【読切短編】報復権から始まるラブコメ
この世界には報復権というものがある。
それは被害者が加害者に対して基本的に同じことを行うことが可能になる権利だ。
より簡単に言えば「やられたらやり返してもいいよ」ということ。ただし制約があってそれは公的機関からの承認制ということ。どんな案件に対してもやり返してよいというわけではない。そうでなければ傷害事件がより大きな事になってしまうかもしれないからだ。ちなみにやり返しに対してやり返すことはできない。当然だ。そうじゃないといつまでたってもやり返しが終わらないから。
具体的な例をあげるとお笑い芸人が後輩にペットボトルを投げ、その後輩芸人が報復権を利用して投げ返したことがある。
そんな報復権だが今俺は放課後の屋上でクラスメイトの黒川さんに突き付けられている。
「橘君。あなたに報復権を行使するわ」
と、屋上に呼び出され、着くなり早々言われた。
けれど俺は彼女に報復権を行使されるような覚えはない。だって一度も話したことがないから。確かに数か月前に同じクラスになったけれど黒川さんとは接点がない。じゃあなぜ彼女は俺に報復権を? もしかして知らず知らずのうちに黒川さんに迷惑をかけていたのかもしれない……。俺は四月から順に今日までのことを思い出してみることにした。
黒川さん。下の名前はひらがなで「はるか」。彼女は入学した直後からみんなの注目の的だった。なぜなら黒川さんは見た目が良い。髪は夜空のように黒く、肌は雪原の如し。細い目は例えるなら三日月といったところか。美人な顔つきにすらっとしたスタイル。注目を浴びないわけがなかった。けれどそれは長くは続かなかった。
彼女はなんというか人付き合いが苦手そう……というか他人に興味がなさそうな気がする。クラスメイトと話しているときは別の何か、遠くを見ているようでそれに伴ってか返す言葉も素っ気ない。そして彼女から誰かに話しかける様子は見たことがない。席に座っている彼女の周りに人が自然と集まっていた。
けれど最近はそんな光景はあまり見なくなった。みんな新しい環境に慣れるため精一杯になっていて、黒川さんにかまっている余裕がなくなったから……だと思いたい。
一方で俺はというと特筆すべき点はない。俺が座っていてもクラスメイトが集まるようなことはなかったし、俺も彼女の元へ行こうとしなかった。どうしてかというとワイワイとした雰囲気が苦手だから。嫌いなわけではないことを強調しておこう。だから同じ思想を持つ後ろの席の南沢とばかり話している。
このとおり俺は黒川さんと接したことがない。
それなのに俺は放課後の屋上で報復権を行使すると宣言されている。
「こ、黒川さん。報復権って言っているけど俺、君に何かしたかな。した覚えはないんだけど、もし無意識に君を傷つけていたらごめん」
「謝る必要はないわ。だから顔をあげて。……それで報復権のことだけど、橘君は私から奪ったのよ」
「う、奪った? 何を? 俺、君から何かを奪った覚えないよ!?」
「ハートよ」
「えっ?」
「橘君は私のハートを奪ったの」
黒川さんは何を言っているんだ……。俺は黒川さんのハートを奪った覚えは本当にない。
「私はあなたにハートを奪われた。だから報復権を行使してあなたからハートを奪うわ」
「それってつまり……黒川さんが俺のことを好きになったから俺も黒川さんのことを好きになってほしいってこと……?」
俺が尋ねると彼女は黙って頷いた。
突然の展開に俺はどう返せばいいか分からなくなった。俺を好きになった? どうして? 一度も話したことがないのに。
そんな俺の心を読んだように黒川さんは口を開いた。
「橘君、前に帰っている途中でベビーカーを押している女の人とすれ違ったでしょう?」
「そうだったかな? 覚えてない」
