだが、消費者センターの女は聞く耳をもたず、それどころか、微かに笑った気配さえあった。それから大輔はまた例のごとく、感情の昂ぶりから支離滅裂なことを口にしはじめていた。相談員は警戒し、この会話は録音していると告げた。大輔はとたんに態度を豹変させ、ごめんなさい、ごめんなさい。僕は今、平常心ではないんです。普通じゃないんですと詑びをいれ、あわてて会話を打ち切った。

 サーバー4への移住後にも、ホワイト・ライオットを立ち上げようとの話し合いが行われてはいた。ただ、いずれの場所にそれぞれが新しい町を与えられるのかも不明のままでは、どうも、話が具体性に欠けた。さらに、再び一つの町から出発しなければならないのはやはり面倒であり、もうこの世界をやめるかもしれないと言い出すものもいた。だいたいが大輔よりも以前にこの世界をはじめており、そろそろ飽きがきていたのも否めなかった。ハナゲバラさえも、希望を見出せませんと書き込んでいた。大輔は驚き、盟主自らそんなことを言わないでくださいとメッセージを送った。ハナゲバラからはそうですね。頑張りますと返信がくるものの、その覇気のない文面に不安はいっそう高まった。

 いくつになっても夏は良いことはない。大輔はSNSの日記にそう一言かきこんでいる。

 

 十五  スマホ 3.4インチ部分


 レジ打ちの仕事を終え、入念に手を洗う後ろ姿をどうにか覗き見ることができた。あらためて、やせ細った、貧相なからだだとわたしは思った。夏休みはどうするのだと店長がうしろから声をかけていた。お盆はできれば田舎に帰りたいと思っていることをついに大輔は口にすることができた。店長が何も言わないので、大輔は田舎の夏について訊かれてもいないことをつらつらと語った。暑いことは暑いが、夜には気温がきちんと下がること、観光客が見に来るほど大きなものではないが、精霊流しがあり、そのあとに父と母と一緒にサイゼリヤに行き、ステーキを食べるのが恒例行事であることを甲高い声で泡を飛ばすようにして話した。父親の具合が悪いことは、休みの口実のように響くような気がしたのか、口にしなかった。大輔にはそういう誠実なところがあった。「休みたいなら、もっと早く言って欲しかったな。もうシフトを組んでしまったよ」と店長は言うのみで、休みについての承諾ははっきりとはしめさなかった。さらに、地震直後も君はずっと田舎に帰っていたし、実家がよほど好きなんだねと嫌味を口にした。大輔は店長の態度にむかっ腹が立った。これだけ毎日シフトに入っておいて、夏休みはとらせないなどありえなかったし、地震直後は非常時であったはずで、それをとやかく言うのは人として間違っているように感じていた。こういう相手に対して、父の病気のことをあえて口にしなかったような温情をかける必要はなかったと後悔もしているようだった。

 店長が売り場に戻っていったために、大輔はホワイト・ライオットの議論を追おうと、ロッカーのリュックサックの中に手を入れて私のことを探しだそうとしている。指を伸ばして、ポケットティッシュや教科書、ノートの頁と頁のあいだまで調べた。「あれ?」。大輔はリュックサックをロッカーから出すと、そこに顔を突っ込むようにする。「あれ?」。「あれ、おかしいぞ」。「ふざげんなよ」。「ありえねえよ」。いくら探しても、私のことが見当たらない。ついにリュックサックの中身をすべて長机の上にぶちまけて調べたが、やはりわたしは出てこない。「なんだ、これ?」。「やっぱり、夏だよ。夏なんだよ。油断していたぜ」。大輔は屈みこんで這いつくばるが更衣室の床にも私の姿はない。アルバイトの同僚が何しているのだと声をかけてきたが、無視を決め込んだ。店の電話を手にして、私に電話をかけるが、私は音を鳴らすどころか、振動さえしない設定になっているのは大輔自身が知っているはずだった。レジに行く前に、この世界の掲示板で、相互条約の国際法的解釈について、誰かが書き込んでいたのを確認したのを大輔は覚えている。掲示板では、サーバー4に移ったあとでも、従来の条約の効力が存続するのかが議論されていた。大輔自身は当然に効力が生じるとの考えだった。たとえば、世界中の人間が火星に移住することになったとして、日本人のコミュニティをアメリカ人のコミュニティが攻め込むことが赦されないというのが自然な解釈のはずだった。その自分の考えとそっくり同じことを誰かが書き込んでいたのをみて安心したのちに、国際政治の授業をとるべきだったと後悔しながら、きちんと鞄の所定の位置にスマートフォンを戻したはずだった。それが勝手に消えてなくなることなど現実社会においてはありえなかった。誰かが盗んだ。大輔はそう確信した。体の中心が熱っせられていくのを意識する。いつものように頭の頂点がのぼせ、沸する。

