14.追いつめられて
ミリアムが城にやって来た翌日。
私は来月に迫った収穫祭の相談のために、侍女を連れてマーガレット様の家を訪れていた。
「……では、そのように取り計らうわね」
「よろしくお願いいたします」
話を終えて帰ろうとした私を、マーガレット様が玄関で呼び止める。
「あら、わたくしったらうっかり忘れるところだったわ。あなたたちのためにニシンのパイを焼いたのよ。持っていってちょうだい」
「まあ。ありがとうございます、マーガレット様」
エルシーがバスケットに入ったほかほかのパイを持ってきて、私の侍女に渡してくれた。
城への道を歩いていると、マーガレット様に聞き忘れていた事柄があったことに気がついた。
重いバスケットを持っている侍女を付き合わせるのも悪いし、せっかくのパイが冷めてしまうので、彼女だけ先に城へ帰ってもらった。
一人になった私は、急いでマーガレット様の家へ取って返す。
少し歩いたところで、背後からガサッと音がした。
振り返ろうとした途端、後ろから誰かに抱きすくめられ、手で口をふさがれる。
「っ!!」
足をバタバタさせてもがいても、私を拘束する腕はびくともしない。
そのまま、道から少し離れた古い納屋へ連れ込まれてしまった。
✧✧✧
土の匂いのする薄暗い納屋の中で待っていたのは、意外な人物だった。
「……コンラッド様!?」
コンラッド様は、包帯の巻かれた右腕を肩から吊るしていた。
痛々しい怪我を目の当たりにして、私の胸がつきりと痛む。
けれど、そのコンラッド様が、私をここへ引きずり込んだ従者に「お前は外を見張れ」と命令した。
どう考えても、まともな用件ではない。
そもそも私をここへ連れて来た方法がまともではないし、夫婦ではない男女がこんな場所に二人きりという状況も非常識だ。
必然的に、声が強張る。
「……私に何のご用ですか? ミリアムはどこにいるのです?」
「つれないな、セラフィナ。俺と君の仲じゃないか」
笑顔でそんなことを言う。
前はあんなに好きだった笑顔が、今はうわべだけのものにしか見えないことに、自分でも驚いた。
だけど、今はとにかくこの納屋を出なければ。
「コンラッド様、私をここから出してください。早く城に帰らないと、皆が心配します」
「へえ? だけど、君の刺繍の才能に気づいた『氷の伯爵』が、結婚と称して君を囲っているだけなんだろう? それとも、ベッドもあいつと一緒なのか?」
頬がかっと赤くなった。
コンラッド様がニヤニヤしながら私の顎に左手をかけ、強引に上を向かせる。
「かわいいなあ、セラフィナは……なあ、俺ともう一度やり直さない?」
「何を……言っているのですか?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。
やり直す? 何を?
「ほんと、ミリアムには嫌気が差したよ。文句ばかり言って、ちっとも俺の役に立とうとしない。《魔力譲渡》だって思ったほどじゃなかった。これなら君の魔除けの刺繍を持っていた方が、ずっとましだったよ。でもその刺繍入りのスカーフだって、結局君から取り戻せなかったしさ。ぎゃあぎゃあ喚くばかりで役立たずなんだよな、あいつ。だからさあ、先に一人で王都へ帰らせたんだ。うるさいのがいなくなって、ほっとしたよ。これで君とゆっくり会えるし」
笑いながら、私の機嫌を取るような調子のいい言葉を並べる。
けれど、私の心は急速に冷え込んでいった。
きっと彼はミリアムに対しても、こんな風に私の悪口を言っていたのだろう。
コンラッド様は、流行りものや華やかなものが好きだ。でも、飽きたらすぐにポイっと捨ててしまい、見向きもしなくなる。
私にくれるプレゼントも、そのとき人気のある派手なものばかりだった。
そういえば、婚約していたあいだ、私の好みを聞かれたことは一度もなかった。
