9話:季節外れの桜
無理に咬みつき、つけられた痕がずきずきと疼く。
鎖骨の辺りやうなじ、二の腕、太ももの赤い痕は凄く痛々しく見える。
何とか絆創膏でごまかしているのだが、体中にそれを貼っている姿はとても不審だ。
「そんなに痛いんですか? 俺につけられた痕は」
そんな私の姿を見て、神崎はネクタイを結びながら、満足そうにほくそ笑んだ。
私は笑みを浮かべる神崎をきっと睨みつける。
「わざと痛くなるようにつけましたよね」
「あぁ。優しくしては、罰にはならないですからね」
優しくなんてしてほしくない。それもある意味、罰な気がする。
しかし、こんな姿で登校するのは少し気が引けた。
これでは、体中にキスマークをつけられましたってアピールしているものだ。
「見せつけたらどうですか? 俺のものだってことをね」
彼の形の良い唇がにやりと歪む。
私はそんな彼を涙目にもなりながら、また睨みつけた。
「冗談じゃないです! 私は誰のものでもないですから!」
そう言い放ち、家を飛び出した。
後ろから神崎が何か言っているような声が聞こえたが、無視して逃げるように走った。
「杏奈さん! 杏奈さん! 待ってください!」
背後からあの上品な声が聞こえる。
私は思わず足を止めた。振り返ると、息を切らした麗子が立っている。
「はぁはぁ。杏奈さんって足が早いんですね」
「どうしたの? 麗子」
「おはようございます。杏奈さんを見つけたので思わず声を掛けてしまいました」
周りに百合の花が見えそうな微笑みだ。
私はそんな麗子を見て少し癒されてしまった。
「あら……、その絆創膏は……、もしかして……」
「えーっと、ち、違うわ! 麗子の想像しているものとはかけ離れて……」
「大丈夫ですわ、心配しなくても。わたくしは口は堅い方ですわ」
図星を突かれ、うっと言葉に詰まってしまう。
これじゃ、キスマークですって認めているものじゃない……。
居たたまれなくなり、視線を外した。そんな私におかまいなく、麗子は上品な立ち振る舞いで足を進めた。
「それにしても、もう10月ですわね」
「そうね……。時が経つのも早いわ」
あいつと結婚してからも……1ヶ月経つのね。
ふうっと溜息をつく。この生活がいつまで続くのかしら。
「学校の七不思議って言われているのですけどね……」
麗子がいきなり思いついたように口を開く。
七不思議なんて、何を言い出すのかしら。
「この学校にもね、季節外れの桜っていうのがあるんですのよ。もう、他の桜が散ったころに満開の桜。その桜はなんとも美しくて……この世のものとは思えない絶景らしいんですの。だけど、その桜を見たものは今までに誰一人として見たものはいないらしいんですわ」
季節外れの桜……。
なんだかロマンチックね。
「でも、どうしていきなり?」
「その桜は丁度この時期に咲くといういい伝えですのよ」
「でも、そんなの咲くわけないわ。もう秋でしょ」
軽く鼻で笑うと、麗子はむっとした表情を見せる。
「ありますわ! しかも、それを見たカップルは永遠に……」
「はいはい。麗子は本当にそういう言い伝えが好きね」
私が軽くあしらうと、麗子は少し涙目になった。
やばい……。
「あーごめんね。麗子。そういうの良いよね。きっとあるはずよ」
「そうですか!? ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいですわ」
慌てて取り繕うと、麗子はぱっと顔を輝かせた。
私はほっと安堵の溜息をついた。
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神崎が黒板に何やら分からない数式を次々と書いていく。
生徒の方を見ると、手紙を書いていたり、おしゃべりをしたり……と真面目に聞いているものはいない。
本当に家とはえらい違いね。
ふうっと溜息をつくと、不意に神崎と目が合う。レンズ越しの瞳がにわかに細くなった気がした。
起立、礼、着席の合図が終わると、生徒は欠伸をしたり、友達と話したりと神崎に興味を示すものはいない。
そんな神崎がつかつかと私に歩み寄ってくる。何事かと思えば、神崎はくぐもった声で告げた。
「野田さん。ちょっと放課後残ってください」
それだけ言うと、すぐに踵を返して出て行ってしまった。
私はぽかんとしながら、神崎の背中を見つめた。
その時の神崎の声色が妙に柔らかかったためか、私は逆らうことなく放課後の教室に残っていた。
すると、がらがらっというドアの音が聞こえる。
「ついてこい」
いつもの姿の神崎は教室に入るなり、それだけを発してまた去っていく。
その姿で大丈夫なのかしら? そんな不安を抱えながら、私は急いでその後をついて行った。
この学校は想像以上に広い。
都内でも有名なお嬢様学校だからだ。なので、私もこの学校で知らない場所がたくさんある。
神崎はその私の知らない場所をずんずんと歩いていく。幸い誰にも会わなかったが……。
しかし、そのたびに私の不安は募っていった。
やがて、神崎が足を止める。あまり急だから、彼の背中にぶつかってしまった。
赤くなった鼻をこすりながら、前を見る。
「なにこれ……」
そこに広がるのは一面の秋桜畑だった。
優しい花の香りが鼻腔をくすぐる。
「偶然……見つけたんですよ」
「凄いわ! 凄く綺麗ね! ねえ、伯さん!」
思わず、神崎にため口で接していたのに気づき、慌てて口をつぐむ。
そんな私を見て、くすくすと微笑んだ。
そして、私の隣に立ち、手をそっと握る。
「これを見つけたとき、お前が思い浮かんだんだ。でも、そんなに喜んでくれるとは思いませんでしたよ」
「……あ、ありがとうございます」
その時の神崎の瞳が凄く優しかったから、思わず動揺してしまう。
私はまた、その秋桜に目を移した。
一つ一つが小さくて健気で、可愛かった。
「まるで、お前みたいだな」
「何がですか?」
「秋桜だよ。健気で小さいところが」
神崎は私の方を見て、くすりと微笑む。
そんな彼に、何故か私の鼓動が早くなった。
「そ、それ、褒めてるんですか?」
「褒め言葉ですよ。一生懸命で可愛い。……苛めてみたくなる」
「……鬼畜」
ぼそりと呟くと、神崎はいつもの意地悪な瞳に変わっていた。
季節外れの桜。それはこの可愛い秋桜達だったのかもしれない……そう思うと、また笑みがこぼれてしまった。