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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

こんな醜い姿になった私を愛してくれますか?Lv100

作者: むべむべ
掲載日:2026/02/13

「勇者よ。其方に王都からの追放処分を言い渡す」


 王の間には、冷え切った沈黙が横たわっていた。


 高い天井から吊り下げられた水晶の燭台が青白い光を放ち、磨き上げられた大理石の床を照らしている。

 壁に並ぶ歴代の王の肖像画が、まるで裁きを見届けようとするかのように厳かな視線を投げかけていた。


 玉座の間に立つのは、二つの影。


 一人は使い込まれた旅装に身を包んだ青年だった。

 かつては農村で鍬を振るっていた手は、今では剣の柄を握り慣れた戦士の手になっている。

 だがその瞳に宿る穏やかな光だけは、予言によって勇者に選ばれる前と何一つ変わっていなかった。


 ルクス。


 人類最後の希望と謳われた勇者は、しかし今、信じられないという表情で玉座に座る老王を見上げていた。


「そんな、何故ですか」


 その声は静かだった。

 怒りでも悲嘆でもなく、純粋な困惑だけが滲んでいた。


 玉座に深く腰を沈めたオーグスト王国の国王、ヴィルヘルム三世は重い溜息とともに口を開いた。

 白髪交じりの顎鬚を震わせ、王冠の下の額には深い皺が刻まれている。その傍らに立つ宰相は目を伏せたまま一言も発しない。


「決まっているだろう、勇者よ。世界を救ってくれたことには感謝している。魔王を討ち果たしたその功績は、千年の後まで語り継がれるだろう。だが——」


 国王の言葉が途切れた。 

 その目が勇者の背後に向けられる。


 玉座の間に居並ぶ文官や武官たちの視線も等しくそちらに注がれていた。ある者は口元を袖で覆い、ある者は一歩、また一歩と後退り、ある者は顔を真っ青にして柱の陰に身を隠そうとしている。


 ルクスの背後に、"それ"は立っていた。


 それはかろうじて人の形は保っていた。

 二本の腕、二本の脚、一つの頭。

 だがそれ以外のすべてが人間とは似ても似つかない。


 頭部は白く湿った肌に覆われていた。

 目があるべき場所にはのっぺりとした皮膚が張りついているだけで、眼窩の痕跡すらない。

 白いウナギのような顔——が最も近い表現だろうか。

 だが口だけは存在した。唇のない、剥き出しの歯列が横一文字に並び、その隙間から粘性の唾液が糸を引いている。歯は人間のものとは程遠い、鑢のように細かく鋭い牙の連なりだった。


 そして、口から漏れ出る臭気。


 腐肉と硫黄と、名もなき深淵の底から湧き上がるような悪臭がじわりじわりと広間を侵食していく。

 どれほど香を焚こうとも、どれほど換気をしようとも、この臭いだけは消えなかった。

 生理的な嫌悪を超えて魂そのものに訴えかけてくるような、本能的な恐怖を呼び起こす瘴気。


 胴体はさらに異様だった。鎧のように硬質化した皮膚の所々に、別の口が開いているのだ。

 それぞれが独立して呼吸するように開閉を繰り返し、覗く歯列は頭部のそれよりもなお鋭い。

 腕の内側にはギョロリと、巨大な瞳がうごめいていた。虹彩は金色で、爬虫類とも魚類ともつかない縦長の瞳孔がせわしなく周囲を見回している。


 それはもはや人間ではなかった。

 魔王ですら、これほどまでにおぞましく人の理を逸脱した姿はしていなかった。


「——その怪物を、我が国に引き入れるわけにはいかないからだ……!」


 国王が、震える指でルクスの背後を指差した。


 広間にどよめきが走った。文官の一人が膝から崩れ落ち、武官の何人かは腰の剣に手をかけた。怪物——そう呼ばれたものが、びくりと身を揺らした。


 ルクスは振り返らなかった。

 振り返る必要がなかった。背後にいるのが誰であるか、彼は世界の誰よりもよく知っていたから。


「怪物……ですか」


 ルクスの声にわずかな棘が混じった。だがそれは一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻る。


「陛下、僕が王都に戻ったのは、褒美をもらうためでも凱旋するためでもないんです」


 一歩前に出た。玉座の左右に立つ近衛兵が槍を構えて警戒するが、ルクスは気にも留めなかった。


「今でも僕は十分愛らしいと思うんですけどね」


 背後の怪物の顎を優しく撫でながら、ルクスは何でもないことのように言った。


 広間が凍りついた。何言ってんだコイツ、と。

 文官も武官も、宰相すらも、一瞬何を言われたのか理解できなかったように目を瞬かせた。


「ただ、他の人を怖がらせちゃうみたいだから」


 ルクスは苦笑した。申し訳なさそうに頭を掻く仕草は、村にいた頃のままだ。


「元に戻るための魔法がないか尋ねにきたんです。王宮の書庫には膨大な魔導書がありますよね。禁忌の魔法を解呪する方法が、どこかに記されていないかなって」


 国王はしばらく沈黙を続けたが、やがて深い疲労を滲ませた声で答える。


「……ない」

「ない、ですか」

「そもそも、あの禁忌の術式はヒルデガルドだからこそ読み解けたものだ。古代文明の失われた言語で記された古文書——あれを解読できる者は、この王宮には一人もおらん。宮廷魔導師長のザイフェルトですら匙を投げた代物だ。解呪の方法など、分かろうはずもない」


 国王の声には、微かな自嘲が混じっていた。


 ヒルデガルド・フォン・オーグスト。


 かつてその名で呼ばれていた少女が今、勇者の背後で化け物の姿を晒していた。

 妾腹の第三王女。

 王家の血を引きながら、宮廷では使用人よりも冷遇され、その非凡な魔法の才が認められれば認められるほど正妻の子である兄姉たちの嫉妬を買い、より深い差別と孤独の中に追いやられた少女。


