あなたの記憶に、私はいない。
【プロローグ】
ザーザーと音を立てながら降り注ぐ雨を、体育館の窓から眺めていた。
履き心地の悪い新品の上履きで、トントンと固い床を叩いてみたり、足を揺らしてみたりする。
「入学式って、あんまり面白くないんだなぁ」
つぶやきを聞いていた、まだ知らない隣の男の子が、うんうんと頷きながらこちらを見ていた。
母と手を繋ぎながら、体育館の入り口を出る。
じめじめとした空間からようやく解放された。
若干の肌寒さを感じながらも、解放感から深呼吸をする。濡れた土や葉の匂いが、鼻腔を満たした。
渡り廊下を歩きながら、左隣の母を見上げる。
「下駄箱、あっちだから! 靴に履き替えてくる! ママは待っててね!?」
母に伝えて、下駄箱へと戻る。慣れない下駄箱はどれも同じに見えて、自分の番号が見つからない。
「どこだっけ~?」
顔をぐるりと回しながら、あっちこっちと探していた時、昇降口近くの桜の木の下に、女の子が見えた。
「どうしたのかな……? ママと、はぐれちゃったのかな?」
女の子の行動が気になって、僕は下駄箱を探すことも忘れた。目を凝らしてみてみると、どうやら桜の木ではなく、足元の何かをじっと見ている。木々の隙間からこぼれる滴に打たれていた。
心配になった僕は駆け寄った。驚かさないために、程よい距離から声をかける。
「濡れちゃうよ? 大丈夫?」
「えっと、えっと……」
女の子は絞り出したような声で反応する。もじもじして、何か言いたげだった。
女の子の目線の先を見ると、そこには毛むくじゃらで、にょきにょきと歩く毛虫がいた。
「あっ、毛虫さんだ!」
木の下に落ちてしまったのだろうか。女の子は、毛虫を怖がっていたのだろうか。僕にはよくわからないまま、右手ですくうように毛虫を拾い上げた。
「え!? 君、毛虫なんか触って大丈夫なの!?」
「うん、大丈夫だよ!」
僕は拾い上げた毛虫を木に戻して、両手を合わせて祈った。
「ちゃんとおうちに帰れますように……! ママとパパのところにちゃんと戻れますように」
横を見ると、一緒になって手を合わせる女の子の姿があった。
「もう大丈夫だよ。さぁ、ママが心配しちゃうよ? 帰ろう?」
僕は女の子に伝えた。女の子はボーっとこちらを見て、なぜか、僕にも手を合わせる。変な子だな、と思いながら、僕は迷宮の下駄箱へと戻った。
ザーザー降りだった雨はいつの間にか弱まっていた。
薄い雲をすり抜けるように、お日さまの光が辺りを照らしている。
学校初日に上履きを泥だらけにした僕は、母親にこっぴどく怒られた。
入学式の翌日、集団下校のため一年生全員が体育館に集まる。
僕と彼女だけは、上履きではなく、スリッパを履いていた。
【陽だまりのコッペパン】
僕は晴れが好きだ。どこまでも澄み切った青空、その空を泳ぐ綿あめのような雲。生暖かくて、心地よく頬を撫でていく風。乾燥した空気の匂いと、青々とした草花が鼻孔を満たす。思い出しただけでも、ワクワクしてしまうくらいには好きだ。
「晴れないかなぁ……」
窓の外の分厚い雲を眺めながら、僕はため息と一緒にぼそっとひとり言をこぼした。
「晴れないよ。むしろ明日の夕方からは、土砂降りらしいよ……?」
後ろの席からコソコソと、幼馴染みの夏穂が答える。
こんなにも憂鬱な気分だというのに、受け入れたくない現実を突き付けてくるところが夏穂らしい。学年でも一番可愛いと人気の彼女にからかわれると、胸の上の辺りがむず痒くなって、いつもと反対の事を言ってしまう。何かあるごとに僕にちょっかいをかけてきて、煩わしさもある。
「十年に一度クラスの大雨だってさ……」
十年という言葉を聞いて、僕は肩を落とした。僕たちの年齢とほとんど同じじゃないか。想像するだけで憂鬱になってきて嘆息した。
後ろの席から、可愛らしい声でクスクスと聞こえてきた。
「さようならー!」
残った元気を振り絞って声にした僕は再び着席し、すぐ横を通り過ぎる友達数人に「また明日」と笑顔で伝える。
たった数分もしないうちに、教室はしんと静かになった。担任の先生は教卓で何かを書いている。近くに誰もいないことを確認した僕は、机の中を覗きこむ。袋に入ったコッペパンを取り出し、サッと手提げ袋に放り込んだ。
「あ!蒼くん、いけないんだ!」
僕の心臓がドクンと跳ね上がった。聞き心地の良い声は、すぐ後ろから聞こえた。振り向くと、夏穂がこちらをみて笑みを浮かべていた。
「シー……!」
立てた人差し指を鼻に当てて、口元を大きく横に開いた。よりにもよって、こんなところを夏穂に見つかってしまうとは。今日一番の失態だ。
教卓の方をちらりと見て、僕は鬼のような形相で、夏穂に静かにするよう訴えかける。そんなのお構いなしと言わんばかりに、にたにたと笑う彼女。丸くて小さな顔を傾けながら、僕をじっと見つめる。
「そっかそっか、それじゃあ、仕方ないよね~?」
夏穂は立ち上がり、僕の反応を楽しむように、先生の方に歩みを進めた。
「分かった!話すから!先生に言うのだけはやめて!」
声を押し殺しながら、そして叫ぶような声で言った。慌てて夏穂の腕を掴んだ。さっきまで僕にいじわるをしていたかと思えば、今度は嬉しそうに振り返った。
「それじゃあ、帰りながら話を聞こうじゃないか。一緒に帰ろうね、蒼くん♪」
夏穂はくりくりした目の片方だけを閉じて、ウインクして見せた。
「…………」
夏穂と一緒に帰ると、次の日、男友達から馬鹿にされることがあるため、僕はちょっぴり不服だった。僕の顔をじっと見た夏穂は、再び教卓に向けて歩き出した。
「ごめんなさい!夏穂さま!一緒に帰らせてください!」
「分かればよろしい」
夏穂は満面の笑みを浮かべた。
学校から出る前に、どうにか夏穂を撒くことできないかと想像する。普段から授業を適当に受けている僕、提出物をきっちり出して先生たちからの心証を得ている夏穂。
これ以上、何も文句を言わない方がよさそうだと観念した。
歩幅が狭くなる僕とは対照に、夏穂は鼻を鳴らしながら、意気揚々と先に教室を出た。
「で、どこに行くの?」
「んー……とりあえず、ついてきて」
今度は僕が先に歩いた。すぐ後ろからは鼻唄が聞こえてきた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今にも雨が降り出しそうな灰色の雲。雨の匂いは、まだ感じられない。
僕たちは学校を後にして、通い慣れた帰り道を歩いた。学校から伸びるまっすぐな田舎道を歩いて、一つ目の十字路を右に曲がる。このまましばらく歩けば、そのうち自宅が見えてくるが、僕たちは途中の畦道を曲がった。
道中、隣を歩く夏穂は色々な話をしていた。今日の図画工作で作った貯金箱のことや、僕より先に進んでいるという漢字ドリルのこと。体育のドッジボールで、僕が最初に当てられたことを言われた時は、耳がジワジワと熱くなって、ちょっぴり早歩きになった。
「ねぇ……蒼くんは好きな人とかいるの?」
突然の質問だった。隣を歩く夏穂が、勢いよく僕の方を向く。さらりとした長い黒髪が鞭のように右頬に当たった。
「え!? 好きな人!? えっ、そ、それより、髪がほっぺたに当たってびっくりしたよ……!」
自分でも動揺が隠せていないことが分かった。右頬をぽりぽりと掻きながら、答えになっていない言葉を返した。
「えへへ、ごめんごめん」
顔をくしゃっとさせて笑う夏穂をみて、僕の鼓動が早くなった。夏穂の横顔をみていると顔がじわじわと熱くなってきて、それがばれないように急いで前を向いた。
好きな人だって? そんなことを突然言われても、答えられるわけないじゃないか。
心の中で呟きながら、前を向いて歩き続ける。
「私はね、いるよ。蒼くん♪」
僕の右耳に、吐息が当たるくらいの距離で夏穂がコソコソと耳打ちをした。
「わぁ!え、びっくりした!」
目を合わせられないくらいに動揺した。顔どころか、耳まで熱くなった。それを隠すように早歩きになり、夏穂の前に出た。
「も、もう少しだよ、ついてきて」
後ろからは、女の子らしく笑う、可愛い声が聞こえてきた。
草が足にぶつかってきて、ふくらはぎが痒くなる。その度に爪で引っ掻き、靴下を上げなおした。目線の高さまで伸びる草をかき分けながら進む。ふと、竹の香りが鼻をかすめた。
「そろそろだよ。この竹やぶを抜けた先なんだ」
見上げると、どこまでも伸びる竹やぶ。ところどころ陽光が差し込んでくる。足元にはごつごつとした竹の根っこが、うねるように地面を這っている。夏穂に気を付けるよう促した。自分でも転ばないように気を付けながら奥へと進み、そのまま竹やぶの出口へ。
「まぶしいね……!さっきまでは曇っていたのにね」
夏穂はおでこに手を当て、目を細めながら言った。
「こっちだよ!」
僕は雲が晴れて、太陽の光が差し込んでいることが嬉しくて、元気な声で言った。早歩きになりながら、夏穂を先導する。こんもりと葉をつけた大きな木。その下に、その生き物がいた。
「わぁ……! かわいい!」
僕たちの足元には、丸くなってこちらを見ている子猫がいた。
僕は足音を立てないようにして近付いて「大丈夫だよ」とささやく。子猫も反応するかのように、目を細めて一鳴きし、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
「僕のことが、分かるのかい?」
子猫の頭を手の平で包み、親指の側面でおでこを軽い力で撫でる。子猫は目を細めたまま、気持ちよさそうに体を預けてきた。よほど心地良いのか、どんどん体重をかけてくる。
「待ったかい?」
手提げ袋から、つぶれて不格好になったパンを取り出した。袋を開けて、小指の爪くらいに小さくして、子猫の口元にそっとあてがった。
子猫は甘えるような声で鳴いた後で、ひまわりの花のような、お日さまの匂いを振りまきながら、僕の手からパンを食べ始めた。
「蒼くん、この猫ちゃん、どうしたの!? 捨てられちゃったのかな? あ、でも、しっぽにリボンも付けてる……! 飼われてるのかな?」
夏穂が静かな声で、次から次へと質問してくる。
「最近、散歩をしている時に、たまたまここを見つけたんだ。ずっとこの場所にいるんだよ」
僕は続けて伝える。その時は、今よりももっと弱っていて、たまたま持っていたパンをあげたこと。心配で毎日見にきていること。ここ最近、給食を少し分け与えていたことなど。
「やっぱり? ちょっと変だと思ってたよ。昨日の給食だって、チーズを隠してたもんね」
夏穂にはバレていたようだ。僕は自分で思っているよりも、隠すことが下手なのかもしれない。次からはもっと慎重にならねば、と心の中でつぶやいた。
「私がチーズ好きなの知ってるでしょ? 蒼くんの分も、もらおうと思ったんだよね」
「僕だってチーズ好きなんだ。夏穂にはあげられないよ」
