26話:守りたい
顔に痣が出来たぐらいで、大した外傷はなかったらしい。倒れたのも、軽い脳震盪のせいだと言われた。そのため、翌日には退院出来た。
麗子にはあれからずっと謝罪の言葉を述べられ、逆にこちらが居たたまれなくなってくる。
麗子はあの合コンにあんな男を呼んだ覚えもないという。
あの男は私を散々、殴って逃げ出したという。財布などの金目のものが盗まれなかったのは不思議だった。助けてくれたのは、神崎だったらしい。たまたま通りがかり、私を見つけたのだと。
「痣が出来ているな」
神崎はどす黒く痛々しい目元の痣を手の甲でそっと撫でた。
その仕草があまりにも優しくて、驚いた。と同時にとても嬉しかった。
大事にされていると自惚れてもいいのだろうか?
私は今、神崎の自宅のリビングで神崎と二人きりだった。
二人で話すのは久しぶりだからか、少し緊張する。それでも、神崎が私を気遣っているのが、伝わってきた。
話したいことはいっぱいあるのに、上手く話せない。神崎はそんな私を優しく見つめていた。
「し、質問してもいいですか?」
ためらいがちに、口を開いた。
それを聞くと、今の幸せな気持ちもなくなってしまうかもしれないからだ。
「なんだ?」
「……婚約者とはどんな関係だったんですか? その、ほら……」
”私を抱いたくせに!”
神崎の婚約者……柚木のあの声が忘れられない。あの涙で歪んだ顔も、神崎の動揺した様子も。
許嫁というだけで、あの二人の反応は大きすぎる。
「それは……」
目を大きく見開いた神崎は完全に動揺した様子だった。
やっぱり何かあるんだ……。神崎は目を伏せたまま呟いた。
「俺を軽蔑するかもしれないぞ?」
「大丈夫です。伯さん言ってくれましたよね? 私は優しく、思いやりがあり、教養のある人間だって。でも、私は一度……」
好きになった人と言おうとして慌てて口をつぐんだ。
「私は一度、信頼し、尊敬した人には一生ついて行きます。伯さんが過去にどんな人でも。私はそんな人間です」
軽いプロポーズをしたみたいで、顔が熱くなって、両手で頬を抑えた。
頭上から、神崎の笑い声が聞こえる。俯いていたので、神崎がどんな表情をしているのかも分からなかった。突然、額に柔らかいものが押し付けられる。それが、キスだと分かると、更に顔が真っ赤になった。今の私は多分、ゆでだこだ。
「それはプロポーズみたいだな」
「ち、違います!」
「違うのか?」
一瞬、悲しそうな顔をされて、更に頭が混乱した。
思い返せば、プロポーズみたいだけど、認めるのは恥ずかしくてできない。
でも、一緒に居たいのは事実だし……。
頭の中をめまぐるしくたくさんの考えが回る。そんな私を見て、神崎はまた笑った。
「……そこまで言うのなら、質問に答えよう」
さっきまで神崎の笑っていた顔が真剣な表情へと変わった。
私の顔の火照りも段々と覚めてくる。
「彼女……柚木とは一度だけ関係を持ったことがある」
「―――っ」
「まだ若い……というか、18,9歳ぐらいの頃だ。あの頃は何もかもどうでもよくなっていて、女はとっかえひっかえで遊んでいた」
神崎は私の表情を伺いながら、ゆっくりと話していく。
口調は淡々だが、少し緊張しているのが分かる。私は神崎の手をそっと握った。
神崎は驚いて、こちらを見たが、安心したように続けた。
「その女のひとりには柚木も居た。俺はあいつを抱いた。そして、俺はその事を忘れていた」
やっぱり、本当だったんだ。
ずきっとした痛みが胸に広がる。これが、ヤキモチなのかな……。
「それからしばらく経って、再び柚木が現れた。俺の子を身ごもったと言って。……おろせ。その一言に
、俺はなんのためらいもなかった」
正直、酷いと思った。
でも、それよりも、神崎が本当に辛くて、悲しい表情をしていた。
酷いが守りたいに変わった。女性が男性を守りたいなんておかしいかもしれない。
それでも、この男を抱き締めて、心の底から愛したいなんて思ってしまった。
「あ、杏奈!」
そんな思いは行動に変わっていた。
神崎の頭をそっと包むように、抱きしめていた。
神崎は珍しく狼狽えていたが、しばらくすると私の方に身を委ねてくれた。
「最低だと思っただろう?」
「はい。正直、酷いと思いました。でも、守りたいとも思いました」
「守りたい?」
「だって、伯さん、すごく辛くて悲しい顔をしたんです。まるで自分を責めているみたいに」
神崎の息を呑む音が聞こえた。
私は身を離した。神崎がどんな表情をしているか気になった。
「伯さん、泣いてる?」
神崎の頬には一筋の涙の痕があった。
その泣き顔は見惚れてしまうほど美しくて、かっこよかった。
神崎は涙を流したまま、微笑んだ。どうしてこの人は何をしていてもかっこいいんだろう。
「ありがとう。君はとてもいい女だな」
そのとき、この人の冷え切った心を少しずつでも温められたらいいなと思った。
そして、私の中の好きがまた大きく膨らんだ気がした。




