花のはなし
夜空の星のように儚い、けれど太陽のように眩い花だった。
男の紡ぐ言葉に、彼女が笑った。その笑顔が嬉しかった。水を与えられた花のように。その笑顔がすくすくと育って大輪の花を咲かせるんじゃないか。そんな絵空事を思ったことも確かにあった。
だけど本当に花になってしまうだなんて。
透き通った白い花びらが、雪と一緒に凍える空気に溶けていく。
音は無く、突然に。
男の言葉に涙を流してはにかんだ直後だった。
その笑顔も、身体も、さらさらとした黒髪も、誕生日にプレゼントしたマフラーも何もかもが、白い花びらへと変わった。
何が起きたのかわからなかった。ただ燃えるような目の痛みと、彼女がこの世からいなくなってしまったという確信が胸に無慈悲に突き刺さっていた。
事実を理解しても、感情が追い付かない。いなくなってしまって、もう会えない。その事実は嫌というほどはっきり理解できるのに、男の脳はたった一つの感情に支配されていた。
—— あぁ、本当にきれいだ……。
蝶のように中空をゆっくりと舞っている白い花。ドレスを着た中世の貴婦人にも見えるし、その透明さは無垢な赤子の寝顔を見ているかのような穏やかさを心の中に感じさせる。
この花に会うために、彼はこの二十数年間を生きてきた。そんな人生の結論すら、脳裏に形作られていた。
冷たいコンクリートの地面に、音もなく白い花が落ちる。どこまでも純白な花びらは、照り返す日光のように目を刺す。
ホワイトアウトした視界は数秒で戻ったが、そこには見続けていたかった純白の花はどこにもなかった。
「どこへ……」
掠れて消え入りそうな音が自分の口から漏れ出ていることに、かなり時間が経ってから気づいた。
どこへ行ってしまったのか。
それは今の今まで愛していた彼女へ向けたものではなく、彼の目に、脳裏に色濃く焼き付いた花に向けて放った言葉。
目の奥はあの光に焼かれたからなのか、それとも別の理由か、燃えるように熱く痛い。
その熱に浮かされるように彼はふらふらと、人気がすっかり消えている真冬の街を歩き始める。
その後ろ姿を、夜空色の髪を持つ少女はじっと見つめていた。
寒空の下、冷たい風が吹き付けるのも気にせず、表情を変えず視線も動かさない。
男の姿は一般人には見えていない。奇異の目は、真冬の白い空の下でただ一点を見つめる自分だけに向けられている。
おそらく彼をバックアップすると決めたどこかの組織の力で、認識疎外の異能かアステリアルが使われているのだろうと予想を付ける。
雑踏の騒音や流れるクリスマスソングの中でも、男がうわ言のように繰り返す言葉を、少女は聞き逃さない。
——あの花は、どこへ。
彼はもう’こちら側’へ足を踏み入れてしまった。
一般社会では受け入れられない能力を使って、他者へ害をなす存在になり果ててしまっている。
能力を使うことに快感を覚えた結果、犯罪に繋がることが多いが、彼は違うと少女は断言できる。
彼は探している。
必死に、彼だけの花を探している。
それはきっと少女が探しているものの一つかもしれないから、彼を消すことも、’機関’や他の組織に密告もしていない。
だがそれも長くはもたないだろう。
自分のものとは別に、彼を見つめる視線があることに彼女は気づいていた。
それは殺意か、あるいは値踏みするような目。
内に獣を宿す少女には、生半可な気配遮断の異能は無意味に等しい。
男を見つめる存在が、流れる人ごみに紛れて確かに存在していた。
何か手を打たなければ、彼は消されるか、今よりも命を危険にさらすような犯罪のためにスカウトされる可能性が高い。
結論を出すのに二秒もかからなかった。少女は地面を蹴った。
「あの、すみません」
彼を殺さない場所。
少なくとも彼に、これ以上理不尽で無価値な罪を重ねさせない場所に、思い当たるところがある。
異能管理機関アーク。
その任務は、主に異能犯罪者の抹消と、‘異宝’または‘アステリアル’と呼ばれる未知の能力を持ったオーパーツの回収。
サイコキネシスにテレパシー。幽体離脱やパイロキネシス。
遥か昔から存在する、人間が作る社会を脅かしかねない‘異能’を悪用する犯罪者たちに対して、彼らは名を変え姿を変えて、’適切な処置’をしてきた。
本部はアメリカにあるとも、国家からは独立して存在し、どこかの孤島にひっそりと佇んでいるとも言われており、組織の構成員の多くもその詳細を知らない。
ただ明確な使命は、‘この社会の秩序を守ること’。
アークの成立は最初の世界大戦が始まる直前、一九〇〇年代の初頭に遡り、前時代の遺産である‘魔法使い’たちが様々な国から構成員として加入し、規模を拡大してきた。
参加しているのは‘魔法使い’たちだけではない。
この崇高な使命の元には、彼らの処置の対象になるべき‘異能者’も集まっていた。
毒を以て毒を制す。
異能犯罪者の対処は、同じ異能者を以って初めて成される。
*****
’今月四日から行方が分からなくなっている歌手の天白音羽さんですが、以前として足取りは掴めておらず、警察による捜索も難航している模様です。
……引き続き所属事務所や芸能関係者、親族、友人等への聞き取り調査や行動記録を追うとともに、情報提供を呼びかけています。
……尚、昨年から国内外で連続発生している著名人の失踪との関連性や共通点は、忽然と何の前触れもなく姿を消してしまうという以外になく……。
「いくら探したって見つかりっこありませんよ」
四方を白い壁に囲まれたレクリエーションルーム。ソファに深く座り込みながら、有明涼佳はでかでかと置かれたテレビに向かって半ば独り言のように言い放つ。
そそくさとテーブルからリモコンを取り上げてチャンネルを変えると、陰鬱なニュースから一変、笑い声が耳に届く。
モニターには、十余年続いているバラエティ番組が映し出され、雛壇芸人たちがいつものごとく観客やお茶の間のひと笑いをかっさらおうと必死になっていた。
子どもの頃から観慣れた光景。
ただそこには一人、涼佳にとっても番組にとっても大事な人物の姿が欠けていた。
その整った容姿と柔らかな笑顔でMCの一人として番組に彩りを与え、時には持ち歌を披露して盛り上げてくれていた歌手であり、タレント。最近ではゲーム配信者としての一面も見せるようになった、涼佳が一人のファンとして応援していた女性——天白音羽。
自分と一緒にこれから成長して、もっといろいろな歌を届けて、可愛い笑顔をずっと魅せてくれると信じて疑っていなかった。