「そしてすれ違ってから数メートル歩いて赤ちゃん用の靴下が落ちていることに気がついたよね? それから拾うと来た道を走って戻ってあの女性に届けたところをたまたま私は見ていたんだけど、そのときからあなたのことが気になり始めたの。そして気づいたらハートを奪われていたわ」
「そ、そうだったんだ。ああ、確かそういうこともあったような気がするよ」
正直に言うと美人のクラスメイトに告白されて嬉しい。嬉しいけれど黒川さんをそういう風に見たことがない。だから――。
「ごめん」
俺は謝った。
「……そう」
黒川さんは背を向けた。
「理由、聞いていい?」
「ええと、黒川さんのことは可愛いと思っているけれど恋愛的に見たことがないんだ。それに君のこともよく知らないし……」
「……そう」
さっきと同じ返事だった。けれど声のトーンが低かった。
「そ、それじゃあ俺行くね。気持ち伝えてくれてありがとう。それじゃ、また明日、教室で」
そう言うと俺は逃げるようにその場から立ち去った。いや、逃げる「ように」じゃない。逃げた。告白を断ったことが申し訳なくて。でも仕方ない。だって俺は黒川さんのことを好きじゃないから。この好きじゃないというのはもちろん恋愛的であって、同じクラスの人間という意味では好きだ。
教室に戻り、自分の席に向かうと俺は帰る準備を始めた。その間も俺は彼女のことを考えていた。あの断り方でよかっただろうか、そういえば同じクラスだったな、明日顔合わせるの気まずいな……そんなことを考えていると。
「どうしたの? 手を止めて」
後ろから黒川さんが話しかけてきた。
「黒川さん!? どうしてここに!?」
「どうしてって、私もここのクラスよ」
そういえばそうだった。そんな当たり前のことを質問した自分が恥ずかしくなってくる。
そして彼女も自分の席に向かうと帰る準備を始めた。それが終わるとそそくさと教室から出て行ってしまった。誰にも挨拶をせず、無言で。それに対して俺は少しだけ寂しさを覚えた。今まで意識していなかったからはっきりとしたことは言えないけれど多分登校したときも彼女は誰にも挨拶をしないしされていないだろう。さすがにそれは……と同情してしまう。俺だけでも挨拶をするべきか。けれど俺たちは告白し、「ふった」「ふられた」の関係。気軽に話しても良いものなのか。
そんなことを考えながら靴箱に行くとそこには黒川さんが立っていた。
「黒川さん、まだいたんだ。てっきりもう帰っているのかと」
「待っていたのよ、あなたを」
「俺を!? どうして……」
「一緒に帰りたいから。嫌?」
「嫌というか……気まずくない?」
「確かに気まずいわ」
本当かなぁ?
「でもあなたと帰りたいの。なぜって? 橘君のハートを奪うためよ」
「黒川さん、屋上でも言ったけど」
「分かってる。私のことよく知らないから好意を抱けないって言いたいのよね?」
「うん」
「それなら私のことを知ればいいのよ」
「えっ?」
「私のことを知って、好きになって、ハートを奪わせて」
「なっ――」
「というわけでこれから覚悟しておいてね」
彼女は逆光の中、笑った。
こうして俺のちょっと面倒な生活が始まるのであった。
× × ×
翌日の昼休み。
昨日黒川さんと一緒に帰ったものだから今日は朝から彼女が絡んでくるだろうと思っていたが黒川さんは話しかけてこなかった。いつものように自分の席に着いて本を読んだりスマホをいじったりしていた。入学当初のように彼女の周りにクラスメイトが集まる光景はやはりなかった。
そして昼休みになり、俺はパンを買いに購買部へ向かうため教室を出た。すると黒川さんがトートバッグを右肩にして立っていた。
だから俺は避けて通ろうとしたのだが彼女は俺の前に立ち塞がった。再度避けて歩こうとしたが黒川さんはまた俺の前に。
そんな俺たちの横を通った眼鏡の男子はあからさまに不機嫌そうな顔をしてすれ違った。