 勇者の旅にヒルデガルドを同行させたのは、彼女の魔法の力が必要だったからだけではない。

 死んでも困らない駒——そういう政治的判断が確かにあった。国王自身も渋々それを承認した。


 そして今、その少女は世界を救った代償として人の姿を失っている。

 国王は震える声を、それでも懸命に搾り出した。


「世界を救ってくれた恩賞は出す。金でも領地でも、望むものがあればできる限りのことはしよう。だが"それ"を我が娘と……王国の民と認めて受容することは、できない」


 王の威厳も矜持もかなぐり捨てたように、老王は玉座の肘掛けを握り締めた。


「頼むから、王都から出て行ってくれ」


 それはもはや、命令ではなく懇願だった。

 ルクスは長い沈黙の後、静かに頷いた。


「残念ですけど、分かりました」


 踵を返す。背後の怪物——ヒルデガルドに小さく声をかけた。


「行こう、ヒルダ」


 怪物の体がびくりと震えた。腕の瞳がルクスを見上げる。金色の虹彩に、確かに感情が宿っていた。


「ユ゛ウ゛ジャ、ザマ゛……」


 声帯はとうに人間のものではなかった。喉の奥から絞り出される音は、獣の咆哮と瀕死の悲鳴を混ぜ合わせたようで、言葉として聞き取るには相当な慣れが必要だった。


 だがルクスには聞こえていた。

 聞き間違えるはずがなかった。


「うん。大丈夫だよ」


 彼は微笑んで、そっとヒルデガルドの手を取った。

 硬質化した皮膚の感触。かつてはきめ細やかな白い肌だった手は、今では灰色がかった外骨格のような表面に変わっている。


 それでもルクスは、何の躊躇いもなくその手を握った。

 広間を横切る二つの影を、誰もが息を殺して見送った。


1


 王の間を辞した後、長い廊下を歩いた。


 かつて勇者として旅立つ前、この廊下を何度か歩いたことがある。あの頃はまだ農民上がりの少年で、磨き上げられた床の上を歩くだけで緊張した。

 ヒルデガルドが隣にいて「大丈夫ですよ、ルクスさま」と励ましてくれたのを覚えている。


 今、ヒルデガルドは彼の影の中に沈んでいる。


 禁忌の魔法で変質した彼女の体は、いくつかの異能を獲得していた。影に溶け込む力もその一つだった。姿を消していても、彼女が纏う瘴気だけはどうしても漏れ出てしまうのだが、こうして姿を隠しているだけでも周囲への刺激はだいぶ抑えられた。