「え~、蒼くんのケチ~!」
夏穂は口をとがらせて、僕の横からぶーぶーと言った。
「ところでさ、お母さん猫とか、いないのかな?」
夏穂が僕の右手からパンをさりげなく奪い、代わりに子猫に与える。
「僕もそれは思ってたんだけど、この子、ずっと一人みたいなんだよね」
「ふぅ~ん、そうなんだ」
パンを半分ほどあげたところで、子猫の食べるペースが極端に遅くなった。夏穂はパンを袋に戻しながら、子猫の頭を撫でる。
僕たちを照らしていた太陽の光が雲で陰り始めた。
「よし、遅くなっちゃうし、そろそろ行こうか」
子猫にもまた来ることを約束する。
「また明日、来るからね」
「じゃあ、私も~!」
僕たちは猫の頭を一緒に撫でた。二つの手で撫でられる子猫は、ずっと目を細めて、気持ちよさそうにしていた。
夏穂の柔らかい手が、僕の右手と触れるたびに、心がざわついて仕方なかった。
帰り道、夏穂の好きな人が誰なのかずっと考えていて、会話はほとんど上の空だった――。
【柿崎 夏穂】
「はぁ……つまらないなぁ」
夏穂は牛乳パックの蓋を開けながらつぶやいた。
いつもだったら、隣に座る蒼くんにちょっかいをかけているのに。今日は朝からもぬけの殻。もしかして、学校を休んで、昨日の猫ちゃんのところにでも行ってるのかな。
「まさかね……?」
ふと昨日の給食のことを思い出して、私は飲み始めた牛乳を吹き出しそうになった。
周りを見渡して、そろりそろりと机にパンを入れる隣の彼。どうにも可笑しくて、こみ上げる笑いをこらえるのが必死だった。すぐに声をかけようとしたが、あまりに深刻そうな顔をしてパンを隠していた彼。思い出すだけで口角が上がりそうになる。
でも、あの猫ちゃんのため……。
私は周りを確認する。そしてこみ上げてくる可笑しさと、罪悪感を抑えながら、コホンコホンと乾いた咳をして、給食のリンゴゼリーをそっと机の中に入れた。
悪いことをしているのだけど、ちょっぴり温かい気持ちになった。
学校を終えると、わたしは一目散に畦道へと向かい、竹やぶを抜け、ひらけた場所に向かった。こんもりと葉をつけた大きな木があり、その足元には昨日の子猫が……。
「あれ……!? いない……」
確か昨日、蒼くんは「ずっとこの場所にいるんだ」って、言っていたと思うけれど。
「猫ちゃ~ん! 猫ちゃ~ん! 蒼く~ん!」
流石にいないと分かっているけど、もしかしたらと期待を込めて呼んでみた。蒼くんの名前は、ただ呼びたい気分だった。
草木しかない空間に、私の声だけが一人寂しく霧散した。右手に持っている手提げ袋を覗き、ティッシュにくるまれたリンゴゼリーを見つめた。
この場所にいても、今にも雨が降り出しそうだし、とりあえず帰ろうかな。
「あ……! そういえば、今日は十年に一度クラスの雨が降るって……!」
早く猫ちゃんにゼリーをあげたい一心で、学校に傘を忘れてきたことを、今さら思い出した。
「傘は忘れるし、猫ちゃんはいないし……早く帰らなくちゃ、ママが心配しちゃう」
そうだ、帰る前に蒼くんの家に寄っていこう。もしかしたら、雨が降るからって、猫ちゃんを連れて帰っているかもしれないしね。蒼くんと猫ちゃん、どっちにも会えるかもしれない。
「これは……一石二鳥だね!」
この間、国語の授業で覚えた四字熟語を唱えてみた。
今にも雨が降り出しそうな灰色の雲とは裏腹に、私は軽やかに踵を返し、彼の家へと向かった――。
「ピンポーン!」
左腕を顔より高く上げて、インターホンのボタンを押す。向かいにある自分の家と同じインターホンに親近感がわく。カメラに自分が映るように少し下がってみる。
あんまりカメラに近づくと、よく見えないってお母さんに言われるもんね。蒼くんに会ったら、何を話そうかなぁ。まずは、給食を持ち帰ると、悪いことをした気持ちになるねって伝えようかな。
カメラと玄関ドアを交互に見つめるも、うんともすんともいわない。
「んー……誰もいないのかなぁ……?」
もう一回鳴らそうかと考えたが、迷惑になってしまったら、と思って左手を下げた。私は、向かいにある自分の家へと歩き出した。蒼くんと子猫ちゃんに会えると思って舞い上がっていた心が、まるでジェットコースターのように急降下していく。
バリバリバリバリ――――!
「キャッ!」
心臓が跳ね上がる。激しい稲光の音に驚き、思わず下を向いて、耳を抑える。忘れかけていた悪天候。自然がもたらした音の激しさに、私は持っていた手提げ袋を落としてしまった。急いで拾い上げ、すぐ正面に見える自宅へと走った。
ぽたぽたと降り始めた大粒の雨が、アスファルトを黒く塗りつぶしていく。次第に強まる雨は、すぐにザーザー降りになった。
自宅玄関の庇まで避難し、蒼くんの家の方向を振り返って気付く。手提げ袋を落とした拍子に、リンゴゼリーがアスファルトに投げ出されていた。
「あ~もう、最悪……!」
全てが上手くいかないことに腹が立ち、一瞬そのままにしてしまおうかとも考えた。玄関を開けて、すぐのところに置いてある別の傘を差してから取りに行けば済む話だったが、煮え切らない感情が悪さをして、私は濡れながら戻った。
私はリンゴゼリーを拾い上げた。腹の底から沸々と、怒りにも似た何かを感じる。
もしかしたら、このぐちゃぐちゃになった感情を洗い流してくれるかもしれない。淡い期待をしながら、降りしきる雨に濡れたまま、茫然と立ち尽くした。
だが、やるせなさは雨と一緒に流れていかなかった。
「蒼くんのバカ……」
熱くなる目頭を雨が伝っていく。
ささやかな抵抗として、大好きな人のことを精一杯、罵ってみた――。
【満身創痍】
私は、いつから、ここにいるのかな。意識があるような、ないような、不思議な感覚がする。
手と足は……よし、動きそう。体は……起き上がりそうにない。顔も……起こせそうにない。草の匂いが漂っている。これは何千、何万と嗅いだ匂いだ……。
「グゥゥゥ……」
お腹の底から鳴るような、鈍く重い音が静かに響いた。
「お腹、空いたなぁ……」
私の頭の中は、空腹感に支配された。
「お腹が空いたというよりも、むしろ気持ち悪さすら感じる……。水たまりを探しながら、全力でたくさん走った後のような、そんな気だるさと気持ち悪さだわ……」
私の頭上には、こんもりと葉をつけた大きな木がある。擦れる葉の隙間から、キラキラと陽の光が差している。
「目を開けていることにも、疲れてきたなぁ……。体全身が重くて、お腹が減り過ぎて気持ち悪い……。それに今度は、手の先から……どんどん……寒さを感じる……」
「大丈夫かい?」
この声は……人間の、男の子かな。逃げなくちゃいけないのに、体が言うことを聞かない。
「いま、とても眠いの。そっとしておいてよ……」
私の言葉とは裏腹に、少年は口にグイグイとパンを押しつけた。
なんだろう、いい匂いがする。これは、食べたことがあるような食べ物、そんな気がする。でも人間はいつ何をしてくるか分からないから。今だって、もしかしたら罠かもしれない。
「ほら、お食べ?」
何かこっちに話しかけてるみたい。
「まって……無理やり口を開けないでよ。人間なんかに、体を触らせたくないんだから。あぁ……でも、すごくいい匂いがする……」
「君も一人なのかい? 僕も一人なんだ……」
頭が……温かい。私は、撫でられているの……かな? 人間に頭を触られたのは、いつぶりかな。あぁ……頭がぽかぽかしてくる。おでこから耳の後ろにかけて、何度も往復する、やわらかい人間の手。くしゃくしゃになった毛を綺麗にしてくれてる……。
「ほら、食べてごらん?」
この人がくれる食べ物なら……食べても大丈夫かもしれない。
私は口を開いた。ぎこちなく、ゆっくりと咀嚼する。そして、柔らかい何かを喉へと運び、静かに体の底へと押し込んだ。
私の体を包んでいた寒気が少しずつ引いていった。
「やぁ、昨日置いていったパンは、っと……食べられたみたいだね。よかったよかった」
昨日訪れた人間の声がする。かすかにいい匂いもする。この人は……私の命を助けてくれた人だ。昨日はよく見ることができなかったけど、よく見るととっても可愛らしい顔をしてるのね。でも、私の体は泥だらけに汚れて、毛並みだってゴワゴワ。生き延びたところで、行くところもない。また苦しい思いをするなら、いっそ、そのままにしておいてくれたらよかったのに……。
「今日はね、これを持ってきてみたんだ。食べられるかなぁ……?」
普段嗅ぎ慣れている草の何百倍もいい匂いがする。噛めば噛むほど味がする。これは、なんていう食べ物なんだろう……。
「今日はお水も持ってきたからね。僕の茶碗、パンダのキャラクターが書いてあって、ちょっぴりダサいよね。本当は新しい茶碗が欲しいけれど、わがまま言えなくてさ……」
猫は、朝露以来の水分を、舌ですくい上げて、何度も、何度も口に運んだ。
「ゆっくり飲んでいいからね」
こんないい食事、いつぶりだろうか。それよりも、この人は昨日も、今日も来てくれた。食事は美味しくて、温かい手で撫でてもらえる。今日だって、もう何度も撫でてもらえた。体の毛並みまで整えてもらっちゃった。
生きてることって、こんなに幸せだったっけ?
「さて、そろそろ行かなくちゃ。僕のお茶碗が無くなっちゃったら、パパに何を言われるか分からないから、持って帰るね。また明日」
何かを話しかけてくれてるんだけど……なにも分からない。
「あぁ、お水美味しかったよ。ありがとう」
また明日も、来てくれたらいいなぁ……。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ん? 今、遠くの方で何かが聞こえた気がする。きっと、あの人だ!
「こっちよ、こっち……!」
「わぁ……! かわいい!」
初めて嗅いだ匂い、初めて聞く声だ。今日はいつものあの人と、もう一人いる。人間の女の子だ。顔が整っていて、とてもかわいらしい。
「僕のことが、分かるのかい?」
あぁ……このお日さまのような優しい手。もっと、もっと撫でて欲しい……。
人間の男の子は、あの柔らかくて美味しいふわふわを取り出した。小さくして、そっと口に入れてくれた。
女の子がさっきからあの人に向かって何度も言ってる言葉は、名前かしら……? そう、くん?
あら、今度は女の子がくれるの? でもあの人と一緒にいるってことは、きっと悪い人じゃないのかな。
二人に頭をすりすりと撫でられた。
とても心地よい……。生きててよかった。ありがとう、女の子。ありがとう、そうくん。
心地良い気温、ひげが感じ取るふわりとした風、頭を撫でられる優しさに包まれながら、私は眠ってしまった。
バリバリバリバリ――――!
私は大きな音にハッとして、眠りから覚めた。この音は……空から落ちるひかりの音だ。相変わらず、すごい音。こういう時は、大抵すごくいっぱい水が降ってくる……!
