前篇
「704円のお釣りになります、ありがとうございましたぁ」
――特になんの変哲もない大手コンビニチェーンの店内。夕方から夜に変わっていく、仕事帰りのリーマンや学校帰りの学生が多い時間帯。
若い女の子の事務的な内容の、しかし暖かい声がチルド商品の品出しをしている俺の耳に届いた。
俺は、ちら、とそちらに目を向ける。
亜麻色の美しい長髪とぱっちりとした目が印象的な少女――水樹渓がレジ打ちをしている。今はお釣りをお客さんに渡そうとしていたところだった。
コンビニでお釣りをもらう時、特に女の店員の時にだが、手を添えて渡してくれると気分が暖まる。まあ、そーゆー機会でしか女の子と触れ合うことができない俺だけかもしれないけど。
水樹渓はそういう丁寧なお釣りの渡し方をする子である。
正直、それだけで無条件にコンビニに通いたくなる。これは俺だけではないはずだぜ。
事実、俺は今お釣りを受け取っている冴えない大学生風の客を毎週この時間によく見かける。水樹渓がシフトに入っている時間を狙ってやってきているのだろう。その証拠に彼の顔はどことなくデレっとしている。まあ、これだけ可愛いJKと手を触れ合う機会なんて普通ないからな。気持ちはわかるから俺からは何も言えまい。
「ありがとうございましたぁ」
満足そうな顔で去っていく大学生風の男。
そこでちょうど客が途切れ、レジの方を見ていた俺と水樹渓の目が合う。
きっ、と鋭い目つきで睨まれる。言い換えればガンを飛ばされている。これは「こっち見てる暇があるなら仕事しろ」の意だろう。
「言われなくてもやりますよ」の意を込めてガンを飛ばし返すが、渓は「あぁん?」という顔になった。たぶん意味は通じなかったと思われる。言葉を使ったコミュニケーションというのは偉大なのだな、ということを再確認していると、新たな客がレジに並んだので睨めっこは打ち切り、渓は持ち前の美貌を最大限活用した営業スマイルを再開した。俺の方も品出しを再開する。
「さっきのアレはなんだったわけ?」
「アレとは?」
バックヤードにて。
バイト時間が終了し、帰ろうとしていたところへ声が掛けられた。
そのバイト中の客に対してのものと明らかに違う声色は、紛れもなく同一人物の口から出たものだった。
水樹渓。
俺のコンビニバイトの先輩(数ヶ月だけだが)で、学年的には一つ下のその少女は不満そうに、
「ガン飛ばしてきたでしょ。なんなの?」
「いや、先にガン飛ばしてきたのお前だろ」
もはや年下なんだから敬語使えなどとは言わない。ここではあたしの方が先輩でしょ? と返されるのが見えているからである。ここで働き出した頃に何度かそのようなやりとりがあった。もう食傷気味なのである。
「それはアンタがサボってるから注意してやったんでしょ」
「俺はちゃんとやりますよーって返事をしたつもりだったんだけど」
「わかるわけないじゃん! バカなの死ぬの?」
それ言うなら先にやったお前の方がバカなの死ぬの? なんじゃないのなどと思っていると、やり取りをしていると。
「おう、お疲れ」
コンビニバイトの先輩の松岡さんが声を掛けてきた。ちなみに名前の方はあの熱い方と同じ読みだが違う漢字である。俺たちと入れ替わりでシフトに入るのでそれなりに話す機会もあるのだが、愛想のいい人であるという印象だ。顔立ちも悪くないので接客業に向いていると思う。
「お疲れさまです」
松岡さんは俺たちを見て、
「また夫婦漫才でもやってたのか?」
「夫婦漫才って……」
俺は苦笑しながら言った。
「そーゆーんじゃないから」
きっ、と渓は松岡さんに対しても容赦ない視線を向ける。先輩に対してこいつ! と思うものの、
「おお、こえーこえー」
とちっとも怖がってない様子で言う。これが大人の余裕というものか。いや、まだ大学生らしいけど、高校生の俺からするとそれ以上の落ち着きがあるように見える。
「んじゃ、ちょっくら働いてくるわー」
「がんばってください」
戦場へと赴く先輩の勇姿を見送り、
「そろそろ帰るか?」
「そーね」
