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さる高校の事件録

吸血鬼の食事

作者: 蟲森晶

 薄暗いリビングで、俺は本日の夕食となるコンビニ弁当を開いた。テレビの画面が唯一の光源となるリビング。何の変哲も無いコンビニで売っていたから揚げ弁当は、テレビの光を受けて様々な色に光る。その場面は、あまり食欲をそそるものではない。

 今日は、両親とも仕事で帰りが遅くなる。だからこそのコンビニ弁当だ。俺は料理ができないわけではないが、部活でも毎日料理を作っているのに、家でも料理を作りたくなかった。

 俺にとって料理とはあくまで趣味の一範囲だ。必要に迫られて料理をするのは、どうしても気分が乗らない。

 必要は無かったが店員が勝手に付けた割り箸を割って、から揚げを摘む。弁当はコンビニで温めてもらったので、未だに温かい。から揚げは湯気を立てていて、その湯気に香ばしい匂いを乗せている。俺の空腹を、匂いが刺激した。

 口の中へ入れる。最近のコンビニ弁当は料理のひとつひとつに手間をかけているらしい。鶏肉は意外なほど柔らかく、難なく歯で切ることができた。肉汁が口の中に広がって、から揚げの味を口全体に伝えた。

 まるで死肉のような、ドロリと腐敗した味を。

 「……………………」

 吐き出しそうになるのを堪えて、何とかから揚げを飲み込む。息が苦しくなる。味はまだ口内に留まっていた。俺は弁当と一緒に買っておいたペットボトルの水を出して、中身を一気に流し込む。

 そうして俺が口内の味を消すのに、たぶん五分くらいは掛かっただろう。五百ミリリットルあった水は、ペットボトルの底に薄く残っている程度になってしまった。

 やっぱり駄目だ。そのままでは、とても食べれない。

 毎回挑戦していることだが、ちゃんと食べられたことはない。だからある意味、この挑戦は失敗するためにやっているのだ。

 失敗して、自分にはあれが必要なのだと自己暗示をかけるためだ。成功なんて、最初から望んではいない。

 俺は着ていたブレザーの内ポケットから、小瓶を取り出した。茶色い小瓶で、表面にはラベルが貼ってある。ラベルには何事かアルファベットで書かれているが、英語が壊滅的に苦手な俺が分かるはずもない。まずもって、これは英語ではなかったはずだ。フランス語か、イタリア語だった気がする。

 小瓶の蓋を開けて、匂いを嗅ぐ。独特の匂いに鼻は一瞬で、通常の嗅覚を失ったようだった。鼻先が、ひくひくと痛んだ。しかしそれでいい。そうでないと、俺は食事ができない。

 傾けて、小瓶の中身をから揚げ弁当にかける。たちまち、ご飯もから揚げも付け合せのキャベツも赤黒く染まる。ようやく、俺の食事は準備を完了する。

 弁当に適量をかけ終ると同時に、小瓶の中身は尽きてしまったようだ。ポタリと、最後に一滴がから揚げの上に落ちる。

 「そろそろ、調達しないとな…………」

 俺は割り箸を手にとって、から揚げを摘んで口に放り込む。から揚げ本来の香ばしい匂いにマッチした旨みが、やっと口の中に広がっていく。

 テレビはさっきまでバラエティーをやっていたのだが、いつの間にかニュースになっていた。男性のアナウンサーが、ニュースの原稿を読んでいる。それにしてもアナウンサーは、よくあんな難しい原稿を噛まずに読めるものだ。まあ、最近のアナウンサーはよく噛むのだが。

 『――昨夜、岡崎市矢作町で二件の通り魔が発生しました。発生じか――――』

 どうやらニュースは、今月からここら辺を騒がせている通り魔事件について取り上げているようだ。俺は地理に疎い方なのだが、さすがに岡崎市矢作町というのが自分の通う高校のある地域であることくらい分かる。

 そういえば今日の帰りのホームルームで、担任の鷲羽先生が何か言っていたな…………。通り魔が出て物騒になったから、帰りは気をつけろとか何とか。

 『――から見て、犯人は同一犯だと思われています。被害者はどちらも市内の高校生とのことで、警察当局では警戒をするよう注意を呼びかけています。続い――、だからそう……』