もしも王都に虹色の刺繍糸が売っていても、それを私に選んでくれることは、きっとない。
婚約していたときは、私とは違い華やかで軽妙洒脱なコンラッド様に憧れて、彼の言うことにはなんでも従っていたから、こうした違和感を見過ごしていた。
けれど、距離を置いた今なら、彼の別の面がよく見える。
「……コンラッド様、あなたはミリアムを選びました。私も今はアレクシス様と結婚しています。いまさらそんなことを言われても、遅すぎます」
「じゃあ、俺、ミリアムとは離婚するよ。やっぱりセラフィナの方がかわいいし、尽くしてくれるし。君と再婚する。それでいいだろ?」
私は絶句した。
その沈黙を勘違いしたのか、コンラッド様がにじり寄ってくる。
「セラフィナもまだ俺のこと好きなんだろう? 俺もやっぱり、君の方がいいなって。意地を張っちゃうのもわかるけどさ、君は優しいから、許してくれるよな?」
「……そうではありません。私は、」
「あー、もうわかったから」
少し尖った声で言い、納屋の壁との間に私を挟みこみ、左手を壁に勢いよくついた。
ドン、と耳元で音がして、私は体を震わせた。
今まで感じたことのない恐怖が、足元から這い上がってくる。
怪我をしているとはいえ、コンラッド様は男性で体格もいいし、騎士なので今も帯剣している。
私はどうしたって敵わない。
けれど、私が彼の意のままになるということは―――私はもう、アレクシス様の妻ではいられなくなる、ということだ。
アレクシス様の笑顔が、優しい声が、脳裏に浮かぶ。
失いたくない。
絶対に。
「……やめてください。お願いです。ここから出してください」
「そんなに恥ずかしがるなよ、君の気持ちはわかってるから。あの伯爵は、戦場で俺を義理の弟だって気づいてたのに冷たく見捨てた、血も涙もない男なんだ。どうせ、君のことだって見向きもしないんだろう? 君を利用するだけのクズ男なんて放っておいて、楽しく遊べばいいさ」
その言葉は、恐怖にすくんでいた私の心を奮い立たせた。
自分のことなら、どれだけ侮辱されたって耐えられる。
だけど、アレクシス様を悪く言われることだけは、我慢ができない。
私は勇気を振り絞って顔を上げた。
「……アレクシス様は、お優しい方です。あなたのことも心配していましたが、小隊の指揮を取っていたため、助けられなかったことを悔やんでいました。私にも、とても良くしてくださいます……アレクシス様を悪く言うことだけは、やめてください」
コンラッド様から、すっと笑顔が消える。
「だからさ、そういうのはもういいって。せっかくこの俺が、こんな田舎までお前に会いに来てやってるんだぜ? もっと喜べよ」
顎を強引に押さえつけられて、彼の唇が近づく。
「いやっ!!」
私は思い切り両手を前に突き出した。
その手が包帯に当たり、コンラッド様が悲鳴をあげる。
「いてえっ!!」
「あっ……ごめんなさ……」
彼の目つきが、凶暴なものになる。
けれど、逃げようにも背後は壁だ。
足が震えて動かない。
怖い。
強い力で腕を掴まれる。
「やめて! 誰かっ……助けて!!」
「こんなところに誰も来ねえよ。いいか、お前は俺のものなんだ。お前の居場所はこんな田舎じゃなく、王都の俺のそばだ! ……そんな顔するなよ。正しい場所に戻るだけなんだからさあ!」
「っ、……っ!!」
違う。
心臓がばくばくと暴れ、呼吸が苦しい。
否定しようとしても恐怖で声が震えて、うまく言葉にできない。
だから、どこかが壊れたような笑みを浮かべるコンラッド様に、私は何度も首を横に振った。
ほんの二か月前までは、確かにコンラッド様の隣が私の場所だった。
けれど今、彼の隣にはミリアムがいる。
そして、それ以上に。
今、私がいたいと思う場所はたった一つだ。
シアフィールドに。
アレクシス様のそばに、いたい。
他のどこにも行きたくない。
けれどコンラッド様は笑ったまま、強引に私を抱き寄せた。