 それでも廊下ですれ違う侍女たちは顔を青ざめさせて壁際に張りつき、文官たちは足早に反対方向へ去っていく。

 そんな状況に苦笑しながら、城の正門に差し掛かった時だった。


「おい、勇者」


 かけられた声に振り返ると、近衛騎士団の副団長ディートリヒ・ベルヴァルトが、鼻に皺を寄せて立っていた。

 かつて共に剣を競い合った仲だ。旅立つ前はまだルクスも未熟で、厳しくも腕の立つ人だと尊敬していた。


「副団長殿」

「あんなのによく触れられたものだな。変な病気でもうつりそうだ」

「確かに気をつけたほうがいいですね。僕なんか恋の病をうつされちゃってますから」

「……狂人め。さっさと出て行くがいい」


 その声には遠慮も、申し訳なさの欠片もなかった。

 むしろようやく厄介払いができるという安堵と、抑圧された敵意が剥き出しになっていた。

 ルクスにもそうだが、影の方にこそ向けられているようだった。


「お気遣いありがとうございます。ちょうど出て行くところですよ」

「気遣いだと? 笑わせるな。貴様らがこの城に一歩でも足を踏み入れたこと自体が間違いだったんだ。誰がどう見ても魔物と、それに魅入られた者ではないか!」

「魔物だなんてそんな……魅入られてはいますけど」

「これでは民にも示しがつかない! 栄誉ある勇者パーティの一員が、あんな化け物の姿で——」

「ヒルダのことを化け物と呼ぶのは、やめてください」


 穏やかな声だった。微笑みすら浮かんでいた。

 だが、ディートリヒの体が一瞬こわばった。


 勇者の纏う空気がほんの刹那だけ変わったことを、騎士としての本能が察知したのだ。

 魔王を討ち果たした人類最強の剣士。

 その殺気は、たとえ一瞬であっても歴戦の騎士の背筋を凍らせるに足るものだった。


 だが、それも一瞬のことだった。

 ルクスはすぐにいつもの温和な表情に戻り、


「だってあんな可愛い子にそんな言葉、失礼ですよ」

「……正気か貴様……」

「もちろん。では失礼します」


 と、軽く会釈して歩き出した。


 ディートリヒは何か言い返そうとしたが、喉の奥で言葉が詰まったように口を閉ざし、忌々しげに舌打ちをするだけだった。

 城門をくぐろうとした時、別の声がかかった。


「ルクス」


 低く重い男の声。だがそこには先ほどの副団長とはまったく異なる響きが含まれていた。


 近衛騎士団長、ゲオルク・ヴァイスハウプト。


 五十を過ぎた歴戦の騎士は、深い皺の刻まれた顔に苦渋の色を浮かべて立っていた。

 勇者が旅立つ前、剣術の基礎を叩き込んでくれた師でもある。鍬しか握ったことのない農民の少年に剣の持ち方から教えてくれた。

 ヒルデガルドに対しても、他の騎士たちとは違って常に敬意をもって接していた数少ない人物だった。


「団長」


 ゲオルクは無言のまま歩み寄り、ルクスの前で立ち止まった。そして深く頭を下げた。近衛騎士団長としてではなく、一人の人間として。


「……すまない」


 短い言葉だった。

 だがその一言に、万の言葉が詰まっていた。


 世界を救った恩人をこのような形で追い出すことへの恥辱。

 自分の剣で守ろうとした王国が、今こうして恩を仇で返していることへの無力感。

 何より——かつての教え子と、第三王女であるヒルデガルドが怪物と呼ばれ、追放されるのを止められない自分への怒り。


「いいんです、団長」


 ルクスは笑った。


「あなたに謝ってもらうことなんて、何もないですよ。剣を教えていただいた恩は忘れていません。あなたのおかげで、僕はヒルダを守り通すことができた」


 ゲオルクは顔を上げ、その目がルクスの影を見た。


「……殿下に、伝えてくれ」


 老騎士は声を絞り出した。


「殿下の覚悟が、世界を救ったのだと。この老骨は、生涯それを忘れぬと」


 ルクスの影が、僅かに揺れた。


「伝えておきます。きっと喜びます」


 ルクスは微笑み、今度こそ城門をくぐった。

 背後で老騎士が拳を石壁に叩きつける音が、かすかに聞こえた。


2


 城門を出ると、王都の城下町が広がっていた。


 白壁の家々が石畳の街路に沿って並び、遠くには大聖堂の尖塔が午後の空に突き出している。

 魔王の脅威が去った今、街には少しずつ活気が戻りつつあった。市場には果物や干し肉が並び、職人たちは工房に戻り、子供たちは路地裏を駆け回っている。


 だがルクスが歩くと、その活気が嘘のように消えた。


 彼の影から滲み出す瘴気。目には見えない。色も形もない。だが人間の本能はそれを確かに感知していた。

 理由も分からず背筋が粟立つ。喉の奥が締め付けられ、腹の底に冷たい泥が流し込まれるような、原初の恐怖。


 人々は彼が近づくと足を止め、理由も分からず後退った。ルクスの顔に見覚えのある者——勇者の凱旋を聞き知っている者——は、さらに困惑の色を深くした。

 英雄であるはずの勇者から、なぜこれほどの恐怖が溢れ出しているのか。理解できないのだ。

 影がわずかに動き、さざなみを起こした。


「瘴気さえなければ、きっとみんな君の美しさを理解してくれると思うんだけどなぁ」


 影に収まっている間はかなり抑制されるはずだが、それでも一般人には耐え難い嫌悪感を抱かせてしまう。