バイトが終わる頃には、もう夏とはいえすっかり日が暮れている。それでも汗ばむくらいの気温で、八月にはどれだけ暑くなるのかとげんなりしてしまう。
俺は自転車をからからと押しながら、亜麻色の髪の毛をなびかせながら隣を歩く少女目をやった。
別に特別な意味はないのだが、仮にも女の子だし、彼女目当ての客がいるくらいには見てくれもいいしで、同じ時間で上がるのに一緒に帰らないのも逆に不自然なような気もするので、渓を家の近くまで送るのが通例となっていた。特に遠回りになることもないしな、と言い訳を重ねてしまうのはなぜだろう。なぜだろう。
「なに遠い目してんの?」
「別に? お前ともずいぶん仲良くなれたなあって」
「アンタの目は節穴なのかしら」
「……そうかな」
「そーよ」
素っ気ない返事。暗がりなので表情も伺うことができない。
「でも、こうして隣を一緒に歩いてる」
「それは、アンタが送るって言って聞かないから渋々……」
「そうだったっけ」
「健忘症?」
「いきなりそのツッコミはヒドくない?」
「ヒドくない。これ以上ないくらい冴えてたわ」
「わかった。お前にお笑いのセンスはない」
「アンタにだけは言われなくないわね」
俺と水樹渓が初めて会ったのは八ヶ月ほど前だった。俺がコンビニのバイトを始めたのは半年ほど前だから、出会いはそこではない。きっと、彼女は覚えていないだろう。あの時の俺は単なるお客さんだったから。
言ってしまえば、俺は渓のファンだったのだ。今日来ていたあの冴えない大学生の彼と同じように。
初々しさがありながらも、丁寧な暖かみのある接客に惹かれたのだ。手握られたし(それが原因か)。
渓見たさに何度かコンビニを訪れたのだが、いつしかそれだけでは満足できなくなっていた。こんな一瞬だけの逢瀬なんて嫌だ。ちゃんと話がしてみたい。
そう思い、渓の働くコンビニの求人を見つけた俺はストーカーのごとく連絡し、見事に面接に受かってみせた。その結果が今な訳である。
冷静に自分の行動履歴を見返すと、本当にストーカーじみている。もしも渓に知られたらどれだけなじられることか。
まあ、その努力の甲斐あってか渓とバイト仲間にはなったものの、どうやら彼女の性格には裏表があるっぽいということに気づいたのが夏休み前の出来事だ。
こんなきつい発言を連発する奴だなんて思いもしなかった。詐欺だろうと。清楚可憐な見た目、そして完璧な接客。落差がひどすぎる。
当時の俺は憤慨したものだった。今でも嘘であってくれたらと思う。
そして、時は夏休みの終わり際のある日。
俺は妹の愛(小学校六年生)を連れて、近所の川辺で行われる花火大会に赴くことになっていた。
「妹よ、読書感想文は終わらせたか」
「終わりますんた」
「どっちだよ!」
「終わりません」
「はあ」
こいつが妙なことを口走るときは大抵、自分に都合が悪いときなので、何となく察しはついていた。
愛とは、読書感想文を花火大会の日までに片づけたら連れて行ってやる、と約束していたのだが……。
「こんなの、書ける方がどうかしてると思います。本の感想を書くだけならまだいいです。でも、それを原稿用紙五枚も書けとか正気の沙汰とは思えません! 日本の教育は間違っている!」
「おおーう……自分の非を認めず、でかい話を持ち込んできたな。日本の教育ときたか」
「だいたい、本の感想なんて「おもしろかった」か「つまらなかった」の二つしかないのです。一行で十分です」
「気持ちはわからなくもないけど、宿題はやらなきゃだろ」
「ううー……お兄ちゃんは先生の手先なのですか」
「書くコツも教えてやるから、一緒にやろう。今からならまだ間に合う。ほら、鉛筆握れ」
「すぱるたなのです……」
「うるさい! とにかく、お前は何の本を読んだんだ? まずはその本を選んだきっかけを書いて――」
とかなんとか。
読書感想文には俺も長年苦しめられてきたため、自分なりのテンプレートがいつしかできあがっていた。それを妹に教えていると、