「えっと、黒川さん? 俺になにか用かな?」
「ええ、そうよ。お弁当を作って来たの。よかったらどう?」
そう言って黒川さんは俺にトートバッグの中を見せてくれた。そこには二つの巾着袋が入っていた。
「ありがとう、黒川さん。でも今日はパンの気分で……」
我ながらもっと上手な断り方がないかと思う。
「そう……」
黒川さんは分かりやすく肩を落とした。
そんな態度をとられてしまうと罪の意識を感じるもので――。
「分かった。そういうことなら一人で食べるわ。自分の席で、二つのお弁当箱を出して。そう、まるで一緒に食べる約束をしていたかのように。そうしたら誰かに聞かれるかもしれないわね『そのお弁当どうしたの?』って。それで私はこう答えるわ。『橘君と約束していたのに彼は購買部のパンを優先したの』って」
「はぁ……分かったよ、そのお弁当ありがたく頂戴します。でもせめてひとけのない所で食べよう」
「それは賛成。私も注目を浴びるのは好きじゃないもの」
こうして俺たちがやって来た所は図書室である。
「ここで飲食してもいいのか?」
「大丈夫よ」
「根拠は?」
「……」
「……」
「……出入口の対角線上にあるテーブル席なんだけど、本棚の位置の関係で受付や他のテーブル席から死角になっているの。それにそこの本棚に収められている本はこの学校の歴代のアルバムや町の歴史をまとめた書籍ばかり。そんなの誰も興味ないでしょう? 故に誰も来ない。そこらの空き教室よりもこの一角だけひとけがないわ」
確かに連れて来られたテーブル席は本棚に囲まれていて、周りから中の様子が見えないようになっていた。こんな配置をこれまで誰も不思議に思わなかったのだろうか。いや、おそらく気づいても配置を変えようとしなかったのかもしれない。なぜなら変えるならまず本棚の本を出して、席と棚を移動。そして本を棚に戻す必要がある。おまけに動かす棚は席を隠すように囲っている棚だけではなく近くの棚も動かす必要がある。面倒だ。俺なら見て見ぬふりをする。
向かい合うように座り、黒川さんに渡された弁当箱を開ける。するとそこには唐揚げや玉子焼き、プチトマトなど入っていて色鮮やかだった。おまけに――。
「エビフライも入ってるじゃん!」
そう、エビフライもあった!
「昨日帰りの道でそれが好きだって話をしたでしょう? だから作ってみたの」
「おおっ! そうなのか! ありがとう!」
「…………別に」
黒川さんは早く食べろと急かす。
だからさっそくエビフライを食べてみる。
「ど、どうかしら」
「美味しい! 美味しいよ! しかもこれは……カレー風味だ! 俺、エビフライカレー好きなんだよ!」
「それはよかったわ。ちなみに隣のそれはバジルを、そのまた隣はピザソースとチーズを衣の下に忍ばせているの」
「天才かよ……」
俺はあっという間にお弁当をたいらげた。エビフライだけではなく他の料理も美味しかった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「黒川さんがこんなに料理が上手なんて知らなかったよ」
「ふふっ、橘君に私のこと知ってもらえて嬉しいわ。どう? 私にハートを奪われてみない?」
「いや、それは別の話」
「あら残念」
肩をすくめる黒川さん。けれど表情は残念そうではない。どこか楽しそうな……。
「橘君ってどんな人がタイプなの?」
「そうだな……まずは年上で――」
「ダメよ」
「ダメってなにが」
「年上には絶対なれないから」
「すごい理論だ……その、自分で言うのも恥ずかしいけど黒川さんは俺の好みの女子になろうとしてる?」
「本当に恥ずかしい質問ね。まぁ、否定はしないわ」
「そういう堂々としたところは好きだよ」
「ホント!?」