「……違う道行こっか」


 ルクスは人通りの少ない裏路地を選んで歩いた。

 大通りを行けば、もっと大勢の人を怯えさせてしまう。

 そして、角を曲がった時だった。


「あ——」


 小さな声が、聞こえた。


 路地の先に、一人の少女が立っていた。十歳くらいだろうか。赤毛を二つに結い、そばかすの浮いた頬は健康的に紅潮している。手には焼きたてのパンを入れた籠を提げていた。


 彼女だ。覚えている。忘れもしない。

 旅の序盤、まだ王都からそれほど遠くない街道沿いの村で魔物に攫われた少女がいた。ゴブリンの群れに連れ去られ、巣穴の奥深くに閉じ込められていた。


 あの時、先に巣穴に飛び込んだのはヒルデガルドだった。


 ルクスが群がるゴブリンたちを剣で押し返している間に、ヒルデガルドは巣穴の最深部まで一人で駆け、泣きじゃくる少女を見つけ出した。


『もう大丈夫です。心配しないで、絶対にご両親のもとへ帰しますから』


 あの時のヒルデガルドの笑顔を、ルクスは今でも鮮明に覚えていた。


 白銀の髪を汚泥にまみれさせながら、それでも少女を安心させるために見せた、春の陽だまりのような笑顔。

 泣きじゃくる少女を小さな体で抱きしめて、その背中をゆっくりとさすっていた白く細い指。


 あの時、ルクスは確信したのだ。

 この人を守りたい、と。

 いや——それ以上に。この人と一緒にいたい、と。


 あの時の少女が目の前にいた。

 少女もルクスに気づいたようだった。勇者様、と口が動きかけた。


 だが、次の瞬間、少女の表情が凍りついた。


 ルクスの影から滲み出す瘴気が少女の本能を直撃したのだ。幼い子供は大人よりも感覚が鋭い。理屈ではなく、魂の根底で「逃げろ」という警報が鳴り響いたのだろう。


 少女の顔から血の気が引いた。大きな瞳に恐怖が満ち、唇がわなわなと震え始める。


「ひ……っ」


 籠を取り落としそうになりながら、少女は一歩後退った。それからもう一歩。そしてくるりと身を翻すと、脇目も振らずに走り去っていった。

 パンが一つ、籠から転がり落ちて石畳の上を転がった。


 ルクスはしばらくの間、少女が走り去った方向を見つめていた。


「……分かってたけどさ」


 呟くように、嘆くように。


「分かってたけど、悲しいね」


 固く、固く拳を握りしめた。

 独り言のように聞こえたかもしれない。だが、彼の影がゆらりと揺れた。そして、影の中から声が響いた。


「ユ゛ウ゛シャザマ、ゲン゛キダシデェ……」


 人の声帯では出せない音。喉の奥底から無理やり絞り出された、ひび割れた慟哭のような響き。

 だがその音の中に確かに込められた、懸命な優しさ。


「ありがとう、ヒルダ」


 転がったパンを拾い上げ、埃を払ってから歩き出した。

 もう、振り返らなかった。


3


 王都の外れに、とうに打ち捨てられた屋敷があった。


 かつてはどこかの商家の別邸だったらしいが、持ち主が夜逃げし、そのまま朽ちるに任されていた。

 壁には蔦が絡み、屋根の一部は崩れ、庭は雑草と野花に埋もれている。だが壁と天井はかろうじて原形を保っており、雨風はしのげた。

 何より、周囲には人の気配がまったくない。


「今日はここで休もう。明日の朝……いや、夜明け前に出発しよう。人目につかないうちに王都を出た方がいい」


 ルクスは埃っぽい居間に荷物を降ろしながら言った。

 壊れかけた暖炉に薪を組み、火を起こす。魔法を使えばもっと手早くできるが、ルクスはあえて火打ち石を使った。旅の間、ずっとそうしてきたように。


 炎が暖炉に灯ると、部屋がぼんやりとした橙色に包まれた。影から、ヒルデガルドが姿を現した。


 暖炉の光に照らされた怪物の姿は、やはり異様だった。

 頭部が炎を反射して鈍く光り、胴体の口が火の温もりに反応するように緩やかに開閉する。

 腕の瞳は炎を映してきらきらと輝いていた。


 だがその体の動き——暖炉の前にちょこんと体を丸めて火に当たる仕草には、どこか愛らしさのようなものが漂っていた。少なくとも、ルクスにはそう見えた。


「暖かい?」


 ルクスが隣に腰を下ろすと、ヒルデガルドの頭部がこくりと頷いた。

 彼女が火に手をかざす仕草を見て、ルクスは旅の最中の夜を思い出した。

 焚き火に手をかざしながら、ヒルデガルドは言った。


『こうやって誰かと火を囲むの、初めてなんです』


 笑顔だった。けれどその言葉の意味を、ルクスが本当に理解したのはもっと後のことだ。


 妾腹の第三王女。

 王族の末席に名を連ねることだけは許された少女。

 食事は一人、部屋は城の最も暗い一角、王族としての行事からは徹底的に排除されていた。

 誰かと食卓を囲んだことすらなかったのだ。


「よかった。冷えてたでしょ。影の中って寒いんだよね」

「ユ゛ウ゛ジャザマノ、カゲ゛、アッダカイ゛……」


 ルクスは柔らかく笑った。


「さすが。相変わらずお世辞が上手だね、ヒルダ」


 「ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ゥゥゥ……!!!」と必死に否定するヒルデガルドの声は、怪物のものとは思えないほど感情豊かだった。


