25話:穏やかな風
会いたいよ……。
「伯さん……ふぇ」
「君は全く人の話を聞かない人ですね」
思わず名前を呼ぶと、返事をするかのように懐かしい声が頭上から聞こえた。
言っている事は厳しいのに、声色は優しくて……これって幻聴?
「幻聴ではない。現実だ。いい加減目を覚ませ」
「ひゃい!?」
耳元でひゅっと息を吹きかけられて、なんともおかしな奇声をあげてしまった。
顔を上げると、あの整った冷淡な顔立ちがすぐ目の前にあった。
その鋭い眼差しと目があった。……伯さんだ。
「うそ……」
「お父さん、ここから先は僕が話します」
驚きのあまり、酸欠の金魚みたく口をぱくぱくさせて、神崎を見つめてしまった。
それに気づいた神崎は、馬鹿にしたようにふっと笑った。
「大丈夫ですか? これから最も重要なことを話すのだが……」
「だだだ大丈夫れす!」
呂律も回らない。舌を噛んでしまって、羞恥で顔が真っ赤になるのが分かった。
会いたかった。会いたかったよ。本当に伯さんなんだ……。
そう思うと、無意識のうちに伯さんの方に手を伸ばしていた。
しかし、その手は行き場を失くしてふわふわと彷徨っていたが、神崎が優しくその手を握った。
「大丈夫だ。俺はここに居る」
「伯……さん」
会えた事に嬉しさもある反面、頭の中は混乱していた。
この話にはまだ続きがあるらしい。そして多分、きっとこの話の続きで全てが分かるのかもしれない。 私の胸の中では期待と不安が五分五分で入り混じっていた。
「杏奈のお父さんの言ったことは、ほぼ合っています。が、それには続きがある。野田建設会社は俺が買い取った。よって、俺のものだから倒産することもない」
「うっそ……でも」
「勿論、俺の父には隠れてやった事だ。親父の秘書にこの話を持ち出した。かなり手こずったが」
じゃあ、さっきのお父さんの話、まるきり覆すことになるじゃないの!
大事な事は先に言ってほしいと、父には改めて思った。
でも、話を聞かずに早とちりしてしまった私も悪い。さっきまで取り乱していた事を思い出して、急に恥ずかしくなった。
「今更、さっきのことを思い出しているのか?」
「い、言わないでください」
「まぁ、早く伝える事ができなかった俺も悪い。すまなかった。かなり追いつめていたと彼女から聞いたが……」
そう言って、麗子の方を指さす。
まさか、洗いざらい話したのだろうか。そう思うと、より恥ずかしくなり、思わず手で顔を仰いだ。
そんな私の様子に、神崎はくっと笑った。久々の神崎の笑った顔に、不覚にも胸がじーんとしてしまった。
「あいつとの婚約は破棄した。脅しの道具も通用しなくなると分かると、向こうも諦めていましたが。あの電話……あいつが変な事を言っただろう? あれは婚約破棄の腹いせだったらしい」
「よかった……」
伯さんに嫌われていた訳じゃなかったんだ……。
ほっとして、溜息と同時に呟くと、神崎は大きく目を見開いた。いつもの神崎には似つかない表情だった。
「伯さんに嫌われていた訳じゃなかったんですね。よかった……」
続けてそんな事を言うと、びっくりするほど神崎は優しい表情をした。
「君は優しく、思いやりがあり、教養のある人間だ。嫌いになるわけがないだろう? ……杏奈?」
優しい声と言葉に思わず、涙が溢れていた。うれし涙は久々だった。
そんな私の背中を神崎はぽんぽんと優しく撫でてくれた。そして、その大きな手の感触でわかった。
あの時、助けてくれたのも、髪を撫でてくれていたのも神崎だったという事を。
「いや、むしろ……」
神崎が何かを呟いたので、思わず聞き返すと、珍しく耳元まで顔を赤くさせて何でもないと応えた。
気になってしつこく問いかけると、それ以上は聞くなという、かなりの凄みを聞かされたので急いで口をつぐんだ。
こんな日常的な神崎とのやり取りが嬉しかった。もう二度とできないと思っていたから。
冷え切っていた心に、温かい穏やかな風が吹くのが分かった。