体を起こして、空を見上げる。木々の隙間をぬって、大粒の水がぽたぽたと落ちてきた。
濡れるのは嫌だけど、喉も乾いたし、たくさんお水を飲んでおかなくちゃ。
遠くから物音がする。
「誰かきた……! 隠れなくちゃ!」
「お~い! お~い!」
この声は……そうくんだ!
「そうくん、こっちよ!」
「よかった……! いれくてれよかった」
「そうくん、待ってたよ!」
「色々あって、僕はもうここに来られないかもしれないから。最後に君に会って、お別れを言わなくちゃと思ったんだ。ちょっとまってね」
大きなカバンから、あの入れ物を取り出した。
「そうくん、ありがとう。これでゆっくりお水が飲めるわ……!」
「この茶碗、君にあげるね。あ、あとこの傘もあげる。飛ばされないように、石で固定しておくからね。それじゃあ……」
なんだか、すごく哀しそうな顔をしてるそうくん。どうしたのかしら。こんなに目を真っ赤にしてるそうくんは初めて見た……。撫でてくれる手も、今日はすごく冷たい……。
「元気でね……」
撫でるのは、もう終わり? もう少し撫でて欲しいなぁ。
私は目を瞑って、頭をそっと預ける。
あ、それとも次は体を撫でてくれるのかしら。そうくんにだったら、特別に足先も、しっぽだって触らせてあげるんだから。あれ……でもいま、どこかに行ってしまいそうな顔をしていた気がする。
「そうくん……?」
私は目を開けた。けれど、彼の姿はどこにもない。
バタン!!
遠くで聞いたことがある音がした。この音は、空から落ちるひかりの音じゃない。
動く箱の音だ……!
私は何度も転びそうになりながら、全速力で竹やぶを抜け、彼が通ってきたであろう、草の道を跳ねながら進んだ。
あれは見たことがある。人が出たり入ったりする、動く箱だ。
ブロロロロ――!
この音は苦手だ。頭がガンガンする。でも今はそれどころじゃない……!
そうくんの声をもう一度聞きたい。もう一度、頭を撫でてもらいたい。もう一度、あの柔らかくて優しい雰囲気に包まれたい。
「待って! そうくん……!」
私は必死に追いかけてみたものの、どんどん早くなる動く箱には、到底辿り着けなかった。
私は、きっとまた、ひとりぼっちになった。
そして、明るいと暗いが三回ほど訪れた。
「ここは、どこだろう……」
箱を追いかけてきたけれど、全く分からない場所に来てしまった。帰り道も分からない、あるのは硬い道だけ。足の裏がジンジンと痛む。
「疲れた……ここで、少し休もう……」
かろうじて見つけた草の上。もう何かを考えることに疲れた。こんなことなら、生き延びるんじゃなかった。たくさん撫でて、綺麗にしてもらった毛並みがぐしゃぐしゃだ。
でも、あのお日さまよりも温かい、そうくんに会いたい。もう体は限界だけれど。
「お母さん……」
力ない声で母親を呼んでみた。もうこの世にはいない。随分と昔、目の前で交通事故に遭っている。
「そういえば……お母さんは、神様がいて、一つだけ願いを叶えてくれるって、よく私に教えてくれていたっけ……」
最後の力を振り絞って、藁にもすがる思いで神様に願う。
「あぁ……神様……どうかお願いします」
もう、声に出ているかも分からないけれど。
「最期のお願いです。もう一度、そうくんに会わせてください……お願いします……」
【紺野 夢】
「お茶が入ったよ、降りてきなさい」
階段の方向からしゃがれた声が聞こえてきた。僕は祖父に届くよう、力強い声で答える。
「今行くねー!」
金曜日の学校から帰ってきた僕はぐったりとして、そのまま部屋のベッドでくつろいでいた。片耳にしているイヤホンを外して、ポケットにしまう。立ち上がって、窓の木枠を引くと、キィィィ――! と蝶番が悲鳴を上げた。潮風で開いてしまわないよう、ねじ式のカギを差し込み、クルクルと閉める。
この変わった鍵には、引っ越してきた当初、随分と困らされた。僕が知っていた鍵とは形が異なり、開けたはいいものの、閉めることができなくなって、祖父を呼んだことは懐かしい。
でも、立て付けが悪いみたいで、こうしてカギを閉めていないと、時々勝手に開いてしまうのがキズだ。
「これで、よし」
お日さまの匂いが染みついた読みかけの本にしおりを挟んだ。階段の半ば頃、コーヒーのかぐわしい匂いが漂ってくる。
最後の一段を下りて、部屋の中央にあるテーブルへと足を運ぶ。アンティークを思わせる椅子を引きながら、祖父のふくよかな背中に、降りてきたことを伝えた。
時計を見ながら椅子に腰をかけ、時間がゆっくりと流れる空間を噛みしめた。
この十帖程の部屋は、多くの物で溢れかえっている。セピア色のペンダントライト、金色に模様が縁取られている戸棚、西洋を彷彿とさせる花瓶。どれも祖母が好きで集めたものだそうだ。
今も目の前のテーブルには、分厚い本が乱雑に重ねられていて、その向こうには心地良いリズムを刻む置時計がある。この置き時計を見ながら、何度うたた寝したことだろうか。
「お待たせしたね」
祖父は言いながら、お茶を二人分よこした。
「ありがとう」
丸型のおにぎりのような輪郭で、いつも気難しそうな表情をしている祖父。ふさふさと生えた逆ハの字のまゆ毛が気難しさを強調している。最近はよく老眼鏡をかけている。レンズの向こうには少し垂れた目尻とつぶらな瞳。ぷっくりとした頬と、くっきりとしたほうれい線が、どこか愛らしい。
本当は、僕も一緒にコーヒーを飲みたいところだが、あの顔が歪みそうになる苦みというか酸味が、どうにも好きになれない。そんなことを思いながら、二人分のお茶の一つを、隣の椅子の前に置く。
「おばあちゃんの分、だね」
「うん、ありがとう」
祖父は先立たれた祖母の分も、お茶を入れているそうだ。僕が引っ越してきた頃はお茶を淹れていなかったと思うけど、もう毎日のことで、だいぶ慣れてしまった。
「そうやがうちに来てから、もう十年以上経つんだねぇ」
祖父は僕のことを「そう」ではなく、なぜか「そうや」と呼ぶ。
「もうそんなに経つんだっけ?」
「あの時、そうやから泣きながら電話がかかってきて、びっくりしたもんだよ」
おでこにたくさんのシワを寄せて、やんわりと笑う。
「あぁ……そうだったっね」
もう何度もされている話。小学生の頃の話をされると、胸の辺りがむずがゆくなる。湯呑みに刻まれている模様を指でなぞりながら話を聞く。
「急いで車を出して、そうやを迎えに行って……。次の日には、パパとママにも説得してみたけれど、そう上手くはいかないもんだねぇ」
コーヒーの湯気を浴びながら、祖父は言った。
「最近、どうしてるか聞いてる?」
年々薄くなっている祖父の髪をぼーっと見ながら聞いた。
「少し前に聞いた話だと、今は家の中でも別々に暮らしていて、他人のようだって言ってたねぇ」
「ふぅ~ん、そっか」
あの日、僕は両親が喧嘩を始めて、ひどく泣いていたことを覚えている。何度止めても無駄で、母のスマホを勝手に使って、祖父に電話をかけた。泣きじゃくる僕に驚いた祖父だったが、すぐに駆けつけてくれた。あれから、両親には会っていない。
「良かったのかい? パパとママのところじゃなくて」
「うん、良かったよ。今だからこそ言えるけど、正直、新しいお父さんには、どうしても、慣れなかったんだ」
ウチの家庭は、よくある再婚同士の家だった。当時、母は昼も夜も働いていて、それが申し訳なかった。新しく父親ができることで、母の大変さを回避できるならと思い、僕は自分の本心を腹の奥底に閉まって、笑顔で許可していた。今思えば、失敗だったのかもしれないけど。
「おじいちゃんには、本当に感謝してるよ。いつも、ありがとう」
「うん……それなら、よかった」
祖父はメガネを外し、眉間をつまみながら鼻をすすった。
「うちへ向かう途中も、そうやは心残りがあるって……何度も……」
祖父が話す途中、遮るように言葉を発した。
「お茶、ごちそうさま。散歩してくるね」
祖父が一人で思う存分泣けるよう、僕なりに気遣ったつもりだ。湯呑みを片付けて、玄関へと向かう。
「いってらっしゃい。気を付けて行くんだよ」
後ろから聞こえてきた優しい声は、少し湿っていた――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
玄関を出て、小さな石の階段を降りる。庭の飛び石を踏みながら、舗装された道路へと出た。
ボーーーーウ!
強い海の風が全身を包み込んだ。上着を持ってこなかったことを少しだけ後悔した。
鼻唄を歌いながら、ポケットに閉まっていたイヤホンを取り出し、大好きなアーティストの音楽をかけた。ポロンポロンと、アコースティックギターのアルペジオが耳に流れ込む。
今度はひんやりとした潮風が優しく頬を撫でた。海苔のような甘さと、生魚のような塩気を含んだ匂いを吸い込み、体に染み込ませる。鼻から吸った息を、今度は吐いてみる。お茶の香りが鼻の内側をかすった。
ふと、僕の真横をスゥっと何かが通過した。その動きに合わせて、素早く振り向く。
「え……! 帽子!?」
潮風に晒されながら、ふわり、ふわりと風に乗る帽子を追いかけた。背の高い草の中へと入りながら、夢中で手を伸ばした。
「ようやく捕まえた……!」
若干の達成感に包まれながら、手元へと目をやる。控えめなリボンを付けた、こげ茶色のハットを握りしめていた。いわゆる「ジェントルマン」のようなイメージの帽子だ。
「お~い……! 青年~!」
視線の先には年配の男性がいた。手にハンカチのような何かを握りしめ、ゆっくりと、ぎこちなく歩いてくる。今にも足がもつれそうだ。
「もしかして、これ……!」
大声を出し、必死に捕まえた帽子を大きく掲げた。いかにも「紳士」の男性に小走りで駆け寄った。
「ハァ……ハァ……。青年……ありがとう……」
「いえいえ、大したことないですよ。それより、大丈夫ですか……?」
僕よりも少し背が低いおじさんの背中を、優しく撫でた。
「ハァ……。ありがとう、もう平気だよ」
「よかったです。えっと、これ……?」
帽子を見せながら、首をかしげてみせた。
「そうそう、ありがとう……! それにしても、すごい風だった。あっという間に帽子が飛ばされてしまったよ。本当に、ありがとう」
「いえいえ!」
おじさんは目を大きく開けて、僕の体をまじまじと見つめる。
「すまない。君に怪我をさせてしまったね……!」
「え……?」
言われてみると、体のあちこちがピリリとした。細い針で刺してしまったときのような静電気のような。自分の体を見てみると、腕や肘、くるぶしから小さく出血していた。
「あ、えっと、いえ! 全然、大丈夫ですから!」
なんて伝えればいいか、うまい言葉が見つからず、しどろもどろに答えた。でも、怪我の度合いは本当に大したことなかった。今夜のお風呂が、少しだけ億劫になるくらいだ。
「すまないね。今夜のお風呂は少し染みるだろうが……ガッツで乗り切っておくれ」
考えていたことをそのまま言い当てられて、僕は目を丸くした。ポカンと口を開けてしまっていることに気付き、とっさに口を閉じた。
「えっと、今、僕の考えを読まれました?」
おじさんは目尻にしわを寄せ、優しい口調で答えた。
「いやいや、私もよくそういう傷を作ったもんで。家内がまだ生きていた頃、うちでは猫を飼っていてね……慣れてくれるまでは、毎日お風呂が憂鬱だったよ」
「なるほど……猫を飼っていらしたんですね。猫って、可愛いですよね」
「わたしは昔、犬の方が好きでな? 最初は反対していたが、飼ってみると、これがどうにも可愛いもんでの? しかし、家内を追いかけるように逝ってしまってね……」
おじさんは目を細めて、夕焼け色に染まりだした雲を見ながら言った。
「おっと、いかんいかん。年を取ると、話が長くなってしまって困る。引き止めてしまって悪かったね」
「とんでもないです……! 奥様と、飼われていた猫ちゃん、きっと今頃、一緒に楽しく過ごしていますよ」
「ありがとう……」
返事がそっけなく、余計な事を言ってしまったかとも思ったが、声が震えているのが分かった。
おじさんの横顔を眺める。あごをあげて、目を細め、藍に染まりゆく夕焼け雲を見つめていた。
「では、また、どこかで……」
「あ、はい! また!」
頭を深々と下げた僕はそそくさと踵を返した。数歩だけ歩いたところで、気になっておじさんの方を振り返る。
背筋をピンとしたまま、空を見上げるおじさん。帽子を胸元に両手で大切そうに持ち、体ごと茜色に染まっている。目尻に刻まれた笑いじわから耳たぶにかけて、一筋の、繊細な光が伝った。
そのさまは、とても「絵」になっていた。
僕はその光景に目を奪われた。
年を取るなら、あの不思議で、温かな雰囲気を纏ったおじさんになりたいな。今はまだ似合わないかもしれないけど、いつかハットも買いに行こう。色はやっぱり、こげ茶色に決まりだ。スマートにジャケットを着こなすためには、今よりも少しだけ体を引き締めないとだな。
暗くなり始めた道を、すたすたと歩く。
「今日はお夜食は大丈夫だよ」
帰ってから祖父に伝える言葉を、こっそりと練習してみた。ひとり、はにかみながら、軽い足取りで歩き始める。
一人分の足音だけがほんのりと響く。誰もいるはずのない海岸沿いの道で、聞きなれない声が聞こえた――。
「おや……しょく……?」
僕の心臓は「ドクン!」と跳ね上がった。目を大きく開いたまま、足が止まった。
今の声は、僕のものではない……。
下を向いたまま動けない。すぐ横、左隣に、誰か……いる?
