1話:最悪なお見合い
普段、亭主関白な父にしては珍しい懇願するような口調。
尋ねるというよりはお願いをしている感じだ。
「お見合いをしてみないか?」
少し言いにくそうな口調に、ビーフシチューを口に運ぼうとしていたスプーンが止まった。
お見合い……?
そこで野田 杏奈の頭の思考は既に途切れていた。そして、少し思考が活動し始めたころ、私は父を強く睨みつけた。
「嫌です。何故、そんな事をしなければならないの?」
きっぱりと断ると、父は渋い顔をする。
「お前も知ってのとおり、私の会社は傾きかけだ」
また、その話。
私は深く溜息をつく。もう聞き飽きたことだ。
私の父は野田建設の社長である。
社長、と聞いたところでお金持ちの令嬢を思い浮かべることだろう。
しかし、私はそう良いご身分ではない。野田建設は倒産しかけの小さな会社だからだ。
「お父さん。その話はもう聞き飽きたわ」
「お願いだ、杏奈! どうか、私の会社の命運が懸っておるのだ」
冷たく言い放つと、父は土下座でもしそうな勢いで頼み込んだ。
私は俯きながら、またビーフシチューを口に運ぼうとした。
「行くだけでいいんだ! 行くだけでも……!」
ビーフシチューを口に含みながら、父をちらりと一瞥する。
父は瞳を潤ませながら、私を上目遣いに見ていた。
可愛くないから! でも、行かなきゃお父さんもしつこいだろうし。
私は軽く父を軽蔑しながら、渋々頷くことにした。
「行くだけよ。行くだけ」
自分に言い聞かせるように呟くと、父は満面の笑顔を浮かべた。
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お見合い場所は都内の高級ホテルだった。
しかし、ホテル内のカフェで待つこと約一時間が経過している。
次第に父も落ち着かない様子になっていた。
「お父さん、確かにここよね?」
「そのはずなんだが……」
「じゃあ、なんで、時間が1時間も過ぎてるのよ!? もう帰る!」
「後、後、もうちょっとで来るはずなんだ!」
痺れを切らして帰ろうとする私を、父は必死で引き留めた。
私は溜息をつき、渋々座ろうとしたとき。
「遅くなって申し訳ございません」
少し低音で美しい声が頭上から聞こえた。
どれだけ待たせるのよ!
苛立ちを浮かべながら、その声の主を見上げる。
微笑みを浮かべたその顔はとてつもなく美しかった。
吸い込まれそうな黒い瞳。長い睫毛。涼しげだがセクシーな口元とちらりと見える鎖骨。
私は思わず見とれてしまっていた。
しかし、何故だか違和感を感じた。何処かで見たことがある、そんな気がした。
「仕事が長引いてしまいまして……」
「いえいえ。大丈夫ですよ」
謝罪の言葉を並べる彼に対して、父は愛想笑いを浮かべている。
とりあえず座ってください、と父は前方の席を指さした。
「あ、僕、部屋をとっているんですよ。そこで……」
「それなら、二人きりのほうが話しやすいんじゃないですか? なぁ、杏奈」
父の問いかけに半ばうわの空で返す。私の頭の中は別の事でいっぱいだったからだ。
思い出せない。でも……この人絶対に見たことがある。
ばたん、とドアが閉まる音で我に返った。
「杏奈さん? どうしたんですか?」
彼が少し心配そうに顔を覗き込む。
美しい顔立ちがいきなり目の前に来たので、少し退いた。
「い、いえ。何もありません。あ、失礼ですが……名前を」
そういえば、彼の名前も職業も知らなかった。
まぁ、興味もなかったんだしね。
「あぁ、申し遅れました。神崎 伯と申します」
丁寧な言葉と作ったような笑みで答えた。
そんな彼の名前を反復するように尋ねた。
「神崎……伯さんですか?」
「どうかしましたか? 何か問題でも?」
彼は笑みを浮かべたまま、尋ねた。何を考えているか分からない表情。
問題もなにも……私は神崎 伯さんを知っている!
「あの、ご職業は?」
「教師ですよ。……そして、あなたの担任です」
頭を鈍器で殴られたみたいな衝撃だった。
そんな……まさか……この人が、神崎先生?
「ちょ、ちょっと待ってください。本当に神崎先生ですか?」
「正真正銘、神崎 伯です」
にっこりと笑って、神崎は私に一歩だけ近づいた。
反射的に私は退く。
「だ、だ、だって……いつもと全然違うじゃないですか! 大体、なんであなたが私のお見合い相手なんですか!? だ、第一、私はあなたと結婚する気はありません!」
パニックになって必死にまくしたてた。
とまどいで声が掠れる。すると、神崎は私のすぐ目の前に来た。
「うるさいですね。……お前に拒否権はないんだよ」
苛立ちのこもった声にびくっと体を震わせた。
指でくいっと顎を持ち上げられる。
「や、やめてください!」
半ば涙目になりながら、震える声を喉元から絞り出す。
そんな私を見て、彼は目を細めた。まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。
「じゃあ、俺の妻になれ。言っただろう? お前に拒否権はない」
「そ、それも嫌……」
反論しかけたとき、半ば強引に唇を押し付けられた。