『もう、勇者様ったら!』


 むきになって反論する仕草もかつてと変わらなくて、やっぱり可愛い。笑みを浮かべて彼女の体に寄りかかる。


 そうして、ルクスは暖炉の炎を見つめた。

 炎の揺らめきの中に、かつての記憶が蘇る。


 ──ヒルデガルド・フォン・オーグストは、生まれた時から「いらない子」だった。


 ある夜にヒルデガルドが初めて過去を語ってくれた。

 独学で魔法を覚え、十歳で初めて発動させたこと。

 宮廷魔導師長に「百年に一人の天才」と評されたこと。

 そしてそれが正妃の逆鱗に触れ、差別がさらに苛烈になったこと。


『でも、やめようとは思いませんでした』

『どうして?』

『だって私には魔法これしかなかったから。なくしたら、自分で自分を認める術を失ってしまうから』


 それはルクスが、初めてヒルデガルドの心の深い部分に触れた瞬間でもあった。

 誰にも認められなかった少女が、せめて自分だけは自分を認めてあげられるようにと、魔法にしがみついた。

 でも、と彼女は続けた。


『……でも途中から変わったんです。魔物に村を滅ぼされて、逃げ込んできた王都の片隅で怯える人を見た時に——ああ、私の力で誰かを救えるかもしれないって』


 その言葉を聞いた時、ルクスの胸に走った感情を、何と呼べばいいのだろう。


『だから魔王討伐の旅についていくと決めたんです』


 魔王討伐の旅は文字通りの死地。勇者とその仲間たちが帰ってくる保証はどこにもない。

 厄介な存在が自ら消えてくれるのならば、これ以上の僥倖はない。

 そんな政治的陰謀を自覚しながら、彼女は旅立った。


『実は勇者様には内緒にしてたんですけど』


 旅立ちの日、彼女を見送る者は一人もいなかった。

 正妃も、兄姉も、父王でさえも。

 唯一ルクスだけが彼女の手を取り「一緒に頑張ろう」と笑いかけてくれた。


『それだけで、私は結構救われていたんですよ?』


 自分が最初に勇者に救われたんだと、誰よりも誇らしげに笑っていた。


「……それなのに、僕は」


 魔王との最終決戦。

 仲間は地に伏し、残るは満身創痍のルクスとヒルデガルドただ二人。対する魔王は、未だ余力を残して健在。

 届かない。これまで積み上げてきた全てを賭して、なお倒すことが叶わないのか。


『いいえ勇者様。まだ賭けられるものがあります』


 それが何なのか、ルクスは知っていた。知っていたからこそ止めようとして、しかしヒルデガルドが浮かべた笑みの前に、言葉は喉を超えてくれなかった。


『大丈夫です。どんな姿になっても、貴方は私を愛してくれるって信じてますから』


 ——その笑顔が、彼女が人間として見せた最後の表情だった。


「悔しい、なぁ」


 暖炉の薪が崩れ、火の粉が舞い上がる。

 ルクスは現実に引き戻され、隣を見た。


 ヒルデガルドは暖炉の前で丸くなっていた。

 怪物の体は人間のように横になることが難しいらしく、獣のように寝転んでいた。

 頭部をわずかに傾けている。眠っているのかもしれない。目がないから開いているか閉じているか分からないのだが、呼吸が穏やかなリズムになっていた。


 ルクスはそっとヒルデガルドの頭に触れようとして──ほんの一瞬、ためらった。


 そんな生理的な反応を理性と愛でねじふせて、湿った白濁の肌に触れた。人間の肌ではない異質な手触り。

 だがそこには確かな温もりがあった。


 ゴブリンから女の子を助けたことを改めて思い出す。

 誰かを救えたことを、心の底から嬉しいと感じることのできる人。

 自分がどれだけ虐げられてきたかに関わらず、他者のために涙を流し、他者のために笑える人。


「あの時も今も、変わらず君は綺麗だよ」


 怪物の体が、微かに震えた。

 腕の瞳がうっすらと潤んでいるように見えた。


「ユ゛ウ゛ジャ、ザマ゛……」


 ヒルデガルドの声がかすかに漏れた。

 いつもよりさらに小さく、壊れかけた音だった。


「ヤザシイ゛……スギィ……」

「当たり前だよ。好きな子に優しくしない男の子なんていないもの」


 怪物の体がびくりと跳ねた。それからゆっくりと、ルクスの肩にもたれかかった。

 硬い皮膚の感触は、かつて旅の夜にテントの中で彼女が寄りかかってきた時とはまるで違う。

 けれど遠慮がちに、でも確かに触れる感触だけは、あの頃と同じだった。


 暖炉の火が、二つの影を壁に映していた。

 一つは人の形。もう一つは、人ならざるものの形。


 だが壁に映った影は、寄り添う恋人たちのそれにしか見えなかった。


4


 目が覚めたのは、夜が明ける前だった。


 窓の外はまだ暗い。深夜と早朝の境の、世界が最も静まり返る時間帯。空の端にわずかな藍色が滲み始めているが、星はまだ健在だった。


 ルクスは音を立てずに身を起こした。

 暖炉の火はとうに消えており、部屋は冷え切っていた。

 白い息が暗闇に漂う。隣ではヒルデガルドがまだ丸くなったまま微動だにしない。


「ヒルダ、起きて」


 小声で呼びかけると、怪物の体がぴくりと反応した。腕の瞳がぱちりと開き、暗闘の中で金色に光る。


「……ユ゛ウ゛ジャ、ザマ゛?」

「うん。そろそろ出よう。暗いうちに城門を抜けたい」


 ヒルデガルドはのろのろと身を起こし——それからすぐに影の中に沈んだ。ルクスの足元で影が揺らぎ、ヒルデガルドの存在が溶け込んでいく。


 荷物をまとめ、屋敷の出口に向かう。崩れかけた玄関扉を押し開け、外に出ようとした。


 その時、ルクスの足が止まった。

 夜風に混じる、かすかな気配。

 一つではない。二つでもない。十、二十——それ以上。屋敷の周囲に、音もなく展開している複数の人の気配。


 訓練された動きだ。呼吸を殺し、体温を抑え、魔力の放出を最小限に抑えている。一般人なら絶対に気づかない。並の冒険者でも気づけないだろう。

 だがルクスの感覚は、魔王との死闘を経て人間の域を遥かに超えていた。


「……ヒルダ」


 影に向けて、静かに囁いた。

 荷物を壁際に寄せ、腰の剣の柄に手をかける


「お客さんだ」


 ──次の瞬間、屋敷の窓が同時に三箇所破られた。


 ガラスの破片が飛び散る中、黒い影が室内に飛び込んでくる。三人だ。いずれも暗色のローブを纏い、顔を隠している。手には短剣と魔法の触媒。


 瞬間、抜き放った剣の刃が暗闇の中で淡い光を放つ。

 一閃——飛び込んできた一人目の短剣を弾き飛ばし、柄頭で鳩尾を打つ。

 二人目には踏み込みながら肩で体当たりし、壁に叩きつける。

 三人目が詠唱を始めかけたが、ルクスの蹴りが触媒を持つ手を打ち、魔法は不発に終わった。


 三秒。

 それだけで、侵入者三名は無力化された。


 ルクスは倒れた三人を一瞥し、玄関扉を蹴り破って外に飛び出した。

 夜明け前の薄闇の中、屋敷の前庭に広がる光景。


 数十人。

 ローブで顔を隠した者たちが、半円形に屋敷を包囲していた。手には剣、槍、杖。統制のとれた陣形。

 バラバラの暴徒ではない、訓練された軍人の動きだ。


 ルクスは剣を構えたまま、包囲の中心に立った。


「この魔力の感じ、覚えがあるんですけど」


 穏やかな声で言った。

 場違いなほどにのんびりとした口調で。

 包囲する者たちの間に、微かな動揺が走った。

 最前列の一人が、ゆっくりとローブのフードを外した。


 白髪交じりの髪に、深い皺の刻まれた顔。そして苦渋に満ちた目。

 ゲオルク・ヴァイスハウプト近衛騎士団長だった。


 続いて、周囲の者たちも次々とフードを外していく。

 見覚えのある顔が並ぶ。近衛騎士団の騎士たちだ。

 ルクスが旅立つ前に何度か手合わせした者、城内で挨拶を交わした者、ヒルデガルドに同情的だった者——そうでなかった者。


「流石だな、勇者」


 ゲオルクの声は平坦だった。城門で別れた時の感情を今は完全に押し殺している。


「あれほど気配を消したつもりだったが……まさか気づかれるとはな」

「皆さんの魔力遮断技術、宮廷魔導師仕込みでしょう? 型が綺麗すぎるんですよ。もう少し崩した方が逆に自然な気がします」


 ルクスは軽く言ったが、その目は笑っていなかった。

 いや、目は笑っている。だがその奥にある光が変わっていた。敵意の光へと。


「それで何の用です? ヒルダが可愛すぎて追っかけができるのは分かりますけど、ちょっと過激すぎるなって」

「……上の決定だ」

「……そうですか」

「魔王にも劣らぬ脅威と判断された。勇者ルクスと第三王女ヒルデガルド両名の処分を命じられた。追放ではなく、処分だ」


 言葉の意味は明白だった。

 殺せ、ということだ。

 世界を救った勇者と、そのために人の姿を捨てた王女を。


「一応、勇者は魔物と化したヒルデガルドに魅了され洗脳されたということになっている。引き渡すなら刃は向けないが」

「聞かなくても分かるでしょ?」

「だろうな」


 ゲオルクの目に、かすかな苦痛の色が走った。


「申し訳なく思う。だが……これも立場故の責務だ」


 老騎士は剣を抜いた。月光を弾いて、刃が冷たく光る。周囲の騎士たちも、一斉に武器を構えた。

 数十の切っ先が、ルクスに向けられる。

 ルクスはしばらく沈黙していた。


 それから、ゆっくりと口を開いた。


「お互い大変ですね」


 声はまだ穏やかだった。だがその穏やかさの質が変わっていた。温和さの上に被された薄い氷のような静けさ。


「城門の時は、ありがとうございました。ヒルダに言葉をかけてくれて。あの子、嬉しそうでした」


 ゲオルクの手が、ピクリと動いた。


「…………」

「分かってるんです。あなたが悪いわけじゃない。命令に従わなければ、あなたの部下たちも、あなたの家族も、無事ではいられない。それくらいのことはやる人たちだってことも知ってます」