恐る恐る目線を上げていく。
自分が履いている古びたスニーカー。
視界はゆっくりと左に……左足と舗装された道路……。
さらに視界を上げていく。
色白な、素足……?
これは、なんていうんだっけ。そうだ、お化け? 幽霊? え、でも、どうして僕のところに?
ちぐはぐとした思考が絡まる。
生まれてこの方、僕は心霊の類には一切関係がなかった。
ドクン! ドクン! 心臓の音が大きくなる。静まれ……! と、心の中で唱える。呼吸を、落ち着かせなくちゃ。寒いのか、暑いのか分からない。喉の奥がキュッと狭くなる。
そんな僕に追い打ちをかけるかのごとく、左耳に冷たい息がかかった。
「見えて……ます……か……?」
緊張の糸がプツンと切れた。
「ひぃあ!!」
自分でも聞いたことがない奇声を上げてしまった。
一度たりとも振り返らず、家まで跳ねるようにして戻った。途中、心臓が胸板を突き破って、外に飛び出してしまうかと思った。
バタン!!
ドアを閉める両手は、力加減ができていなかった。祖父が慌てて玄関へと駆けつける。
「そうや!? どうした!?」
「ハァ……ハァ……いや、うん……全然……ハァ……大丈夫だよ」
「海にでも入ってきたのか!?」
「ハァ……ハァ……。海……?」
下駄箱にかけてある長方形の細い鏡で、自分の姿を確認する。
そこには、髪、顔、シャツまでびっしょりと濡れた自分が立っていた。
「とにかく、着替えを用意するから! お風呂に入っちゃいなさい!」
「わ、分かった……!」
靴を脱いでいる最中、祖父はタオルを持ってきてくれた。髪を拭いたものの、履いていた黒いスキニーパンツとスニーカーは、全く濡れていなかった。
そそくさと浴室へと入り、かけ湯をして湯船につかった。
まだ鼓動が大きく聞こえる。
「さっきのは、なんだったんだろうか……」
色白で、か細い素足。目に焼き付いてしまった。思い出すと、また胸がざわつき始める。
入り口側を向いていたが、外と繋がる小窓のある方へ向き直した。
「ふぅ……」
窓を視界に収めつつボーっとしながら、肩までゆっくりとお湯に浸かった。
祖父に心配かけてはいけない。お風呂を出たら、しゃきっとしよう。さっきのことは夢を見ていたことにでもしよう。無理があるかもしれないけど。
あれやこれやと考えていると、腕、肘、くるぶしがピリピリとしていることに気付いた。
男性との出会いを思い出して、ほんの少しだけほっこりした。
「猫、か……」
小さい頃のことを思い出す。
「夏穂、元気かなぁ……」
何も伝えずに引っ越してきたこと。もしかしたら怒っているだろうか。いやいや、もうとっくに僕のことなど忘れてしまっただろう。
お湯から両手を出して、じっと眺めてみる。
突然、祖父の声が聞こえてきて、僕の肩が一瞬跳ねた。
「お夜食の焼きおにぎり、作っておいたから、部屋に行く前に持っていくんだよ」
「はーい! ありがとう!」
完全に忘れていた。「お夜食大丈夫だよ」だなんて、一人で練習していたことを思い出して可笑しくなった。
「ダイエットは明日からにしよう」
風呂場から声が漏れないようにつぶやいた。
その日は自分でも驚く程に早く寝付いた。祖父が昼間に布団を干しておいてくれたのだろうか、お日さまのような優しい香りがする。
普段よく見る夢も見ずに、朝までぐっすりと眠った――。
【たった一瞬の再会】
「見えて……ます……か……?」
私はそうくんに、そう聞いた。喜ぶ私とは裏腹に、そうくんは変な声を出して、走っていってしまった。遠くで「バタン!」という大きな音がした。
無事に帰れたかな? 私も帰らなくちゃ。
「でも、ようやく……見えた……!!」
胸の高まりが抑えきれず、夜が落ちてきた道端で、右手で小さくガッツポーズをした。
私が人としての生を受けてから、もう随分と朝と夜を繰り返した。人間の生活にもだいぶ慣れた……つもりでいる。
「走るそうくんも、格好良かったなぁ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
十年程前、私の命の灯は尽きかけた。
その日は朝から雨が降っていたけれど、空は明るかった。
私は、体が冷えきる前に、何度も何度も神様に願った。
「あぁ……神様……どうかお願いします」
「最後のお願いです。もう一度、あの人に会わせてください……」
強く願っていた私の体はふわりと浮いた。温かな光のような、オーラのようなものに体を包み込まれた。
これは死の世界なのかな、と全てを諦めた。
「あの人に会いたいのですか?」
なんだろう、この頭の中に直接語りかけてくるような。不思議な感覚だった。
どうにでもなれ、と思いながら答えた。
「はい、会いたいです」
「分かりました。けれど、条件があります」
「条件? なんでしょうか……?」
「それは……」
気付いたら、私は草の上で丸くなって寝ていた。
それからの日々は苦痛だった。嗅覚を頼りに、そうくんの後を少しずつ追いかけたけれど、いくら歩いても辿り着かなくて、匂いもそのうち消えてしまった。
人間にはなれたものの、そうくんには会えない。他の人も冷たくて、私のことを相手にはしてくれない。たまに青い帽子と、黄色い棒を持った人にも追いかけられた。自慢の逃げ足で逃げ切ったけれど。
あくる日もあくる日も、微かに残る匂いを辿って、なんとかここまでたどり着いた。
数年は経っていたのかな? やっとの思いでそうくんを見つけた。
けれど、そうくんに無視され続けた。
あんなにも優しく私を撫でてくれていたのに。
しばらく一緒に過ごして気付いた。そうくんは無視していたのではなくて、そもそも私のことが視えていないってことに。いつか視えるようになるかもしれないって思って、ずっとそばにいる。
外の風を浴びたくて、勝手に窓を開けたこともあった。置き時計を見ながら、一緒にうたた寝したこともあった。
そうそう、おじ様には私のことが見えていて、ちゃんとお話もできる。人間について色々と教えてもらった。もちろん、そうくんの子供の頃の話も。
おじ様はすごく優しくて、私にもお茶を淹れてくれる。そうくんに変に思われないように、おば様にって言いながら。名前もおじ様が付けてくれた。おばあちゃんと似ている名前らしい。
「私も、おば様に会ってみたかったなぁ……」
そうくんを驚かせてしまった後、私も同じ家に帰った。そうくんの寝顔を眺めて、椅子に腰かけながらつぶやいた。
「おじ様を泣かしたまま散歩に行ってしまうから、あの後、頑張って慰めたんですよ?」
でも、ようやくそうくんに自分の姿が見えた。言葉をかわせた。
明日になったら、たくさん褒めてもらわなくちゃ。これまでのたくさん、これからのたくさん。朝から晩まで話し合いたい。
「そうくん……。大好きです」
私はそうくんを起こさないように、布団にそっと入った。横を向いて、少し丸めている温かい背中に寄り添った。
「そうくんの方が猫みたいですね……?」
そうくんの服の裾をキュッと掴みながら、私も眠りについた――。
カタカタ……カタカタ……。
窓枠が笑う。カーテンからまぶしさが零れ落ちる。コーヒーの香りがどんどん強くなってくる。
「そうくん、おはようございます……」
張り付いたように開かないまぶたをこする。
布団にいたのは、私一人だけだった。
私は悟った。昨日は奇跡が起きただけで、今までと何も変わらないのだと。
「やっぱり……まだ……視えないですよね……」
布団に入ったまま、昨晩、確かにガッツポーズをした右手のこぶしを眺めてみた。
両の目から、大きな滴がぽたぽたと流れ落ちる。
窓から入る隙間風を受けて、濡れた顔がツンと冷えた。
私は、体中の水分がなくなるまで泣いた――。
ひとしきり泣いた後、私は気だるそうに起き上がった。短い時計の針は、ほとんど真上を指していた。元々、人ではなかった私は、猫の時の名残なのか、未だに夜行性だ。夜中や夕方の方が体の調子がいい。だから朝はよく眠る。というよりも、朝に窓から入る日差しが心地よくて、何度も寝てしまう。
「猫の時の名残です、そう、きっとこれは猫の時の名残であって、決して私がだらしないとかでは……!」
ひとり言をつぶやく。暖かい日差しに照らされて、まぶしくて目をつぶる。そのままボーっとしていると、だんだんと布団に吸い込まれる。
「はっ! ダメです! 寝ちゃいます!」
私は起き上がって、両方の頬を軽くパンっと叩いた。
窓から外を見下ろすと、おじ様が洗濯物を干していた。フローラルの香りが隙間風に乗って部屋へと忍び込んでくる。
この体の性質上なのか、私の性格なのか、お風呂に入るのが億劫に感じる。でも、そうくんに嫌われてはいけないので、毎朝入るようにしている。
「いい加減に起きなくては……」
そうくんの部屋の窓を勝手に開ける。ねじ式のカギをクルクルと回し、引き抜いた。この動作は、もう指が覚えている。キィィィという音を立てながら、窓を開く。庭で洗濯物を干すおじ様に手を振る。
「おはようございま~す!」
「あぁ、おはよう。よく眠れたかい?」
「はい! とっても!」
笑顔で手を振り、私はベッドメイクに取り掛かる。そうくんは知らないだろうけれど、ベッドを綺麗にしているのはおじ様ではなく、私なのだ。部屋の空気を入れ替えて、ベッドを綺麗にする。
「これで、よし!」
大好きな人の生活を支えるのは、私にとっての生き甲斐でもあった。それが例え気付かれないことでも。そうくんがベッドに寝転がって、『布団が気持ちいいなぁ』と少しでも思ってもらえれば本望だ。
一階へと降りて、サンダルを履いて外に出た。おじ様の洗濯物を干す手伝いをする。こうしておじ様の生活を手伝うことも、生き甲斐の一つだった。
「おじ様、今日は一段とお天気がいいですね」
「そうだね、近々雨が降るらしいから、きっと雲たちは準備をしていて、忙しいのかな?」
「まぁ! 雲さんたちも大変なんですね!」
私はこうして、日々おじ様から人間界について教えてもらっている。
「そうやには、やっぱり言ってはいけないのかい?」
「またその話ですか~? ダメったらダメです! そうくんには、自分で思い出してもらいたいのです!」
おじ様は眉間にシワを寄せて、納得いかない顔をしている。
私が許可を出さないのは、神様との約束があったからだった。条件を付けるような意地悪な神様だから、ズルをするときっと何かしらの試練を与えてくるに違いない。
そうくんが子どもの頃、おじ様には私のことを話していてくれたみたいで、それを覚えていてくれたからよかった。おじ様にも、誰にも見えていなかったら、私はずっと孤独だっただろう。
