04.領地への旅
書類を出すだけで、簡単に婚姻は受理された。
結婚式も挙げないまま、私はセラフィナ・ミドルトンとなった。
コンラッド様との婚約解消のわずか二週間後に私が別の相手と結婚したと聞いて、ミリアムは呆然とした。
「うそ……『氷の伯爵』と結婚ですって!? しかも伯爵の方から言い寄ってきたですって!? お姉様、実は結構モテるの……? そ、そんなわけないわよね、だって『お針子令嬢』だし……!」
大きな目を見開いてぶつぶつと独り言をつぶやく妹に、実はこれは「白い結婚」なの、などと言えるはずもなかった。
契約書には、この結婚が形式上のものであることは他言無用、としっかり書かれていたからだ。
それに、まだミリアムとコンラッド様に裏切られた傷はジクジクと痛み、妹の顔を見るだけでも辛かった。
私と伯爵との結婚をミリアムに羨まれても、それで傷が軽くなるということはない。
これはあくまで形だけの結婚なのだ。
ミリアムはミドルトン伯爵にしきりに会いたがり、「コンラッドと四人で食事でもしましょうよ。お祝いをさせて」と言ったけれど、そんな拷問のような食事会が開かれる前に、伯爵が私を連れて領地へ戻ることになった。
私は正直ほっとしながら、最小限の嫁入り道具だけを持って家族に別れを告げ、ミドルトン伯爵と共に伯領シアフィールドへと旅立った。
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王都からシアフィールドまでは、馬車で三日の道のりだ。
ミドルトン伯爵は、通常時は伯領にいる。今回は従僕だけを連れ、所用を済ませるために王都の別邸に滞在していたそうだ。
伯領へ戻る旅は、私を入れても三人という少人数のため、一頭立ての小さな馬車が用意された。
馬車の中は、伯爵と私の二人きりだった。
従僕は御者と並んで、外の席に座っている。
ほとんど初対面に近い、しかも今は夫となった男性がすぐ隣にいるので、私は緊張していた。
なにしろ冷酷無比と名高い「氷の伯爵」だ。
腰には高価そうな長剣を佩いているし、下手なことを言えばきっと手打ちにされる……!
けれど、ガチガチに固くなっていた私の心も、馬車が進み出すと、次第にほぐれていった。
王都から一度も出たことのない私にとって、馬車の窓から見える景色は心躍るものだったからだ。
街中を歩く人々も、郊外の家々も、広大な小麦畑も、流れゆく景色のすべてが新鮮で美しく映った。
「気分はいかがですか? 少し休憩を入れましょうか」
小麦畑を過ぎ、森の道に入ったあたりで伯爵が尋ねた。
「ありがとうございます、ミドルトン伯爵。私は大丈夫です」
窓から見える景色に夢中だった私は、彼の方を向き、笑顔を浮かべて答えた。
「……そうですか。田舎道で退屈ではないですか?」
「いいえ、全然。次々に違う景色が見られて、とても楽しいですわ」
「楽しい?」
「はい。馬車で旅をするのも初めてで、わくわくします。あのモミの木やあの小さな家を刺繍の図案にしたらどうなるかしら、糸の色は何を使おうかしら、などと考えていると……」
伯爵がこちらを見つめているのに気づくと、私は赤くなった。
「……すみません。こんな話、ミドルトン伯爵には退屈ですよね……」
「いえ、全く退屈ではありません。それよりも、その呼び方を変えていただきたいのですが」
「え?」
「アレクシスと、名前で呼んでくださいませんか?」
突然そう言われて、私は赤面した。
こ、「氷の伯爵」を、名前呼び……?
