32話:冷めない緑茶
玄関のベルが部屋に鳴り響く。
誰なのかはもう分かっていた。急いで、戸口まで出ていくと、ドアを開けた瞬間に抱きつかれれ、思わず身体が傾く。ぎゅっと音がなりそうなほどの力が、想いを表しているみたいで、なんだか嬉しい。
身体を離した伯さんは、おもちゃを手に入れた子供みたいな無邪気な笑顔を浮かべていて、こちらも自然と笑顔がこぼれた。
「無性に君に逢いたくなった」
甘さをたっぷりと含んだような声色で囁かれる。どきんと心臓が飛び跳ねた。 こちらを見つめる視線がいたたまれなくて、思わず目を逸らす。自然と、両肩を掴んでいた神崎の手を払うような形になって、どうすればいいのか更にとまどった。そんな私を、神崎は可笑しそうに笑う。
なんだかこそばゆい雰囲気が、更にくすぐったいような、恥ずかしいような気持ちにさせる。
少し触れた神崎の手がすごく冷たい事に気づき、やっとここが暖房の効いていない玄関だった事に気付いた。
「さ、寒くないですか? どうぞ、上がってください」
神崎が着ていた外套を脱ぐと、中は思ったよりも薄着だった。どうりで手が冷たいわけだ。
もしかして、本当に急いで来てくれたんだろうか。そうだとしたら、この目の前の人が心の底から愛しく感じる。自惚れているだけかもしれないけれど、今はこの幸せな気持ちに体をあずけていたかった。
リビングに入ると、玄関との温度差が大きいのが感じられた。
そのためか、ふと神崎の方を見ると、眼鏡のレンズが白く曇っている。笑ってはいけないと思いつつもぷっと吹き出してしまった。
「笑うな」
冷たい声色とは裏腹に、心なしか神崎の頬が赤いような気がした。
そんないつもと違うような神崎にやっぱり笑ってしまって、神崎はむっとしたように眉を顰める。
それには少し失礼な気もしない訳でもなくて、笑い混じりの声で一応謝ってみようとした。
「ごめんな……くははっ、……さい」
「おい、謝罪になっていないようだが」
神崎は諦めた様子で溜息をついて、先ほどまで曇っていた眼鏡のフレームをくいっと上げる。そんなちょっとまぬけな伯さんもやっぱりかっこいいと思ってしまう私。
そんな馬鹿みたいな自分に、顔に熱くなってきて、その火照りを冷まそうと、お茶を淹れに行こうと思った。
「お詫びにお茶でも淹れてきます……ぇっと、何がいいですか?」
「何でもいいですよ、お酒以外なら」
やっぱり温かい物の方がいいよね。コーヒーは目が覚めちゃうだろうし……ここはやっぱり緑茶かな。
キッチンの食器棚の下方の右側の戸は、お父さんの趣味やら、接待やらで、そこはなかなか紅茶やコーヒー、緑茶などの種類が豊富に詰まっている。
私はその戸を横に開いて、緑茶だけが入ったクッキーの空き箱を取り出す。
神崎の冷蔵庫は、いつも殺伐としていて、私がいつも食材を買ってくる状態だった。だから、初めて来て料理を作った時はいろいろと迷った。ある日、何か余ったものがないかと神崎のキッチンを探っていると、食器棚の本当に奥の方、都内で有名なバームクーヘンの空き箱やら、クッキーの空き缶やらが出てきて、神崎が初めて甘いもの好きだという事を知った。
この時のことをふと思い出して、迷わずに甘い風味の緑茶を選んだ。
そういえば、どうして伯さんは、あのクッキー缶やらをあんなに奥の方にしまっておいたのだろうか?
お茶の基本的な淹れ方はまだ知っていた方だ。
だけど、伯さんにはとびきり美味しいお茶を飲んでほしくて、傍にあったケータイで調べてみる。
お湯は少し冷ました方がいいらしい。お湯を淹れた後は、茶葉が開くまで一分ほど待って……最後にちょっとずつ分けて淹れる。
こんなに丁寧に淹れたのは、お父さんの大事なお客さんが居たとき以来で、少し緊張する。
「あ、出来ました」
そそくさとトレイに良い香りが漂う緑茶を載せて、神崎のもとへ向かう。
伯さんまでの距離はごく僅か……なはずなのに。
「ぇ……あっ」
何故か、何もない所でつまづいて、冷やっとした感覚に陥る。
あ……私、最悪だ―――。
きっと熱いお茶を頭から被ってしまうことだろう。あぁ、ごめんなさい、伯さん!
なんて、ぎゅっと目を瞑り、最悪の事態を予想した、が。
一向に熱い感覚はなくて、そっと目を開けてみる。トレイは少し傾いたまま、伯さんの手に支えられていた。
「ったく……馬鹿なんですか、君は」
「あ……伯さん」
「忘れていましたね、君は最悪の馬鹿でした」
目の前にある神崎の顔は、くっと意地悪く笑っていた。
そこでやっと、神崎に助けてもらった事が分かった。
茶碗の端からは、一筋だけお茶が零れ落ちていた。
「ごめんなさい、あの……」
神崎は何も言わずに、そのままトレイにあった緑茶を口にした。
神崎の眉がぴくりと動いたのを見て、不安になる。やっぱり美味しくない? がんばって淹れたつもりなんだけど。
「おいしい……」
それは心から思っているような口ぶりで、けっしてお世辞ではないようだ。
ほっと嬉しさと安堵の入り混じったような溜息をついた。
「これで不味かったら、どう罵ろうかなと思っていました」
「……ひどい」
拗ねたように唇を尖らせると、頭に手のひらを置いて、優しく撫でてくれた。
酷い言葉とは裏腹の優しい手つきが、怒りを起こさせないようにしている気がして、少しずるいと思ってしまう。
神崎らしくないにこっとした笑顔を浮かべられると、もう怒りなんか微塵も起きない。逆にどきどきと嬉しさと恥ずかしさで、幸せな気持ちにさせられるのだから、これはもう私になんか手に負えない。
トレイの上の緑茶はまだほくほくと湯気を立てていて、いつまでも冷めないんじゃないかという気にさせられてしまった。
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