 ルクスの声に感情が混じり始めた。怒りではない。悲しみでもない。もっと深い、静かな決意のようなもの。


「だから、恨みません」


 剣を構え直した。

 そして、ルクスの表情が変わった。


 穏やかな微笑みが消え、温和な光が瞳から引いた。

 代わりに現れたのは、魔王すらも怯ませた勇者の——否、歴戦の戦士の顔。


 冷たい双眸が、包囲する騎士たちを射抜いた。

 一言。


「——こい」


 空気が、凍った。


 数十人の歴戦の騎士たちが、その一言で足を止めた。

 体が動かない。本能が叫んでいる。

 目の前に立つのは人類最強の剣士。

 史上最凶の魔王を打ち倒した生ける伝説。

 そして影に潜む怪物にも劣らない、人の形をした怪物。


 ゲオルクの額に汗が伝った。

 分かっていた。分かっていたのだ。

 この男が本気になれば、近衛騎士団の全員をもってしても勝てない。それは最初から分かっていたことだ。


 魔王を倒したといっても所詮は人間、寝込みに不意を打てば殺せる──現場を知らない馬鹿な王妃や宰相が強引に推し進めた作戦に、成功の余地などない。


 だがそれでも命令を受けた以上退くわけにはいかない。

 それが近衛騎士団長の責務なのだから。


「全隊、突撃!」


 号令が夜明け前の闇に響いた。

 数十の刃が、一斉にルクスへと殺到する。

 だがルクスは動かなかった。


 否。動かなかったのは、一瞬だけだ。


 右足が地を蹴った。踏み込みは騎士たちの目にも映らなかった。音が、遅れて鳴り響いた。


 先頭の騎士が剣を振り下ろす。ルクスはそれを剣の腹で受け流しながら体を滑り込ませ、剣を持つ手首を掴んで捻った。

 関節が軋む音。騎士が苦悶の声を上げて剣を手放す。

 ルクスはその体を盾にして背後から迫る二人目の突きをやり過ごし、三人目の足を払った。


 殺さない。


 一撃で命を絶つことなど造作もないのに、ルクスは徹底して峰打ちと関節技で騎士たちを無力化していく。

 左から魔法が飛んできた。火球——中級の炎魔法だ。

 ルクスは視線すら寄越さない。対処もしない。ただ棒立ちのまま受けて、当然のように無傷を誇った。


「ヒルダ、手を出さなくていい」


 影に向けて、短く告げる。

 影の中でヒルデガルドの気配が揺れたのが分かる。

 戦いたい。守りたい。そういう衝動が伝わってくる。

 だがルクスの言葉に従い、影の中に留まった。


 ヒルデガルドが姿を現せば騎士たちの恐怖は倍増する。

 怪物を目の当たりにした兵士は理性を失い、何をするか分からない。そうなれば殺さずに済ませることが難しくなる。


 なにより、彼女が愛した守るべき国の民の死を見せたくないから。

 だからルクス一人で片をつける。


 五人目を投げ飛ばし、六人目の剣を弾き上げ、七人目の兜に柄頭を叩き込む。

 八人目と九人目は同時にかかってきた。左右から挟み撃ち。だがルクスは両者の間合いの外ギリギリで半歩引き、二人の剣が交差した瞬間に飛び込んで、両者の鳩尾を同時に打った。


 十人、十五人、二十人。

 次々と倒れていく騎士たち。だが一人として命を落としてはいない。


 対して、ゲオルクは動かなかった。

 動けなかったのではない。見ていたのだ。見惚れていたのだ。

 自分が剣を教えた少年が、どれほどの高みに到達したのかを。


 そして、自分の騎士たちを殺さずに戦ってくれていることの意味を。


「クソッ、イかれ勇者が……ッ! 何故敵わん、何故あんな化け物を庇い立てる!?」

「……ディートリヒ副団長。彼は魔王を倒し、世界を救った勇者だ。比較的平和な王国で剣を磨くだけの我らに勝ち目などない」

「なにを馬鹿なことを! 見損ないましたよ騎士団長! もういい、あの化け物は俺が征伐する!!」


 そういって、ディートリヒ副団長は鞘から剣を抜いた。

 ルクスの視線が向く。その瞬間、初めて彼の中にほんの僅かな『危機』に対する感知が働いた。


「その剣は……! 魔力を断ち切る魔剣ではないか! 宝具として国庫に保管されていたはず! 副団長、それをどこから!?」

「宰相殿から借り受けたんですよ。あの化け物を倒すためなら安いものだってね!」


 今なお襲いかかる騎士団員の相手をしながら、ルクスは冷静にその剣の脅威を勘定した。

 魔力を断ち切る魔剣。

 その類の武具は知っている。超人的な戦闘能力のほとんどが魔力によって成立するこの世界において、それは絶対的な優位性を持っている。

 濃密な魔力の鎧を纏うルクスであっても、無防備に受ければ手傷は免れないだろう。


「死ね、化け物が!!!!」


 そして腐っても副騎士団長だけあって、団員という肉の壁に動きを制限されている隙を突いて迫ってきた。

 不殺の縛りがある中で完全に対処するのは困難だ。

 だがやるしかない。ルクスは僅かに息を吐き、数瞬後に迫る斬撃に対応を──、


「……え」


 するはずだった動きが、ピタリと止まった。

 呆然となった顔に、青黒い血がかかる。

 人間のものではあり得ない色だ。なら誰のものか、そんなの決まっている。


 影から上半身を出して、その腕でルクスを守ったヒルデガルドの血液だった。


「は……はははっ! やった、化け物に傷を負わせてやったぞ!! ざまぁみ」

「ッ────どけ!!!!!」


 怒りと共に、莫大な魔力が放出された。

 それはもはや洪水のようだった。ただ雑に放たれただけの魔力が、団員たちを風の前の塵のように吹き飛ばす。

 副騎士団長も例外ではなかった。数メートル離れた地面に背中を強打する。


「ヒルダ……! ごめんよ、僕が不甲斐ないばかりに。痛くない? 大丈夫? 今治すから……!」

「ダイ゛、ジョウ゛ブ……」


 慌てて傷口に触れて治癒魔法をかけるルクスに、ヒルデガルドはおぞましくも優しい声で言葉をかけた。


「……ブジデ、ヨガッ゛タァ……」

「────」


 ああ、この子は。

 守るべき民だったはずの騎士団から刃を向けられ。

 家族であるはずの王にさえ見捨てられて。

 それでも、他人を想える優しい心を持った子なんだ。


 ルクスの瞳から、一筋の涙があふれた。


「ナ゛ガ、ナイデ」

「うん。ありがとう、大丈夫だよ。ヒルダが守ってくれたおかげで僕は平気だから」


 しゅんと落ち込むヒルダの頭に、ルクスはそっと手を置いた。可愛いと、心の底からそう思いながら。

 ディートリヒ副騎士団長は、そんな二人を見て心の底から気持ち悪いという感情を浮かべた。


「この悪魔に魅入られた堕勇者が……! それは王家の名を汚す妾腹の第三王女なのだろう!? ならば魔王討伐後に処分し、名誉の戦死を遂げたことにすればよかったものを! そんな醜い化け物、いずれ人類に牙を剥くに決まっている! 今ここで禍根を断たねばならん! 何故それを分からんのだッッッ!!!」


