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回帰した貴公子はやり直し人生で勇者に覚醒する  作者: 真義あさひ


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01

闇に沈むスラム街の片隅。

腐臭が漂う小さな小屋の中、粗末な寝床の上に横たわりながら、青年は震える手を握り締めていた。


ケイ・アルトレイ。

本来ならば、名門貴族アルトレイ伯爵家の次男として、何不自由なく生きるはずだった青年だ。


しかし、今や彼はぼろ布に包まれ、薄汚れて衰弱している。


伯爵家の血筋の美しかった黒髪は汚れ、黒い目も今は濁ってぼんやりとしている。

貴公子とも呼ばれた優雅で端正な容姿は、見る影もなかった。


彼の隣には、冷たくなった母が横たわっていた。


「……お母様」


声にならない呼びかけ。

それに応える者は、もういない。

母は、死んでしまった。


正妻セオドラによって、ケイと妾だった母ポーラは伯爵家から追放された。


父伯爵ユヴェルナートと異母兄テオドールが戦争で不在の間に、支援金もなく追い出された。

行き場を失った二人は、平民として下町で生きるしかなかった。


ポーラは慣れない平民の仕事を探し、ケイもまた何かできることがあるはずだと信じていた。


しかし、現実は厳しかった。


母は裁縫が得意だったから、すぐ内職の仕事を得た。

ケイも伯爵家で学んだ剣の腕があったから、冒険者となって何とか日々の収入は得られた。


だが、正妻の魔の手は平民となった二人を逃しはしなかった。


嫌がらせが続いて、母の雇い主は彼女を解雇せざるを得なかった。


ケイも同じだ。冒険者ギルドに正妻の手が回され、ギルドは実入りのいい仕事をケイに回さなくなった。

子供でもできるような〝お使い〟の仕事で得られる報酬は、パンを数個買えば終わり。


母子二人の生活は早々に行き詰まってしまった。




悪いことは続いた。


苦労しながら暮らしているうち、ケイは病にかかって働けなくなってしまった。


最初は町中の小さな家で暮らせていたが、困窮して、しまいにはスラム街に落ち延びることになった。


そして、限界が訪れる。

ポーラは息子ケイの治療費を得るため、自らを娼館に売ることを決意した。

……決意、させてしまった。


「ケイ……あなたは、大丈夫。私と伯爵様の息子だもの……ちゃんと生きていけるから……だから、お願い。諦めないで」


震える声で、母は毎日そうケイに微笑んだ。


だが、身を売った金さえ、正妻セオドラの手の者によって奪われた。


もはや、どうすることもできなかった。


(俺はいつもお母様に守られてばかりだった。伯爵家の次男なのに何もできなかった……)


娼館での過酷な仕事で母は衰弱し、ついに昨日、息を引き取ってしまった。


そして、ケイも――。


(俺は何と無力なのだ。何と価値のない人生だったのだ……)




「……もう腐り始めてるぞ。早くしろ」

「とっとと片付けるぞ」


男たちが冷たく言い放ち、ケイの身体を担ぎ上げる。

すでに亡骸となった母とともに袋に詰められ、夜の海へと運ばれた。


(待て、待ってくれ、俺はまだ生きている……!)


だが、病で衰えて、もう何日も水すら飲めていない身体だ。

ケイには声を出す力が残っていなかった。


(なんだ? 潮の香り……海か?)


男たちはケイと母親の亡骸を海まで運んできたようだ。


「こんなゴミ、埋める価値もねえ。さっさと流してしまえ」


(や、やめろ、やめてくれーッ)


次の瞬間、冷たい波が視界を、全身をも覆った。

ケイは無造作に海へと投げ込まれたのだ。


身体が沈んでいく。

冷たく塩辛い海水が、鼻から、口から気管に入り込んでくる。


必死にもがいて、何とか袋から顔だけを出せた。


ケイのすぐ側には、母の白い手が揺れていた。


(お母様!)


病で衰えた腕を、それでも必死に母へと伸ばした。


水圧と波の流れを利用して、袋から抜け出せた頃には、ケイはほとんど力尽きかけていた。


やっと母を抱き締めることができたと思ったら、何か違和感に気づいた。


(なんだ? 何かがおかしい)


――息が、苦しくない?