「お、終わった……終わりました! すごい! お兄ちゃんはやればできる子だったのですね!」
「ははは、そうだろうそうだろう――って、ちょい待て。今まではなんだと思っていたんだ」
「普通のお兄ちゃん」
こともなげに口にする愛。
「……うーん、確かに普通だけど。取り立てて特徴もないけど! どこのラノベ主人公だよって感じだけど!」
実妹に言われると悲しいものがあるな……。あと、やればできる、という評価もラノベ主人公っぽい。
「まあ、やればできる子だっていうのはお前の方だろ。読書感想文書けただろ」
「お兄ちゃんのおかげです。ありがとう」
「おう」
時刻は夕方の五時を指していた。花火が上がるのは一回目が七時三〇分、二回目が九時だったはずだ。この分だと一回目の方にも間に合いそうだ。
「それでは、少し準備してくるので待っててください」
「おう」
そしてしばらくして。
「お待たせです、お兄ちゃん」
「おお……」
見違えた妹の姿を前に、目を瞬かせる。
愛は浴衣姿に着替えていた。ピンク系の可愛らしい柄で、よく似合っていた。馬子にも衣装とはこのことか。
「どうですか?」
くるーっと一回転してみせる愛。その顔はどこか得意げだ。自分でも可愛いと思っているのか。まあ、身内贔屓もあるかもしれないが、可愛いことには間違いないからな……。
「似合ってるよ」
「……それだけですか?」
「他に何を言えと」
「むぅ、素っ気ないのです」
不満げに唇をとがらせる様子は子供らしくて可愛いのだが、
「妹の浴衣姿に興奮しろとでも言うのかお前は」
シスコンではない俺にはハードルの高い注文だった。
「そんなんだからもてないんです」
「うるさいよ! 小学生に言われたくないよ! って、もしかしてまさかおまえ、彼氏がいたりするのか?」
最近の小学生は進んでいると聞くからな。それに、こいつは可愛いからな……。彼氏がいたとしてもおかしくはないだろう。
「もしいたらどうするのです?」
「とりあえずぶっとばすかな」
「穏やかじゃないのです……」
「そりゃ、妹に彼氏なんてできた日にゃ穏やかじゃいられないよ。兄より先に大人になるとか許さないからな」
「それじゃあ、お兄ちゃんもわたしも一生大人になれないです」
「うるさいよ! そんなことないよ! ていうか、本当のところ、彼氏いるのですか?」
「そ、そんなに気になるのですか……。安心していいです。彼氏なんていません。ほしいとも思わないです」
「それはそれでなんだか淋しいような」
「……お兄ちゃんはわたしにどうしてほしいというのです」
呆れられ果てる駄目なお兄ちゃんだった。
祭り会場へ向かう道中には浴衣姿の女がたくさんいた。その女の隣を歩くのは男が多いが、その姿格好は様々でTシャツにジーンズといったラフなのから、きちんとした浴衣を着た者までいる。地元では割と有名な花火大会だからな。
俺はといえば、家が近所なこともあり普段着である。華やかな浴衣姿の妹の隣を歩いていると少し場違い感がある。しまった、と思ってももう遅い。でもまあ、男がめかし込んでも仕方ないしな、とも思う。
会場に着く頃にはちょうどいい頃合いとなっていた。
花火大会に付き物の出店が整然と並んでいる。たおやかな風が焼きそばやたこ焼きなどのソースの香りを運んできて、食欲が刺激される。そういえば、昼飯を食ってからなにも口にしていないことに気づく。
「なんか買って食いながら見るか」
と提案すると、妹はうなずいた。
「わたしはチョコバナナが食べたいです」
「いきなり甘いもんか」
「文句あります?」
「いーや」
チョコバナナの屋台は――すぐに見つかった。たこ焼きや金魚すくいほどではないが、この手の祭りには付き物だからな。
人が多いため、妹を出店の人混みから離れたところで待機させ、ご所望のチョコバナナと自分用のたこ焼きを手に妹の場所に戻る。
「あれ、いない……!?」
確かにここで待っていろと言ったはずなのだが。
ちょっともう小学校六年生にもなって迷子とかやめてくれよ! まあ、この人混みだと年齢関係なくはぐれちゃいそうだけど!