 あまり興味の無いニュースだ。俺はリモコンでチャンネルを変えて、それから一気に弁当を平らげた。赤黒い液体のお陰で、一口目のような嫌な味はまったくしない。

 しかし、だ。小瓶の中身の調達は考えなければならない。俺が予想していたよりも早く、中身が無くなってしまった。あれがないと、俺は食事をすることができない。



 「千里部長! 聞いてるんですか?」

 後輩の声で、我に返る。俺は上の空になってしまっていたらしい。たぶん今日の六時間目が英語だったせいだ。英語の授業って、何故かいつも眠くなるんだよな。

 「ああ、聞いてる。処刑方法としてのギロチン台の確立と、その功罪について語ってたんだよな?」

 「そんな話してませんよ! ていうか料理作ってる最中にそんな話しません!」

 翌日の放課後、調理実習室。俺はグルメサイエンス部でいつも通り活動をしていた。今日は五月の中頃にあるオニギリコンテストに向けて、創作のオニギリを作ろうということだった。

 今は部活も一段落ついて、使用した道具の片づけをしていた。

 「今月に入って港を騒がせている通り魔について話していたんですよ、千里部長」

 「そうか。話の内容はともかくとして、書き間違えるならまだしも巷を港と言い間違える奴はお前くらいだろうな」

 俺に話しかけているのは鳥林朝日。二年生で、所属は九組だったっけか? 

 「え、あれって『ちまた』って読むんですか? てっきりあたし、『みなと』だと思ってました」

 「それで、その通り魔がどうかしたのか?」

 話が逸れると面倒なので、俺は適当に朝日の話を軌道修正する。話が逸れると面倒だというのはあくまで相対的なもので、絶対的に見れば鳥林朝日の相手をすること自体が面倒なのだ。

 だがそこは先輩でもあり部長でもある俺、千草千里の立場から無下にも出来ないのが現状だ。

 使った菜箸を洗いながら、朝日は言葉を続けた。

 「昨日のニュースでやってたじゃないですか。一昨日通り魔に襲われた女子生徒がふたりいたって。あれ、ひとりはこの学校の生徒らしいです。今日判明しました」

 「ふうん」

 開いている窓から、白い蝶が入ってきた。春の暖かな陽気に、またしても眠たくなった。

 「し・か・も、なんとその子、クラスメイトだったんですよ!」

 「それはむしろ、今日判明したのは遅すぎるんじゃないか?」

 普通なら、昨日の時点で気づいていてもおかしくない。声高らかに、まるで自分の手柄を誇示するように言われても、白々しさを感じてしまう。

 「仕方ないじゃないですか! その子、昨日は休んでたんですから。それに、先生は何も言わなかったし」

 ま、クラスメイトが通り魔に襲われたなんて情報、先生が簡単に教えるわけ無いか。

 「あれ? じゃあ何で、朝日はその子が通り魔に襲われたなんて分かったんだ? 先生は何も言わなかったんだろ?」

 俺の問いに、朝日は待ってましたと言わんばかりに胸を張る。やめなさい。余計馬鹿に見えるから。

 「ここだけの秘密ですよ千里部長! 他の人に言わないでくださいよ!」

 「行動と言葉が一致してない」

 知られたくないなら声のトーンを落せよ。

 朝日は俺に耳打ちするように言った。

 「その子の首筋に、傷跡を見つけたからですよ。まるで吸血鬼にガブリとやられたかのような傷跡が」

 「はあ? だから?」

 いまいち朝日の言いたいことが分からない。どうしてその傷が、通り魔に繋がるのだろうか。俺にはふたつの事情の交錯点がまったく見えない。俺が馬鹿なのか、はたまた朝日が馬鹿なのか。

 どちらかというと後者希望。

 「警察も発表していないから、千里部長が知らないのも無理ないですよ。実は今月から港……じゃなくて巷を騒がせている通り魔は、何も無差別に人を襲っているわけじゃないんです」