 裏返り、震えた声であらん限りの悪意を尽くした罵倒だった。

 先ほどまでのルクスなら激しい怒りと共に殺意を向けていただろう言葉。

 けれどヒルデガルドの尊くも温かい優しさに触れている今となっては、もはや憐れみさえ覚えていた。


 今なら分かる。

 彼はただ理解が及ばないものに対して怯えているだけの、ありふれた人間だ。


「……この子はね、僕が落ち込んでると励ましてくれるし、僕が楽しいとまるで自分のことのように喜んでくれる、とっても心優しい女の子なんだよ。それをこともあろうに醜い化け物だなんて」


 ルクスは心底呆れたように溜息を吐いて、


「見る目がないね。こんなにも愛らしくて美しいお姫様なのに」

「貴様は人の中身にしか興味がないのかァッ!!!??」


 吠え、突進するディートリヒ副騎士団長。

 対して、ルクスがとった行動はシンプルだった。


「失敬な、美少女だろ」

「がっ──!?」


 一瞬で間合いを詰めての、全力右ストレート。

 全力といっても本当の意味で全力だと原型を留めない血霧になってしまうため比喩だが、そのくらいの心意気はこめたつもりだった。

 鎧をまとった体が嘘のように殴り飛ばされ、錐揉み回転したのち地面に転がった。


「ルク……ス……」


 意識を失い、白目を向いた。

 これでもう、残るはゲオルクただ一人だった。


 夜明け前の空がわずかに白み始めていた。

 東の地平線に薄い紫が滲んでいる。

 ルクスは息一つ乱さず、剣を構えた。


「団長」

「……ああ」

「正直言うと、腹の底では『この国ぶっ壊そー』くらいのこと思ったりはしました」

「……だろう、な」

「でもヒルダはそんなこと望まない。彼女は優しいから。他人に傷つけられても、その分他人に手を差し伸べちゃうような、勇者の僕なんかよりずっとお人好しだから」


 だから、と続けて。


「彼女を殺すという判断は正しいのかもしれない。でもヒルダはこの国の……この国の人たちのために身を捧げたんです。人の形を捨ててまで魔王を倒した。それを怪物だと追い出して、挙げ句の果てに殺そうとするなら」


 声は静かだった。だがその静けさの中には熔岩のような怒りが静かに脈打っていた。


「僕は彼女を守る──容赦はしない」


 ゲオルクは長い沈黙の後、剣を鞘に納めた。


「……行け」

「団長?」

「全員気絶しているうちに行け。目が覚めればまた追わねばならん。それが務めだ」


 ルクスは一瞬目を見開き——それから、笑った。

 旅立つ前の、村にいた頃のような、屈託のない笑み。


「ありがとうございます、師匠」

「二度とその呼び方をするな。次に会う時は本気で斬る」

「嘘つき」


 ルクスは踵を返し、走り出した。

 足元の影から、ヒルデガルドの声が聞こえた。


「ダン゛チョ……アリ゛ガ゛ドウ゛……」


 ゲオルクの肩が、微かに震えた。

 二つの影は、白み始めた空の下を駆け抜け、やがて王都の城壁の向こうに消えていった。


 老騎士は一人、倒れ伏す部下たちの中に立ち尽くす。

 朝の風が、彼の白髪を揺らした。


「……世界を救った者が報われぬ物語など、あっていいはずがない」


 誰にも聞こえない声で呟き、ゲオルクは空を仰いだ。

 夜明けの光が、王都の屋根を金色に染め始めていた。


「そうですよね、陛下」


5


 王都の東門を抜け、街道をしばらく走ったところで、ルクスは足を緩めた。

 背後に追手の気配はない。ゲオルクの言葉通り、騎士たちが目を覚ますにはまだ時間がかかるだろう。

 街道を外れて森の中へ。木々の間を縫うように進み、小さな渓流のほとりで足を止めた。


「ヒルダ、出ておいで」


 影からヒルデガルドが姿を現した。

 朝日が木漏れ日となって降り注ぐ中、怪物の白い体が照らし出される。森の緑と清流のせせらぎを背景にすると、その異質さはいっそう際立っていた。


 だがルクスの目には、違うものが映っているようだった。


「お疲れさま。怖くなかった?」

「コワグ、ナイ゛……ユ゛ウ゛ジャザマ、イル……」

「そう? よかった」


 ルクスは渓流の岸辺に腰を下ろし、水を手で掬って喉を潤した。ヒルデガルドもおぼつかない足取りで近づき、水面に目のない顔を向けた。


 水面に映る自分の姿。


 白く、異形の、怪物の姿。


 ヒルデガルドの体が、微かに強張った。


「……ヒルダ?」


 ルクスが声をかけると、ヒルデガルドはゆっくりと水面から顔を、顔と呼べるものを背けた。


「ゴメン゛、サィ゛……」

「何が?」

「ゴン゛ナ、スガダ……ニナッデ……ゴメン゛ナサイ゛……」


 こんな姿になって、ごめんなさい。


 声が震えていた。

 怪物の喉から絞り出される音は、もはや人間の言葉の体をなしているかすら怪しい。

 けれど、込められた感情だけは痛いほど明瞭だった。


 後悔。自責。そして——恐怖。


 こんな醜い姿になった自分を、この人はいつまで愛してくれるだろう。

 今は優しくしてくれている。でもいつか、いつか嫌になるのではないか。

 気持ち悪いと、触りたくないと、顔も見たくないと。


 人間でなくなった自分に、この先一体何ができるというんだろう。


「ヒルダ」


 ルクスはゆっくりと立ち上がり、ヒルデガルドの前に歩み寄った。


「こっちを向いて」


 怪物の体が微かに震える。目のない顔が、それでもなおルクスから背けられたままだった。


 ルクスはそっと、ヒルデガルドの頬に——頬だったところに手を添えた。

 湿った異質な感触。冷たい。だが、触れ続けていると、じわりと温もりが伝わってくる。


「不安にさせてごめん。だから、何度だって言うよ」


 静かに、けれど揺るぎない声で。


「君は綺麗だ。姿がどうなったって、中身は変わらないでしょ? あの子を助けた時の君も、魔王に立ち向かった時の君も、今ここで泣いてる君も——全部、僕の好きなヒルデガルド・フォン・オーグストだよ」


