(2)
夜、就寝前。屋敷はしんと静まり返っている。否、遠くのほうで下働きの人たちが、明日の朝ごはんやら残りの仕事を片付けるために勤しんでいる物音が聞こえる。
他の人に気づかれないよう、小さくランプを灯した。
明日はとうとうパトリー公爵さま主催の夜会である。
父さまは対レイチェル用の神話作戦はあきらめたらしい。とことん興味ないことには興味ないレイチェルは、日々家庭教師の老師が喋り出すと同時に夢の世界へ旅立っていた。
アルバート家に生まれながらなんと嘆かわしい! と嘘泣きする先生と、神話なんて腹の足しにも恋の武器にもならないじゃない! とほっぺたを膨らませてプンとそっぽを向くレイチェルの間には、しばし火花が散っていたのでハラハラした。とりあえず、授業はわたしだけが受けることになったのだが、レイチェルはそれですら気に入らないようだった。まったく小難しい我が妹君だ。
さて。
ただいまわたしは日課の日記帳と、『ひらがな書き』を努めていた。
わたしの日記帳には二種類あって、ひとつめが『セシリア・アルバート』としての日記。もうひとつが『望月円香』としての記憶の断片を書き記したものだ。前者はともかく後者はたとえ家族であっても見せることはできないため、手のひらサイズのものにして持ち歩けるようにしている。
『ひらがな書き』はわたしが物心つく前からやっている。最初は前世の記憶を思い出すたび懐かしさがこみあげてきて、それを追い払うようにノートの片隅に『あ』から『ん』のひらがなを書き出した。
何歳のころだったか正確には覚えていないけれど、たしか父さまが珍しくわたしの勉強姿勢を観察にきて、そのとき見つけられたのだ。
もちろん大慌て。でも、結局ただの落書きに見えるかしら、なんて呑気に構えてたら……なんと、この『ひらがな』が魔法を生む文字だったらしい! ちなみに『カタカナ』は呪い文字。いわゆる黒魔術ってやつかしら?
とにかく、父さまは仰天したうえ厳しい顔でひらがなを書いた紙を取り上げたくせに、翌日にはケロリとしてこう言った。
「いいかい、セシー。このことは父さまとふたりだけの秘密だぞ。母さまにも言っちゃだめだ」
どうして、なんて言わなかった。そりゃあたぶん、習わせてもいない文字を知っているこどもがいたら気味悪いからだろう。
父さまにはなにか考えがあるらしい。毎月一回、白い洋紙手渡され、『あ』から『ん』を書いておけと命じられた。書き終わると、父さまは満足げに笑い、わたしの頭をひと撫でして『ひらがな』を書いた紙とともに去ってゆく。たぶん、こっそり処分してくれるはずだ。
魔法というのは、主に男性のものらしい。けれど『ひらがな』を覚え扱えるのは類い稀な才能が必要で、『ひらがな』を書けるだけで一種のチートらしい。そこいらへんが『平成日本』の記憶があるわたしにはピンとこないのだが、『ひらがな』という文字の構造だとか意味するところだとか、文字それ自体が所有している魔力や媒体によるいにしえの力が作用し、文字としておこすことはもちろん、頭のなかで象どることもたいへん難しいのだとか。最近になってようやくイメージできたのは、おそらく『ひらがな』や『カタカナ』という文字には多大な魔力がある(もしくは魔力の根源である)ので、それらを所有物として使おうとすると拒絶反応のようなものがおきる。人間は魔法に支配されることは容易でも、人間が魔法を駆使するのは難しい、ということだ。おそらくそれは『日本語』として文字を認識しているわたしには無意味な論理で世界の常識。だから『ひらがな書き』は転生して唯一のチート能力。なのに、そもそも魔法は男のものなので、女だからという理由でおおっぴろげにできないという盲点もある。つまるところ、ちっとも役に立っていない!
だからたぶん、わたしの推察どおりであるならば、父さまはわたしに魔法文字『ひらがな』を忘れさせないようにし、いざというときの『切り札』にしたいのだと思う。父さま自身も魔法の結晶を生み出せるくらいすっごい魔力があるらしいけれど、『切り札』はあるに越したことないしね。わたしは魔法なんて使えないから、父に従うだけだ。悪党そのものだけれど、抜かりない狡賢さは人一倍で、妙なところですさまじい警戒心を発揮するので、わたしも不思議なことに頼もしさを感じている。
そういうわけで、十八歳になった今も、こうして『ひらがな書き』は月一で継続中である。
よし、完成!