 「つまり、目的があるって言うのか?」

 俺の言葉に朝日は頷く

 「その通りです。さすが千里部長。通り魔には大きく分けて、ふたつの特徴があるんです。ひとつは警察も公表している、通り魔の被害者が全て女性だったということです。しかも、狙われるのは十代から二十代後半。要するにヘンタイです!」

 「全員、女性か…………」

 随分色好みの通り魔だ。趣味が良いのか悪いのか。どちらにしても、お近づきにはなりたくない。

 さらに朝日の話は続く。

 「肝心なのはここからです。警察も明かしていない情報。通り魔は女性を襲うと、持参した注射器を首筋に刺して、血を吸うらしいです。しかもその時、首筋の二箇所に注射器を刺すんで、まるで吸血鬼に襲われたような傷跡ができるとのこと」

 「だからその女子生徒を見たとき、傷跡から通り魔に襲われたのだと判断したのか。分かった分かった」

 調理器具を洗い終え、元あった位置に戻す。大方の作業が終了し、俺は頭に巻いていた三角巾を外してエプロンのポケットに突っ込んだ。長めの髪がクシャクシャになってしまっていたが、気にしない。

丸椅子をひとつ引き出して、そこに座る。

 「さて、今日の部活も一段落かな?」

 周囲の様子を見ると、部員はほとんどがオニギリを作り終えていた。みんな、片付けに入っている。

 「美味しいですね。千里部長の作ったオニギリ」

 「…………食うなよ」

 見ると朝日が、俺の作ったオニギリを承諾なしで食べていた。

 しかし口では食うなと言ったが、実は朝日が食べてくれて助かった。俺が食べるとなると小瓶のあれが必要になる。しかしあれ、かなり他人が嗅ぐと嫌がる臭いを放つ。持ってはいるが、それをここで使うのは憚られた。

 他の部員の食欲を削ぐような行為はできない。

 「代わりに食べます? あたしのオニギリ」

 「いや、いらない」

 別に食べてもいいけど、俺が食べるとなると以下略。

 「遠慮しないでくださいって、ほら!」

 無理矢理、ソフトボールくらいの大きさはある巨大なオニギリを口に詰められた。これはもう、味云々の問題を抜きにして死ぬ。呼吸ができなくなる。

 発見。餅を喉に詰まらせて亡くなるご老人方が後をたたない近年だけど、ご飯でも充分危険だ。餅よりも日常的なだけ、危険度はより高いかもしれない。

 「……! …………!」

 「どうですか千里部長! おいしいですか?」

 「………………!」

 何も言えないまま、首を縦に振る。死にかけたのはある種の光明で、お陰で味を感じる余裕が無かった。赤い液体をかけなかった時に感じる死肉のような腐敗の味を感じない。吐き気もあまりなかった。

 後輩の料理を吐き出すなんて真似をしたくなかった俺としては、少し助かった気分だ。

 俺が首を縦に振ったのを見て、朝日が嬉しそうに笑う。

 「良かったー! オニギリに入れた具、気に入ってくれたんですね。その具を美味しいって言ってくれたのは、千里部長が初めてですよ!」

 「…………具?」

 まさしくライスボールと言うべき朝日作のオニギリを手にとって、検分する。俺が食べた箇所をよく見ると、赤い汁が滴っているのが分かる。こいつは何を入れたんだろう。俺のほとんど駄目になっている味覚では到底想像もできないが、キムチか何かか?

 具は不明だけど、とにかく後輩が喜んでくれたということで結果オーライ。

 顧問の先生が会議で部活に顔を出せないとのことだったので、今日の部活は流れ解散となった。後輩たちがぞろぞろと帰っていくのを、俺はひとり椅子に座りながら眺めていた。特にそういう決まりがあるわけではないが、一応部長なので部員が全員帰るまでは残っているのだ。

 「…………あ」

 ふと机を見ると、朝日の作ったライスボールが置かれているのに気がついた。朝日のやつ、うっかり置いていったらしい。

 あるいはあれか? 処分を俺に一任させる気か?