当たり前に存在し続けてくれるものと、そう思っていた。
「音羽ちゃーん、いつまでも待ってるからなぁ!」
「バカ、お前がいると帰って来れないだろ!」
「なんだとぉ?!」
テレビの中でプロレスを始める芸人を、涼佳は冷ややかな目で見つめつつも、哀れみを隠すことはできなかった。
彼らは知らない。
メディアも警察も公表していない、天白音羽の行方。
彼女がもうこの世に存在しないことを。
「適当な理由でっちあげて死んじまったことにした方が、ファンも踏ん切りがつくと思うんだけどねぇ俺も」
涼佳の背後、黒いワーキングチェアに腰かけた青年——緋村零次が椅子の背もたれと、ついでに金髪のおかっぱ頭をゆらゆらと揺らしながら飄々とした調子で言う。
彼のこの髪型はリラックスしている証拠だ。目前の白い丸テーブルに置かれたスナック菓子をひとつまみして、さも世間話のように言う緋村に、涼佳は少しばかりイラついて、自身の栗色の長髪を指でいじる。
ご機嫌だけが取り柄の自分に似つかわしくない感情だとは思っている。
きっと今自分を’視たら’、その光は煮えたぎったマグマのような赤色なのだろう。
「余計な混乱を避けるためでしょう。この一年で、著名人がいなくなりすぎですもん。相次ぐ不審死なんて言ったら陰謀論者がどれだけ騒ぎ出すか。……ま、公にしたくない真実であることに変わりありませんが」
涼佳は努めて平静に言って、ソファの背もたれに身体を預ける。
歌手、お笑い芸人、アイドル、ネットインフルエンサー、その他各界隈の著名人ともいえる人たちが、相次いで’いなくなっている’。
失踪でも誘拐でもない。彼ら彼女らは、花に変えられて、その命を消滅させてしまった。
もちろん異能によって。
機関が独自に入手した被害者の足取り、そして最後に訪れたと思われる場所に必ず存在した様々な種類の花。
その花には明確に異能の力の痕跡と、微かではあるが被害者の生体反応が検出された。過去の類似した事件から検討し、花は被害者の身体が異能によって変化したものであるという結論が出た。
被害現場に残された他の痕跡から、彼らを花に変えた人物——つまり異能者が存在していることを、’機関’は掴んでいる。
もちろん世間向けにこんなオカルトを公表しているわけではないが、飛躍した憶測や陰謀論がネットの海で大漁であることは言うまでもない。
「……」
自分にしては本当に珍しい、真っ当な怒りを燃やしたところで事実は事実。
天白音羽は、花になって消えてしまった。
比喩でも憶測でも、ある種陰謀ではあるかもしれないが、本当に。
それは言い換えれば現代の希望の消失だと涼佳は考えている。
人々に笑顔を、希望を、生きる活力を与えるような人たちの死と言っても良い。
自分にとっても、彼ら彼女らは笑顔の源だ。
周りから不自然なほどニコニコしていて気味が悪いと言われることがある涼佳だが、それは貰った笑顔が溢れて表に現れているに過ぎない。
もっと簡単に言ってしまえば、彼らに毎日を生き抜く元気を貰っている。
それなのに。
「人を花に変える能力者、ね。こうも大々的に動くってことは、能力による成功体験で自制が効かなくなったのかね」
「それにしちゃ逃げ隠れが上手すぎます。普通、一年もあればうちの機関は能力者のプロフィールをすべて把握できるくらいには調べ上げるでしょうに」
涼佳たちの所属している’機関’であれば、容易いことだった。
異能を以て異能を制す。
集めた情報から悲劇を未然に防ぐ、起きてしまったのならその根源を叩くのが’機関’の使命であるはずなのに。
一連の出来事が’人を花に変える能力者の仕業だろう’ことしか情報が回ってきておらず、彼または彼女の人物像、どれほどの闇組織が関わっているのかも予測が立てられない状況だった。
大きな組織が後ろ盾になっていることは間違いないだろうが、尻尾はなかなか掴めない。
「上が情報を下ろしていないだけか、本当に持っていないのか。俺等みたいな雑兵には教えてもらえないんだよなぁ」
くくっ、と喉を鳴らして笑い、緋村はスナック菓子を口に放り込む。
今日はチーズ味のくるっと曲がったアレだ。関西でしか売られなくなって久しいが、いつの間に買ってきたのだろう。
涼佳は頭を軽く振る。
どうでもいい雑念は、あまり効率よく気を紛らわしてはくれない。
「雑兵どもに朗報だぞ」
そんな涼佳の頭を、重いドアが開く音と気怠そうな男の声がリセットさせる。
ぬっと現れた赤い短髪に、緋村は椅子ごと身体を動かして笑顔を向ける。
「あっちゃ~ん! 俺に黙ってどこ行ってたんだよ? 今日はザギンでシースーって約束してただろ~?」
「そんな約束してねーよ。近寄るな、きもい」
興奮した飼い犬を諌めるように、男——赤城敦はうざったそうに近づいてきた緋村の頭を鷲掴みにする。
あいにく、涼佳には男同士の組み合わせに心躍る癖は持ち合わせていない。
さっきまでの悶々とした思考を振り払って、涼佳は笑顔を作る。
「おかえりなさい赤城さん。それで、朗報って何です?」
「これだよ。天白音羽が花になったとされている現場……要は自宅だな。そこに平然と紛れ込んでいたらしい」
赤城はポケットからスマホを取り出して、丸テーブルに置く。
画面に映し出されていたのは、墨文字で何かしらが書かれた木札の写真。内容を確認する前に、それが丁寧に透明袋に入れられている状態に涼佳は違和感を覚えた。
「これ、警察の押収物の写真じゃないですか? 上の方から拝借したんですか?」
違和感の正体はすぐにわかった。
ブルーシートの背景に、木札の隣にも同じように透明袋に入った何かが並べられているような画像は、ニュースやドラマなんかでよく見る押収物の写真だ。
つい最近も盗まれた自転車のサドルがずらりと並べられたニュースを見て壮観だなどと思ったばかりだったのを思い出す。
「いや、違う。ついさっき、飲み屋で情報屋から仕入れた」
「サツの情報抜き取れる情報屋?! 有能じゃん、俺にも紹介してよ」
「そいつも別の情報屋から仕入れたらしい。要は、警察の内部機密が情報屋に出まわっちまってるってことだ」
赤城の言葉に、緋村の軽口が止まる。
日本の警察は相変わらず脇が甘い。もはや慣れつつあった涼佳の中の呆れは、木札に書かれた文字の内容を認識したことにより一つの懸念へと変わる。