パッと目を輝かせる黒川さん。だがすぐに咳ばらいをして呼吸を整えるといつものような真顔になった。
けれど俺は喜びに満ちた彼女の顔を忘れることができなかった。それからいろんな話をしたけれどほとんど覚えていない。あのときの彼女の笑みはその日頭から消えることはなかった。
そして次の日の放課後になる。
昨日のように彼女は靴箱で俺を待っていた。逃げようにも逃げられない。なぜなら黒川さんは俺の靴を持っていたからだ。
「……一緒に帰ろうか、黒川さん」
「あら、そんなに私と帰りたいの?」
クスリと笑うと彼女は俺に靴を返してくれた。そして右の靴を履き、左の靴を履こうとしたときだった。
誰かの視線を感じた。だから手を止めて振り返ったのだがそこには誰もいない。気のせいだろうか。俺は首を傾げた。するとこの様子を見ていた黒川さんがどうしたの、と話しかけてきて……俺はなんでもないと答えた。
「なんでもないのに首を傾げたの?」
彼女はまっすぐに俺を見つめる。逃してくれなさそうである。だから正直に誰かの視線を感じたけれど気のせいだったことを明かした。
「もしかしたら橘君のファンかもしれないわね」
「そうだとしたら嬉しいね」
「そうだとしたらその人を懲らしめるわ」
さて、黒川さんはどんな風に懲らしめるのだろうか。仮にほ俺たちが付き合ったとして絶対に浮気はしないようにしよう。
俺はそう誓って黒川さんと帰路に着くのであった。
× × ×
黒川さんが俺に絡んでくるようになって早くも数日が経った。
昼は一緒に食べ(時々は別々に昼食を摂ることもあるがそのときは彼女からお弁当を貰っている)、放課後は帰っている――というよりかはそうせざるを得ない状況に毎日されていると言った方が正しいのかもしれない。
とにかくそのようなことが俺の生活の「当たり前」になりつつあったとある日。さすがに毎日お弁当を作ってもらうのは申し訳ないと思い、そのことを伝えたのだが黒川さんはきっぱりと拒否した。それならば私にハートを奪わせて、と。だから今日もまた昼休みになれば彼女からお弁当をいただくだろう。けれど拒否されたからと言って「仕方ない」と申し訳なさが消えたわけではない。だから俺なりにお礼をしようと思っておにぎりを握ってみた。いびつな形になったが料理で一番大事なことは見た目ではなく、味だ。
というわけで昼休みになり、俺は図書室のあの秘密の席へ向かう。まだ黒川さんの姿はなかった。暇つぶしにわが校の歴代の卒業アルバムを眺めること十分。まだ彼女は来ない。不思議に思った俺は一度教室に戻って黒川さんを探したが、そこにはいなかった。どこへ行ったのだろう。そんなことを考えていると購買部から戻って来たであろう南沢が紙パックジュースを片手に話しかけてきた。
「よぉ、橘。突っ立ってなにしてんだ? というか最近一緒に昼食べてくれないじゃん。寂しいぜ?」
「悪い悪い、ちょっと他のクラスの人と食べててさ」
「ふーん。まぁいいや。また俺とも食べてくれよ」
「分かったよ。ところで黒川さんがどこに行ったか知らない?」
「姫がどこにいるか? 分からんなぁ」
「姫?」
「おう、一部の男子が黒川さんのことをそう呼んでるぜ。誰が呼び始めたのか、どうして『姫』なのか誰も分かっていないけど」
「そ、そっか」
「っと、思い出したけど姫は隣のクラスの寺山と歩いてたぜ」
「寺山? 誰だ?」
「そっか、お前は中学が違うから知らないか。眼鏡かけた坊主頭のやつさ」
「もしかして背が高い?」
「おっ、知ってる?」
「見かけたことがある」
そう、前に俺と黒川さんが廊下で話していると睨んできた男だ。
「そいつ変な奴だから姫が無事か心配だぜ」
「変、って言うと?」
「常に独り言言ってるし、時々立ち止まってはすれ違った人を凝視したりするんだ。それに冬になるとどこで買ったのか分からないけど首元辺りまで覆うようなマスクをしてる。そんなあいつにヘルメット被せれば昭和の過激派活動家だぜ」