 最初は、ルクスも彼女の不幸を呪った。

 世界を救った代償に見るも無惨な異形に成り果てるなんて、こんなことがあっていいものかと。


 過酷な旅の中でも手入れを欠かさなかった綺麗な銀髪。

 まるで宝石のように煌めく、大きな黄金の瞳。

 陶器のような白い肌に、笑うと覗く可愛い八重歯。

 その全てを冒涜的に塗り潰された彼女の様相に、絶望に膝を屈しそうにもなった。


 けれど真に絶望していて然るべきヒルデガルド本人が、こう言ってみせたのだ。


『ユ゛ウ゛シャサマ゛、イ゛ギテル、ウ゛レシィ……』


 その時ルクスは、自分の愚かさを心から恥じた。

 どんな姿になっても、ヒルダはヒルダだった。


 確かに、外見だけなら醜くおぞましいのかもしれない。

 だがそれは世界を救うため、なによりルクスを助けるために我が身を犠牲に捧げた結果の姿だ。

 ならばもうそれは醜くもおぞましくもない。

 いや、むしろ美しく高潔な精神とのギャップ効果で反転して、最高に可愛らしく見えるというものだ。


 腕の瞳から、透明な液体が一筋流れ落ちた。

 涙、なのだろう。怪物の体が流す涙は、人間のそれとは色も質も違うけれど。

 それでも、大切なところは一緒だった。


「愛してる。永遠に、君だけを」

「────」


 頭と頭をくっつけて、永久の愛を誓う。

 一点の曇りもない純粋な愛は、確かに彼女の心に伝わったのだろう。

 白濁の肉体は震え、穴という穴から体液のようなものが溢れ、直後に魔物すら怯えて逃げ出すほどの狂気の叫びが響き渡った。


「ユウ゛シャ、サマァ゛ァァアアアッ!!! ズキィ゛……ダァアィズキィッッッ!!!!!」

「ははっ、僕も」


 言葉だけなら、単なるバカップルの惚気だった。


 やがて昂りも落ち着いたころ、二人は王都が見えなくなるところまで来ていた。

 ここを過ぎればもう二度と見ることはない。

 ルクスにとっては名残惜しくも離れることにためらう気持ちはない都。


「……ヒルダ?」


 けれどヒルデガルドにとっては、忌まわしくも愛おしい故郷だった。だからか、数分は留まったままだった。

 けれど区切りはつけなければいけない。

 やがてヒルデガルドは影に戻る。

 その、刹那前。


 ──バイバイ。


 かつて人であった頃の彼女の、鈴が転がる音のような美しい声が、別れを告げた。

 そんな気がした。


「さて、じゃあとりあえずは昔懐かしの王都から旅立って最初の村を目指して行こう! ……といっても割とすぐそこだけど。ってあれ?」


 心機一転新たな旅を、といったところで勇者は見知った顔を見つけた。


「ゆ、勇者様……!」

「君は……ゴブリンの子!」

「その言い方だと私がゴブリンの子供みたいです」

「あっごめん」


 かつてルクスとヒルデガルドがゴブリンから助けて、つい昨日王都で手酷い振られ方をした女の子だった。

 そういえば最初の村の子だったな、とルクスは呑気に思い出す。


「どうしてここに? まだ朝も早いけど……」

「それはえっと……ゆ、勇者様に会いたくて。王都に朝一番に行って探せば会えるかなって」

「僕に? ……なんで?」

「それは、えっと」


 何か伝えたいことがあるのだろう。けれど昨日と同じように、影から漏れ出る瘴気に怯えていた。

 仕方のないことだ。ロクな抵抗力を持たない一般人が濃密な恐怖の気配に抗うには、それこそ死をも恐れぬ精神力が求められる。そんなもの、一般人が持ち合わせているはずがない。


 だから仕方ない。

 だけど。


「──勇者様! 昨日はごめんなさい! 私、勇者様たちに助けられておきながら逃げ出しちゃって……」

「……え」


 それでも彼女は、勇気を出して一歩を踏み出した。

 予想もしていなかった展開に、ルクスはしばしの間呆気に取られてしまった。

 ようやく理解が追いつくと、慌てて対応を始めた。


「あ、いや、気にしないで。仕方ないことだから。僕はその、魔王の呪いを受けちゃってさ。人から怖がられる悪い気みたいなのが出てるんだよ」

「そうなんですか? 勇者様、可哀想……」


 割とガチめに同情されて、なんだか騙すようで申し訳ない気分のルクスだった。


「それでその、王女様はどこにいますか? 改めてあの時のお礼が言いたいんですけど……やっぱりお城の中、ですよね」

「…………それは」

「いいんです。ただの村人の私が王女様にお礼なんて恐れ多いですよね。……だから」


 少女は真っ直ぐな目で、笑顔を浮かべてこういった。


「今度あったら伝えてください。──あの時助けてくれたおかげで、私は今生きています。本当にありがとうございました、って!」

「────」


 その衝撃は。

 きっと、世界を救った甲斐というものを、ようやく味わえたが故の重さだった。


「って、私なんかのお礼を聞かされても王女様も嬉しくないと思いますけど……へへ」

「……まさか。きっと叫んではしゃいで飛び回って泣きながら暴れちゃうくらい喜ぶよ」

「それはちょっと喜びすぎでは」


 ルクスの影が、微かに揺れ動く。

 それがなによりの答えだった。


「そうだ! 勇者様、久しぶりに私たちの村に来てください! ちょっと怖がられるかもしれませんけど、事情を話せばみんな受け入れてくれると思います!」

「そうかな。そうだったらいいな」

「最初はちょっと石とか投げられるかもしれませんが、私が身を挺して庇います!」

「そこまでしなくていいよ!?」

「それでは行きましょう! いざ!」


 少女に手を引かれて歩き出したルクスの影が朝日を受けて長く伸びた。影の中で、何かが小さく揺れている。


 嬉しそうに、踊るように。

ここまでお読み下さりありがとうございます。


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