 大輔は立ち上がり、角中のロッカーの前に立つ。私は大輔が個人的な好き嫌いで犯人を見誤ることを危ぶんだ。角中は制服のポケットにいつも二つ折りの携帯電話を忍ばせていて、レジ打ちをしているときも四六時中、パッカン、パッカンとうるさいほどに頻繁に開けて見ている。明日から、それを同僚のスマートフォンに差し替えるほど、あの男もバカではないと考えるべきだ。売ることが目的だとしても、角中はその手間さえ嫌うであろう。

 続いて、大輔はランのロッカーの前に移動する。犯人がランであると考えるのは大輔にとって痛ましいことに違いない。ただ、状況的には、就業時間が終わってもレジのところで同僚と馬鹿話をしている角中よりも、三十分前に仕事を終え、すでにスーパーマーケットを去っているランの方が状況的に犯行は容易かった。彼女が熱心に行っている位置ゲームは、従来型の携帯電話向けのサービスは終了し、スマホ向けに切り替わるとインターネット上のニュースで知ったばかりでもあった。運営側の決定に翻弄される身として、ランにもその考えを聞きたいと思っていたところだった。 

 大輔は、ランに対して怒りの気持ちをもったのだろうか。その表情は怒りというよりも、悲しみに近いようにみえた。ランはスーパーマーケットの仕事のあとにも、居酒屋で働き出していた。大輔も夜に働くことを考えはじめていた。二人共仕送りはなく、苦しい生活を送っていた。地味な性格で、水商売や、キャッチセールスといった実入りのいい仕事もできずに、ただ時間を費やさなければならなかった。その中で、唯一の生きがいであるゲームができなくなる辛さを大輔は慮っていたのかもしれない。大輔はずいぶんと長い間、天井を仰ぎ見ていた。 

 店長と角中がバックヤードに戻ってくる。大輔は店長の前に立ちふさがり、ランの住所を教えてくれないかという。

「えっ? ランちゃんの住所を?」と店長は聞き返した。

「そうです」

 と大輔は答えた。それがなんでもない、当然のような風を装っているつもりのようだった。

 店長は声にならないため息のようなものをわずかに漏らすと、座るように椅子を勧め、角中に部屋の外に出るようにいった。「店長、そろそろ、はっきりしてやった方がそいつのタメですよ」。そう角中は言い残し、廊下に出ていった。

「なんで、ランちゃんの住所が必要なんだ」

 と店長は訊く。大輔は口ごもり、ちょっと、借りたものがあってという。

「ふたりとも明日もシフトに入っているだろう。その時じゃだめなのか」

「ええ。それではダメなんです」 

 それから店長は大きく息をはき、大輔の勤務態度を褒めはじめた。遅刻、早退もなければ、途中で煙草休憩を勝手に取ることもしないと言った。「角中みたいにな」と店長は小さく笑うが、大輔は機嫌を取るような様子がかえって不気味で笑う気になれなかったようだった。この冗談を含めて、店長が以前から大輔に言い渡そうとしていた内容を口にしはじめているようにみえた。その芝居がかった口調は準備されたものをなぞるだけの滑らかさが感じ取れた。大輔がこれまでの人生の中で何度か大人たちから受けてきた断絶の端緒がみえはじめていた。

 私はそのとき、大輔が手の届く範囲の店長の机の上にいた。店の鍵などが入った手提げ金庫の下に挟まっている。大輔がレジを打っている最中に店長は大輔のロッカーを開け、リュックサックの中から私を探し当てた。店長は大輔が勤務先の悪評をブログに書き込んでいる証拠を掴みたかったのだ。店長は前々から他のアルバイトや本部から、店の中のことを書き込むアルバイトがいると教えられていて、対策をとる必要があった。誰かから名を上げられなくとも、犯人が大輔であるのはだいたい予測がついた。店長が私のロックを解除しようとあれこれいじっているあいだに、パイナップルが腐っていたという苦情の客がきたとアルバイトが駆け込んできたため、いそぎ、私の上に手提げ金庫が置かれた。