「それはちょっと不思議なやつだな。分かった、ありがとう。気をつけておくよ」
そう言って俺は教室を後にした。
先日睨まれたり南沢の話を聞いたりしていると嫌な予感がしてきた。
俺はひとけが無さそうな場所をまわりつつ、すれ違う人たちに眼鏡をかけた坊主の男子を見かけなかったか聞く。そして何人目かに聞いたとき綺麗な人と体育館に向かって歩いていたという情報を得た。その綺麗な人はおそらくというか絶対黒川さんだろう。
俺はすぐさま体育館へ向かった。けれど体育館は授業中以外は基本的に開錠されていない。だから裏手に回ってみるとそこには向かい合って立っている黒川さんと寺山がいた。俺は曲がり角に隠れて様子を伺う。
「いい加減にして。あなたといつまでも言い合っている暇は私にはないの」
「それは橘と過ごすためなんですか?」
「さっきからそう言っているでしょ。何度も同じこと言わせないで」
「僕とは過ごしてくれないんですか?」
「やっと別の質問してくれたわね。ええ、そうよ。あなたとは過ごせない。だってあなたのこと知らないし、興味もないから」
「……」
「そういうことだから」
黒川さんは寺山に背を向けると歩き出そうとした。そんな彼女の手を寺山は掴んだ。
「ま、待ってください。僕とも過ごしてください。そうしないと黒川さんたちがお昼を一緒に過ごしたり一緒に下校したりしていることを言いふらすよ」
「別にかまわないわ。それに男女が一緒に過ごしているだけでワーワー騒ぐのってなんだか……下品、低俗、小中学生。それにあなたと一度でも過ごしたらまた次、また次って永遠に勘違いして誘ってきそうだから怖いわ」
「く、黒川さん、お前……!」
寺山は黒川さんの肩を掴むと強引に壁に押し寄せた。そのときに彼女の肩からトートバッグが滑り落ち、中のお弁当箱二つが放り出された。
「ちょっと! 離しなさい!」
「どうしてあんな酷いこと言うんですか! ねぇ!」
「こんなことするような人なんて大嫌いだから!」
「く、くそっ!」
寺山は唇を尖らせると黒川さんの顔に寄せて――。
「おいっ! なにをしているんだ!」
気づいたら俺は飛び出して叫んでいた。
「橘君!?」
黒川さんは寺山が驚いている隙に彼の拘束から抜け出すと俺の後ろに隠れた。
「助けに来てくれたのね。別に私一人で解決できたけど助かるわ。ありがとう」
「はいはい、どういたしまして」
俺は黒川さんにその場から動かないよう言ってから寺山に歩み寄った。
「お前、黒川さんに何をしようとしていた」
「キスだよ。僕が黒川さんの唇を奪えば黒川さんには僕の唇を奪う権利が発生するからな。ってなに笑っているんだ」
「いや、どこかで聞いたことがあるようなセリフだなと思って。とにかくやめろ。黒川さん嫌がっているだろ」
「う、うるさい!」
そう言うと寺山は俺の頬を殴った。
「橘君!」
「来るな!」
俺は彼女を制すると寺山を見つめる。見つめたままなにもしない。
そんな俺に寺山は二発目、三発目とパンチを繰り出す。
俺は腕で顔を守るが、そうすると彼は今度はわき腹や腹部を狙う。
そして十発前後放った彼は手を止めて息を整え始めた。
「橘! ビビってんのか!?」
「……」
「声も出ないか!?」
「……」
「お、おい! なに睨んでいるんだ……や、やめろ!」
「……」
それでも俺は睨むことをやめなかった。
すると寺山は後ずさる。
「お前は俺を十発くらい殴った。だから俺にはお前を十発殴っていい報復権が発生している」
「そ、そんな屁理屈通じないぞ! 報復権を行使するには手続きをして承認されないといけないんだぞ!」
「そうだな……そうだったな。じゃあ選べ。後で合法的に十発殴られるか、今非合法で一発殴られるか」
「そそそ、それじゃあ一発の方で……」
