03.氷の伯爵
呆気に取られ、すぐには物が言えなかった。
……つま?
つまって、あの、妻……よね? な、なぜ??
黒髪の男性がすっと立ち上がった。
混乱している私を鋭く見据え、感情の読めない冷淡な表情で言う。
「初めまして、セラフィナ・アーチボルド様。約束もなく押しかけた非礼をお許しください。私はシアフィールド伯、アレクシス・ミドルトンと申します。以後、お見知りおきを」
「は、初めまして、ミドルトン伯爵。セラフィナ・アーチボルドと申します。お会いできて光栄です」
慌てて膝を曲げて礼をする。
顔を上げると、まだ彼は冷ややかな目つきで私を見つめていた。まるで、何かを確かめるかのように。
それにしても、怖い……美形なだけに、目力が半端ない。
「まあ座りなさい、セラフィナ。伯爵も、どうぞお掛けになってください」
お父様の一言で、私はお父様の隣に、ミドルトン伯爵は向かいの席に、それぞれ腰を下ろした。
そっと伯爵の様子を窺うと、そこには冷艶清美な氷像が座っているかのようだった。
「氷の伯爵」が噂通りの美貌の持ち主であることに、私はまず驚いた。
黒髪に黒の瞳。一分の隙もなく整った容貌。思わず見とれてしまいそうになるほど綺麗な男性だ。
それに美しいだけでなく、武芸にも優れているのだろう。
細身だけれど、ごつごつした手と筋肉のつき方から、体を鍛えていることは一目でわかる。
二十二歳という若さですでに爵位を継いでいる伯爵家当主ということもあり、冷酷無比という噂にも関わらず、貴族令嬢たちの間でミドルトン伯爵は大変な人気だ。
……そんな方が、「お針子令嬢」の私を妻に望む?
ありえない。
……詐欺……?
疑心暗鬼となった私のことなどお構いなしに、お父様は機嫌よく話し出した。
「ミドルトン伯爵は去年の王宮での園遊会の際にお前に会い、一目で気に入ってしまったらしい。そのときにはお前はコンラッド君と婚約していたが、その関係が解消されたと聞き、こうして求婚しに来てくださったというわけだ」
「園遊会……」
去年の園遊会には確かにコンラッド様と二人で出席したけれど、あのときコンラッド様はミリアムや他の女性とばかり話していた。
私はずっと一人で、たまに他の招待客と軽い話を交わす程度だったと思う。
招待客はたくさんいたので、目の前の伯爵と話をしたかどうか、自信がない。さすがに面と向かって「憶えていません」とは言えないけれど……。
でも、「一目で気に入った」なんて、どう考えてもおかしい。
私の困惑には気がつかない様子で、お父様は機嫌よく話を進めようとしていた。
「いやあ、まったくいいお話を持ってきていただいて。ちょうどうちの娘も、やむをえない事情で婚約を解消したところだったのですよ。それで落ち込んでいたのが、まさか伯爵様に見初めていただけるとは! 願ってもない話だ。なあ、セラフィナ」
「お、お父様……私は、まだ何も……」
「なんだと? お前、自分が選べる立場にいるとでも思っているのか?」
お父様がぎろりと怖い目を向ける。
たちまち私は口を噤んだ。
今までにお父様が私の意見を尊重してくれたことなど、一度もない。
ところが、足を組み、黙って見ていたミドルトン伯爵が、ふいに口を開いた。
「もちろん、セラフィナ嬢ご自身が選んでくださって構いません。お父上が選ぶのではなく」
「なっ……」
まるで鋭い氷柱に突き刺されたかのように。
お父様は自分の半分ほどの年齢の伯爵にそんな口を利かれ、赤くなったり青くなったりしていた。
私は驚いて伯爵を見つめた。
今までこんな風にストレートに物を言う貴族なんて、見たことがなかった。
伯爵は、さっきよりもやや丁寧な口調でお父様に尋ねた。
「アーチボルド子爵、大変ぶしつけなお願いですが、もしよろしければ、しばらく彼女と二人で話をさせていただいても構いませんか?」
「……ああ! これは失礼しました。もちろん構いませんよ。それでは、後はどうぞごゆっくり」
お父様はまだひきつった顔をしていたけれど、伯爵という格上の相手には逆らわないことにしたのだろう。すぐさま立ち上がった。
「お、お父様……!」
すがるように呟くと、お父様は「しっかりやるんだぞ」とでも言うような視線を私に送った。
……お父様、私を伯爵に押しつける気満々だわ。
コンラッド様と結婚して近々この家を出るはずだったのが、白紙になってまだ家に居座っているのだから、この機会を逃さずにさっさと片付いてしまえと思われるのも無理はない。
でも、いくらなんでも、ありえない位に話がうますぎるのだけれど……。
お父様が出て行って、バタン、と扉が閉まった。
応接間には私とミドルトン伯爵の二人だけになった。
おそるおそる視線を向けると、伯爵は冷然と告げた。
「セラフィナ嬢、私の申し出を怪訝に思っていらっしゃるようなので、率直にお話させていただきたい。私はこの結婚を『白い結婚』、つまり形式的な結婚として、あなたに申し込んでいるのです」
「……『白い結婚』ですか?」
今日は本当に驚いてばかりだ。
白い結婚。
愛のない、形だけの結婚。
流行りの小説や演劇の中ではよく聞く話だけど、それがまさか、自分に持ちかけられるなんて。
「その通りです。……実は厄介な親戚がおりまして、すでに私が伯爵位を継いでいるにもかかわらず、結婚すらしていない若造など絶対に当主として認めない、などとごねるのです。広大な領地の経営にはその親戚の協力が不可欠であるため、彼女を納得させるために、私には妻が必要なのです。あなたは形だけの妻を演じてくだされば結構。私とベッドを共にする必要はありません」
私はパッと顔を赤らめた。
それを見ると、伯爵もばつが悪そうに、かすかに頬を染める。
……まあ、「氷の伯爵」も赤くなるのね。ちょっと親しみを感じるわ。
「……申し訳ありません。直接的な言い方をしてしまいました」
「い、いえ……ですが、なぜ……私なのですか? あなたほどの方なら、『白い結婚』をするとしても、他にお相手がたくさんいらっしゃるのでは……」
「いえ、そのような相手などいません」
意外なほどきっぱりと言われて、思わず彼を見つめる。
すると、ミドルトン伯爵は気まずそうに目をそらし、私が思ってもみなかったことを言った。
「……セラフィナ嬢は刺繍がお好きだと聞きました。わが領地シアフィールドの城にはささやかな裁縫室があります。もしこの話を承諾していただけたなら、その部屋をあなた専用としましょう。材料も、出入りの業者にお好きなように注文していただいて構いません」
「お受けいたします」
「……失礼、今なんと?」
今度は彼が怪訝な顔で、私を見つめた。
私はもう一度、はっきりと言った。
「喜んで、お受けいたします」
「……良いのですか?」
「もちろんですわ。ありがとうございます、ミドルトン伯爵!」
思わず顔がほころんでしまう。
お城に籠って、刺繍をし放題だなんて!
こんな夢のようなお話を持ってきてくださったミドルトン伯爵と神様に感謝したい。
伯爵はそんな私に、少し戸惑ったような顔をした。
けれどそれは一瞬のことで、彼はまた氷像のような顔つきに戻っていた。
「それでは、契約成立ですね。この書類にサインをいただけますか?」
「あ、はい」
それ以上考える間もなく、伯爵が差し出した分厚い契約書にさっと目を通し、羽ペンで署名をした。
こうして私は、ミドルトン伯爵のお飾りの妻となることに決まった。