 もう一度オニギリを手にとって、眺めてみる。やっぱり、赤い具が何なのか気になる。キムチだろうと思ったけど、今見るとレアのステーキかもしれないと思った。

 具材が何であれ、処分することに変わりは無い。俺ひとりでは全部を食べるわけにはいかない。この大きさだと小瓶が何本あっても足りないからだ。

 「………………ふーん。それ、おいしいんだ」

 不意に話しかけられた、声のした方を見ると、そこには副部長の夜島帷がいた。とっくに帰ったものだとばかり思っていたが、まだいたらしい。

 「……食ってみるか?」

 「いい。いらない。わたし、もうお腹いっぱいだから」

 「そうか」

 帷は鞄を肩から掛けている。その様子からして、今から帰るところらしい。

 「ねえ、ちぐちゃん」

 「…………なんだよ」

 帳は俺のことを『ちぐちゃん』と呼ぶ。確かに部活も同じだしクラスも同じだから親しいと言えば親しい。だが、ちゃんづけで呼ばれる筋合いも無いと思う。

 以前に理由を本人に聞いたところ、『語呂が良いから』という答えが返ってきた。俺には、『ちぐちゃん』という呼称に語呂の良さを感じることができない。

 「わたし、知ってるよ。ちぐちゃんの、知られたくない秘密」

 「えっ?」

 思わず、帷の方を見る。気づかなかったけど、帳は随分と俺に接近していた。目と目が合う。互いの息遣いを肌に感じるくらいの距離。帳の真っ黒な瞳に、吸い込まれそうになる。

 「大変だもんね。知られたら、今の立場を危うくなっちゃう。秘密にしてほしいでしょ?」

 「…………」

 俺はほとんど無意識の内に、首肯していた。夜島帳の瞳に宿る、不可思議な魔力のようなものが、そうさせたのかもしれない。

 実際にはそんな理由ではなくて、俺がただ単に首肯以外を行える状況ではないからなのだが。

 「でも、いやだ」

 帳の口から出たのは、驚くべきことに否定の言葉だった。

 「秘密にしてあげない。みんなに、教える」

 「おい、ちょっと!」

 言うだけ言って、帳は調理実習室を後にする。残された俺は、呆然と立ち尽くすしかなかった。

 一陣の風が吹く。ヒラヒラと、白い何かが宙に舞った。それは俺のブレザーに引っ付く。剥がしてみると、白い蝶の翅だということに気がついた。



 誰もいなくなった調理実習室で、ひとり考える。左手は無意識の内に、ブレザーのポケットに入っていた小瓶を弄んでいた。ひとりきりになると、つい出てしまう癖だ。気をつけなければならない。

 この小瓶は、誰かに見られたくない。今の自分の立場を、確実に危うくするからだ。

 「しかし………………」

 調理実習室にいた、あの女子生徒。副部長の夜島帳のことを考える。彼女は、秘密に気づいてしまったかもしれない。

 かもしれないなんて不確定的な言葉を使うまでもない。あの台詞。彼女の発したあの台詞が証拠だ。間違いない。夜島帳は秘密をしってしまった。

 そうなると、残された手はひとつしかない。ちょうどいいタイミングだ。彼女を監禁すれば、小瓶の中身に関する不安や問題は一気に解決する。わざわざ人を襲わなくても、中身が切れたら彼女から回収すればいいのだから。

 監禁場所や具体的な方法は、夜島帳を追いかける道中で考えよう。まあ、適当な場所くらいすぐに見つかる。両親は仕事で夜遅くまで家に帰らないことが多いし、まず家にほとんどいないのだ。誰も使っていない地下室に、夜島帳を監禁するのが妥当だろう。

 立ち上がり、丸椅子を机の下に収めた。ふと、右手に違和感のようなものを微かに感じる。開いて見ると、掌に砕けた白い蝶の翅がべったりとついている。

 心当たりが無い。何故、こんなものがついているのだろう。ともかく、手を洗ってから、調理実習室を出た。

 廊下の窓から外を見ると、薄く橙色に空が染まり始めていた。春になって日没の時間が遅くなっている。言うまでも無く、それはプラスだ。お陰で夜遅くまで無用心に出歩く標的は増えている。