漆を塗られているのであろう光沢のある木札の表面には、これまで嫌というほど目にした文字がくっきりと浮かび上がっていた。
’蒼嵐’。
それは異能の如く、あらゆる奇跡を可能にする異宝——アステリアルを闇社会に売りさばくことを生業とする闇商人の組織。
草薙の剣、打ち出の小槌、ハーメルンの笛、様々な伝説や古書に記された超常的な力を持つ道具はすべてアステリアルだと言われているが、彼らはそれらを独自のルートと財力、軍事力で発掘、売買を通して流通させている。
構成員の数は少ないと言われているものの、裏組織の需要を掴んだ目利き力と、跡を残さない販路形成や拡大力という点で、闇社会の極一部では名が知られ暗躍し続けている。
’機関’ですら、その存在を確認できたのはここ五年前後の間だと聞いている。
そんな闇商人を示す物証が、警察の手に渡り、あろうことか一介の情報屋の手によって拡散されている。
立つ鳥跡を濁さずどころか、その水面に立っていたことすら悟らせないような連中だ。彼らが関与していたことが事が明るみに出るとすれば、それはやむを得ない状況で蒼嵐の構成員と戦闘になる時くらいである。
それ以外で彼らの名前が表に出ることは、少なくとも涼佳は経験が無いことだった。
そもそも裏社会に多く潜む末端の人間は、’蒼嵐’が組織を表す名詞であることも知らないだろう。
「蒼嵐にしちゃ大胆じゃねーか? なりすましってわけでもないだろ、意味分からんしな。てか、そもそも蒼嵐はアステリアルの売人だろ?」
「今回、天白音羽の自宅には明確に何者かが、異能で侵入した形跡があったわけですよね。だから’機関’はこれを能力者の犯行だと判断していますし、一連の件の犯人だと星を付けている。物体を花にするアステリアルなら存在しますが、それは機関が保管済みですし」
緋村と涼佳は口々に指摘を入れる。
天白音羽の自宅は、誰かを招き入れた形跡があるとか、窓ガラスが割られていたとかそんな物理的なものではなく、空間転移の異能を使用された形跡があったという。初動捜査に紛れて情報を取った’機関’構成員からの情報だった。
紛れもなく異能の力で、そこには人の意思が、悪意が存在した。
赤城はその指摘が来るのは分かっていたとばかりに、両手を上げながら目を瞑って頷く。
「だから、この能力者が奴らの’商品’なんだろうと俺は推測してる。てか、それ以外に考えられん」
一瞬、涼佳は耳に入った言葉の意味を理解できなかった。
理解できなかったのは、正確には思考の枝を少し伸ばした先。
「あー……つまり、宣伝ってことか?」
頭を押さえながら、緋村は一言口に出す。
涼佳も同じ答えに行きついていた。行きついてしまったからこそ、無意識に握り拳に力が入る。
商品の宣伝には、その効果をより強烈に知らしめる必要がある。
裏社会の住人の多くは現在の社会やシステムに不満を持ち、何もかも壊してしまいたいと願う輩も少なくない。
それがたとえ笑顔や安らぎを届ける光で、歌声で、笑顔であろうと、彼らの憎む社会から生まれた光は、彼らにとって目も当てられない汚物に過ぎない。
それらをよりセンセーショナルに、ドラスティックに消してくれる’商品’があれば、それに食いつく。この一年でいくつもの成果を上げ、’機関’ですら目立った痕跡を掴めない物であれば希少価値も上がる。
’商品’の持ち主が誰であるのか、このタイミングで’公表’することで、’蒼嵐’の名前を知る一部の買い手——そのほとんどが上客と呼べるだろう——は食いつき、売り手は最高の価値を引き出せる。
能力者本人の意思がどうであれ、これは商品アピールのための連続殺人であることに変わりない。
「そんなことのために音羽ちゃんを殺したんですか」
しん、と、周りの音を掻き消す圧を、涼佳の声は秘めていた。
赤城も、さすがの緋村もそこで茶化したりはしない。口を閉じて、目を伏せる。
二人とも涼佳が天白音羽のファンであることは知っていた。
赤城はそれほど流行りの曲は聴かないが、天白の代表曲は気に入ってマイリストに入れている。
緋村も暇なとき、涼佳が楽しそうに天白のゲーム配信を観ているのを後ろから眺めていた。自分がハマっていたゲームをやっていればプレイを参考にさせてもらったこともあった。
暇つぶしに聴く天白の声は鳥のさえずりのようで、笑顔は陽だまりのようで、心地良かったのを二人とも覚えている。
「私はいつもニコニコしてますけどね、それはこの世界に溢れるエンターテイナーたちのおかげなんですよ。いろんな場所で、いろんな形で誰かを笑わせようとしてくれる人たちのおかげなんです。それを宣伝のために殺して回るなんて許せませんね」
誰に言うでもなく、涼佳は言葉を吐き出す。
怒りの対象がいまいち定まらず、声に出してもどこか浮ついたように感じるのが余計に腹立たしかった。
それでも、赤城はその怒りを受け取るように強く頷く。
「真偽は不明だが、これで’機関’が張ってるバイヤーが一斉に動き出したら黒かもしれんな。まっずいノンアルビールで仕入れた情報だが、一応上にも報告を上げておく」
怒っても、今自分たちにできることは何もない。
まだまだ情報が少なすぎるし、この仮説が当たっている確証も無い。けれどわずかでも動ける根拠があるのなら、それに縋って何かをしたかった。
自分が持っている情報網——人、企業、サービス、能力者——の中に何か引っ掛けられるものが無いか、涼佳は頭を巡らす。
「ははっ、あっちゃん酒飲めないもんな。今度は俺も連れて行ってくれよ」
「お前は飲み過ぎて余計なこと喋るから駄目だ。能力者か蒼嵐の居場所にめどが付いたら知らせるよ。消し炭にならない程度に’燃やしてこい’」
「……りょーかい」
パイロキネシスの能力者、緋村零次は口元を上げる。
彼にできることは物体を燃やすこと。いたってシンプルだから、殺すことも、いたぶって情報を吐き出させる拷問にも使える。
一方、自分にできるのは’視る’ことだ。涼佳の異能’フィーリングライト’は対象の感情を、ある程度パターン化された色として認識できる。
相手が考えている内容までは分からないが、喜んでいるのか悲しんでいるのか、怒っているのか困惑しているのか。
自分が話す内容で、相手の色が変わっていくのはある種面白みも感じる。
だが、今回の能力者は何を感じているのだろう。
対象を花にする能力。
ロマンチックに聞こえる力に、彼または彼女は酔いしれている? 恐怖している? それとも何か崇高な目的意識を持っている?