「おーい愛ー! いたら返事しろー!」
呼びかけるが返事はない。もしあったとしても、雑踏でかき消されている可能性すらある。
まずい、とは思いつつもそこまで焦ってはいなかった。
一昔前なら真っ先に迷子センターへ走るところだが、
「ここは文明の利器に頼るかね」
そう言ってポケットから取り出したるは携帯電話。こんなときでも大丈夫、そう、iPhoneならね! ……ちなみにこのケータイはアンドロイドですが。
電話帳の家族カテゴリの一番上にある名前をタップしコールする。
ワンコール、ツーコール……出ない。しばらくして留守番電話サービスに繋がる。
ケータイ持ってきてないのか? いや、そんなまさか。現代人にとって、ケータイとは常に持ち歩いていなくてはならないものだ。
電話が繋がらないならば、GPS機能を使って愛の位置を補足する。最近のケータイにはいろんな機能がある。
「反応は……あっちの方からか」
そっちは、ちょっとした森林になっている場所だった。道ともいえないような道しかなく、奥には誰も管理していないような古びた神社がある。昔は秘密基地とか作ったっけ。
そんな思い出は今はどうでもよくて、なんで愛はそんなとこへ行ったんだ? しかも浴衣でなんておかしい。
なんとなく嫌なものを感じた俺は、足早にGPSの指し示す位置へと向かった。
藪蚊がその辺り中におり、一分足らずで数ヶ所刺されてしまった。早く妹を見つけて帰らなければさらに重傷化は必至だ。
祭りの喧噪が遠ざかっていく中、男の声が聞こえた。祭り会場とは逆方向、この奥だ。木々をかきわけ、声の主に気づかれぬようできるだけ音を立てないように迫る。
俺は木陰からその声の主の様子を窺った。
「ねぇねぇ、きみ可愛いねぇ、俺らと遊ばなぁい?」
「……ごめんなさい」
そのかすかな少女の声は、俺の妹のものだった。愛。
愛の拒絶する言葉。しかし、男は構わない。
「そんなこと言わないでさー」
「あの……きゃっ」
小さく悲鳴を上げる。やだ。離して。そう口にしたいのに声が出せないのだろう。
「お兄さんたちと花火より楽しいことしようねぇ」
「とっても気持ちいいことだから、そんなに怖い顔しなくても平気だよー?」
なんだこいつら!?
ロリコンか? ロリコンなのか!?
確かに愛の見てくれは身内贔屓かもしれないけど、可愛い。
だが、小学生相手にこいつらマジかよ。
思わず呆気にとられてしまったではないか。
暗がりで顔は確認できないが、相手は二人組の男ようだ。もし荒事になった場合、分が悪いのは明らかだが……、
「きゃ!」
二人のうち、タンクトップで右腕に蛍光タトゥーを入れている細身の男が愛に手を伸ばす。
それを見て、衝動的に体が動いた。
「ちょっと待て!」
その声に、二人組の男と愛がこちらを見る。俺は不安そうな愛にもう大丈夫だぜ! と目配せをする。
男には思いっきりガンを飛ばされている。ああ、最初から敵意剥き出しって感じだ。
「ああん? あんた誰ー?」
「俺はそいつのお兄ちゃんだ!」
「お兄ちゃん? ははっ、こいつ、オンナにお兄ちゃんって呼ばせてんのかぁ!? とんだ変態野郎だぜぇ」
「お前らには言われたくはないけどな!」
小学生を手に掛けようとしてる真性のロリコン野郎どもにはな!
反射的にツッコミを入れた俺に、鋭い眼光が飛ぶ。こんな暗闇だってのに、猫の目かよと言いたくなる。
「いいからその手を離せ。嫌がってるじゃないか」
「あぁ? テメェ、やんのか? あぁ?」
血気盛んな輩のようだ。
あからさまな挑発だったが、お世辞にもケンカが得意とは言えない俺は、少したじろぐ。が、それを悟られないように虚勢を張る。
「暴力に訴えるしか脳がないのか?」
口にしてからしまったと思った。
動揺を悟られないためとはいえ、こんなの煽っているようにしか聞こえない台詞だ。もっと他に適切なチョイスがあったはずだろ!?
