(3)
「貴様――!」
びっくりしたのは、彼だけじゃない。わたしだって仰天だ。
瞠目し、それから小さく舌打ちして「貴様」と口をひらいた騎士さま。それに気づき何事かと振り返るアレックスさま。「なんでもありません」と言おうと一歩踏み出したわたし。
すべてはスローモーションで認識されていく。
アレックスさまのあとを程よい距離でついていた騎士。それが災いしたのか、ちょうど殿下と騎士の間にわたしの足が踏み出した。振り返り足を止めた殿下、驚き矛先を変えた騎士、そして、わたしの、足。
騎士さまの足がわたしの足に引っ掛かり、体制を崩したもののすぐに立て直そうとしたけれど、目の前に足をとめた殿下を発見し、すぐに身体をちがう方向に傾けた騎士は、必然的に、その鍛え上げられた肢体を無様に転がすしかなかった。
もし、殺気などを感じれば、転ぶことなく優雅に立て直しちゃうんだろう。体軸もしっかりしていることだし、わたしのように這いつくばることもなく。
なのに、間抜けなわたしの足は無意識に出たのだ。決して騎士さまを故意に傷つけようとしたわけじゃない。もちろん、「ハルちゃん」の呼びかけだってそうだ。
ふいうち、「ハルちゃん」、そして間抜けなわたしの足――この三拍子を前に体制を崩し、かつ殿下を傷つけまいと自ら転がることを選んだ騎士さまは、すばらしい忠義心の持ち主だ。女の足に引っかかったからといって決して無様なわけではない。
そんなことを数秒のうちに頭のなかで叫びながら、片隅では走馬灯のように『リカちゃん』を思い出していた。
グスターヴ家の長兄リカルドと出逢ったのは、めでたくもわたしの社交界デビューの夜会であった。
ダークグリーンの瞳はやさしげで、くすんだブロンドの髪は肩にかかるほど長くサラサラストレートの彼はとても魅力的な紳士で、まだ夜会になじめずにいたわたしには王子さまに思える存在だった。
そんな彼としだいに親しくなりはしたものの、恋人同士になることは一度としてなかった。なにを隠そう、リカルドこそ噂の『悪女セシリア』の餌食のひとりであり、はじまりの人なのだ。
当初、周りで侍っていた男たちは『悪女セシリア』の名が出回った途端、蜘蛛の子を散らすように早々と撤退していき、そばに残ってくれたのはリカルドだけだった。変わらぬ友情を育んでくれ、わたしにとっていつしか彼は兄のような存在になっていった。
リカルドはたいそう家族想いの心やさしき青年だ。たったひとりの弟が、最近はめっきり家に顔を出すことがなくなったと嘆き、顔をくもらせる。弟の名前はハロルド。昔は女の子のように可憐な器量の、つい守りたくなるような気持ちにさせる雰囲気のこどもで、将来は騎士になるのだと宣言した際に、リカルドは激しく抗議したらしい。それでも兄の反対もむなしく、弟は家を出た。
「昔はお兄ちゃんっこで、とても可愛らしく、弟とは思えなかった……」
さっさと兄離れしてしまった弟をさみしく思ったのだろう、「妹ならば家で囲えたのに」と切なそうに語るリカルドに、わたしは励ましを与えたかった。そのころには彼を『リカちゃん』と呼ぶほど親しかったわたしは、弟を『ハルちゃん』と呼ぶことを提案した。思い出のなかだけでも幼くかわいかったころの彼に会えるように、と。
それに、女の子のような弟君なのだ。リカルドも「とてもかわいい」と豪語していたくらいだもの、きっと呼び名も気に入るにちがいない。
実際に『ハルちゃん』と呼んでやれば、弟は顔を真っ赤にして照れたのだ、とリカルドはうれしそうに語っていた。
だが、ついさっきわたしが口にした『ハルちゃん』を耳にするなり怒りを露わにしたところを見ると、恥ずかしがっていたのではなく怒りに震えて顔を真っ赤にしていたのではないか?
リカちゃん、天然だったもんなぁ。
そんな現実逃避は、「ハロルド!」という『ハルちゃん』の名を呼ぶアレックス殿下の声で終わりを告げた。
騎士さまの顔面が、床と接触するかに思われた。いや、確実にする。
だが、その瞬間、騎士の片手はすばやく床に設置され、まるでバネのように反動を使って身体を起き上がらせたのだ!
