第二話 - 百楽と絹戸 - 2
水を浴びせられたように頭が覚める。
心を見透かされた気分だった。
……何と答えれば良いんだろうか。
普通の人なら、笑うか、呆れるかだろう。
しかし、俺は笑えない。笑われても、呆れられても信じていたのだ。
ずっと信じていた。自分はヒーローになれる、と。
あの時、誰かが俺に言ったのだ、「役割を果たせ」と。
絹戸の口から発せられた言葉は押切の心にすんなりと沁みていく。
所詮は他人、初対面だ。しかしその一言は呼び水となって押切の言葉を引きだした。
「なれるなら、なりたい。俺に出来る事を、『役割』を、果たしたい」
絹戸はにやりと笑い、体を起こす。
やっと離れてもらえた、良かったような、残念なような……
「おねー……ちゃん?」
足元の方から声がする。眼鏡の少女、百楽がドアからこちらを窺っている。
「おーモモ、ちょっと来てー」
「いや……えっと、下にお客さん来てる……っていうかおねーちゃん今……」
百楽は顔を真っ赤に蒸気させて両ほほに手を当てている。
今? さっきの会話を聞いたのだろうか。
いや、待て、あの距離でボソボソ会話してるのを外から見たら……
「今……その、キ、キス……」
「彼、押切くん。今日からここに住むから」
「ええっ!?」「え?」
百楽が体を震わせて驚く。「飛びあがって驚く」のお手本の様な驚きかただ。
「それはそーと、お客さん来てるの? 見てくるから仲よくするようにね」
そういうと絹戸はさっさと部屋を出ていこうとする。
「待って! その、私が出とくから! おねえちゃんはここにいて!」
両手をつっぱり、全身でドアを塞いで百楽が切羽詰まった声を出す。
「でも――」「大丈夫だから! あ、あの! ごゆっくりどうぞ! お義兄さん!」
そう叫び残すと、バタバタと走っていってしまった。
「あの、良いんですか?」
「まー大丈夫でしょ。ごゆっくりって言われたし、ちょっと話でもしますか」
テーブルに手をついて床に座る絹戸。大丈夫じゃない誤解が生まれた気もするが。
「まずは今日の昼間に起きた事について」
ここに住むとかいう発言について質問しようとしていたが、ぐっと抑える。
一番の気がかりだ、聞いておきたい。
「えー強盗は無事捕まりました。君に打ったのは『霞薬』、他の全員にも打っといたので探されたりすることはないよ」
「あの、打ったって……何がですか?」
「ん?」
絹戸はすこし悩んだ後、あそっかと呟いてこともなげに付け足す。
「黒ずくめのさ、カッコイイ人に倒されたでしょ? あれワタシ」
「ええぇっ!?あだだ……」
「まだ痛い? ごめんね、思いっきり蹴っちゃったもんね」
驚いた拍子にまた痛みがぶり返してきた。
「強盗一味だと思ってさー、銃持ってたし。妙に動きが良かったから本気でやっちゃった」
自分の格好を見直してみる、赤紫のシャツに青のジーパン、どちらも汚れてみすぼらしい格好だ。
確かにそう思われても仕方ない、かもしれない。
でも、黒のライダースーツに黒のヘルメットの方が強盗っぽい気が。
「注射されたのは覚えてるんでしょ? あの後ちゃんと通報しといたから、安心してー」
ものすごい量の質問が浮かんで頭がパンクしそうだ、とりあえず頷く。
全部聞いてから質問しよう、そう思って疑問を全部、頭の隅に追いやる。
「『霞薬』は分かるよね?」
「はい、一応……」
――霞薬。
数十年前に開発された薬だ。その効能は大きく二つ。
ひとつは、強力な『睡眠薬』としての機能。
そしてもうひとつは――
記憶の消去
霞薬を投与された人間はそれ以前の記憶を失う。
失う記憶の量は薬の量で調整でき、短ければ一時間から長ければ一年ほど。
体への影響を考えなければ数十年の記憶を『霞』がかかったようにぼやけさせる事が出来る。
「でもキミは覚えてる」
絹戸が言う。その通りだ、記憶を消す薬を打たれた瞬間のことを俺は覚えている。
だがさして驚きはない、過去に経験済みだ。
「効かないんです。子供の頃から体質なのか……」
「体質、まあ体質とも言えるかな。でもそれ以外の意味も持ってる」
絹戸はテーブルの上の、テレビのリモコンを手に取る。
瞬間、金色の光の波がリモコンを一瞬包む。
明るい中では本当にかすかにしか見えない程度の輝きが走った。
「ほっ」
リモコンを天井に向かって投げ上げる。
天井にぶつかったリモコンは、そのまま天井で制止する。
「これがワタシの能力、生き物と液体以外なら何でもぴたっと『くっつけ』られる」
絹戸が手を出すと、リモコンは天井を離れ落ちてくる。再び手に収まった。
「『霞薬』が効かないって事はこういう不思議な事ができる、って事」
コツ、とリモコンを置いてこちらに視線を戻してさらに続ける。
「今のところ、この理論は百パーセント的中してるからね」
そのまま、何も言わずにこちらを見つめてくる。
見せろ、という事なんだろう。不思議と落ち着いていた。
やっと始まる、ここから自分が始まるのだという気持ちがあった。
「俺のは『くっつける』んじゃなくて、『切り替える』能力です」
ソファーに触れる指先に少し意識を向ける。
ソファーをつたい、フローリングの床に。
フローリングの床を進み、テレビ台に。
そしてテレビの内部に。
順々に意識を進めていく。
パツッ。
「わ~! とっても甘いさつまいもですねぇ!」
テレビから音楽と共に流れ出す女性の声。
絹戸は急に付いたテレビの方に振り向き、口元に笑いを浮かべながらこちらに向き直る。
テレビが付く瞬間、押切の指先から光の筋がソファー、床を伝いテレビに走ったのを鞍馬は見逃してはいないだろう。
見逃していないはずだ、「同じ」なら。
この不思議な能力の事を、こんなに堂々と他人に言える時が来るとは思っていなかった。
むしろそこに、押切は喜びを感じていた。
「テレビとか、電灯とか、手錠みたいなアナログな物でも、
俺はスイッチを入れたり切ったり出来ます。
オンとオフの二極がある物なら、ですけど。」