「さて、今日はどんな方法でそうくんに思い出してもらおうかなぁ~!」
日差しを体全体で浴びながら、大きく背伸びをした。
「そうくん、早く、会いたいです」
きっとこの空の向こうに流れているかもしれない流れ星に、願いを込めてみた――。
【進路とコーヒー】
テスト期間から解放されて、お昼での下校が許される最高のひと時。しかし、せっかく心地よい気温の中、僕は机の上に置いた紙とにらめっこしていた。
目の前にある用紙の上段には大きく「進路相談」と書いてある。進学か就職か選んで丸を付けて、理由を書き、担任の先生に提出しなければいけない。
なんとなく過ごしていた高校生活だったが、気がつけば三年が経とうとしていた。
「今日までか……。いきなりそんなこと言われてもなぁ……」
この用紙は一か月ほど前に渡されていて、今日が提出期限だ。
僕がまだ小学生の時に両親は再婚していて、新しい父親は経済力もあるそうだ。今も学費などは出してもらっている。ただ、実際の父親ではない分、これ以上は甘えられない。
何も考えずに「進学」という文字に丸をつけていた友達が心底羨ましくなってきた。
「今は学歴社会、せめて通信の大学でも通っておくといいぞ。あんまりお金がかからない大学もあるから、見てみなさい」
先生から言われた言葉が、頭の中をグルグルと駆け巡る。通信制の大学が数多く掲載されている小さな冊子をペラペラと捲りながら、大きなため息をついた。
「これと言って、夢があるわけでもないしなぁ……」
小学生の半ば頃からずっと育ててきてくれた祖父に、少しでも楽をさせてあげたい気持ちが後押しして、僕は「就職」に丸を付けた。
職員室の引き戸を開けると、体中がコーヒーの香りに包まれた。担任の先生は不在だった。持っていた小さな用紙を先生の机に置いた。机にあったシンプルな付箋に「よろしくお願いします。紺野蒼」とだけメモ書きをして職員室を後にし、学校を出た。
学校は高台にあり、正門を出ると見渡す限りの家々が望める。視線を伸ばしていくと山の稜線がかすんで見える。
僕は両手のひらを思いっきり空に掲げ、大きく背伸びをした。学校を終えた解放感に包まれながら、腹の底から声に出した。
「さぁ、帰ろう!」
意気込みながら坂を下っていく途中、聞き慣れた音が聞こえてきた。ブロロロ、とエンジンの重低音を響かせる主は、バスだった。
「あ! ヤバイ! 急がなくちゃ!」
坂を走りながら、風のように駆け下りる。バスに間に合ってくれ、と心の中で何度も叫びながら。距離にして、まだ百メートル以上はある道のりを必死に走った。しかし、願いは虚しく、誰も待っていないバス停を通り過ぎて行った。
肩を落としながらバス停まで辿り着いてみたが、どうやら次のバスは十五分後。僕は諦めて、徒歩という手段を選んだ。
ワイシャツの胸ポケットからイヤホンを取り出し、スマホで大好きな音楽をかける。軽快なリズムに誘われ、足取りが軽くなった。
「よし、とりあえず次のバス停まで歩こう……!」
追い風に押されながら、あっという間に次のバス停に辿り着く。
予想はしていたものの、次のバスはまだまだ来ないようだ。
「気分も乗っているし、もう少し歩こう」
車用道路と歩道の分岐点。普段、バスに乗っている時は大通りへと向かう道だが、近道になる予感がして歩道を選んだ。
少し進むと、徐々に景色が変わっていく。その光景に僕は思わず息を飲んだ。
歩道はテラコッタタイルや石だたみが程よく配置されていて、視界に入る建物は白、黒、茶色を基調とした統一感のある色合い。いわゆる「エモい」、「お洒落」などと表現される街並みだ。
こんな道があったことを、今まで知らなかったのが勿体ないくらいだ。疲労感はあるけれど、良いこともあるもんだ。
綺麗な街並みを目に焼き付けながら、整備された歩道を歩く。ふと、焼き立てのパンのような香りが鼻をかすめた。コーヒーのような、チョコレートのような甘い匂いもする。
「進路について頭を使ったし、たまには贅沢して、甘い物でも食べてから帰ろうかな」
イヤホンを外し、匂いにつられるように路地へと入る。突き当たりには、小さな喫茶店があった。
青々とした蔓が、店の入り口を包み込むように覆っている。入り口付近に置いてある黒い立て看板には「レトロプリンあります」という文字と、可愛らしい絵が描いてあった。
小腹が空いている僕に、入らないという選択肢は無かった。
立て看板を通り過ぎて、入り口にはこげ茶色の木製の扉が待ち受ける。少しメッキが剥げた金色の取っ手を、ゆっくりと押す。内側に付けられたベルが、カランカランと心地良い音を立てた。
「いらっしゃいませ」
扉から手を離し、正面を見る。程よい高さのカウンターがあり、その向こうには男性が立っている。僕は思わず目を丸くして、背筋をピンと伸ばした。
そこに立っていたのは、帽子を拾ってあげた、あの「絵になる紳士」だった。
紳士のおじさんは目を細め、口角を上げてニコリと笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あの、この間は、どうも!」
紳士のおじさんを前にした僕は、驚きのあまり適当な挨拶をしてしまった。
「いえいえ、こちらこそ。あの時の青年だね、また会えて嬉しいよ。さぁ、よかったらそこにかけておくれ」
紳士のおじさんはハの字の白いまゆ毛を下げて微笑みながら、僕を席に案内した。五脚設置されているカウンター席のうち、入り口からすぐ、一番左側の席に座った。
「ありがとうございます」
座りながら、僕はおじさんとの先日のやり取りを思い出して、ふと頭を見た。
屋内では、さすがに帽子は付けていないか。
髪はほとんどが白髪だが、長さが整えられていて清潔感がある。ところどころ黒髪が残っていて、妙なお洒落さを感じる。
「帽子かい? さすがに屋内では外しておるよ」
目線で考えていることがバレてしまったようだ。前にも似たようなことがあったと思いながら、僕は声を出さずに笑って見せた。
おじさんもそれに呼応するように、またニコリと笑ってくれた。紳士感を漂わせる白い口ひげが愛らしい。
「コーヒーは、飲めるかな?」
「あ、はい! 大丈夫です」
「そうかそうか。では、マスターのわたしから君に、渾身の一杯を捧げるとしよう」
「ありがとうございます」
よそよそしさ全開な僕は、コーヒーが飲めると、とっさに嘘をついてしまった。こういう時、自分のコミュニケーション能力の低さにモヤモヤする。
特に何もすることがない僕は、テーブルに両肘をついて、マスターの慣れた手つきを眺めていた。
マスターは注ぎ口が細いコーヒー用のポットをコンロに置いて、カチカチと音を立てながら火を点けた。キャニスターの蓋を開け、小さな木のスプーンで豆を取り出した。手動のミルに豆をコロコロと落として、同じリズムでゴリゴリと取っ手を回す。カウンター越しにコーヒー豆の香りが漂ってくる。
うちの祖父とは、また違うリズムだ。
「青年よ、名前はなんて言うんだい?」
下を向いて豆を挽きながら、問いかけてきた。
「蒼です、紺野蒼と言います」
マスターは手を止めて、目を見開き、僕をじっと見つめる。
「えっと、何か……?」
名前を名乗っただけで驚かれる経験はあまりなく、思わず聞いてしまった。
「いやいや、すまんね。あぁ……そうか。君が、蒼君だったか」
微笑みながらマスターは言った。
僕は首を傾げながら理由を聞こうとしたが、カタカタカタカタ、と小刻みに鳴るコーヒーポットの蓋に防がれてしまった。
なんとなく反応に困った僕は、壁際にある大きな本棚を眺めてみた。大小さまざまな本が並べられていて、最上段にはブリキのおもちゃのような、小物が並べられている。
ふと、本棚の横に飾られている絵が気になった。額縁に大切そうに入れてある絵には、女性と猫が海辺を歩く様子が描かれている。下側の両端から伸びるように、フレームのように描いてある向日葵がまた芸術的だ。青空、雲、海、どれも色鮮やか、かつ陽の光まで緻密に表現されている。
「あの、この絵、すごく綺麗ですよね。有名な画家の方が描いてるものですか?」
コーヒーの粉をフィルターに落としながら、マスターも壁の絵を見た。
「蒼君は嬉しいことを言ってくれるねぇ。その絵は、わたしが描いたものなんだよ」
「え! マスターさんが描いたんですか!?」
僕は驚いて、マスターの顔と絵を繰り返し見た。
「昔から絵を描くのがちょっとした趣味でね。そうそう、店の立て看板の絵も、わたしが描いたものなんだよ」
「あ、見ました! 可愛らしいプリンの絵が描いてありました」
「可愛らしいプリンか、褒めてくれてありがとう」
マスターはコーヒーを淹れる手を止めて、カウンター横から店内に出てくる。そのまま店の外へと出ていった。
困った僕はただ入り口を見つめていると、外から立て看板を持ってきた。
「ほれ、裏にも」
「わぁ……! 裏にはコーヒーと猫の絵が描いてあったんですね。これも可愛いですね」
「はっはっは、ありがとう。人間、六十年も生きていると、色々なことができるようになるものだよ」
マスターはカウンターに戻り、笑顔のままコーヒーにお湯を注ぎ始めた。
家で感じている匂いとはまた違う匂いだ。豆が違うのだろうか。詳しくはないが、ほんのりと甘い香りがしてくる。
ドリッパーの中心にゆっくりとお湯を注ぐと、粉たちがプクプクと白い泡を立てながら膨れ上がった。同時にジリジリと微かな音が聞こえてくる。湯気が立ち、さっきよりも香りが強まってきた。
僕がじっと見つめていることに気付いたマスターは目線をこちらに向けた。コーヒーを淹れる音だけが存在する、静かな空間が心地良い。
マスターはニコリとしながら下を向き、再びお湯を注いだ。サーバーにコーヒーがぽたぽたと落ちる。それは徐々に一本の筋のように垂れ落ち、色がほんのりと薄くなっていく。
「ところで、蒼君はお悩みごとでもあるのかな?」
突然の言葉にハッとした。この人は、いわゆるエスパーなのではないかと、心の中で思った。
「悩み事、なくも、ないです……」
進路先のことで悩んでいるだなんて、あまり会ったことがない人に話していいものかと考えた。
「先日のお礼にと言ってはなんだが、わたしでよければお聞かせ願えるかな?」
マスターはコーヒーサーバーを揺らして中身をかき混ぜ、いつの間にか温めていたコーヒーカップに注いだ。
「もちろん無理にとは言わないが、よく知らない相手だからこそ、話せることもあると思ってね」
一滴の泡も浮かんでいないコーヒーを差し出しながら僕に言った。まるで、心を見透かされているような気持ちになった。