右上から順番に縦書きで、『あいうえお』、『かきくけこ』、最後には『わをん』で締めた『ひらがな』を満足げにながめる。この年になって『ひらがな』を書く練習というのもどうかと思うが、父さまの願いならば仕方がない。なにより、わたし自身『あたし』を忘れたくないというのもある。
以前、『ひらがな』の他に『カタカナ』や『漢字』も練習しようとしたんだけど、『カタカナ』を見るなり父さまはビビっちゃうし――「おまえは呪いを行う気か!」なんて号泣された――、『漢字』は意味をなさないらしく――「頭大丈夫?」という顔をされた――、結論からいえば『ひらがな』以外は役に立たないらしいので、父さまの前では書くことができない。
いまだに謎なのは、どうして『ひらがな』と魔法が関係しているのか。わたしにはかり知ることはできない。
ふっ、と息を吐き出し伸びをしたところで、コンコンココン、と父さまのノック兼合図が響いた。
「セシー、いつものはできたかい」
「はい、どうぞ」
ひょっこり顔をのぞかせた父さまにできたばかりの羊皮紙を手渡す。『あ』から『ん』までをいつものようにしげしげと見つめて最終チェックし、父さまは今日もうんうん頷きニヤけていた。
悪役の下っ端ってこんな表情するよなあ、と思いつつ、外面はおとなしくしているわたしも、ポーカーフェイスがだいぶ板についてきた。
「よくできたね。これは預かるよ。おやすみ」
「おやすみなさい、父さま」
いつもどおりの、決まった会話。なんら変化のない日常。父さまはドアを閉め、わたしはあくびを飲み込み明かりを消してベッドへ入る――はずだった。
だけど、今日だけはちがった。『ひらがな』を大事そうに懐にしまいながら、父さまは笑みを深めて口をひらく。
「セシリア、グスターヴの若造がおまえに会いたいそうだ。明日の夜会では張り切って準備なさい」
「えっ」
「王族直々にもお誘いがあったぞ。よくやった」
喜々として、父さまは「あのグスターヴが我がアルバートに頭を下げる日も遠くはない!」など鼻歌まじりなごきげんようだ。わたしの家と騎士さまやリカちゃんの家って、仲悪かったの? ライバル関係だったの? 一度落ちぶれたアルバートの当主である父さまは、たぶん、一方的に今も王族のそばに仕えているグスターヴが気に食わないだけだと思うのだけれど。
「と、父さま、会いたいって、わたしに……?」
「おまえ以外にだれがいるというのだ」
「レイチェルとか……」
「それはもちろん、妹も会わせる。だが、おまえのほうが姉なのだ。しっかりやるのだぞ」
やるって、なにを?
思わず眉間にしわを寄せてしまったけれど、能天気馬鹿は気づかない。今度こそ「おやすみ、かわいいセシー」とささやいて部屋を出ていった。
あのハゲ、ちゃんと説明していきなさいよ。
つまり、リカちゃんか騎士さまに「明日の夜会でぜひともお会いしましょう」ってお呼ばれしたってことよね。わざわざ事前に約束を取りつぎたいくらい、お話ししたいことがあるってことよね。
嫌な予感が胸をしめる。
もしかして、騎士さまの手首は思った以上に痛んでいたのかした。制裁とか粛清とかあるかしら。夜会でいじめの標的とかになってしまうのかしら? ああ、不安で眠れないっ!
目をとじても瞼の裏に浮かぶのは、天使のようなほほえみを浮かべるアレックス王子と、切なげに笑うリカちゃん。そして、般若のごとくこちらをにらみつける騎士ハロルドさま。
思えば――幼いころからなにかあれば「グスターヴの若造が」とか「ふてぶてしい次男坊」とか言われていたけれど、実物を見るのはこの間の舞踏会がはじめてだった。リカちゃんはどちらかといえばやさしげなまなざしなのに、騎士さまのほうはちっとも穏やかじゃない。はじめから敵意剥き出しだった。悪い人ではないだろう。だって、『悪女セシリア』を見てふつうの笑顔を向けてくれること事態がありえないくらいの奇跡なのだから。
ばっちり目覚めた眼をぎらぎらにさせて、わたしは窓から翌日の朝日が飛び込んでくるまでベッドの天蓋とにらめっこしていた。