分からない。何も分からない。
’視る’までは、決してその色を予測することなど不可能だったが、それを視てみたいという欲求が、収まり始めた怒りの奥底から顔を出し始めているのを感じていた。
*****
まさかプライベートのスマホに保護依頼のメールが飛んでくるなんて、予想もできなかった。
このスマホは有明涼佳が表の世界で、十九歳の大学生として生きるために用意したものだ。’機関’の関係者はおろか、ユニットのメンバーすらこのスマホには連絡先を登録していない。
何かしらの不備でアドレスが漏れることはあっても、持ち主が’機関’の構成員であると特定できないはずだった。
冷や汗をかきながら、涼佳は画面をスクロールする。
’とある女性から、あなたなら助けてくれるかもしれないと伺いました。私は、この社会では罪と呼称される事象を行ってしまいました。
人を花に変えるという罪です。
どうかあなたの組織で保護していただけませんか。
まずは話がしたいです。メールですと細かい要望が伝わらない恐れがあるため、直接の面会を希望します。
今月の十五日の十五時、春日町の駅前、トリーズカフェで待っています。’
文末には’石神悠雅’と、名前らしき文字列が記載されていた。
端的な保護依頼の文章だ。
図々しくも面会の日時まで指定してある。
「誰ですか私のプライベートな連絡先を漏らしたのは……」
面会をするかどうかは置いておいて、まずはこのスマホの情報がどこから流出したのかを突き止めるのが目下の使命だった。
始末書じゃ済まされない。最悪自分自身が始末されるかもしれない。
連絡先アプリをタップして、一覧をざっと眺める。
家族、大学の友人、教授、中高の友達……機関に入ってからはバイトもしていないし、公的機関とのやり取りは’機関’を通して行っているから最低限しか登録されていない。
流れていく文字列から、涼佳の眼はある名前を捉える。
藤村クロハ。
それはある少女の偽名だった。
かつてはアークに、同じ部隊に所属していた黒い翼を持つ少女。
同時に、仮初の姿ではありながら同じ高校に通ったクラスメイトであり、友人だった。
一年ほど前にとある事情から組織を脱退して、その行方は誰にも分からない。それらしき目撃情報は世界中で上がっているようだが、クロハである確証はなかった。
「私なら助けてくれるかもしれない、か。ここをなんだと思ってるんですか。クロハちゃん、あなたが一番よく知っているじゃないですか。だからあなたは……」
胸の内にある不満に混じって出てきた独り言は思った以上に多くなって、涼佳は口を閉じる。
こんなところで繋がるには予想外の名前だった。
だが考えうる限り、自分のアドレスを持っているのは彼女しかいない。
「ま、あなたが今でもここをそういう場所だと思ってくれているのなら、私たちが過ごした時間は無駄ではなかったということですよね。嬉しいですよ、普通に」
言って、涼佳はメールの内容をもう一度読み返す。
気が動転していたからか、送り主が件の花の能力者らしいことにようやく気付く。
深呼吸をすると、気恥ずかしさと怒りが同時にやってきて、スマホを握る手に力が入った。
「クロハちゃんに免じて会ってあげますよ。私情抜きで」
握りつぶす勢いでスマホを持ちながら、涼佳はぽつぽつと返信を打ち込んでいった。
*****
カフェに入ってすぐ、奥の席に見えた長身の男の姿に、彼が待ち人であると涼佳は直感で認識することができた。
艶のある短い黒髪に、鼠色のロングコート。つり目の視線の先は、目の前で湯気を立てるコーヒーに向いていて感情は読めない。
男は両手を顔の前で祈るように組んで、涼佳が近づいて行っても石像のように動かないでいた。
テーブルの端には黒い手袋。外の刺すような空気にすっかり冷たくなってしまった両手に、自分も持ってくるんだったと少し後悔する。
「石神悠雅さんですね」
「あぁ、そうだ」
芯の通った、それでいて地面の底から響くようなテノールの声色が短く返ってくる。
保護を依頼する相手に対する態度にしてはやや尊大で、メールを送ってきた人間と同一人物なのかも疑わしくなるくらいだった。
涼佳は軽く会釈をして向かいの椅子に座る。
コーヒーの香りが鼻腔をくすぐって緊張感が少しだけ和らぐ。
通りかかった店員にレギュラーコーヒーを頼んで、再び男——石神悠雅に真っすぐ顔を向ける。
年齢は二十代後半から三十代といったところか。整った顔に、濃い赤褐色の瞳が宝石のようについていて、それが涼佳をぼんやりと映している。
生気がない、とまでは言わないが、どこか空虚で冷たい印象をその全身から感じる。
それは涼佳だけが’視る’ことのできる光が影響しているのかもしれない。
もの悲しい、濁った灰色が彼の全身を煙のように覆っている。その中には時折、枯れ木のような黄褐色が葉脈のように混ざっている。
これがどんな感情を表しているのか、涼佳は知らないし今まで見たこともない。少なくとも明るい感情でないことは確かだった。
「有明涼佳といいます。所属は非公開とさせてください。大変失礼なことは承知ですが、名前だけあれば今は良いでしょう。まずは持っているものを机の上に出してください。発信機や盗聴器など、念のため調べさせてください」
「俺はこの一年近く、空間転移やらテレパシーやらを経験している身なのだが、能力者とやらは今時そんなものを使うのか?」
「ごもっともな質問ですが、そういう手法を取る組織も多分にありますので。用心するに越したことはないのですよ」
いくら魔法やオカルトチックな能力を使える能力者がいたとしても、相手が単独犯とは限らない。
現代の技術を使うマフィアや他の犯罪組織の中にだって、異能を認識してしのぎの一つにしている連中はいる。
その構成員の多くは能力を持たない一般人だ。彼らが石神という’商品’に目を付けている可能性だってある。
原始的な警戒はしたってし足りないことはない。
差し出されたスマホと財布を自分の方へと近づけるために、涼佳は手を伸ばす。
「おっと、俺の手には触れない方が良い。まだ人間でいたいならな」
「……そういう能力ですか」
「まぁ、正確には触れて、目を合わせなければ大丈夫なようだが」
言われて、涼佳は伸ばしていた手を止める。
どうやら石神は、接触で能力を発動させるタイプの能力者のようだった。
そうであれば尚のこと、芸能関係者に文字通り肉薄しなければならないから、彼一人での犯行は難しい。大きな、そして超常的な手助けがあったことに疑いは無いと涼佳は確信する。
石神が私物から手を離したことを確認してから、涼佳はそれらを引き寄せる。それから自分の仕事用のスマホを取り出して、アプリを一つ起動させた。
カメラレンズから射出された赤い光が、石神のスマホと財布を照らす。
’機関’の数ある’おもちゃ’の一つ。発信機や盗聴器はもちろん、異能の気配を持った物体を感知したり、中身の内容を瞬時に読み取ったりできる地味だが優れモノのアプリだった。
ほんの数秒間の照射を終えて、すぐにそれらは持ち主の元へと返される。
「魔法か何かで見破るものだと思っていたが、案外ハイテクなのだな。昔の洋画の中に入り込んだみたいだ」
「現実は創作を超えていくものですよ。とりあえず検知できる範囲の変なものはありませんね。これ以上は出てきてから随時対処するしかありません」
現代的な方法で感知できるものに関して、異常はない。
口封じの狙撃に備えて、カフェの周りには機関特製の対異能バリアが張ってある。ミサイルでも撃ち込まれない限りは、ある程度の弾丸や異能で作られた特殊な攻撃、精神音波なども防御できる。