「ただ、スーパーマーケットは接客業で、ハキハキした口調や、感じの良い態度も必要になってくる」

 大輔はうなずいた。自分が誰もに好かれるようなタイプではないのは十々、わかっているだろう。一年以上勤めたのに、いまさら、そんなことをいわれるいわれはないとも思っているに違いない。それから店長は大輔に映画を見たり、本を読んだりすることはあるのかを聞いた。これが感受性とか情緒に対する問いであるのは感づいていたのだろうが、どちらもあまり好きではないと大輔はぶっきらぼうに答えた。友達と遊んだり、恋人とデートをすることはあるのかも尋ねられた。友人も恋人もいないと答え、どうして、そんなことを訊かれなければならないのか、プライバシーの侵害ですと声を荒らげた。店長はその点について頭を下げるものの、表情の底に隠された冷ややかなものは変わらなかった。大輔は何度か味わったことのある、あの冷たく昏いものが迫ってきているのに怯えはじめていた。私は大輔がこの世界について語リ出すのを危惧した。自分は仲間もいるし、そこではそれなりの役目を持っているのだと言い出すのを身構えた。

「どうして、ランちゃんの住所が知りたいんだ?」

 と店長が再度きく。

「いや。べつに。それはもういいじゃないですか」

 店長は壁にかけられた時計を見上げた。本部からの通達で、閉店後の店は空調の電源を切らなければならない。すでにバックヤードの室温は上がり、息苦しいほどになっていた。二週に一日しか休めない店長は店を閉めて、一刻も早く家に帰りたいだろう。店長は何らかの決断をくだそうとしている。多くの人間が関わる、とても重要な問題があるのだと大輔は小さな声でいう。自分はある方面で責任のある役職についていて、スマホがないと緊急対応ができないのだと付け足した。それから、田舎に帰るのは二、三日でもいいのだ。だから、いいだろうと口走った。また、いつものように支離滅裂になりはじめている。相手に意見したかと思えば途端に媚びる矛盾が出始めている。「もう、いいです。勘弁してください」と大輔は口にする。店長は大きく息を吐いた。クリアファイルに入ったシフト表をずいぶんと長く眺め、それからわざとらしく、再び、大きく息を吐いた。

「前に、生理ナプキンを買ってくださったお客さんからクレームが来たのはいつだった?」

 店長は大輔にそう訊いた。入ってすぐのときだから、ほぼ一年前になりますと大輔は答える。ただ、あれは、紙袋に入れるのか入れないのか、客の答えが聞こなかったんです、それで、何度も聞き返したら、向こうが何か勘違いしてクレームになってしまっただけですよ。俺も確かに慣れていなかったけれど、あの客も端から感じが悪かったんです。次の方どうぞっていっているのに、明らかに俺のところに来たがらなかった。あいつは、クレーマーですよ。クレーマ。他人に文句をつけるのが大好きなクソみたいなクレーマですよ。ああ。すみません。すみません……

「人が足らなくて困っているんだけどね。でも、明日から来なくていいよ。言っている意味はわかるよね?」

 ついに店長がそう口にした。どういうことですか? と大輔は聞き返した。店長はすでに立ち上がっていて、何も答えなかった。実務家の店長は馘首を言い渡すところまでしか考えていなかったし、馘首にしてしまえば赤の他人であって、自分が配慮すべき相手ともみなしていなかった。いつのまにか、他のアルバイト達がドアを開けて覗きこんでいた。角中が「今日のことをブログに書くなよ」と声をかけ、みんなに笑いが起きていた。大輔は彼らの元に向かう。アルバイト達は慌てて散らばり、逃げた。大輔は彼らを襲ったのではなく、ただ出口に向かっただけだった。大輔は何もいわずにそのまま去っていった。それが私が見た最後の大輔のすがただった。


 十六  PCディスプレイ 15.6インチ部分

 

 冷たい水のシャワーをずいぶんと長いあいだ浴びていた。部屋の中で、からだが震えるのも大輔はそのままにしておいた。帰りの電車のドアの窓を何度も殴りつけたのだろうか、拳を痛めたようだった。「ぶっ殺してやる」「めちゃくちゃにしてやる」「ぶっつぶす」。そんなことを繰り返しながら、大輔は部屋の中を歩きまわる。

 いつものブログに大輔はログインする。法律違反のスーパー○○上井草店の店長に告ぐと入力するが、すぐに消し、過去の記事もすべて削除する。そのうえで、「もう怒っていない。誰だか知らないが、俺の宝物を返してくれ」とだけ書き込んだ。