俺は寺山の要望どおり一発放った。アッパーを、顎に向かって。
「おい! 寺山! 二度と黒川さんに絡むんじゃねぇぞ! 分かったか!?」
「わ、分かりました!」
寺山は悲鳴をあげながら逃げ去った。
「謝罪の言葉も無しか」
「橘君……」
「黒川さん、大丈夫? どこか怪我ない?」
「ええ、大丈夫。何ともないわ。それより……」
黒川さんの視線を追う。
そこにはひっくり返っている弁当箱。幸いにも中身は飛び散っていなかった。
「せっかく作ったのに……」
「味には変わりないよ」
俺は弁当箱を拾い、段差に腰かけた。そして食べる。……いつもみたいに美味しかった。そのことを伝えると彼女はほっと胸をなでおろした。
「それはよかったわ。というか橘君。心配して探しに来てくれたなんて、それは私のことが好きになったから?」
「そ、そうじゃないって。俺は黒川さんに胃袋を掴まれたから掴み返そうと思って」
「ふふっ、それは例えでしょ」
「それはそうなんだけど――っと、忘れるところだった」
俺は様子をうかがっていたあの曲がり角に戻ると置いていた巾着袋を拾って戻った。
「ほら、やるよ」
「これは?」
「おにぎり、を作ってみた」
「おにぎりって個人的に『作ってみた』って言うほどのものじゃないと思うけど」
「確かに握るだけなんだけど俺にとっては難しかったんだ! いらないなら俺が食べるけど」
「ふふっ、ごめんなさい。ありがたくいただくわ」
黒川さんはアルミホイルに包まれたそれを受け取ると開けて、一口食べた。
「ど、どう?」
「橘君」
「なんでしょう……」
「お米の味しかしないわ」
「……あっ、味付け何もしてない」
「まだまだね」
そう言いつつも彼女は食べ続けてくれたのだが、途中で手を止めてうつむいた。髪で顔は見えない。
「黒川さん? どうしたの?」
「な、なんでもないわ……」
言葉の間に鼻をすする音が混じる。よく見れば彼女の肩がかすかに震えていた。
「このおにぎりはしょっぱいわ……」
「……そっか」
それから俺たちはずっと黙っていた。
けれどその沈黙はどうしてか不快ではなかった。
そして昼休みの終わりを告げる十分前を告げる鐘が鳴る頃にはもう黒川さんは食べ終わっていた。
「ごちそうさま。無味だったのが残念だったけど私のために作ってくれただけでうれしいわ」
「さっきしょっぱいって……」
「言ってないわ。ねぇ?」
「ハイ、ソウデスネ。――って、そろそろ教室戻らないと」
そう言って立ち上がると黒川さんは俯きながら俺の袖をつまんだ。
「ねぇ、橘君。私のこと迷惑?」
「急にどうしたの」
「あの人が言ってたでしょ。あの人が唇を奪えば私にも奪う権利が発生する的なこと。それって私があなたに言ったことと似てて、私はあの人に言われたとき嫌な気分になった。だから橘君も嫌に思っていないのかなと思って……」
「ああ、そういうこと……。びっくりはしたけど迷惑とは思ってないよ。そ、それはあれだ、めっちゃ美味しいお弁当を作ってもらっているからであって、それ以外のことはなにも、ない」
「そう……迷惑に思っていないならよかった……」
「ほら、本当に戻らないと午後の授業に間に合わないよ」
「待って! 最後にもう一つだけ質問。橘君ってキスしたことある?」
「ないよ。ほら急がないと――」
そのとき両肩を掴まれたかと思うと屈めさせられて、黒川さんは唇を重ねてきた。
「なっ、ななな……なにを……」
「癪だけどあの人の言葉を借りると――私は橘君の唇を奪ったからあなたも私の唇を奪ってもかまわないってこと」
「いや、その、ええっと……」
「なにオロオロしてるの。早く戻らないと午後の授業に間に合わないわよ」
そう言って黒川さんは走り出した。
俺も彼女を追いかけるように走る。
黒川さんにハートを奪われてたまるかと決意しながら。