意識は朦朧としていたが、確かに肺に水は満ちているはずだった。

なのに、痛みも息苦しさも感じなかった。


ゆっくりと沈む彼の周囲には、暗い影が広がっている。

まるで異界に迷い込んだかのような海の底。


そして、その奥で何かが動いた。




「む? これは、久しぶりに客人が来たのだ」


暗闇の奥から、赤黒い光が灯る。

それは、巨大なサラマンダーだった。

山ほどある大きなサラマンダー、両生類の魔物だ。


深い海の底を震わせるような、低い低い声を発している。


「おかしいのだ。ここは次元の狭間ぞ? なにゆえ人間が侵入できたのだ? む? むむむむむ?」


海に落ちてきたのが母の遺体と、死にかけのケイだと知ったサラマンダーは怒りに巨体を揺るがせた。


「むっかあー! 母なる海はゴミ捨て場じゃないのだぞ! この不届き者め! ぷんすこなのだ!」


サラマンダーのぎょろりと大きな目が鋭く光る。


だがケイをじっくり見たサラマンダーは、驚いたように、巨大から放たれる威圧をすぐ和らげた。


「むむっ? お前、身体が光っておるな。その色は……き、金色だと!? 勇者の証ではないか!」


もう間もなく死を迎えるケイは身体を動かす気力もない。

だが、確かに見下ろした自分の身体から薄っすらと金色の光が漏れている。


「おお……長きに渡って穢れを溜め込んできた海底と、守護者たるわれが浄化されていくではないか……すばらしいのだ!」


巨大で澱んだ目をしていたサラマンダーが、ケイの光に触れて闇が祓われていく。


赤黒い警戒色だったサラマンダーは、内から発光する、優しいベビーピンク色の半透明の身体へと変わった。


同時に、大きな淀んだ目は鮮やかな青色へと変わって輝いた。


「お前、何があったか、われに話してみよ。む? 水の中だから話せない? 頭の中で思い返せばよい。それでわれに伝わるぞ」


次の瞬間、ケイの頭の中に映像が流れ込んだ。

追放される前の、アルトレイ伯爵家での過去を。




  ☆ ☆ ☆




ケイは伯爵の父を持つ、アルトレイ伯爵家の二番めの息子だった。


妾の子であったが、父ユヴェルナートからは確かに愛されていた。


だが、正妻セオドラと異母兄テオドールは彼を憎んでいた。


「お前は伯爵家の汚点だ」


顔を合わせるたび、そう蔑まれてきた。


伯爵家の使用人たちも、正妻の指示に従い、ケイを冷遇するようになった。


食事は家族とは別にされ、ケイと母の皿には固くなったパンと冷めたスープが並ぶことが多かった。

古いパンと味の薄いスープ。しかも量も少ない。そんな毎日の食事にどれだけ惨めな思いをしたことか。


さらに――


「妾の息子の部屋に暖炉なんて、贅沢よ」


冬の夜、ケイの部屋の暖炉が使用人によって消されたことがあった。

凍える中で一夜を過ごした彼を助けようとしたのは、母ポーラだけだった。

貴族の子供は物心つく前から、親とは別の個室を与えられて育つ。嫌がらせを知ったポーラは自分の部屋にケイをかくまってくれたのだ。


翌朝、さすがの仕打ちに抗議しに来たポーラをセオドラは嘲笑った。


「妾のくせに、ずいぶんと息子を甘やかすのね」


ポーラは何も言い返さなかった。

ケイに泣きながら「ごめんなさい」とだけ囁いて耐えていた。


(まだまだある。こんなの序の口だった……)


――父がいない間に、彼らの仕打ちはどんどん過酷になっていった。


妾の母とその息子ケイに与えられた予算は横領され、伯爵家の者でありながら厳しい生活を強いられ続けていた……




  ☆ ☆ ☆




「ふむふむ。よくある貴族の正妻と妾の対立なのだな」


訳知り顔でサラマンダーが頷く。


ケイはカッとなって反論した。


(確かに俺は妾の子だ。だが父は伯爵家の息子として育ててくれた。俺だってちゃんと伯爵家の子息だったんだ!)


「そうかあ。でもお前たち、正妻に負けて家を追い出されたのであろ?

伯爵家なら貴族の中の貴族。

ぷぷっ、負け犬になって海に捨てられるとは、気の毒なのだ。……ぷぷぷっ」


おかしくて堪らない、とサラマンダーがケイを嘲笑った。


(笑うな……笑わ、ないで、くれ……)


自分はどう言われてもいい。

だが、最後までケイを深く思い、娼館に身を売ってまでケイを守ろうとしてくれた母ポーラへの侮辱は許さない。




サラマンダーはじっと青い目で、海底の砂の上に倒れているケイを見下ろしていた。


「ふむ。お前、勇者の素質を持つ者なのだな。間違いないぞ」


「……勇者?」


「そうなのだ。お前を覆うこの金色の光。それは、世界を救う力を持つ証」


ケイは、自分の手を見つめた。

確かに、淡く輝く光が自分を包んでいる。


「しかし、勇者の素質持ちがこんな無様な死に方をするとは、嘆かわしいのだ」


短い前脚で腕組みしてサラマンダーが考え込んでいる。


「――よし。やり直しの機会を与えてやろう」


「機会……?」


「われの魔法で、お前の時を戻してやるのだ」


サラマンダーの巨体から虹色の煌めきが放たれる。


「チャンスを活かすも殺すも、お前次第なのだぞ――」




海の底に広がる砂の上に、サラマンダーはそっと短い手足を使って、ケイと、母親の亡骸を横たえてやった。


「女のほうはもう無理なのだ。男のほうは……死にかけだけど強い加護で守られておる。母の愛であろうな」


サラマンダーは「はて?」と首を傾げた。


「ここはただの海の底じゃないのだ。次元の狭間ぞ? こやつはどうやって、ここまで来たのだ?」


答えはない。もうケイは時間を巻き戻る旅に出てしまって、目を閉じている。


「次元の狭間に暗い影が蠢いておる……お前をわれの元に導いたのは運命か? それとも何者かの仕業か?」


サラマンダーは再びケイを見た。


「不思議なのだ。こやつ、無数の運命の糸が絡まっておる。こんな海の底でわれに遭遇したことといい、悪運の強いやつなのだ」


サラマンダーの背後には巨大な神殿が沈んでいる。

元は白亜の美しい建物だったろうに、今では穢れに汚染されて、真っ黒い闇に浸されている。


よくよく目をこらすと、神殿の中には数名の人影が見える。


「勇者の光があれば。われの仲間も助けられるかもしれない……」


よし、とサラマンダーは巨体をぶるぶるっと揺らした。


「――われも、回帰に付き合ってやるのだ。勇者の卵よ!」




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