でもそう言われれば、今の私はミドルトン伯爵夫人だ。
夫をミドルトン伯爵と呼び続けるのは、確かにおかしい。
「…………アレクシス様……」
思い切ってそう呼んでみると、彼の氷のような無表情が、ほんの少し緩んだ気がした。
「……私も、あなたをサラと呼んでも構わないかな?」
「はい、もちろんですわ」
サラという愛称では、家族からもコンラッド様からも呼ばれたことはない。
みんな私のことをセラフィナと呼んでいた。
だから、アレクシス様にサラと呼ばれるのは新鮮で、少しは親しくなれたようで、嬉しかった。
馬車は少しずつ伯領へと近づいてゆき、夜になると街道沿いの宿屋へ泊まった。
部屋はアレクシス様と私、従僕と御者でそれぞれ一部屋ずつ。
私はアレクシス様と同じ部屋だったけれど、ベッドは一人一台ずつ置かれていて、夕食後は「疲れたでしょう。先に休んでいてください」というアレクシス様の言葉に甘え、ベッドに入るとすぐに眠ってしまった。
朝になって起きると、アレクシス様はいつの間に眠って起きたのか、もうベッドはきちんと整えられ、外で剣の素振りをしているようだった。
たぶん同じ部屋で私が気まずい思いをしないように、気を遣ってくれているのだろう。
明日こそは先に起きて、アレクシス様をゆっくり寝かせてさしあげようと決心した。
けれども二日目の朝も、三日目の朝も、私は同じようにすやすやと気持ちよく眠り、寝過ごしてしまった。
「……また寝坊してしまったわ……」
チュンチュンと小鳥が囀る森の中の宿で三日目の朝を迎え、隣のもぬけの殻のベッドを見つめ、呟いた。
いくらお飾りの妻とはいえ、寝過ぎだろう。
アレクシス様だって馬車の旅で疲れているのにこんなに気を遣わせて、さすがにこれはない。
彼は一昨日も昨日も、馬車の中で私に領地の色々な話を聞かせてくださった。
領地では春はイチゴが、秋はブドウがたくさん穫れて美味しいとか、野生のリスやシカをいつでも見ることができるとか、領民たちは頑固だけど根は優しいとか、眺めのいい山や渓谷があって散策旅行が人気だとか、領地のどこかに三百歳の魔女が住んでいるという伝説があるとか。
そのおかげでシアフィールドへ行くのがすっかり楽しみになっていたし、アレクシス様と一緒にいても緊張することはなくなってきた。
「氷の伯爵」と言われているけれど、アレクシス様は実際には、とても優しい人だ。
だけど、それに甘えてばかりいるわけにはいかない。
私は急いで身支度を整えると、階下に降りて、厨房の扉をノックした。
「おはようございます、アレクシス様」
宿の裏庭へ行くと、アレクシス様が素振りを終えたところだった。
腕まくりの軽装に上気した頬という姿は、いつもの氷像のように整った姿とは違い、とても人間らしく見えた。
私が声をかけると、彼は黒い目を見開いた。
「……サラ? どうしてここへ……」
「厨房でレモン水を分けていただきました。よかったら、お飲みになってください」
コップに入ったレモン水を差し出す。
アレクシス様は私とコップを交互に見て、「ありがとう」と受け取り、一気にゴクゴクと飲み干した。
「おいしかった」
そう言いながら、アレクシス様は、私にほほえみかけた。
それはつめたい氷などではなく、春の雪解け水のようにあたたかい、極上の笑顔だった。
たちまち目を奪われてしまう。
けれど、その笑顔は幻のように、すぐに消えてしまった。
アレクシス様は真剣な表情を浮かべた。
「サラ、今日の昼には領地に着くだろう。城に入れば、例の厄介な親戚が色々と言ってくると思う。だけど君は何も気にする必要はない。もしも何か困ったことがあれば、すぐに私を頼ってほしい」
「はい。ありがとうございます」
いよいよ領地へ行くのだから、彼の妻をきちんと演じられるよう、気を引き締めないといけない。
けれど、さっきのアレクシス様の笑顔を思い出すたびに鼓動が速まり、なぜか気持ちがかき乱された。