 今から襲おうとしている夜島帳もまた、分類するならそのようなタイプなのだろう。彼女の話している様子から、自分は微塵も狙われると思っていないのが露骨なまでに伝わってきた。

 ああいう、可能性の中に自分を見出せない人間が一番嫌いだ。他人が襲われる可能性は充分過ぎるほど考慮するのに、いざ自分が襲われる可能性はとなると、まるで考えない。そこで思考停止する。自分は物騒な物語の観客だ、読者だと言わんばかりだ。

 今までに襲ってきたのもそういうタイプばかりだし、これからもそうだろう。何もこちらが故意に狙わなくてもいい。こちらが狙いやすい獲物を探せば、自ずとそういうタイプの人間がふるいの中に残るのだ。

 それにしても、今日は収穫の多い日だ。夜島帳のことは勿論、同好の士と言える女子生徒も見つかった。案外、似た趣味を持つ人は近くにいるものだ。これからは、もう少し積極的に調べてみるのも面白そうだ。

 もっとも、警察にはばれないように細心の注意を払う必要はある。

 昇降口で靴に履き替える。この学校の昇降口にある靴箱は金属製の取っ手があるのだが、これが難敵だ。春になろうが夏になろうが、構わず静電気を発する。静電気が嫌いな人にとって、ここはまさしく地獄だ。

 運良く、今回は静電気の被害を受けずに済んだ。靴に履き替えると、急いで夜島帳を追いかける。彼女と以前一緒に帰ったことがあるので、夜島帳の通学路はだいたい頭に入っている。こういう時のために、誰かと一緒に帰った時は通学路を記憶するようにしているのだ。それが生きた。

 当然、人通りが少ない場所も押さえてある。だから彼女がそこを通過する前に、追いつかなければならない。

 「いた……!」

 追いかけ始めて数分で、すぐに追いついた。彼女が調理実習室を出てからかなり時間が経った気がしたけど、そうでも無かったらしい。もしくは、彼女の歩みが遅いからだろうか。

 しかも運良く、マークしてあった人通りの少ない路地に、彼女はいた。襲ってくださいと言わんばかりだ。

 夜島帳の動きを観察すると、確かに歩くのが遅い。亀のような遅さ、という表現は彼女のためにあるんじゃないかと思いたくなるほど、遅かった。兎が途中で居眠りをしても、到底負けるとは考えられなかった。

 ゆっくり、慎重に歩を詰める。人通りが少ない路地だが、逆に物陰が少ないのが難点なのだ。一気に襲わなければならない。

 鞄から取り出したスタンガンを右手に持つ。毎度これで獲物を気絶させ、注射器で血を抜いているのだ。今日に限っては、ただ人を気絶させるだけの道具となるわけだ。

 スタンガンの準備を済ませて、鞄を地面に置いた。これでいつでも、夜島帳を襲うことはできる。ただ問題は、やはり周囲の明るさだ。普段獲物を襲うときよりも早い時間帯なので、周囲は明るい。空が太陽の色に滲み始めたばかりなのだ。こんな状況で何か失敗をすれば、それは致命的だ。顔を見られてしまう。

 今日は取りやめにして、明日以降にしようかとも考えたが、そうはいかない。危険因子たる夜島帳は、とにかく早い内に潰しておきたい。多少の危険があっても、実行するべきだ。

 息を大きく吸って、吐き出す。心を落ち着けて、獲物を視界に収める。そして足に力を籠めて、一気に接近を試みた。

 「…………え?」

 足音に気がついたのか、夜島帳がこちらを振り向く。しかし彼女は、振り返る動作まで緩慢だ。自分に襲い掛かってきた対象をその両目が捉えたころには、果して彼女の意識はあるかどうか。