まさかの神業である。
「すご、い」
感嘆の声が漏れるのも自然のことだろう。侮っていた。いやはや、騎士とはすごいものなのだ。
周囲で固唾をのんで見守っていた人々も、まるでサーカス芸を観たあとのように無意識のうちに拍手しちゃっている。
だけど、それでもやっぱり騎士さまだって人間なわけで。ちょっと手首を痛めてしまったらしく、手をさすってわずかに顔をしかめる。利き手じゃないところが、これまた騎士魂というのでしょうか。
とりあえずボケっと突っ立っている場合じゃない! あわてて駆け寄り「申し訳ありません! お怪我は……」と声をかけてみた。
途端に、ぐりんと首だけでこちらを見て、般若は唸るように低い声でのたまう。
「いえ、お気遣いなく」
……これほどまで言ってることと表情が一致しない人をはじめてみた。出しかけた手をさっと引き戻し、目を見開いて立ちすくむ。
本気の殺気なんて初体験である。
「ハル、大丈夫か」
アレックス殿下が心底心配しているお顔でお尋ねになると、騎士さまはケロリと表情を変え、軽く頭を下げた。
「はい。こちらこそ、お見苦しいところをお見せして申し訳ございません。殿下にお怪我は?」
ほっと胸をなでおろし、一切の感情を消して無表情になった騎士に殿下は苦笑した。
「ハルが避けてくれたから大丈夫。でも、おまえは一応医務室に、ね?」
「いえ、自分は――はい、わかりました」
一度断ろうとした騎士を目だけで制し、アレックスさまはにこりと笑った。周囲が再びしんと静まり返って注目するなか、殿下がこちらに目を向ける。
「セシリア嬢は大事ないですか」
「は、はい。わたくしは……それより、申し訳ございません。決してわざとでは……」
胸のまえで祈るように指を組み、頭を下げる。
ホント、わざとじゃないんです! 王子さまの騎士さまになんてことをしてしまったのだろうか……不敬になるかもしれない。なにより、騎士さまには申し訳ない。怪我はないと言っていたけれど、絶対に手首を痛めているはずだ。
殿下は気にしないでと首を振ったが、周りはそれで終わりなど許さない。「まあ、なんて白々しい!」とか「絶対に故意にですわ。殿下をお引止めしたいがために騎士殿に悪戯するなど……」とか「噂通り、最悪な女ですわ」なんて声がちらほら。
い、いたたまれない。でも、本当に土下座したいくらい反省しているのに、白々しいなんて言われて場違いにもむかついた。……率先して陰口を言うのは我が妹君だろうか? 耳に入った聞きなれた声に口の端が引きつる。
とりあえずその場は殿下の御計らいでなんとかなり、わたしもしずしずと退散した。もちろん、周囲からの白い視線を浴びながら。
帰りの馬車は散々だった。
レイチェルから話を聞いた母さまは憤怒の形相で「恥さらし!」とまくしたて、妹と一緒になってにらんでくるし。
もし足を引っかけた相手が殿下だったなら、斬首もあったかもしれない。騎士さまが見るからに大怪我していたら、責任を問われるかもしれない。そしてそれはわたし個人というより、アルバートの家にかかっている。
騎士さまはたしかに手首を痛めていたようだけれど、大事にはしなかった。こちらのためなのか、それとも単に騎士の根性で認めたくなかったのかはわからないけれど、ひとまず救われたことに変わりはない。今度会えたら――といっても、そんな機会はまったくといっていいほどないだろうけど――謝罪とともにお礼言わなくちゃ。
ただ気になったのは父さまだ。黙ってなにか考え込んでいる。嫌な予感しかしない。
父さまはこれを好機ととらえているのかも。最高権力にお近づきになれるかも、と。
理由はなんだっていい。「うちの娘がとんだご無礼を!」なんて謝罪を建前に騎士さまに近づき、果ては殿下と取次ぎをなしてもらおうとしているのかも。
しかし相手は王族。簡単にはゆくまい。そして父さまは、いつもはちょっぴり阿呆で残念だけれど、こういう悪巧みに関しては殊に頭が働く。目を見張るほど。
出たくなる長いため息を飲み込み、目をつぶる。
今夜はいろいろあった。たくさんの人に出会った。
夜の帳がおろされる。空には星がまたたいていた。