〈番外編〉厄介で愛すべきあなた
マーガレットとアレクシスがメインの番外編です。
✧✧✧ 十七年前 ✧✧✧
「大伯母さま、こんにちは」
玄関の外から、ノッカーの音とかわいらしい声が聞こえた。
マーガレットは大急ぎで煤だらけのエプロンを外し、厨房を出た。
作業中だったのだが、あの子が来たならそんなものは二の次だ。
「いらっしゃい、アレクシス!」
ドアを開けると、五歳のアレクシスが、大きな籠を持ってちょこんと立っていた。
子ども用のジャケットに半ズボンというその姿は、まさに小さな伯爵令息といった趣があって、大変愛らしい。
だが、彼の周囲に従僕の姿がない。
「あらあなた、一人でここまで来たの? 従僕は?」
「いない。急いでたから、城から走ってきた」
「まあ、何を言っているの! あなたは由緒あるミドルトン家の跡取りなのよ。五歳といえど、もっと自覚を持って行動しなければいけません!」
怖い顔をして叱ると、アレクシスはしゅんと項垂れた。
「……ごめんなさい。でもぼく、大伯母さまに早くこれをあげたかったんだ」
小さな手が差し出した籠の中には、出来立てのキャロットケーキが入っていた。
走ってきたせいか、周りが少し崩れている。
キャロットケーキはマーガレットの大好物だ。
「……あなた、これをわたくしに……?」
「うん。お母さまが、このごろ大伯母さまが元気がなくて、あんまりごはんも食べないって言ってたから……でも、だいすきなキャロットケーキなら食べられるでしょう? ぼく、料理長にお願いして、とくべつに作ってもらったの」
期待をこめたつぶらな黒い瞳が、こちらを見上げる。
マーガレットは思わず、アレクシスをぎゅっと抱きしめていた。
数か月前、マーガレットの夫のオスカー・ステイプルトンが不慮の事故で亡くなった。
残されたマーガレットには、悲しみに暮れる暇もなかった。
葬儀の手配やステイプルトン商会の仕事の引き継ぎ、遺品の整理や遺産関連の手続きなど、やることに追われて、瞬く間に時間が過ぎた。
商会の幹部たちにはぜひ次の会長になってほしいと頼まれたが、マーガレットはそれを辞退し、夫の信頼していた腹心の部下にその座を任せ、ステイプルトン商会を去った。
マーガレットには子どもがいない。
夫のオスカーもいなくなった今、一人で商会に留まることは、常に夫を思い出し喪失にさいなまれ続ける苦行でしかなかった。
夫婦二人で住んでいた屋敷も売り払い、実家であるシアフィールド城の近くにこぢんまりとした家を買った。
その家に越してきて一息ついた途端、急に自分が十も老けたような気がした。
気がついたら、気力も食欲もすっかりなくなっていたのだ。
アレクシスが訪ねてきたのは、マーガレットがこれではいけないと重い腰を上げ、以前から作ろうと思っていた魔法アイテムの開発に着手していたときだった。
「お、大伯母さま、放して……」
力いっぱい抱きしめられたアレクシスが、苦しげに救いを求める。
だがマーガレットは聞いてなかった。
「ああ、アレクシス! あなたはなんと優しい子なのでしょう! 決めたわ、わたくしの命ある限り、将来の伯爵たるあなたを徹底的に守り抜きます! もちろん領地経営についても一から叩きこんであげますからね!」
小さなアレクシスの肩をガクガクと揺さぶりながら、マーガレットは鼻息荒くそう宣言したのだった。
✧✧✧ 三か月前 ✧✧✧
「アレクシス、カールトン氏の大規模農園が放置され税収が滞っている件はどうなっているのかしら?」
「高齢のカールトン氏に代わり、他領で遊学していた息子が戻って継ぐことになりました。既に作付け計画に入っている段階です」
「それでは、西の森に魔物が出没するという情報については?」
「昨日、馬を飛ばして仕留めてきました。群れではなく単独のトロルだったので、これ以上の被害は出ないかと」