「確かに……一理ありますね」
「おっと、よければその前にコーヒーを一口どうぞ。冷めてしまうと、味がまた変わってしまうからね」
「そうですね、ありがとうございます」
カップの持ち手に指を引っ掛け、ゆっくりと口へ運ぶ。そっと息を吹きかけて表面を冷まし、静かに吸うようにして一口、また一口と迎え入れた。
「あれ!? 美味しい……!」
心の声が前面に出てきて、とっさに失礼なことを言ってしまった。
「はっはっは。もしかしたら、蒼君はコーヒーが苦手なのではないかと思って、普段店で出しているものとは違うブレンドに変えてみたんだ」
「え! まさか、バレてました……?」
苦笑いしながらマスターを見上げる。
「すぐに分かったよ。コーヒーが飲めるか聞いたら間髪いれずに返事をして、淹れている間もどこか複雑な顔をしておったよ?」
この短い時間に、ここまで見抜かれているとは。マスターに隠し事はできないと悟った。
「でも、これすごく美味しいです!」
「そうかそうか。それは深めに炒ったマンデリンとブラジルという豆をブレンドして、苦みや酸味を抑えつつ、甘みを引き出しているんだよ」
「なるほど……」
「では、このトリュフチョコを食べて、もう一度飲んでごらん?」
桜の形をした薄灰色の小鉢に、まん丸なトリュフチョコが数個乗っている。持っていたカップをソーサ―に置き、その中の一つをつまみあげて、口へと運ぶ。
口の中のほのかな苦みとコーヒーの香りが、ココアパウダーと混ざり合う。噛んでみると、とろっとしたチョコレートが中から溢れ出て、カカオの甘い香りが鼻から抜ける。
僕はもう一度、コーヒーが飲みたくなった。再び表面に息を吹きかけて冷まし、ズズッと音を立てて口に含む。
まるで、口の中をコーティングしているカカオの甘さの壁を、コーヒーの苦みがそっと剥がしていくような感覚を味わった。鼻から抜けるチョコレートとコーヒーの香りは、より深くなっていた。
「美味しいです……とっても」
「それはよかった。ほんの少しの幸せを噛みしめながら、日々を過ごす。そうして人は大人になっていく」
窓から入る陽の光を浴びながらマスターは言った。
「蒼君、よかったら、ウチで働かないか?」
思ってもみない誘いだった。ソーサ―にカチャッと音を立てながらカップを置く。
「君の人となりに、わたしも惚れ込んでしまったよ。もちろん答えを急かすわけじゃない。ゆっくりと考えるんだよ?」
これから、就職先について悩みを打ち明けようとしていた僕の口は、ずっと、小さく開いていた。
それから僕はマスターと話した。バスに乗り遅れて、歩いていたらここまで辿り着いたこと。進学か就職か悩んでいて、就職する方針を選んでいたこと。幼少期から、家庭の事情で祖父に育ててもらっていること。
マスターは時々、目尻にしわを寄せながら「そうかそうか」と優しい返事をしてくれた。
西からの日差しが店内を包み込む。あまり長居しても迷惑になってしまうと思い、そろそろ帰ることにした。
「マスター、色々とありがとうございました。働くことについて、前向きに考えさせてください」
「そうかそうか、それはありがとう」
「あの、お会計っていくらですか?」
僕はズボンの後ろポケットから、折り畳みの財布を取り出した。
「お代なんてとんでもない。コーヒーは、わたしからのお礼だよ。あぁ、それと、これを持っていきなさい」
マスターは振り返って冷蔵庫を開き、腰をかがめて何かを取り出した。
「おじい様にも持って帰ってあげて、一緒に食べるといい」
ケーキを入れるような白い箱の蓋を開けて見せながら、僕に微笑んだ。上から覗きこむと、そこには透明のカップに入ったプリンがあった。生クリームとサクランボが蓋に押されて、少し窮屈そうにしている。
「いいんですか!?」
「次に来店した時に、味の感想を聞かせてくれるかい?」
「はい、もちろん!」
とびきりの笑顔を浮かべて、また会うことを約束した。
「ありがとうございました」
「はい、こちらこそ、ありがとうございました」
店の入り口ドアをゆっくり開けて、再び一礼をしてそっと閉める。温かい気持ちのまま歩き始めた。
そういえば、僕がお店に入ってから、一度も客が来なかった気がする。今日が平日の夕方だからか? それにしても、一組も来店が無いっていうのは流石に……。
本当にここで働くことを前向きに考えていいものか、疑問に思いながら店を振り返った。
「なんだ……そういうことか」
扉には、「クローズ」と英語で描かれた木の板がぶら下げられていた。僕が店を訪れた時は「オープン」になっていたはず。
「もしや、あの時……!」
わざわざ外から立て看板を持ってきて、絵を見せてくれた時のことを思い出した。
何から何まで粋なことをするマスターだ。
さっきまで抱いていた疑念はもう払拭されていて、リズミカルに踵を返した。
「さて、帰ろう!」
路地から通りに戻り、再び帰路につく。イヤホンをポケットから取り出して、耳に入れた。いつもの帰り道よりも軽快な足取りで歩く。
西日に包まれ、心地良かった。ひまわりのような、お日さまの香りが鼻をかすめた――。
【空になったプリン】
「じゃじゃーん!」
僕は晩ごはんを片付けた後、祖父にプリンを見せた。
「お! プリンじゃないか。これまた美味しそうなプリンだ」
「そうでしょ? 実はね、今日学校からの帰り道に喫茶店に寄ったんだ。これはその喫茶店で帰りにいただいたレトロプリンだよ」
「いただいたって、買ってきたんじゃないのか?」
「それがね~……!」
ケーキの入れ物に付いていた店の名刺を祖父に渡しながら、帰り道に立ち寄った喫茶店での出来事を話し始めた。
「僕ね、コーヒーが飲めるようになっちゃったんだぁ」
「おお、それはそれは!そうやがコーヒーを!?嬉しねぇ」
プリンを食べながら、話を続ける。
先日出会った紳士のおじさんが、喫茶店のマスターだったこと。そのマスターとたまたま再会したこと。コーヒーはマンデリンと何かのブレンドだったということ。そのマスターが温かい人で、一緒に働くことを提案されたこと。
一通り頷きながら話を聞いた祖父は、食べ終えたカップとスプーンをテーブルに置いた。まじまじと見つめられる。
これは、祖父が真面目なことを言う時だ。僕は口を隠しながら、サクランボの種をティッシュに包んだ。
「そうや、それが本当にやりたいことなのかい?」
いつのまにか笑顔が無くなった祖父。気難しそうな顔にシワを寄せて聞いてくる。
「正直、やりたいことっていうのは、まだ分からないんだ」
嘘偽りなく、正直な気持ちを言葉にした。
「じゃぁ、そうやは将来どんな人間になりたい?」
「ん~……漠然としているけど、誰かの役に立てるような人になれたらいいなぁ、とは思ってるよ」
「それは、そうやが今言っている喫茶店で働くことで、なれるのかい?」
「どうかなぁ。ただ、喫茶店のマスターのように、誰かの悩みを聞いてあげたり、疲れた心を癒せたらなぁ、なんて思ったりもするよ」
祖父は空になったプリンのカップを眺めている。
「僕はね、再婚した義理の父親に、これ以上迷惑はかけたくないんだ。というより、甘えられない、というのが正しいかな」
僕は続けた。
「おじいちゃんにも、たくさんお世話になってるし……なんとなくっていう理由だけで進学するのは、なんか違うと思うんだよね。だったら、少しでも恩返しがしたいって、そう思うんだ」
「そうやはそんなこと考えてたんだね……」
「うん……」
プリンとサクランボの甘い香りが部屋中に漂う中、少し沈黙が続いた。
「そうや。おじいちゃんはね、人生には成功も失敗もつきものだと思っていてね。そうやがこれから選ぼうとしている選択が、正しいかどうかは誰も分からない」
祖父はおでこにシワを寄せながら続けた。
「いつか、今日の選択に後悔する日がくるかもしれない。その時もまだ、おじいちゃんがそうやのそばにいてあげられるかは、分からない」
涙もろい祖父の声が、湿り始めた。
「いつか、小さな選択の積み重ねで絶望する日がくるかもしれない。そんな時、そうやのことを支えてくれる人が一人でも多いように……」
「人との出会いは、大事にしなさい」
祖父の右目から、一粒だけ滴が垂れた。
「信じる道を進みなさい」
僕は「はい」と答えようとしたが、鼻が詰まって、喉が苦しくて上手く言葉にできなかった。改めて話してみると、ずっと育ててきてくれた祖父は、親のようなものだったんだと、ひしひしと感じた。
左手に持っているプリンの空の容器に、ぽたりと滴が落ちた。
声にできない代わりに、僕はなんども頷いた。祖父の真っ赤になっていく目を見ながら、何度も頷いた。
「ありがとう……」
僕はボロボロの顔と、ボロボロの声で、精一杯、感謝を伝えた。
その日、僕は早めに布団に入り、泥のように眠った。いつもより、お日さまの匂いが強く感じた。
【再会と緊張】
「レトロプリン、あります」
立て看板の文字を小さく読み上げた僕は、少しメッキが剥げた金色の取っ手を押した。こげ茶色の木製の扉が静かに開き、内側に付けられたベルが心地良い音を立てた。
「こんにちは~!」
「おや、いらっしゃいませ。昨日ぶりだね」
「はい、昨日はごちそうさまでした!」
「いえいえ、こちらこそ。さぁ、適当にかけておくれ」
「ありがとうございます」
昨日と同じく一番端のカウンター席に座ろうとしたとき、反対側の端の席に女性が座っていることに気付いた。本を読んでいる女性の横顔をちらりと見る。暗めの茶色のポニーテールヘアで、ゆるく巻かれた後れ毛が可憐な雰囲気を醸し出している。年は同じくらいだろうか。
あまり見ていると怪しい人だと思われてしまいそうで、僕は視線をそっと正面に戻した。
「とりあえず、昨日と同じコーヒーでいいかい?」
「はい、よろしくお願いします」
マスターは慣れた手つきでコーヒーを淹れ始めた。
「ところで、昨日のプリンはいかがだったかな?」
「すごく美味しかったです! でも、後味はちょっとしょっぱかったです」
「しょっぱかった……?」
語尾を上げ、目を丸くしたマスターが見つめる。
僕は昨晩の出来事をマスターに伝えた。祖父と一緒にプリンを食べ、働きたいという意思を伝えたこと。祖父からは人との出会いを大切にすることと、信じる道を進めと言われたこと。他に客がいることも忘れて、話に夢中になった。
マスターは「そうかそうか」と言いながら、ハの字の白いまゆ毛と、口角を上げて微笑んだ。
「はい、お待たせしました。蒼君ブレンドです」
マスターの言葉に呼応するように、反対側の端に座る女性が噴き出した。
「マスター、それはさすがに恥ずかしいですよ」
