31話:自分の気持ち
神崎の両親との対面を明後日に控えていた。
まだ二日前だというのに、食べ物は喉を通らないし、訳もなく心臓が暴れだしたりする。
自分が緊張しているのかも分からないぐらい緊張しているくらいだ。
会食は、郊外にひっそりと佇む高級ホテル。そのホテルは内閣総理大臣からハリウッドスターまで幅広くの著名人が集まり、あまり公共の場に顔を出すことが出来ない人が利用するホテルらしい。そんなホテルで、あの神崎グループの総帥と会食といった事だから、緊張しない方がおかしい。
図書館から借りてきたテーブルマナーのお手本という参考書を机の上に広げて、ぐんと背伸びをしていると、傍にあった携帯電話が鳴り響いた。
いきなりだったので、驚いて椅子から転げ落ちそうになるのを抑えて、電話に出る。
『杏奈?』
低音なのに優しくて、それでいて心地よいいつもの声。
それには、長時間の勉強に凝り固まっていた肩も、なんだかすぐに癒されるようだった。
自然と笑みが零れて、緊張も不安も一瞬だけだけど、どこかへ飛んでいく。
当の神崎はそんな事も露知れず、言葉をつづけた。
『会食が夜の5時からに決まりました。大丈夫だよな?』
「はい……大丈夫です」
『日時じゃありません。お前の気持ちだ』
思わず言葉が詰まる。正直言って、大丈夫じゃない。
多分、人生で一番の勝負所だから。人生で一番、緊張していると思う。
ずっと黙っている私の代わりをするように、神崎は先に言葉を続ける。
『その様子だと、大丈夫じゃなさそうだな』
顔も見えないはずなのに、思わず首を縦に振っていた。
耳を澄まして聞こえないほど小さかったが、ふっと笑い声が聞こえた気がした。
黙っていてもダメな気がして、次は自分から声を発した。思ったよりも声が掠れている。
「正直、大丈夫じゃないです。すごく緊張もしています。だって、向こうからしてみれば、いきなり出てきた小娘が、自分の息子を取ろうとしているようなものですから。相当、叩きのめされる覚悟で行かないと、無理だと思う……だから怖い。でも、そんな怖さも、不安も緊張よりも、自分の気持ちの方が数倍も強いんです」
伯さんを好きって気持ち……。
これだけはずっと大事にしていきたい。
「伯さんが好きなんです。この気持ちだけは伝えたい」
自分の深い深いところから声を発したような感じだった。
はっと息を呑むような音が聞こえる。神崎は今、どんな顔をしているんだろう。
多分、顔を合わせていたら、怖くて絶対に言えない言葉だと思う。臆病な自分の少し嫌気がさした。
数秒の沈黙の後、神崎が少し笑い声を滲ませながら、それでいて真剣な声色で言葉を繋いだ。
『それは、直接聞きたかったんですけどね』
「すみません……」
『だから、この会食が終わった後、またもう一度聞かせてくれませんか。その時は、俺の気持ちも話したいと思います』
神崎の気持ち……。こんどは別の胸の高鳴りが、私の心の半分を占拠する。
それがどんな結果でも知りたいと思った。私をただ利用しただけでも、嫌いだと思われていてもいい。
好きな人の気持ちを知れるほど、幸福で嬉しいことはないと思う。
胸の鼓動をすごく近くに感じる。さっきからずっと、とくんとくんって響いているのを感じている。
これが、好きって気持ちなんだって。母親が昔に作ってくれたマーマーレードがことこと胸の中いっぱいに詰まっているようだった。
「私、伯さんに出会えてよかったです。最初は、最悪だなって思ったけど……伯さんに出会えてなかったら、こんな幸せな気持ちになれなかった」
気が付くと、両目からぽろぽろと涙が零れていた。
スカートの裾に涙が落ちて、しみを作っては消え、しみを作っては消えるのを繰り返している。
あれ……なんで、私、泣いてるんだろう?
『今、何時だ?』
「え……っと、9時くらいです」
『お義父さんは?』
「今日は、遅くなるって……」
『今から、そっちに行く。少しだけ待っていてください』
えっ、という声を上げる間もなく、電話は切れた。
受話器からはツーツーという音が虚しく響くだけだ。
瞬きをぱちぱちと数回すると、やっと今の状況が理解できた。多分、あと数分もしたら、神崎はこちらにやってくる。そして、今の私はジャージの上にちゃんちゃんこを羽織っているという完璧と言っていいほどのダサさだ。
とりあえず、今の恰好だけは着替えようと、心の中で誓ったのだった。