 「これで……!」

 右腕を伸ばして、スタンガンを夜島帳に押し当て――――。

 そこで頭部に、突然衝撃が走る。あまりの不意打ちに体はバランスを崩し、あたしは地面に倒れた。

 倒れる間際、何とか振り返って確認した背後には、見慣れた制服を着た女子生徒の姿があった。髪が乱れるのも気にせず、ただあたしをじっと見据えている。その人は…………。

 「…………千里、部長?」



 「ギリギリセーフ、か?」

 あの後、俺は帳を追いかけて走り回った。ひょっとしたら東奔西走って言葉は俺のためにあるんじゃないかと思うくらい、我ながら見事な走り回りっぷりだと思った。

 あの後というのは、帳に「秘密にしてあげない」と言われた後のことだ。帳のやつ、逃げ足がとてつもなく速い。我に返ってすぐに後を追いかけたけど、姿がどこにも見当たらなかった。兎みたいな速さだ。俺が亀なら、あいつが居眠りしている隙をついても勝てる気がしない。

 それに帳の通学路を俺は知らないのだ。結果として、学校の周辺を走り回るという馬鹿らしい行為に移らざるをえなかった。しかし何故か帳がノロノロ歩いていたお陰で、こうして無事に帳に追いつけたというわけだ。

 「なんで…………千里部長が……」

 えーっと、なんで朝日は帳を襲おうとしたんだ? 帳に追いついた瞬間、朝日が帳に襲いかかろうとしている光景を目撃したので、ひとまず手近に転がっていた鞄を朝日に向かって投げたのだ。綺麗な弧を描いて鞄は朝日の元に飛んでいき、頭部にクリーンヒットした。俗に言うクリティカルだ。

 とりあえず、朝日の持っていたスタンガンを取り上げる。朝日の手からスタンガンを取り上げる時、朝日は苦しそうに呻いた。鞄を頭部に思いっきり投げつけ過ぎたかもしれない。

 「で、朝日はどうして帳を襲おうとしたんだ?」

 「帷先輩が、たぶんあたしの秘密を知ったから……。『それ、おいしいんだ』って言葉を聞いたとき、たぶんばれたって」

 「なるほど。じゃあ、その秘密ってのはなんだ?」

 「え? 千里部長…………何言ってるんですか?」

 「はあ?」

 それはこっちの台詞だ。朝日は何で俺が何かを知っているみたいな言い方をするのだ? 頭が混乱しそうだ。ただでさえ息切れしていて、思考能力が削られているのに。

 「だって! 千里部長、あたしのオニギリ美味しいって!」

 「何言ってんだこいつ?」

 ああ、言ったな。美味しいって。実際には味わってないどころか命の危機だったけど、言ったなそういえば。

 「人の血が入ったあのオニギリ、美味しいって!」

 「人の血?」

 思わず朝日の言った事をオウム返しにしてしまった。人の血?

 「ちぐちゃん。この子の作ったオニギリの具、なんだと思った?」

 いきなり帳が聞いてきた。質問の意図が分からないまま、俺は朝日の作ったオニギリの具を思い出してみた。味は分からないけど、見た目で判断する限りあれは、キムチかレアのステーキだったはずだ。ご飯についていた赤い汁が、何よりの――――。

 え?

 俺は帳の方を見た。帳はコクリと頷く。その両目には、どこかこの状況を可笑しく思っているような色が含まれていた。目が笑っていた。

 「そう。この子の作ったオニギリの具は、人の血液だったの」

 「……………………」

 言葉が出なくなった。それと同時に、初めて自分の異常な味覚に感謝した。もし俺が正常な味覚を有していたら、トラウマになってオニギリを食べられなくなっていたところだ。

 「千里部長、気づいてなかったんですか…………?」

 まだ立ち上がることのできない朝日が、こちらを見ながら言った。本人にその気は無いんだろうけど、無理な姿勢でこちらを振り向いているため、睨んでいるように見えてしまう。

 帳は淡々と、しかし目だけは笑みを湛えたまま言葉を発する。

 「この子が、例の通り魔よ。詳しい経緯は知らないけど、人の血を採取しては食べ物にかけて、血の味を味わっていたみたい」

 「うわっ、気持ち悪!」

 「ええっ!」

 見放したような俺の言い方に、朝日はショックを受けたようだった。なんでそんなにショックなのかは、相変わらず分からないけど。

 「他の人にも、気づかれないように食べさせてたみたいね。ちぐちゃんは『アレ』だから、血の味に気づかなかったんでしょ?」

 そうか…………。帳に言われてみて、少しずつおかしな点に気づき始めた。考えてみれば、警察が発表していない情報をたかだか一生徒の朝日が知っているのはおかしい。あれは俺にわざと情報を公開することで、自分はみんなの知らない事を知っているという優越感に浸るための行為だったのではないだろうか。