 それから大輔はこの世界での同盟に関する議論の続きを追うがそこに新たな書き込みはなかった。雑談が行われているスレッドで、今日、馘首になったことを相談することを大輔は思いついた。以前、ある同盟員が、仕事で運転をしている最中に、駐車場で他の車にぶつけてしまい、その損害の賠償を会社より求められていた。社会保険労務士の資格をもつ同盟員が、彼の相談に対して、法律的に根拠のある具体的かつ適切なアドバイスを与えていた。それで、事故を起こした同盟員は救われたのだ。自分が解雇された経緯も、違法で赦されないのは明らかに思えた。ただ、副方面長がたかだがアルバイトを馘首になってしまったことを明かすことが憚れたのか、結局書き込みをするまでは至らなかった。いっそう、告白とともに辞職しようかとも考えたようだが、それは結局、今回の件は自分に非があると認めることであった。現実社会とこの世界を自らつなげる必要はなかった。この世界に現実社会の汚濁を持ち込むべきではない。

 次の日、大輔は昼過ぎまで寝ていた。大学の授業は休んだようだった。起きだしてきてわたしの電源を入れて確認してみたが、例のブログの書き込みには何の反応もなかった。この世界の状況に変化もなかった。大輔はインターネット上でスマートフォンの値段について調べだした。それから、キャリアのサイトで盗難保険について確認をしていた。盗難届だとか、紛失時の申告だとかの記事を読んで、メモをとっていたが、表情は浮かないままだった。保証は一定額に限られ、いずれにしろ高額の負担は発生するようだった。

 それから、大輔はSNSの設定が誰にも読まれないものになっていることを幾度か確認したのちに、久々に書き込みを行った。


 夏は本当にいいことがない。女に関わってもいいことがない。というか、生まれてからいいことがないともいえる。

 嫌になる。吐き気がする。死にたくなる。いや、死にたくはならない。俺はそこまで弱くない。

 ただ心を鎮めさえすればよい。小さなチェーンのろくでもないスーパーマーケットの店長とそこで働く馬鹿どもの顔はもう忘れるべきだ。俺は犯人を見誤った。その時点で負けたんだ。犯人は店長だ。あのクソは俺のスマホをみて、ブログの書き込みを確認したかったんだ。なぜ、俺はそれに気がつくことができなかった。あの場で、それをひとこと、ボソリと漏らせばよかったんだ。店長、返してくださいよ。通報しますよ。それだけをひとこと漏らせばよかったのに、それができなかった。

 自分が悪いわけではないのに、どうしても、心が沈んでいく。食い扶持を失ったのだから、当然なのかもしれない。これから先のことを考えると、不安で仕方がない。卵かけご飯も喉が通らない。

 結局は金の問題だ。金さえあれば、問題の多くは解決する。スマホがなくなっても、また買えばいいかとあれほど騒ぎ立てることはなかったし、そもそも、あんなくだらないアルバイトをする必要もなかった(あそこは、ババアばかりの暗い職場ばかりだと思っていたのに、実際は、若者も結構いるし、若者とババアも結構会話をするし、呑みにも出かけるしで、思っていたものとだいぶ様相が違った)。

 毎日、値段を気にせずに、好きに外食ができれば、栄養はからだに行き渡り、病も気からというように、ぐじぐじと悩むところも少なくて、もっとよい人生を歩めただろう。女性にも人気があったかもしれない。金を持っているという事実の効果もあるだろうし、今の自分とはまるで違う自分でいるからだ。

 家族だって、きっともっと仲が良かった。親父も病気にならずに済んだ。母親もヒステリーを起こさずに済んだ。すべては金だ。金から発生する問題だ。

 ここから逃れるにはどうするのか。

 それは逆説的だけど、金のことを気にしないことだと俺は結論づける。

 金がない。ないと言い続けていても仕方がない。

 金のことを忘れるのだ。自由な心を取り戻すのだ。

 金なんてどうにでもなる。

 新しいスマホを買おう。前よりも画面の大きいものを買おう。


 十七  スマホ 3.7インチ部分


 前期テストの途中で、大輔は大学に行くことを放棄した。

 経済史のテストの際に、試験官から、首にぶら下げたわたしを仕舞うように注意された大輔は忽然と立ち上がり、教室から出て行ってしまった。試験官が何か誂うようなことを口にしたらしく、廊下を降りていく際に教室で笑い声が響いているのが聞こえた。大輔はそれに立ち止まり、教室に舞い戻るそぶりをみせたが、結局は、すぐに静まり返った教室の中に怯えるように背中を向け、階段を飛び降りていった。

