12 元聖女と暗殺者
先の見通しが立った後の酒は美味かった。
時間が経つにつれ、《憩いの灯火》を訪れる酔っ払い客は増えていった。
オルセンの手が空いた時に、今後のことを話し合っている内に、夜の帳はすっかり下りてしまった。
支払いを済ませ、《憩いの灯火》を後にする。
安宿まではそんなに遠くない。このまま帰って寝てしまおう。
酒精で少し火照った体に夜風が心地よい。
少しだけ遠回りをして帰りたい気持ちになる。
明日は何をしようかな、と考えながら歩いていると、ふと違和感を覚えた。
誰かが私をつけてきているような、なんとも言えない嫌な感じ。
時折、背後を振り向いて確認するけれど、誰もいない。いるのかもしれないけれど、私には分からない。
気のせいならそれでいい。でも、私はか弱い乙女だ。何かされたらひとたまりもない。
こんなことなら、真っ直ぐ安宿に帰るのだった。
そう後悔したところで、時間を巻き戻せるわけではない。
もっとも、少々刺されたくらいで死ぬほどやわではないけれど。
とはいえ、痛いのは嫌なので、足早に安宿に向かおうとした瞬間、
「キャ――むぐ」
背後から口を押さえられた。その手は柔らかさがある。犯人は女性か?
鉄のような臭いが鼻腔を掠める。
首筋にひんやりとしたものが当てられた。
「来い」
女性の声だ。
そのまま薄暗がりに引きずり込まれた。
何が起こったのか、これから何をされるのか、相手は何者なのか、私を拉致した理由は、そもそも私を狙ったのか、誰でもよかったのか……
疑問が次々と頭に浮かぶ。
嫌な汗をかき、心臓も早鐘を打っている。
ドン、と背中を押され、私は前につんのめった。
転ばないように踏ん張る。
周囲を見渡す。
ここは……廃屋? 割れた窓から射しこむ月明かりに照らされた屋内は埃っぽく、生活の痕跡がない。
振り返って、犯人に目を向けるけれど、暗がりにいてよく見えない。
だが、月明かりに怪しく光るダガーが私に向いているのは分かった。
「私をどうするつもりですか? お金目当てですか? それとも恨み?」
聖女を疎ましく思う連中もいることは知っている。
死んでほしいと思う相手の命を救えば、その怒りや恨みが聖女に向くこともあるのだ。
「……こんな状況だってのに、随分と冷静じゃねぇか」
女性はダガーを私に突きつけながら、苦しそうに話す。
「そうでもありませんわ」
声が震えているのが、自分でも分かる。こんな状況で何も感じない方がおかしい。
まともに話しかけられた自分を褒めてやりたいくらいだ。
相手が一歩こちらに近寄り、その姿が月明かりに照らされる。
「いいか? 騒いだら殺す。黙って言うことを聞け」
私は思わず目を見開いた。
彼女の顔は蒼白に近く、息も荒い。
なんせ、その腹部には深い傷があり、なお出血が続いているのだから。
「治療薬を買ってこい」
即死するほどではないけれど、放っておくと長くは持たないだろう。
今はどうでもいいけれど、私の背中も血で汚れていることは想像に難くない。
「逃げようとしたら殺す」
なぜ、そんな傷を負ったのか。
そんな疑問よりも、まずは傷を癒やさないと彼女が死んでしまう。
わざわざ治療薬を買いに行く猶予などない。
仮にも、私は元聖女。
全ての人を救えるなど思ってはいないけれど、目の前で消えそうな命を拾いたいと思うのは当然のことだった。
「おい、聞いてるのか? 早く――」
「黙っていてください」
「は……?」
私は突き出されたダガーの横を通り、彼女に近づく。彼女の腹部に手をかざし、【中治癒】を発動した。
彼女の腹部の傷を淡い光が覆う。
肉が繋がり、傷も塞がり、出血はすぐに収まる。
そこにはきれいな肌が再生されていた。
「な……治癒魔法、だと?」
彼女は自分の腹をさすり、信じられないといった顔で私を見た。
「……本当に、治ってやがる」