彼を付けてくるような顔の怖い輩もいない。赤髪でたれ目で人相の悪い男なら、道を挟んで三つ前の席でイチゴパフェを食べながら自分たちを監視しているが、それは万が一があったときの護衛のために来てもらっている。
「あなたに接触してきた能力者はそんなに不可思議な力を持っていたんですか」
「頭の中で突然、花にしたい奴の名前を言え、と声が響いた。最初は俺の頭がいよいよおかしくなったのかと思ったが、あの声は俗にいうテレパシーだろう。それから何度も同じ方法でやり取りをしたからな。その時は恋人を失って……いや、俺が花にしてしまって茫然自失と言って良い状態でな。何気なしに、たまたまテレビに映っていたお笑い芸人の名前を言った」
淡々と、石神は話し出す。話すことに慣れているのか、ラジオで流れる朗読や落語でも聞いているような気分になる。
表情に、彼が纏う色にあまり変化はない。
本来は安全のために’機関’のしかるべき場所でこういった話は聞くべきなのだが、涼佳はあえて止めることはしなかった。
というより、彼の世界に急激に引き込まれたような感覚すらあった。
「数日後、家に突然、それこそ映画でよく見るようなワープホールが開いた。この前言っていた芸人のいる場所までその穴は続いているぞ、とまた声が響いた。実際にそこから対象のいる場所まで二秒もかからなかった。俺は彼の腕を掴み、不意に現れた俺に驚くその目を見つめた」
少しの沈黙。周りの客たちの話し声も食器の触れ合う音も、どこか遠くで鳴っているように聞こえた。
涼佳は無意識に固唾をのんでいた。
「瞬きをして目を開けると、馬鹿みたいに眩しい黄色の花びらが舞っていた。万人受けする芸など存在しないと言うが、彼がマイクの前に立てば観客も、テレビの前にいる者全員の口元が緩む。そんな評価を受けていたような記憶がある。彼にぴったりな、飛び抜けて明るい色の花……あれはおそらくミムラス。花言葉は’笑顔を見せて’」
石神の声のトーンがほんの少しだけ高くなる。
同時に、彼の周りにも黄色やオレンジといった明るい色が見え始めた。
「……少し話が逸れたか。とにかく、俺はこの一年、本当に映画の中に迷い込んだかのような不可思議な体験をしてきた。すでに俺の能力自体が、フィクションのようなものだが」
石神は元の声色に戻って、自分の手のひらを見つめる。
彼の世界に引き込まれるような感覚も消えた気がして、涼佳は無意識に上がっていた肩を下ろす。
タイミングを見計らったかのようにそばを通りかかった店員が、コーヒーをテーブルに置く。
カップ二つ分のコーヒーの香りは、涼佳に冷静さと今回の目的を思い出させる。
「いいえ、そういうお話も聞きに来たんです。さすがと言うべきか、花にはお詳しいんですね」
「……恋人がフローリストでな。花の種類と花言葉はよく聞かされたものだった。もともと花に造詣が深かったわけではない。いや、花だけではないな。俺は俺の人生において、何かを極めたり追求することはなかった。全部、与えられたものだった」
「与えられた。その、恋人さんに?」
石神が纏う色に、微かに青が混ざる。
悲しみ。苦しみ。マイナスの感情であることに間違いはないが、彼の表情は石像のようにあまり変化がない。
涼佳は余計な感情を込めないように続きを促す。
「彼女の名は一華という。まさに花を扱う職に就くために生まれた名前だが、俺のような道端に転がる石ころにも興味を示すような人間だった。出会ったのは大学で、詳細は省かせてもらうが何の因果か俺たちは付き合うことになった。告白は彼女からだったが、その理由ははぐらかされてしまって分からずじまい。よく動きよく喋る彼女にとって、俺は止まり木としてちょうど良かったのかもしれない」
石神の言葉は続く。
保護を依頼してきたからには、早い段階で身柄を安全な場所に移すことを希望されるのだと思っていた。
しかし彼は話すことをやめない。むしろ語りたがっているようにも見える。
これは逆に好都合とも言えた。ほとんどの能力者は共通して社会に、それに従順に属している人間に敵意を持っているから、自分の身の上話など口が裂けても話さないことが多い。
この場で情報が多く取れれば取れるほど、この後の処理も楽になるから損は無い。もちろん録音はしている。
「俺の家は比較的裕福だった。両親も健在、自由に育ってくれれば良いと、放任主義的な育て方をしていた。周りの環境や巡り合わせも悪くなく、友人も恋人もできた。勉強もスポーツも音楽も、世界のあらゆることを人並みに、表面的に理解し、ある程度楽しむ機会も得ることができた。だが思い返せば、そうやって流れてきたものをこなしてきただけ。自分の意思で手に入れたものは無い。ただ運が良かっただけだ。流れに身を任せただけで、出会ったものの中に本当に欲しいものは無かった」
流されるだけの意思の無い石だと、彼は付け加える。
どうやら言葉遊びも癖のようだった。
「ただ綺麗なものは好きだ。綺麗な物、景色、人間、物語。自分の力では決して得られず、だが見ているだけで心地が良いもの。ずっと綺麗なものを見続けられていればそれで良かった。一華はその点、花にまつわる芸術や言葉を俺に教えてくれた。彼女の仕事に関連したあらゆるイベントを通して、バイタリティ溢れる業界人の考え方や奇抜なアイデアを聞くことができた。非常に刺激的で、興味深かった。その中心で、一華はひと際別格の輝きを放っていた」
石神の言葉はさらに続く。
その間にテーブルに置かれた涼佳のスマホが微かに振動し、機関の同じユニットメンバーからのメッセージが表示される。
涼佳は不自然にならないよう、スマホを素早く取り出して画面を一瞥する。
そこには一華——水原一華の情報が羅列されていた。
市内の大学を出た後、フローリストとして独立し日本全国の花屋、イベント会社と連携し装飾、展示会への作品提供等の実績。亡くなる一か月後には個展も予定されていたらしい。
芸能界との伝手もあって、歌手、大道芸人といったパフォーマーたちも巻き込んだ大規模なイベント企画・運営の手腕もあった。
期待のホープとして業界では一目置かれていたとか。
概ね、石神が今話している内容と一致している。彼の妄想ではなく、しっかり実在していた人物らしい。
録音された情報からこんなに早く調べるとは、身内ながら情報網の多さに涼佳は身の毛がよだつのを感じた。
「……だが、花は枯れてしまう。昨今の不況や国際情勢の混乱で廃業を余儀なくされるフローリスト。イベントに足を運ぶ客たちの’余暇’を楽しむ精神・経済的余裕の減少。様々な理由で彼らの輝きは色褪せていった。業界だけじゃない、社会のあらゆる人やモノがその輝きを弱らせてしまっている。それに俺は耐えられなかった。枯れて、腐っていく花を直視することなどできなかった。綺麗なものは綺麗なまま、永遠に止まって欲しいと心から願った。だが時は進んでしまう。社会は、世界は悪くなる一方だ。だから——」
——だから、良かったのかもしれない。
石神が続けた言葉の接続を、涼佳は理解できなかった。
いや、またしても理解を拒んだ。本当の感情が’視えている’のに、こういう時は真実から目を逸らしてしまう癖がある。
「偶然とはいえこんな朽ち果てていくだけの世界から離れて、綺麗な花になれたのなら幸せだったのかもしれないと、俺は思う」
「……彼女が最初の被害者なのですか?」
「あぁ。最初は何が起きたのか分からなかった。俺が起こした現象だという事すら認識できなかった。当たり前だ。普通の人間が、触れた者を花に変えられるなんて発想に行きつくわけがない」