 大輔に買われてから、私は自分がとても大切にされていることを感じていたが、いささか度が過ぎるとも思っていた。電車に乗っている際に何度も所在を確かめられたし、眠るときさえ首にさげておくのはいったいどんな理由があるのだろうと訝った。

 なにしろ、大輔はそれほど私を必要としているようには見えなかった。連絡をとるのは母親だけであり、この母親からの連絡も心待ちにしている様子もなかった。スナック菓子の食い過ぎで倒れた父親のことをずいぶんと悪げにいうばかりか、そんな相手を選んだ私は馬鹿な女だよと嘆く母親の話を大輔はほとんど聞いていなかった。実際に大輔は母親に対して、父親の容態が変わらないのであれば電話での連絡は不要であるし、急変でもしないかぎり、メールでも構わないとさえ言っていた。

「いやだよ。色気づいちゃって。もしかして、部屋に誰かいるの?」

 子どもに邪険にされたことに動揺したのか、変にはしゃぐ美希に対して大輔はますます苛つきをみせる。うっさいな。僕だって忙しいんだよと電話を切った。その後、私を床に叩きつけかけるが、思いとどまり、危ない危ないと誰に見せるつもりでいるのか歪んだ笑顔を浮かべる。いずれ、必要になる。いずれなと大声を出して、そのままPCに向かう。

 変わったときに笑う男だった。金もないのに駅前のレストランでステーキを食べ、腹を壊して、店の便所で蹲っているときも笑い声をあげていた。

「なんで、こうなるんだよ」

「なんで、こうなるんだよ」

「なんで、こうなるんだよ」

 そう言って、笑い声をやかましくケタケタと響かせていた。個室のドアにかかっていた女の水着のポスターに唾を吐き、また、笑っていた。


 十八  PCディスプレイ 15.6インチ部分 


 ホワイト・ライオットでは、サーバー4に移住後に向けた話し合いがぽつぽつと続いていた。ハナゲバラは、各々がバラバラにされたのちの、分布の結果をみて、方面長を任命し直すとの方針を示していた。ただ、候補者は従来の方面長、副方面長を第一にするつもりだと書いてあるのをみて、大輔は期待を抱くよりも、不安を覚えたようだった。仮に大輔に町が与えられた地域に従来の方面長や副方面長が不在の場合、大輔が方面長に任ぜられることになる。大輔はサーバー4へのデータの移行が許されている有料プラグを買ったことがないために、サーバー4に移住後は、赤子同然の戦力ではじめなければならなかった。

 サーバー4の住民の中では、移住者を抹殺する運動が起こり、広がりを見せていた。サーバー4の首位同盟「阪神タイガースラブ」と二位同盟の「スーツはズボンだけ買えればいい」は三ヶ月続いてた戦争の停戦に合意し、移住者の排除に向けて談合を繰り返していると同盟員のひとりから情報が入っていた。大輔も篠崎から似たようなことを聞いていた。サーバー4の住民はもともと新参者というだけで、この世界の中では低く見られているむきがあった。そうであるのに、サーバー2の不手際から、自分たちのあずかり知らぬ理由で、己の町のとなりに町が建ち、移民が一挙に流入するのは、受け入れがたいことであるようだった。同じこの世界の住民であるのに、その排他的な態度は胸糞悪いとハナゲバラが憤りを露にした。サーバー2排斥運動をうけて、ハナゲバラは、以前より頻繁に発言するようになっていた。本人も認めるように、排斥運動がハナゲバラの心に火をつけたのだ。

「サーバー4の一部の連中の主張は本当に頭に来る。移住後は、大人しくしていようかと思ったけれど、そうもいかなくなったようです(笑)」

 大輔を含めたホワイト・ライオットの同盟員たちはハナゲバラの復活を喜んだが、各々がひとつの町しか持ち得ないなかで、どこまで、サーバー4の巨大同盟と戦うことができるのか、現実的な回答はなかった。その理不尽さを訴える先もなかった。大輔以外の同盟員も、有料でプラグを買ったことがあるものはほとんどいない。

「どうしますかね。借金してでも、戦ってやりましょうか」

 そんなハナゲバラの書き込みを大輔はずいぶんと長いあいだ眺めていた。


 

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