ぶち、と。
血管が切れるような音がしたように思えた。
「お兄ちゃん!?」
「ぐ……」
顔面にパンチを食らう。
よろけながらもなんとか踏ん張る。
唐突な攻撃に反応できなかった。短絡的すぎる。
くそ、殴られたのなんて小学生の時以来だ……痛ってえ。
口の中に鉄の味が広がる。軽く口内を切ってしまったようだ。
顔をしかめる俺に、続けざまにパンチが飛んでくる。それを回避することもままならない俺は、どうにか急所を外すように体をねじる。腕でガードする。
「ひゃは……っ、おいおい、口ほどにもねえな!」
防戦一方の俺に対して容赦ない攻撃を繰り出してくる男。その様子はどこか楽しげでもあった。くるってやがる。くそ、見た目からすればそこまで筋力差はないはずなのに! 明らかに踏んでいる場数が違う!
このままではまずい。どうにか愛だけでも逃がしてやらなければ……。
どうする? どうすればいい?
殴られながら考える。「お兄ちゃん!」という叫び声が聞こえた。どうにか愛だけでも……。
そうだ、愛を探すのに何を使った?
この状況で、ケータイを取り出し、助けを呼ぶことは無理だ。
だが、俺は一縷の望みをかけて、ポケットに手を伸ばす。ポケットの中で操作すれば気づかれることもないはずだ――
「あん? ポケットに手ぇ突っ込んで余裕だな!? 舐めんじゃねぇぞ!」
「ぐふ……っ」
思いっきり腹を蹴られ、地面に倒れ伏せる。
その拍子にケータイがポケットから吹っ飛んで暗闇の中に紛れてしまう。
「ひゃはは、もう終わりかぁ? 立てねぇんなら、このオンナはもらっていくぞぉ」
「お、お兄ちゃん……」
耳に届くおびえた声。情けないお兄ちゃんでごめん……。
「さぁて、じっくり遊ばせてもらうかぁ。なぁに、夜はまだまだ長いんだぁ」
「楽しみだぜー」
「……ま、待て」
「あん?」
俺は倒れたまま、手を伸ばし、男の一人の足をつかんだ。
そうだ、このままいかせてはならない。
「うぜ」
冷たい声。
男たちは俺を踏んだ。蹴った。腕が、顔が、腹が、痛む。
「お前ら何してんだっ!!」
それは、神のごとき一声だった。
「誰だー!?」
男たちが攻撃の手を止める。
ざっ、とこの場に足を踏み入れたその男は俺のよく知る人だった。
「先輩……なんで?」
そう、バイト先の先輩である松岡さんその人だった。
でも、こんなタイミングよくどうして……。
「いやあ、お前が血相変えて林ん中突っ込んでいくのが見えたからよ。なんかあんのかと思って様子を見に来てみたんだが。いやはや、追いかけて正解だったぜ」
いい人過ぎる!