「そうかな? わたしはいい名前だと思ったがね?」
冗談だとは思ったが、マスターの目はあまり笑っていなかった。ネーミングセンスを少しだけ疑いながら、コーヒーを口に含んだ。
「あぁ……やっぱり美味しい。ホッとする」
「そういば、亡くなった妻も、いま蒼君が飲んでいるマンデリンという豆が好きでね」
マスターは壁に飾られた絵を見ながら話す。
「妻はよく、神様は本当にいて、一つだけ願い事を叶えてくれる。なんて言っていたけれど、叶えてもらえるのなら、妻に生き返ってもらいたいものだね」
目を細めながら話し続けるマスターの顔を見ながら、うんうんと頷く。
「あぁ、でも蒼君が言っていた通り、天国で猫と一緒に幸せな日々を送っているなら、生き返らせたら可哀想だね」
溢れんばかりの思いやりに包まれた言葉だった。
「そうですね!」
僕は心からの笑顔をマスターにプレゼントして、コーヒーを一口含んだ。
「蒼君ブレンド、とっても美味しいです!」
僕が言うと、反対側の端に座る女性がまた噴き出した。
こらえていた笑いを徐々に開放するかのように、笑い声はどんどん大きくなった。
「蒼君ブレンドって、笑わせに来てるでしょ、それ!」
女性はマスターと僕の方を向きながら、店内に響く程の声で笑った。
「はぁ~、もうおじいちゃんも蒼くんも面白すぎ!」
笑い過ぎて涙が出てきたのか、手で目尻を拭いながら話す。
知らない人に大笑いされて少し恥ずかしさもあるが、笑わせたことで逆に誇らしさもあり、胸を張った。
「っていうか、蒼くん、気付かな過ぎだよ!?」
「え!?」
「私だよ、私。忘れちゃったかな? 蒼くん♪」
「え、夏穂!?」
語尾を上げて僕の名前を呼ぶ、あの懐かしい声だった。
きょとんとする僕とは裏腹に、マスターはニコニコと笑っていた。
「もう〜、いつまで経っても声かけてくれないからさ? ほんとは気付いてもらうまで待とうと思ったけど、限界だったよ」
「でも、どうして!? ここに夏穂が?」
戸惑いを隠せない僕にマスターが優しく説明してくれた。
「蒼君、実はそこにいる夏穂は、わたしの孫でね? 昨日のことを話したら、どうしても蒼君に会いたいからって飛んできたんだよ」
「ちょっと、おじいちゃん~、そこまで言わなくてもいいじゃん」
「はっはっは、これは失敬」
僕は二人の会話を聞きながら、目の前にいる夏穂に見惚れていた。小学生の頃、ちゃんと話さずに地元を離れてしまったから、ずっと心残りだった。
小顔で、少しだけ丸顔。髪は少し染めているが、サラサラしている。くりくりした目も、面影が残っている。そして何より、この聞き心地が良い可愛らしい声だ。
「懐かしい……」
面影を残す夏穂に向かってつぶやいた。
「積もる話もあるだろうから、窓際の席でゆっくり話すといい」
マスターは言いながら、店の外へと出ていく。すぐに立て看板を持ってきて、カウンターの奥の方に座って本を読み始めた。
僕たちは自分の荷物と、それぞれのコーヒーを持ち、窓際の席へと移った。陽の光が入り、外がよく見えるいい席だ。
夏穂はカウンターに我が物顔で入り、個包装されたミルクチョコレートを持ってきた。
「チョコ、好きだったよね?」
「うん。今でも好き。あとチーズも好き」
小さな声で「よいしょ」と言いながら座る夏穂に向かって話す。どこか懐かしくて安心する。会話はスムーズで、自然と言葉が出てきた。
「私も、今でもチーズ大好きだよ」
「はは、お互い中身は変わってないね」
「中身は、ね? 蒼くんは見た目がすごく変わってて驚いたよ~」
「え? そんなに変わったかな? 確かに身長とか少し伸びたね」
「少し!? 前なんて、私の方がちょっと大きかったのに、今じゃ頭一つ分くらい差があるじゃない」
言われてみれば、昔よりも背が伸びている。自分では毎日のことで、気にもとめていなかった。
「そういう夏穂は、随分と雰囲気が変わったよね?」
「そう? ちょっとだけお洒落してみたんだぁ~! どう? かわいい?」
ポニーテールを揺らしながら、首を傾げて見せた。
あどけなさが若干残りつつも、薄めの化粧とヘアアレンジが妙に大人っぽかった。
「え? か、かわいいと思うよ……?」
僕の声は自分でも分かるくらいに小さくなった。
「ありがとう、蒼くん♪」
夏穂は語尾を上げながら僕の名前を呼び、とびっきりの笑顔をみせた。僕の心臓はドクン、ドクンと音を鳴らし始めた。
目の前でチョコレートを頬張る夏穂を見つめる。懐かしさと、愛おしさで口角が上がりそうな感覚。僕は口元を隠すようにコーヒーを飲んだ。
「蒼くんったらさ? なーんにも言わないで、どこかに行っちゃうんだもん」
やっぱり怒られたか。再会した時から、いつ怒られるのかとヒヤヒヤしていたけど、案の定怒られた。
「そ、その節は、大変ご迷惑をおかけしました……」
手を膝の上に乗せ、謝意を示した。
つい昨日、祖父にも「出会いを大切にしなさい」と言われたばかりだというのに。周囲への配慮が欠けていたことを思い知らされる。
きっと、ここから怒涛のように怒られるかもしれない、と覚悟を決めた。
下を向きながら、夏穂が話す次の言葉を受け止めようと待っていたが、何も言わない。僕がどれだけ頭を下げていられるか、試しているのだろうか。根比べなら負けられない。ここはきちんと謝罪の気持ちを伝えよう。
心の中で負けん気を発揮しようと意気込んでいると、正面からひっく、ひっくと抑えるように泣く声が聞こえてきた。
僕は顔を上げて、下を向く夏穂の頭をそっと撫でた。
「ごめんね、ほんとに、ごめんね」
僕が思うよりも、ずっと辛かったのかもしれない。さっきまで威勢よく振舞っていたが、無理をさせていたのかもしれない。よくよく考えてみると、あれから十年ほど経っているとはいえ、お互いまだまだ子供だ。
夏穂の涙がぽたぽたと、とめどなくテーブルに落ちる。僕はテーブルの隅に置いてある紙ナプキンを数枚取り、夏穂の涙を拭いた。涙の温かさが手に伝わってくる。
「もう、どこにもいかないよ。大丈夫。すぐに上手くできるか分からないけれど、僕は身の回りの人との縁を大切にしていきたいんだ。夏穂との関係性だって、大切にしていきたいと思ってるよ」
左のポケットからハンカチを取り出して、声を殺しながら泣き続ける夏穂に手渡す。夏穂は両手でハンカチを受け取り、まぶたにあてがった。
「分からない、じゃだめ」
「え?」
一瞬、下を向いたまま小さな声で話す夏穂の言葉が聞き取れなかった。
「分からないじゃなくて、すぐに上手くやってよ……! これからは、全部、全部大切にしてよ! 周りの人とか大切にするのはもちろんだけど……蒼くんが、蒼くん自信をもっと大切にしてよ!」
目を真っ赤にしながら僕を睨みつけた。
喉の上の方が苦しくなってきて、鼻から何度も強く吸って、口からはどっと吐く。その感覚がどんどん短くなっていく。唇を噛みしめながら、ぎゅっとこぶしを握った。
「うん……うん……分かった。そうする……大切にする」
目を閉じると、涙が一滴、ほろりと落ちた。
「はぁ~……もう、蒼くんのバカぁ……。お化粧がほとんど落ちちゃったよ~」
「ごめん、ごめん」
二人して真っ赤になった目で笑い合った。
もっと笑って欲しくて、普段しない変顔なんてして見せた。
「何その顔~! もう、ほんとに変わってないんだから。わたし、ちょっとお手洗い行ってくるね」
「うん、行ってらっしゃい」
立ち上がる夏穂に小さく手を振った。夏穂も同じように手を振って、お手洗いへとかけていった。
頭の中で、さっき言われた言葉が何度もこだまする。自分のことも大切に、か。言われてみれば、周りのことも、自分のことも疎かにしていた。
そうだ、夏穂が戻ってきたら、電話番号を交換しよう。テーブルに置いてあったスマホの電源ボタンを押す。お天気アプリから通知がきていた。
「要警戒――。土砂災害の危険が上昇。タップして危険区域を確認」
大雨が降るのか。あまり長居せずに帰った方がよさそうだなぁ。
雨雲レーダーを確認するため、画面をタップする。
「ただいま~!」
「あ、おかえり!」
「ん? どうしたの? 天気……? あ、そういえば、今日の夕方から雨が降るって天気予報が言ってたね!」
「そうだったんだ、全然テレビ見てないから知らなかったよ。あまり遅くならないうちに戻らないと、だね」
「そうだね。あ、スマホを出してるついでに、電話番号交換しよ?」
さっき考えていたことを、何も言わずに夏穂から提案してきてくれる。まるで考えていることがリンクしているような、この居心地の良さも変わっていないようだ。
「蒼くんの番号教えて、一回かけるから、そしたら登録して?」
「分かった。番号は、っと……」
スマホの画面が切り替わって暗くなり、番号が表示された。表示されている番号は夏穂のものだろう。
お互いデータを登録しながら他愛もない会話を続ける。
「そういえばさ、蒼くんが学校に来なくなった日、猫ちゃんのところに行ったんだよ?」
「ん? 猫? なんか懐かしい感じなんだけど、なんだっけ?」
「もぅ~、しっかりしてよ? 昔の記憶どこに置いてきちゃったのかな?」
「どこだろうね~?」
照れ笑いする僕をニコニコとした笑顔で見つめ、夏穂は続ける。
「蒼くんが給食のパンを迷い猫にこっそりあげてたじゃない? 私も一緒にパンをあげてさ。その次の日、リンゴのゼリーを持って帰ったら、猫ちゃんいなくなってたんだよ」
「えっ、夏穂、リンゴのゼリーを持って帰ったの?」
優等生だった夏穂が給食のデザートをこっそり持って帰る様子をイメージして、可笑しくなった。
「そうだよ~? 恥ずかしかったんだから。でも、温かい気持ちになったよ」
「懐かしい、僕も同じような気持ちで、こっそりと机にパンを隠してたよ」
「ね、すごく分かる。それで、そのゼリーを持って行ったのに、猫ちゃんも、蒼くんもいないんだもん。その日、大雨でずぶ濡れになったし……」
「ははっ、それは申し訳ない。そういえば、迷い猫にご飯あげてたっけね。懐かしいなぁ……」
ふと、お日さまのような匂いを感じて、窓の外を見る。
「そういう誰にでも優しいところが、蒼くんの魅力なんだよね~」
僕の目線は窓の外に向けたままだった。というよりも、体が硬直している。
まるで全身から冷や汗が噴き出すような感覚。
足の先まで鳥肌が立っている気がする。
「蒼くん? どうしたの?」
夏穂が何か話しかけているけれど、耳鳴りがうるさくて上手く聞こえない。
真空パックの中にいるような気分だ。
ここまで僕の悪寒を騒がせているのには、理由がある。
窓の外で、ずっとこちらを見つめる。