マーガレットの眉が、ぴくりと吊り上がる。
自宅のロッキングチェアに座り、呼びつけた大甥から領地についての報告を聞いているところだ。
相次いで両親を亡くしたアレクシスが、伯爵位を継いだのは去年のこと。
幼い頃からマーガレットが手塩にかけて教育してきた甲斐もあり、まだ二十一歳の若き伯爵は、やすやすと領主の仕事をこなしている。
だが。
「……あなた、王都への報告も騎士団派遣の要請もなしに、一人で魔物を倒しに行ったの?」
「一人ではなく従者を連れて行きました。報告書の提出も済んでいます」
しれっと答える彼に、マーガレットは重いため息を吐いた。
ミドルトン一族にかけられた呪いによって、アレクシスの両親は亡くなった。
そして、とうとうアレクシスの妹ロージーまでもが、呪いを発症してしまった。
一度発症してしまえば、助かる術はない。
彼が自分の命を危険にさらしたことを責めるのは簡単だ。
だが、彼の絶望をどうにかしてやることなど、マーガレットにはできない。
「報告は以上です。失礼します」
「お待ちなさい、アレクシス。お茶の用意をしてあるのよ。たまには付き合いなさいな」
「申し訳ありませんが仕事が残っているので」
瞬時に断られる。
小さな頃は、夫のオスカーを亡くし元気のなくなったマーガレットを心配して、キャロットケーキを持って駆けてきてくれるような愛らしい子だった。
それが、どこをどう間違えたのか。
見た目だけは、あの天使のような黒髪の美少年の面影を残してはいるけれど、今や「氷の伯爵」と呼ばれるほど冷淡な男に成長してしまった。
マーガレットが見守りのために遣わしているカラスも簡単に撒いてしまうし、嫁候補にと知り合いの娘や孫を引き合わせようとしても見向きもしない。
むしろますます拒絶の度合いを強めるばかりだ。
たとえ、生まれる前から死の呪いをかけられているとしても。
マーガレットは愛する大甥に、少しでも幸せを見つけながら生きてほしいと願っている。
やはり奥の手を使うしかないようだ。
マーガレットはおもむろに立ち上がり、きっぱりと告げた。
「いいえ、アレクシス。仕事をする必要はありません」
「……どういう意味でしょうか?」
「自分の命を軽んじ、家族をないがしろにする若造など、ミドルトン伯爵の名にふさわしくありません。そもそもあなたは一家の当主の重要な役目である結婚さえ、未だ果たしていないではありませんか。あなたが花嫁を見つけ、城へ連れて来るまで、わたくしはあなたを当主としては認めません!」
「一年前『アレクシス、これからはあなたがミドルトン家当主よ』と大伯母様は涙ながらにおっしゃいましたね」
「異論は一切受けつけません。早く王都なりなんなりと行き、嫁を探し出して来るのです!」
王都、と聞いて、アレクシスの表情がかすかに変わった。
もう一押しだ。
そこへ侍女のエルシーが入ってきた。
「奥様、お茶の用意ができました! あ、領主様、いよいよ王都へ行って意中の『お針子令嬢』さんに会うんですか? がんばってくださいね!」
急激に、真冬のように冷たい空気が辺りに立ちこめる。
エルシーはぞくっと背筋が寒くなり、お茶の用意をする手を止めた。
数週間前。
マーガレットは王都で「お針子令嬢」と呼ばれている子爵令嬢について、ひそかに人脈と魔法を駆使して調査していた。
どうも、アレクシスがその令嬢を気にかけ、名前を知ろうとしたような形跡があるらしい。
早く大甥の身を固めさせたいマーガレットが彼女に興味を持つのは当然だった。
エルシーも調査の手伝いを命じられていたのだが、その令嬢について勝手に調べていることは秘密だと、そういえばマーガレットに口止めされていた。
そのすぐ後で「まったく手のかかる伯爵様だわ」とか「小さい頃はあんなにかわいかったのに」とか、延々と吐き出される愚痴を聞かされ続けたために、秘密だという点はすっかり頭から抜け落ちていたのだが。