この程度であれば、朝飯前である。たとえ酔っていようと、ミスなどしない。
その自信はある。
それでも、瀕死の人が治ったことに、ほっと胸を撫で下ろした。
人が死ぬのを見るのに慣れているわけではないのだ。
彼女は私の顔を見てハッとした。
「その面……まさか、聖女か?」
私と知らずに拉致したのか。
だとしたら、彼女は運がいい。
「もう聖女ではありませんわ」
重要なことなので、訂正しておく。
「今はただの無職です。それよりもなぜ大怪我を?」
命を助けたのだ。それくらい聞く権利はあるだろう。
女性はダガーを腰の鞘に戻した。私を害する意図はないようだ。
「……依頼でしくじっただけさ」
普通の探索者なら、負傷すれば治療院に行けばいい。
それができず、こうして私を廃屋に引きずり込んだのだ。堅気の職業ではないだろう。
「もしかして、裏稼業の方ですか?」
女性が僅かに目を細めた。
「……察しがいいな。あんた、ただのお嬢ちゃんじゃねぇな。あたしの怪我を見ても動じねぇし」
あの程度の傷であれば、見慣れている。
騎士団について、戦争の前線に行った時、もっとひどい怪我を見たことがある。
それこそ、脚を失うとか。
聖女になり立ての時は、私の力が及ばず亡くなる騎士もいた。
それ以来、そうならないよう治癒魔法と回復魔法の特訓をしてきた。
私の前では死人を出したくないという思いがあったのだけれど、今にして思うと、その時から過重労働に片足を突っ込んでいたのかもしれない。
ちなみに薬草を育てたり薬を作ったりするのに、治癒魔法を使うのには、実は緻密な魔力制御の訓練という側面もあった。
そういう経緯があるので、お腹のちょっとした傷くらい平気だ。
「あたしはサリアだ。暗殺者をしている」
暗殺者……なかなか物騒な職業の人だった。
「それを私に教えて良かったのですか? もしかして、ここで私を殺す気ですか?」
その気なら、既にそうしているだろう。
「いいや、あんたは殺しても死ななそうだしな」
あながち間違いではないけれど、人に言われると少しイラっとする。
「わざわざ吹聴したりしねぇだろ。な、聖女フィアナ?」
誰かに言えば殺す、ということなのだろうか。
そんな心配せずとも、誰にも話すつもりはない。
というか、聖女ではないのだけれど。
それにしても、このサリアという女性、さっきまで死にかけていたというのに元気なものだ。
「あの、私、貴女の怪我を治したので、もう行ってもいいですか?」
私の身に危険がないと分かった以上、早く安宿に帰って寝たい。
「まあ待て」
「まだ何か?」
「あんたには恩ができちまった」
意外と義理堅い人なのか。
「この借りは必ず……返す――」
不意にサリアの体が前に倒れた。体の力が急に抜けたようだ。
咄嗟に彼女の体を支えて、埃だらけの床に横にする。
脈はあるし、呼吸もしている。
決して元気などではなかった。
なんとか気力で意識を保っていただけだ。
怪我が治ったことで安堵して、緊張の糸が切れたのかもしれない。
私としては、サリアが生きているのであれば、それでいい。
それでいいのだけれど……
「これ、どうしろと?」
騎士に通報すると、後で面倒だし、サリアにも恨まれそうだ。
この場に放置するのも気が引ける。いや、襲われておいて、何を言っているのかと思わなくもない。
ただ、彼女は悪い人間ではない。
私の直感がそう告げていた。
「仕方ありませんわ……宿に連れていきましょう」
追加の料金を支払えば、あの狭い部屋に一人くらい運び入れても許されるかもしれない。
その料金は後でサリアに返してもらうけれど。
よいしょ、と彼女を背中に担ぎ、安宿まで運ぶことにする。
人なんて運んだことはないけれど、力の抜けた人ってこんなに重いのか。
宿まではそんなに遠くないのが幸いだ。
それでも体力があるとは言えない私には重労働だった。