 人間、誰しも教えたがりだと聞いたことがある。人の口に戸は立てられないと言うのか、自分の口に戸締りもできないというのか…………。

 「なんで……千里部長は気づかなかったんですか?」

 朝日は俺に訊いた。その質問に答えようかどうか、一瞬だけ悩んだ。しかしどうせ、夏休みに入る頃にはどうでもよくなっていることなのだからと、俺は話すことに決めた。

 「実は俺、味覚障害なんだよ。高一の頃、痩せたくて辛い食べ物ばかり食べてたんだ。そしたら何だか、どんな食べ物も辛くないと気が済まないようになってって…………」

 後は想像に易い。要は辛い物を食べないといけないという強迫観念が俺の心の中で生まれていた。それから、俺は辛い食べ物でないと(それも相当辛い食べ物でないと)食べられなくなった。普通の食べ物を食べると、不味く感じるのだ。

 「それで、普段は食べ物にハバネロソースを掛けている」

 ブレザーのポケットから小瓶を取り出して、朝日に見せる。小瓶の中には、赤黒いハバネロソースが満たされている。正式名称は『ザ・ソース』。日本で入手するのは少し困難だ。それゆえ、大切に使っている。定期的に通販で購入しているが、無くなったらすぐ買い足せるというものではない。

 「グルメサイエンス部の部長が味覚障害なんて、ばれたら退部ものだからなー。帳に口外するのを止めてほしくて、探し回ってたんだ。俺の今の立場が悪くなる」

 部活の問題を抜きにしても、そんな秘密、ばれないに越したことは無い。

 「そ、そんな………………」

 その言葉を最後に、鳥林朝日は気を失って倒れた。何が彼女に気絶するほどのショックを与えたのか、俺には皆目見当がつかなかった。



 「どうしてちぐちゃんは、そんな男っぽい喋り方をするの?」

 事件から数日後、俺は夜島帳と一緒に帰宅の途についていた。

 あれから、鳥林朝日は帷の呼んだ警察に現行犯逮捕された。彼女は思いのほか素直に犯行を認め、一連の通り魔事件は解決した。彼女の刑罰だが、俺が思っていたよりは軽い罪だった。未成年の上、通り魔も傷害罪程度のものだったからだろうか。そこら辺の詳しい事情は、俺のあずかり知らないところなのだが。

 「なんか女っぽい自分に、嫌気がさした」

 それが、夜島帳への回答だった。俺の味覚を失った原因は、俺の『痩せたい』という実に女らしい願望にあった。だからあえて言葉遣いを男っぽくすることで、その願望を断ち切ろうと思ったのだ。

 素人の浅知恵ともとれる作戦だったけど、効果は五分五分だった。痩せたいとは思わなくなったのは大きい。お陰で、少しずつだが、料理に掛けるハバネロソースの量は僅かに減り始めている。味覚が戻る気配は無いが、この調子なら何十年後かすれば、味覚を取り戻せるかもしれない。

 「ところで帳。俺の秘密、ばらさないでくれるか?」

 「うーん…………」

 帳は楽しそうに悩んだ。そうやって焦らして、俺の反応を見るのを楽しんでいるのだ。ここ数日、こいつはこうして俺をからかっている。

 「いいよ。助けてもらったお礼に、ばらさないであげる」

 「そっか。ありがと」

 橙色の空の下をふたりで歩く。俺は、赤色よりも橙色の方が好きかもしれない。赤色には何かと、不吉で毒々しいイメージが付きまとう。逆に橙色には、そんな不吉なイメージはまったくない。

 優しい橙色に染まる空を眺めた。そのせいだろうか。自分の左手にいつの間にか帳の右手が絡められていたことに、しばらく気がつかなかった。


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