エルシーはおそるおそる顔を上げた。
アレクシスとマーガレットは、互いに無表情のまま、氷の海で対峙するシロクマとセイウチのようにガンを飛ばし合っている。
「あっ、いけない! 火の始末を忘れていた気がするので、あたし見てきます!」
逃げるようにエルシーは部屋を飛び出した。
その後どんな話し合いが持たれたのか、彼女は知らない。
✧✧✧ 現在(収穫祭前日) ✧✧✧
「おはようございます、マーガレット様。お加減はいかがですか?」
「ありがとう、サラ。わたくしは大丈夫よ」
「大伯母様、怪我をしたというのは……」
「おおげさね、アレクシス。転んで手を擦りむいただけよ」
昨日、マーガレットは町の有力者による収穫祭の最終打ち合わせに出た後、例年のように皆で行きつけのパブへ行き、酒盛りをした。
その帰り道で、珍しく転倒してしまった。
夜中に泥まみれのドレスで帰ってきた主人を見て、そそっかしいエルシーは、大慌てで急を告げるカラスを城へ飛ばした。
けれども実際は手を擦りむいただけだったので、城から救助隊が押し寄せては大変と、マーガレットが急ぎ別のカラスを遣わせ「何も心配いらないので来るな」と伝えたのだった。
それなのにこうして朝早くから夫婦でやって来たのは、優しいサラが心配したからに違いない。
アレクシスはマーガレットの手に巻かれた包帯を見て顔を曇らせている。
どうせまた自分への非難の言葉が飛び出すのだろう。
年甲斐もなく酒を飲むのはやめろ、とか。
だが、サラは意外なことを言った。
「昨夜から、アレクシス様はマーガレット様のことをそれは心配していらしたのですよ。真夜中にお一人でご様子を見に行かれて……」
「サラ」
制止の響きを伴って名を呼ばれても、かわいらしい新妻はにこにこしている。
あのアレクシスが、サラの前では冷たさの欠片も感じさせない。
少し困ったように妻に向けた視線は、むしろ春の日差しのように温かかった。
などと冷静に観察しつつも、嬉しさがこみ上げてくる。
心配して様子を見に来てくれていたとは。
やはり、優しい子ではないか。
「……心配をかけてしまったようね。わたくしもこれからは、飲酒を控えることにするわ」
「驚きましたね。『シアフィールドのうわばみ』と謳われた大伯母様が、そんなことをおっしゃる日が来るとは」
「まあ! マーガレット様はお酒にとてもお強いのですね!」
「お待ちなさいアレクシス。わたくし、一度もそんな名で呼ばれたことはなくってよ? サラもいちいち信じるんじゃありません」
やはり、この大甥はかわいくない。
さっさと追い払おうと思ったところで、アレクシスが尋ねた。
「ところで大伯母様、明日のご予定は? もしよろしければ、私たちと一緒に収穫祭へ行きませんか?」
マーガレットは目を皿のように見開いた。
アレクシスはいつものように無表情だ。
サラは笑顔で見守っている。
思わず、ふわっと華やいだ気分になった。
アレクシスが成長してからは、一緒に収穫祭へ行くことなど、ぱったりとなくなった。
マーガレットは町の重鎮として開催に関わりつつも、収穫祭当日はこの家に一人で引き籠って、遠くの祭の喧騒を聞きながら魔法薬の材料をいじっているのが常だったのだ。
それがまさか、昔のようにアレクシスから誘ってくれるなんて。
これもサラの力なのだろうか。
この優しげな女性が、いともたやすく大甥の冷え切った心を解かしてしまったことに改めて驚きながら、マーガレットはもったいぶって答えた。
「……そうねえ。わたくしはとても忙しいのだけれど、あなたがそんなに言うのなら、一緒に行っても構いませんよ」
「それはそれは、光栄至極に存じます」
ひねくれた言葉を交わしながら、つんと澄ましたマーガレットの口の端には、小さな笑みがこぼれていた。