能力者は遺伝などで先天的に異能を持つ者と、突然力を覚醒させる者がいる。
涼佳は後者で、この様子だと石神もそうなのだろうが、動揺の色は文字通り視えない。
覚醒後の混乱で能力を暴走させてしまうケースも珍しくないが、彼は最初の能力発動時も今のように落ち着き払っていたのかもしれないし、その姿は想像に難くなかった。
花になって良かった、なんて恋人に言い放てる精神構造は、涼佳の目で視えても理解はできなかった。
「ただ、あの花は綺麗だった。本当に。これまでの人生で一番この瞳に焼き付き、脳裏から離れない眩しい白だった。俺はあの花の名前を知らない。一華からは教わっていなかった。だから、もう一度見たいと思った」
石神の胸の中心に、突き抜けた空のような青が強烈な光を放った。
それは決意を、あるいは夢や希望を見つけた者が見せる色。
ここか、と涼佳は感じ取る。
偶然にも力を発露させてしまった能力者が、異能犯罪者になってしまった分岐点であり、動機となった感情。
歪んだ、けれどある意味純粋な願い。
それを認識する涼佳の頭と心が、少しずつ熱を失って冷めていくのを感じる。
「声が聞こえて、これが俺の能力なのだと理解してからは、あの花を探し続けた。きっと何か大事を成し遂げた人間か、すべてをやり切った人間か、あるいはずっと輝き続けている人間。そんな人間たちが咲かせる花なんだろうとアタリを付けた」
再び石神の声がわずかに高くなる。
しかし彼の表情は依然として、感情が昂っていることに気が付かないように、石像のように動かない。
「唯一かもしれない。この力の行使だけが、俺が生れて初めて、自発的に行っている唯一のこと。だが、どれだけの人に触れてもあの花は見つからない。確かにどの花も綺麗だったが、俺はあの花が見たかったんだ。もう疲れた。今まで夢の中にいるような浮遊感を感じながら生きてきたが、実感を伴った人生がこんなに疲れるものだとは」
その言葉はトンネルの中で響く声のように、涼佳の耳に届く。
どこまでも空虚で、全身の力が抜けるような言葉。
数々の人間を、世界に希望と笑顔を振りまいてくれた人たちを消した感想がそれか。
水原一華を、天白音羽を殺した男から出る言葉が、それなのか。
個人的感情は排除してから来たつもりだったのに。
涼佳はコーヒーカップの持ち手を掴む。微かに震えて、中身を零しそうになった。
「それを自覚すると、俺の中に響く声も、俺が人を消しているという実感も、急に現実味を帯びてきた。警察や変な組織に見つかるくらいなら、しかるべき機関に保護を依頼したい。遅くなったがこれが本題——自首であり、保護要請だ」
立ち上がってその無表情に一発拳を叩きこむ自分の姿が、はっきりと涼佳の脳内に映し出される。
もちろんそんなことはしない。
異能をもって異能犯罪を防ぐ。機関の構成員である自分の仕事であり責任。
できればこの目に視えている眩しい青色が真実ではないことを願わずにはいられなかった。けれど彼の犯罪動機を報告書に書くならば、この光は証拠として記載しなければならない。
警察などの公的取調べでそんなことを書けば妄想だと一蹴されるが、異能を扱う機関だからこそ有力な証拠になる。
この男が、人を人とも思っていない連続殺人犯で、吐き気を催す純粋悪に過ぎないことの証拠に。
善人にも実は悪人の側面があり、悪人にも善人の側面がある。
誰かに話したことも議論を交わしたことも無いが、涼佳はそんな考えには真っ向から異を唱え続ける人間だった。
人間の原初は無だ。
その無から、周りの人間や環境によって、徐々に善か悪どちらかを核とする’種’が出来上がる。
種から伸びる根や蔓、葉、咲く花や実る果実が善と悪両方を兼ねることはある。
善か悪かの判断基準は、社会や法律によって左右されるのは言うまでもないが、根源は二つに一つだ。
色を発する根源を何らかのきっかけ——それは今回のように強い願望に結びつく強い光であることが多い——で’視る’ことができた時、目の前にいる人間がどちらであるか分かる。
その種が反転することは、少なくとも涼佳の経験上はあり得ない。
真実など視えない方が良い。そんな自分の異能との葛藤はこれまで何度も経験してきたが、ここまで強く感じたのは久しぶりだった。
「……機関の基準から考えれば、あなたの危険度はB。保護と記憶消去による経過観察になります。異議を申し立てる場合は殺処分となりまして、まぁ個人的にはどちらでも良いのですが……実質的に、機関としてはあなたを保護するという選択しかありません」
せり上がってくる様々な感情をやや抑え切れてはいなかったが、涼佳は事務的に告げる。
「記憶消去か」
「えぇ、今までの流されるままだった人生の記憶が消えます。ただ、あなたが綺麗だと言っていた、一華さんとの記憶も消えてしまいます」
投げやりにも聞こえる声色で涼佳は答える。猫を被るのに疲れたという見方もできる。元来、毒舌と言われるくらいにはっきりと物を言う性格だった。
発散しきれなかった怒りがカフェインと一緒に、疲労感となって身体を巡っているのを感じた。
石神は表情を動かさない。
視えていた強い光もいつの間にか消えていて、元の灰色が大部分を占めていた。
「あぁ、いっそ一から初めても良いのかもな。何もかも忘れて、一から始められれば俺も……」
言いかけて、石神は口を閉じた。
代わりにコーヒーを静かに口に含む。香りは二人の間に充満しているが、湯気はもう立っていなかった。
涼佳も後の言葉を促さず、鞄から一枚の書類を取り出す。
「同意をいただけるのであれば、この書類にサインを。別の場所で同じような質疑応答がありまして、そこであなたに接触してきた声についていろいろ聞かれると思います。できるだけ思い出しておいてください」
後のことは機関に任せれば良い。
石神悠雅の色という自分の視るべきもの——結果的には視たくなかったものだが——は視ることができた。
これ以上自分のやるべきことは無い。
これ以上やり場のない怒りに身を燃やさなくても良い。
「それはそうと、あなたは天白音羽という女性を覚えていますか? つい最近、あなたが花にしたはずです」
書類に万年筆のインクで刻まれていく石神の達筆な文字をぼうっと眺めながら、涼佳は自分でも無意識に口走っていた。
何でもないとすぐに訂正すれば良かったものを、石神が名前を書き終え、万年筆のキャップを閉めるまで待ってしまった。
「彼女は、どんな花を咲かせましたか」
声は震えていた。
この質問に好奇心が混ざっていないと言ったら嘘になる。
自分は最低だ、目の前の彼を責める資格なんてない。そんな声が頭の中に響く。
石神は再びコーヒーを口に含んでから、頷いた。
「ガーベラ。赤、白、紫、緑、黄色、オレンジ、ピンク。色とりどりの、たくさんの花を咲かせた。思い返せばあれは、俺が見たかったものとは違ったが、近い感動を覚えた記憶がある」
「ガーベラの花言葉は?」
「色によって違うらしい。希望、思いやり、感謝、親しみ、冒険心、いろいろあるが代表的なものは、’常に前進’だったはずだ」
罪悪感は、それでも期待通りの花になった天白音羽への安心感と喜びに塗り替えられた。
常に前進。
なんて彼女にぴったりな花だろう。
場違いと分かっているが、涼佳はため息にも似た笑みを漏らした。
「そうですよ。あの子はすごいんです。アイドル歌手として成功して、テレビのバラエティにも出て、時代の流れを汲んでゲーム実況も始めたりして。いろんな色を見せてくれていた。いろんな姿かたちで私たちに笑顔を届けてくれた」
