05.新生活のはじまり
伯領シアフィールドは風光明媚な土地だった。
青い山脈が遠くに連なり、その麓は肥沃な盆地だ。領地を南北に貫くように川が悠々と流れている。
美しい町並みが教会を中心に形作られ、さらにその周囲に、牧歌的な農村地帯が広がる。
町と村の中間ほどに位置する、川を見下ろす三階建ての壮麗な城が、アレクシス様の居城だった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
正面玄関の前で馬車を降りると、左右にずらりと並んだ使用人たちが恭しく出迎えてくれた。
アレクシス様は、先頭に立っていた初老の執事に言った。
「ただいま、ジョンソン。実は王都で結婚した。こちらは私の妻のセラフィナだ」
私の肩に軽く手を回し、いきなりそう紹介する。
ジョンソンと呼ばれた執事は、温厚そうな顔にわずかな驚きを浮かべた。従僕や侍女たちも目を瞠って私に注目する。
だいぶ緊張しながらも、私はどうにかほほえみを浮かべながら、使用人たちを見渡した。
「セラフィナと申します。これから、どうぞよろしくお願いいたします」
私の言葉を聞くと、かれらは一斉にお辞儀をした。ジョンソンが笑顔で私の荷物を持ってくれる。
「それはそれは、ご結婚おめでとうございます。奥様、私は執事のジョンソンです。どうぞよろしく。さあ、長旅でお疲れでしょう。どうぞ中へ」
「ありがとう、ジョンソン」
奥様、と呼ばれるのをくすぐったく感じながら、私はアレクシス様の後について城の中へ入った。
温かいお茶を飲んで一息つくと、アレクシス様は、自ら城の中を案内してくれた。
一階には食堂、朝食室、居間、図書室。それぞれの部屋には、豪華な家具がしつらえてある。
大きな正面階段を上ると、アレクシス様の部屋、そこから続き部屋になっている私の部屋、たくさんの客室、衣装室、音楽室、絵画室、子ども部屋。
部屋の中にも廊下にも、これまでこの城に住んだのだろうたくさんの人たちの肖像画が飾られていて、城の歴史を感じさせる。
「そして、ここが裁縫室だ」
「……まあ……!」
アレクシス様に扉を開けてもらい中に入ると、私は思わず感嘆のため息を吐いた。
そこは夢のような空間だった。
壁一面に作りつけられた棚に、目も眩むような数の糸や布が、色とりどりにずらりと並べられている。
裁縫用のテーブルは高さの違うものがいくつか置かれ、立って作業することも、椅子やソファに座って縫うこともできる。
姿見やトルソーも置かれているし、刺繍用の道具も図案も豊富に取り揃えられていた。
「ここにある物はすべて自由に使ってくれて構わない。足りないものがあればジョンソンに言ってくれれば、すぐに手に入るだろう」
私はくるりとアレクシス様に向き直り、感激の涙を流さんばかりに言った。
「ありがとうございます、アレクシス様……! わ、私、何とお礼を申し上げればいいか……」
「……いや、契約内容に含まれていることなので、礼を言う必要はないが……」
「いいえ、本当にありがとうございます。こんなに良くして頂いてるのですもの。私もアレクシス様のお役に立てるよう、誠心誠意、形式上の妻としての役目を果たします!」
勢い込んでそう言うと、アレクシス様は、ふっと目線をそらした。
「……そうか。では、そうしてもらおう」
……あら? 私、何か気に障るようなことを言ったかしら……。
急によそよそしい態度になったアレクシス様は、「ではまた夕食のときに」とだけ言って、どこかへ行ってしまった。
✧✧✧
それから私は午後いっぱい、執事のジョンソンに使用人たちの名前や役割を教わって過ごした。
子爵家にいたときも使用人たちはいたけれど、さすがに伯爵の居城だけあって、私の実家とは段違いにその数も職種も多い。
私はさりげなくメモを取りながらジョンソンの話を聞いた。
早く皆の名前を憶えて、城を切り盛りできるようにしなくては。
「それでは、今日はこの位にしておきましょうか。明日は、城に出入りしている業者を紹介いたします」
「ありがとう、ジョンソン。明日もお願いします」
ジョンソンは私をまじまじと見つめると、穏やかにほほえんだ。
「こちらへいらしたばかりだというのに、奥様は熱心ですね。素晴らしいことです」
「そ、そんな……私はただ、アレクシス様のお役に立ちたくて……」
「おや。旦那様は、王都で愛情深い奥様を見つけられたようですね」
「…………」
違う。愛情深くなんかない。私はただの、お飾りの妻だ。
押し黙った私に、ジョンソンは恭しくお辞儀をした。
「余計なことを申しました。それでは、私はこれで失礼いたします」
✧✧✧
夕食はアレクシス様と私の二人きりだった。
「申し訳ないが、さっそく明日、厄介な親戚に呼び出されてしまった。お茶会を開くので君を連れてこいとのお達しだ。こちらに着いて早々にすまないが……」
「と、とんでもないです。喜んで参ります」
「……無理はしていない?」
アレクシス様はかすかに眉を寄せて尋ねた。
良かった、怒っているわけではないようだ。
「いいえ、全く。私もアレクシス様のご親戚にお会いしたいですし」
「私の親戚に会いたい? なぜ?」
「それは……こうしてアレクシス様と結婚できたのは、その方のおかげですから。感謝しています」
少し気恥ずかしいけれど、本心からの言葉だった。
コンラッド様との婚約解消は辛かったけれど、アレクシス様に白い結婚を提案され、実際に彼とシアフィールドへ来てみて、たとえ形式的なものでも結婚をして良かったと心から思った。
ここは本当に素敵な場所だし、アレクシス様と過ごす時間は、少しだけどぎまぎするけれど、なぜか心地がいい。
「お針子令嬢」の私がこんな過分な幸せを得られたのは、アレクシス様に結婚を命じたその親戚の方のおかげだ。……まあ、アレクシス様にとっては、いい迷惑だったかもしれないけど……。
私の言葉に、アレクシス様はなぜか顔を背けた。
横顔とフォークを握る手が赤い気がするけど、燭台の灯りのせいだろうか。
しばらくしてようやくこちらを向いたアレクシス様は、いつも通りの冷静沈着な口調で私に告げた。
「……もし彼女が君に無礼な態度を取ったら、私が十倍にして返すから」
「えっ? い、いえ、あの……お、穏便に、お願いしますね……?」
……少々不安だったけれど、こうして私はシアフィールドでの初めてのお茶会に臨むことになった。