俺が感動に打ちひしがれていると、
「ちっ、仲間かぁ?」
男は苛立たしげに吐き捨てる。
「ああ、そうだ。オレとこいつは切っても切れない固い絆(意味深)で結ばれた仲だ!」
「なんだ意味深って!」
そんな仲になった覚えなどない! ただのバイト先の先輩だ! そりゃいい人だけど! こうして俺のピンチに駆けつけてくれるくらいだし。
「ふんぬっ!!」
「どっばあああああああああ!?」
一撃。
たったの一撃で男の体が数メートル飛ぶ。どさ、と男が倒れる音がする。
「ひ、ひー!?」
「そこのお前もこうなりたくなかったら、その子を解放するんだな」
「……くそーッ!」
男が愛から手を放して瞬間、
「オラッ!」
「話が違うー!?」
松岡さんは華麗なとび蹴りを間延びした話し方をする男に食らわせていた。
なにこの人強すぎるんですけど。
愛は突然の出来事にポカーンとしている。そりゃそうだろう。松岡さんと知り合いの俺ですらポカーンなのだから。
男二人は倒れたまま動かない。気絶でもしているのか。それくらい不思議ではないくらいの倒れっぷりだった。
「大丈夫かい? 怪我はない?」
「あ……、は、はい」
「お前も……立てるか」
「な、なんとか……」
よろめきながらも立ち上がる。ダメージは上半身が中心で、下半身にはなんとか力が入った。
「お兄ちゃん……」
と愛が駆け寄ってくる。俺はその体を受け止める。俺はその体を受け止める。よしよしと、頭をなでてやる。
「へぇ、お前妹いたんだ」
「はい」
「いいよな妹」
心の底から、深く噛みしめるような口調だった。
「そうですか?」
「ああ、俺にも妹がいるんだが、これが可愛いのなんのって! 妹の言うことならどんなワガママにでも付き合っちゃうよ」
あ、この人完全にシスコンだ。
「はあ、妹と結婚したい」
あ、この人完全に病気だ。
「俺はこいつら警備員に引き渡してくるわ」
一応、縄で両手をくくりつけられてあるものの、目を覚まさないか冷や冷やする。
「愛……」
俺は愛を強く抱きしめる。
その小さな体は震えていた。そうだよな、怖かったよな。
「もう大丈夫だからな」
こく、とうなずく感触は胸の辺りでする。
おずおずと、なにがあったか話してくれた。
「お、おしっこしようとして、森の中に入ったら、あの、男の人たちが……」
「なぜ野ション……」
自分から森に入っていったのか……。
「だ、だって、トイレは人がいっぱい並んでて……間に合いそうになかったのです仕方なかったのです……」
この手のお祭りのときはやたらトイレが込むからなあ。特に女子トイレは。仕方ない、といえば仕方ないのかもしれないが、それでもやはりあまりにも無防備すぎる。一発ガツンと叱っておかねば。
「お兄ちゃん……」
妙に潤んだ目で、顔を赤くしながらもじもじと太ももを擦り合わせる。
その仕草にどきっとした俺は上擦った声で訊ねる。
「ど、どうした」
「おしっこ」
そして、男たちを警備員に突き出した俺たちは祭りの喧噪へと戻っていくのだった。
そんな俺たちを迎えたのは、予想していなかった声だった。
「もうっ、探したんだから……って」
「あ…………、」
鮮やかな色の浴衣に亜麻色の髪が映える。束ねた髪から覗く白いうなじ。息を呑んだ。
水樹渓がそこにいた。
俺はその場に固まってしまった。
「お兄ちゃん……?」
どうしたのです、と妹が俺を見上げる。
「お、渓」
松岡さんが気さくに名前を呼ぶ。あれ、松岡さんって渓のこと名前で呼んでたっけ?
「お、じゃないわよ。一人で突っ走って行っちゃうんだから! 秋晴はいつもそうなんだから!」
そして渓も松岡さんのことを名前で呼んでいる。こっちは間違いなく初めて聞く。
「はは、悪いな」
「ふん。まあ無事だったみたいだし、よかったけど」
横目でこちらをちらっと見た。そして、俺の右下へ視線を移し――ん? 渓は妙な表情を浮かべた。なんと表現すればよいのか……とにかく、らしくない顔だった。次の瞬間には元の不機嫌そうな表情に戻っていたので気のせいかもしれない。
そんなことには気づかない松岡さんは能天気な調子で続ける。
「心配してくれてんのか」
「は、はあ? そんなわけ――」
「そういうことだから、またバイト先でな」
「あ、は、はい」
「ありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる愛。
俺はお礼も言えないまま、呆気にとられるばかりだった。
「え、えええぇぇ…………?」
なんだ? どういうことだ?
この二人はバイト先の先輩と後輩という間柄であって、それくらいしかつながりはないはずだけど、お互い名前で呼び合う仲だったっけ? それってかなり親しくない? 俺だって心の中では呼んでるけど、実際には「お前」とか「水樹」とかだし。ていうか、二人で花火大会にきてるとか完全にデートじゃん。デートじゃんー。じゃんー。(エコー)
俺は完全に混乱していた。そしてなぜ自分がこんなにも動揺しているのか分からなくて混迷が増してゆく。