なぜ石神の前でこんなことを言っているのか自分でも分からないが、言葉は止まらなかった。
この世にはどうしようもない悪や救われない闇が存在すると諦めていた涼佳に、純粋な光があることを教えてくれた。
ただ美味しいものを食べて、暖かいベッドで眠って、友だちと話して、いろいろな未知を既知にすること——小さい日常の積み重ねが何よりも尊い光になることを教えてくれた。
知らなくても良い辛い真実はこの世にごまんと存在して、心を引き裂こうと虎視眈々と狙っている。
それでも目の前の幸せを抱きしめて、晴れた空が奇麗だと笑っていられる自分を大切にしてと、彼女は歌った。
彼女の美しい笑顔が、綺麗な歌声が、可愛らしい笑い声がその光に花を添えた。
明日を生き抜く、ただそれだけの小さな灯をくれた歌姫。
自分もそんな風に笑っていたいと心から思った。
変わってしまうこと、消えてしまう寂しさというただ一点だけを取れば、石神の感情も理解できる。
天白音羽が生きていれば、きっとこれからも違う色を見せ続けてくれただろうに。
「彼女の歌う歌はいつも希望を示していた。光に向かって進もうとすることで彼女は’咲いていた’。彼女は咲き終わったわけではなく、咲き続けていたんですよ。その花がいつか枯れても、また新しい花を咲かせるために。少なくともあなたが、音羽ちゃんの最後の花を決めるべきではなかった」
視界が歪む。
頬に雫が流れないように、懸命に目を開ける。
ほとんど叫びのような涼佳の声にも、石神の色は変化を見せることは無かった。
彼のどんな返答も期待していなかったし、自分で話を振っていながら着地点など見えていなかったが、なんとか頭の中から次の言葉を探し出す。
「彼女はいろんな挑戦をし続ける人でした。あなたも第二の人生を、あなたが消した人たちの分まで前向きに、自分の足で生きられることを願っていますよ」
最大限の皮肉を込めて、涼佳は言う。
この朴念仁に伝わっているかどうかは、やっぱり分からない。
「記憶は消えても感情は消えない。綺麗なものを綺麗だと思う感情は感動という言葉で表すことができますが、それは’憧れ’という言葉に変わっていくんだと思っています。憧れはいずれ、何かをなす時の原動力になる」
一息に言って、涼佳はカップに残っていた冷え切ったコーヒーを飲み干す。
心身の興奮をカフェインがさらに押し上げるのを感じる。早く彼を連れて外の冷たい夜風に当たらないと今度こそ本当に手が出そうだった。
最後は形式的な、慰めの言葉。
罪を犯した者に対して贖罪を促すための、機関の人間としての形式的な台詞。
そこに有明涼佳個人としての感情はなるべく入れないようにしていたつもりだった。
「憧れ、か」
これまで呼吸音すら聞こえなかった石神の口から、長い、長い深呼吸とともに小さな声が発された。
最初に出会った時のように祈るように両手を組みながら俯いて、空のティーカップを見つめている。
表情にも、初めてと言って良いほどの変化が見られた。
それまですべてを俯瞰しているような細い目が、何か未知のものを見た時のように見開かれている。
彼を覆う色にもその変化は見られた。濁った灰色の中に、ぽつぽつと泡のような白色が現れ始めていた。
今までの経験上、これは何かを疑問に思う感情、意味や正体が分からないものに出会った時に視ることのできる色だった。
「……」
「石神さん」
長い、長い沈黙に耐えかねて声をかけたわけではない。
石神は俯いたまま、本当に石像になってしまったかのように動いていない。
だが涼佳の目に映る光は、目まぐるしく変化していた。
灰色の光に開いた白い穴から、赤、黒、青、黄、紫、緑、橙色、様々な色が激しく発生しては消え、また現れる。
光の変化が激しすぎて頭がおかしくなりそうだった。
繰り返される点滅に目をやられ、彼を止めるための言葉も上手く頭の中で組み上げられない。
この異能と付き合い始めてもう十年以上になるが、こんな現象は初めてだった。
助けを求めるために前方に座る赤城の方を見ようにも、光の残滓が視界を邪魔して上手く視線を定めることができない。
ただ、敵意を示す’血のような濃い赤色’は、一つも現れていないから、これが石神からの攻撃ではないことは分かる。
あらゆる色が存在しない記憶を呼び起こし、言葉にならない幻聴を涼佳の耳に流し込む。
最後に強く網膜を刺激したのは、光を吸い尽くさんばかりの漆黒。
人が死ぬ直前、あるいはそれを自らの手で実行する前に見せる色——つまりは諦めと絶望の色だった。
「くっ……」
呻く自分の声が辛うじて耳に届いてからしばらくして、光は徐々に弱まっていく。
目の前には石神の身体が、同じ姿勢で動くことなくそこに座っていた。
ただ、彼に纏わりついていた灰色の光は、真っ白に変わっていた。
透明と言っても良いのかもしれない。人型の白紙がそこに座っているような錯覚を覚えた。
「いや、」
短く発されたテノールの声がやけに大きく耳に響く。
石神はふと顔を横に向ける。
外はすっかり暗くなって、窓は店内の光を通して彼の顔を映していた。
窓に映る自分と視線を合わせていた。
「俺は、いい」
断固とした決意が籠っていたように聞こえたその言葉を最後に、石神悠雅の姿は視界からふっと消える。
声を上げる間もなかったが、涼佳は反射的に手を伸ばして前傾姿勢を取る。
彼が座っていた椅子の上まで視線が動いた。
「おい、何があった」
珍しく慌てた表情の赤城が駆け寄ってきたが、涼佳はそこに佇むものから目を離さなかった。
そこには小さな、本当に小さな花が一輪だけ、静かに置かれていた。
さっきまでの光の点滅の影響か、色だけははっきりと認識することはできないが、それでもそこに置かれているものが花だという事は確かに分かった。
咲きかけの、つぼみのような小さな花。
これから大輪の花を咲かせるようにも、そのまま枯れてしまいそうにも、どちらにも取れるような不確定さを秘めた花。
それが石神悠雅だったものであることに何の疑いも持たなかった。
「なんだ、けっこう可愛らしい花じゃないですか」
涼佳は言って、唇をきつく結ぶ。
自分の中に湧き上がっている後悔にも似た感情に少し戸惑っていた。
自責の念を感じているわけではない。例え自分の言葉が彼の’選択’のトリガーだったとしても、涼佳は許しを請うことなどしない。
彼を’悪’だと断定した自分の判断は間違っていないと、脳も直感も本能も、自分のすべてが肯定している。
「綺麗な大輪の花を咲かせたかもしれないのに。勿体ない人生でしたね」
十分な水を、陽の光を、肥料を与えても咲かない花はある。
単なる運なのか、そもそも不作の種だったのか。
それとも未知の必須条件があるのか。
だとすると石神にとっての条件は何だったのか。
どのみち今の視界ではろくな考えは浮かばない。
けれど頭の中にある疑問と後悔を言葉に出してみて初めて、石神のことを少しだけ理解できた気がした。
綺麗な花が見たいという、彼のひどく素朴で純粋な願いを。
*****
「ターゲットはその建物の中にいるはず。今は涼佳がいないから人数は不明。慎重に入って」
神楽木彩音は目前に広がる三枚のモニターのうちの一つに向かって、透き通った声で短く必要事項を伝える。
映っているのはコンクリート作りの寂れた空きテナント。
閉ざされた鉄扉の前には、金髪の髪を獅子のように上げた男が仁王立ちしている。
「あやねぇ、大丈夫だよ。全部燃やすのが俺の仕事なんだから」
男——緋村零次はひどく陽気に、声に似合わない物騒な返答をする。
彼がここに来た理由は一つ。
人を花にする能力者——機関はフローライズと呼称することに決定した——を、宣伝目的で泳がせていた’蒼嵐’の人間を抹消するためだった。
「あっちゃんは蒼嵐の情報をできるだけ取れって言ったけどさ。俺を寄越した時点であんまりその気はないよな」
へらへらと笑いながら言う緋村に、彩音はマイクをミュートにしてから静かにため息を吐く。
せっかく苦労して石神を空間転移させたアステリアルの波長、さらにはその持ち主と居場所まで特定したのだから、少しでも機関に有益な情報を取ってきてもらわなければ割に合わない。
今回、石神を犯行現場まで移動させていたのは’ワープナー’と総称される、異能犯罪組織や機関も多用する界隈では一般的な、人工アステリアルだった。
一般的と言っても、入口と出口の座標を指定し、スイッチを押すことで瞬時にワープができる優れモノ。一般人にとっては青い狸が使う未来の道具に等しい。
通常、ワープナーを使うと入口と出口に設定された座標に異常空域と呼ばれる特殊な波長が観測できる。
被害者が花になったと思われる前後、いくつかのケースで異常空域を観測できたが、入口と思われる座標は囮のようにいくつも同時発生し、特定することができなかった。異常空域の入口と出口両方を特定できれば、それを発生させたワープナーを特定することができ、それが発する波長を追跡することで持ち主も追跡することが可能だった。
囮のせいで特定は難航したが、つい数時間前に涼佳が容疑者である石神悠雅の免許証から住所が判明したことで同時に入口の座標も定まった。
芋づる式にオープナーの所有者の居場所も追跡できたわけだが、彩音は一抹の不安を覚えていた。
「石神への監視が緩いのか、それともあまり重要視していないのか……分からないけれど、こんなに簡単に追えてしまうのは少し怖い。罠には十分に注意して」
今まで足跡を見つけることすら難しかった’蒼嵐’の痕跡をここに来て連続で発見できることは、部隊の情報管理担当である神楽木彩音には喜ばしいことであると同時に引っかかるものがあった。
おびき寄せられている可能性も大いに考えられる。そうなった場合に可能な限り緋村をサポートできるよう、彩音は目と耳に全神経を集中させてモニター内の情報を捉える。
彩音の警告に緋村はひらひらと手を振って、慎重に扉を開けた。
「……」
一面灰色の部屋には家具や仕切り壁などの障害物は何もなく、がらんどうだった。
たった一つ、部屋の奥にある小さな窓から差し込む微かな月明かりに照らされて、中心に置かれた異物が緋村の目に映った。
薄暗い部屋の中、それが人間の死体であることが分かって、緋村は瞬時に周りの気配を探る。
誰もいない。少なくとも生きている者は、自分以外にはいなかった。
「あやねぇ、何か異変は?」
「生体反応もワープナー以外のアステル波も無し。異音や電子妨害なども検知なし」
彩音の即答を聞いてから、緋村はようやく部屋への最初の一歩を踏み出して死体の方へ駆け寄る。
近づくことで分かったが、遺体には首が無かった。
光をかざして観察すると、綺麗な切り口からは飛び散ったであろう血しぶきが床一面に赤黒い花を咲かせていた。
体格からして男だろうが、飛ばされた首はあたりを見渡してもどこにもない。血は乾いていて、この惨劇が起きてからかなり時間が経っているらしいことが分かった。
「こりゃ……懐かしいな」
そして血の花を彩るように、黒い羽が散らばっていた。
緋村は瞬時に理解する。
ここに誰が来て、この死体を作り上げたのかを。
「ワープナー回収。この遺体は?」
「もちろん回収して。すぐに撤退を」
「了解」
緋村は自分の腰に巻かれたベルトから六角形の機械——機関ではヘキサケースなどと呼ばれ、作戦行動に必要なアイテムを異次元に収納できる人工アステリアル——を取り出す。
スイッチを押すと成人男性大のアタッシュケースが現れる。
「おらっ、死んでんならせめて何かしら情報出せよー」
命の入っていない重い肉体を抱え上げ、ケースの中に放り込むように投げ入れる。
ふたを閉めて側面にあるボタンを押すと電子音が鳴り、その重量を極限まで軽減させる。
最後にもう一度部屋を見回して、緋村は素早くアタッシュケースを持ち出して扉の方へと駆ける。
「今さら遅いかもしれないけど灰にしちまおうか、全部」
扉を開けると冷たい風が身体全体を包む。
いつの間にか緋村は全身に汗をかいていることに気づいた。
「機関より早くこの場所を特定するなんて、相当怒ってたのかな。音羽ちゃんの曲、よくスズと一緒に聴いてたもんな」
扉を出て数歩、緋村は言ってから指を鳴らす。
ぼっ、と音を立てて灰色の建物から赤い火が上がる。
瞬く間に火は炎になり、全体を舐めるようにコンクリートを熱し、炭と灰にしていく。
数分も経たないうちに轟々と音を立て、窓ガラスの割れる鋭い音が静かな夜の裏路地に響いた。
’蒼嵐’がいた形跡も、黒い翼を持つ異能者がいた形跡も、すべてが炎に包まれて消えていく。
跡形もなく、異能の跡は残ることは無い。
*****
”来週は映画を見に行こう。美味しいご飯を食べに行こう。
そんな些細な約束が私の笑顔の源。前に進む勇気をくれる。
さぁ、君も笑ってよ。私みたいに、にっこり前を向いて、一歩踏み出そう。
進んだ道は連なって、きっと綺麗な花畑になる。
枯れちゃっても、きっとまた芽吹く。
一輪でも咲いたらすぐに私のところまで走ってきて。
綺麗だねって、一緒に笑おう。”
スマホで天白音羽の曲を聴きながら、涼佳はレクリエーションルームのソファに深く腰を掛けていた。
目の前のモニターには何も映っていない。
毎週欠かさず観ているドラマの開始時間はとっくに過ぎていたが、リモコンに手は伸びない。
他にも好きな歌手や芸能人、配信者はたくさんいる。追うのが大変なくらいだ。
それでも唯一無二の彼女は帰ってこない。
復讐は爽快感を得ることはできるが、一番欲しいものを取り返してはくれない。
「彼女の代わりはいないんですよ。それは、あなたにとってもそうだったはずです」
小さな花を遺して消えた男。その無表情が一晩経った今でも頭から離れない。
ふと、涼佳は曲を止めてスマホの検索欄に文字を打ち込む。
白い花。
たったこれだけの言葉で該当の花が見つかるとは思えないが、出てきた画像を片っ端から視界に入れて画面をスクロールしていく。
「……あなたたちがどんな経験を共にして、どんな言葉を交わし合ったのかなんて知りません。でも、もしもこの花だったら、そしてあなたがこの花の花言葉を知っていれば、違う選択をしたんでしょうか」
眩い白光で網膜を刺激する花が、涼佳の指の下で止まった。
綺麗だ。涼佳の直感はきっとこの花だと強く訴えていた。
タップすると様々な種類の色と、対応する花言葉が羅列されていく。
白いアザレア。
その花に込められた愛とも別れとも取れる言葉は、きっと彼には届かなかったのだろう。
「スマホに向かって指先一つ動かせば、答えは得られたかもしれないのに。代わりなんてない。確かにそうですよ。でも……」
涼佳は画面を消して、再び曲を再生する。
ポップな歌声と弾むような歌声が、暗い海の底のような場所に沈んでいく涼佳の心を柔らかく持ち上げる。
「自分の足で前に進まなければ、何もできずに枯れていくだけなんですよ」
イヤホンを通して、涼佳の頭の中で天白音羽は歌い続けていた。
自分のように笑って、前を向いて生きろと。
今はとてもそんなふうには考えられない。
しかしそんなことはお構いなしに、歌声は涼佳の心に陽の光と肥料と水を与え続けていた。
いつか綺麗な花が咲きますように。
小さな祈りを、願い続けていた。
fin.