例の、少女だった。
それも、なぜか、泣きながら――。
【追憶】
どうしてだろうか、どうして少女はずっと僕たちをみて泣いているんだろうか。恐怖で体の自由を奪われながらも、必死で思考を動かす。
この間も、僕に話しかけてきたこの幽霊。先日見つけた時よりも、姿が薄くなっている気がする。もしかしたら、不吉なことをもたらしてしまうものだとしたら……。
夏穂やマスターに何かあってはいけない。僕はその場を離れることにした。
「ごめん、夏穂。ちょっと、急いで帰らないといけないから!」
「え!? 蒼くん! 急にどうしちゃったの?」
「ごめん! また今度!」
おもむろに財布を取り出して、千円札だけテーブルに置いた。僕は何かに追われるようにして、店を出た。何かを追いながら。
外に出ると、さっきまで見ていた窓のそばに、もう少女はいなかった。周りを見渡すと、路地から大通りの方へと駆けていくのが見える。このままここにいては、店に何か起きかねないかもしれない。何者かは分からないが、追いかけてみよう。
大通りに出ると、人ごみに紛れて少女を見失った。右は学校への道、左は家への道。
「どこいったんだ……?」
見渡していると、またお日さまのような匂いが鼻をかすめる。匂いの方向を見ると、人ごみの奥に少女がいた。しかも家へと帰る方向だった。
追いかけるようにして少女を探す。でも、もしこのまま家に連れて帰ってしまったとしたら。もし、この幽霊が祖父にも不吉な何かをもたらしてしまったら……。
僕は走りながらスマホを取り出して、祖父に電話をかけた。祖父はすぐに電話に出た。
「そうやか、どうした?」
「おじいちゃん!? えっと、何か変わったことはない? 大丈夫?」
「ん? そんなこと突然聞かれてもなぁ。そうだな、天気が悪くなりそうだから、庭のハーブを玄関に入れておいたくらいかの」
こんな大変な時に、なんて呑気なことを。何気ない生活を送っている祖父に、心の中で思った。
「分かった! なんでもない! え~っと、外には出ないようにね!」
「そうだね、今日はこのまま家の中でゆっくりと過ごすことにするよ。そうやは、なんだか慌ただしくて……今は、走っているのかい? もう帰り道なのかい?」
「うん! すぐに帰るから! また後で!」
返事を待たずに通話を切断した。風を切るようにして、家へと走った。
「ただいま! おじいちゃん、大丈夫!?」
「おぉ、そうや、おかえり。見ての通り、なんともないよ?」
「よかった……」
ハァ……ハァ……と息を切らす僕の背中を、祖父は優しく撫でる。
「何か、あったんだね?」
「ちょっと、ゆっくり話してもいい?」
「もちろんだよ、そうや」
息を整えながら、部屋の中央にあるテーブルに向かい、アンティークを思わせる椅子に座った。時計を見ながら、何から話そうかと整理をする。
祖父は自分の分と僕の分、二つのコップに麦茶を注いで、目の前に置いた。
「ありがとう」
コップの半分ほどをゴクゴクと飲み干して、ゆっくりと話し出す。
「おじいちゃん、こんなこといきなり言ったら変だって思われるかもしれないけど、幽霊っていると思う?」
「そうやがいると思えば、それはきっといるんだろうねぇ」
「僕、実はここ最近で二回も見てるんだよ。一回目は家の前の道路、二回目はさっきで、喫茶店にいる時。ずっとこっちを見ていたんだ。泣きながら」
「少女、だね?」
「え!?」
僕はまだ祖父に一度も幽霊の正体を話していない。大人なのか子どもなのか、男性なのか女性なのか。それをピタリと言い当てる祖父に恐怖感さえ覚えた。動揺する僕を余所目に、祖父は話を続ける。
「そうやを迎えに行った日のことを少し話してもいいかい?」
「うん」
ゴクリ、と生唾を飲んだ。祖父は窓の外を見ながら、ゆっくりと話し出した。
「あの日、昼間にそうやから電話があって、出てみるとわんわん泣いていた。家に向かうと、そうやは部屋の隅で泣きながら、携帯電話を握りしめておった。そうやが『もうこんな家にはいたくない、どこかに消えてしまいたい』だなんて口にして、目を丸くしたよ」
「えぇ!? 僕そんなこと言ってたの!?」
過去の自分の悲惨さは、遠い思い出と一緒にしまい込んでいたようだ。
「その後、そうやと、そうやのママと一緒にファミレスでゆっくり話して、わしがそうやを預かると決めてな。大雨の中、一旦家に戻って、身の回りの荷物だけまとめて、車でこの家に引っ越してきた」
「うんうん、そうだったね」
僕は思い出しながら祖父の話を聞いた。
「帰りの車の中、そうやが突然、傘と茶碗を持って駆け下りて、戻って来たと思ったら大号泣」
「え、そうだったっけ?なんか恥ずかしいね」
照れ笑いしながら、当時のことを徐々に思い出す。
「そうやは戻ってくるや否や、夏穂ちゃんごめんね、猫ちゃんごめんねって、まるで心が壊れたように呟いておった」
祖父は唇を噛みしめながら話した。
「そう……だったね。だいぶ思い出してきたよ」
ここ最近、色々なことがあり過ぎて、パンクしそうな頭を必死に整理した。確かに僕はあの日、罪悪感に苛まれて泣いていた。
「さぁ、後どれだけ時間が残されているか分からない。迎えに行ってやりなさい」
「え? 時間? 迎え? どういうこと?」
「行けば分かる。きっと海辺にいるはずだよ」
祖父がそそくさとコップを片付ける。戸惑いながら立ち上がる僕に向かって祖父は言う。
「出会いは、大事にしなさい」
「は、はい!」
よく分からないまま怒られた僕は、少しだけ理不尽を感じながら慌てて外へ出る。
空気が湿っていて、今にも雨が降りそうだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
庭の飛び石を一つ飛ばしで踏みながら、家の前の舗装された道路へと出た。
正面には海が見えるが、浜辺への階段は少し離れた場所にある。石の階段へと小走りで向かう。
その時、海辺の方に人影が見える。
「あ、あの子だ!」
寂しそうで、今にも消えそうな背中が見える。不思議と恐怖心はなかった。
石の階段を降りて、浜辺を走る。靴の中にさらさらとした砂が入り込む。空は分厚く、灰色の雲に覆われているのに、まるでお日さまのような匂いがする。
少女の少し後ろまで辿り着いた時、波の音とともに声が聞こえた。
「やっと……やっと、見つけてくれましたね……」
頬と鼻を真っ赤に染めた少女が言った。
「君……は……?」
祖父との会話を元に整理すると、この子は……。
「そうくん、そうくん……!」
少女は突然、僕の胴に両手を回して抱きついた。
少女から漂う懐かしい、お日さまのような匂い。この匂いは、もしかして。
「あの時の猫……ちゃん……?」
「はい……!」
僕にぎゅっとしがみつきながら、力強く答えた。
「この間なんて逃げてしまうし、見えたと思ったら、また見えなくなりますし……!」
「えっと、待って? どういうこと? 猫は猫で、君は女の子で……」
混乱して意味不明なことを口に出した。少女は泣きそうな声を落ち着かせて、ゆっくりと話した。
「そうです。あの時の、猫です!」
頭の中の混乱は続いた。目の前にいる少女は、十歳くらいだろうか。つやつやとしたセミロングの髪が風に舞っている。
「ごめんね、ちょっと混乱してて、何が何だか……」
「そうですよね! そうくん、ごめんなさい……嫌いにならないでください」
少女は一歩下がって、可愛らしいまゆ毛を下げ、しゅんとした表情を見せた。
「全然、大丈夫だよ! 嫌いになんてならないよ!」
少女は顔を上げて、こちらを見上げる。
「えっと、どこから話しましょうか……。わたし、大好きなそうくんがいなくなってしまってから、すぐに探したんです」
「いなくなったっていうのは、あの日のことかい?」
最後に傘と茶碗を差し出した幼い日のことを伝えた。
「そうです。匂いを追って行ったんですが、雨が強くて、匂いも弱まってしまって。気が付いたら、また迷子になってしまいました」
「そうだったんだね……それは辛い思いをしたね」
あの時のろくに動けなかった猫が、満身創痍になりながらも僕を探してくれていたことを想像すると、胸がじんわりと熱くなってくる。労いの意味も込めて、少女の頭を優しく撫でてやった。
「そうくん……! それです! その、温かな手です!」
思いついたように、少女は上を向いた。
「え? この手?」
手のひらを確認しようと、少女の頭から離そうとしたが、少女は両手で僕の手を掴み、そのままセルフで撫で始めた。
「はぁ~……この瞬間をずっと、ずっと待っていたんです……大好きです、そうくん……」
少女は目にうっすらと涙を浮かべながら、僕の手を掴む。少女は猫、僕はまだ子供だったから、時間を忘れる程たくさん撫でていたけれど、この姿になってからは、どこか照れくささもあった。
「あれ? 待って? さっきよりも、体が透き通ってない?」
気が付いたら、海辺で再会した時よりも透明に近付いていた。
「そうなんですよね……あまり時間がないと思うので、まとめます」
少女は僕の手を離し、両手をお腹の下あたりに組んで話す。
「わたしは、ずっとそうくんのそばにいました。一緒に本も読んでましたし、一緒にお茶も飲んでました。たまに窓も勝手に開けてました。ごめんなさい!気付いていないとは思いますが、そうくんの隣で毎日寝ています」
「えっ、そうなの?」
たまに本からお日さまのような匂いがするとは思っていたけれど、あれは窓際に置いてあるからだと思っていた。窓も勝手に開けられていたのか。しかも一緒に寝ていた?
「え、隣で寝てるの!?」
「はい! そうくんの背中は温かくて大好きです! そうくんは寝る時、横を向いて、まるで猫さんのように丸まって寝ています!」
なんだか生活すべてを知られているようで、恥ずかしくなった。それに元猫の少女に『猫さんのよう』と言われるなんて、なんだか可笑しくなった。でも、疑問点が絶えない。
「そもそも、どうやって、その姿に?」
「これは神様にお願いしました。神様はちょっといじわるでしたけど……」
少女は当たり前のように、涼しげな顔で言った。
「神様? 神様っているの? しかも、意地悪?」
「そうなんです。そうくんのおじ様とは大違いで、とってもいじわるです!」
どうやら神様は意地悪らしい。
「そういえば、おじいちゃんには君の姿が見えてるんだよね?」
「そうです、見えてるみたいですね。おじ様には色々と人間について教わりました。あ、それと、わたしも最近なんです。神様から受けた条件をきちんと思い出したのは」
「条件って、何?」
祖父が少女に優しく接してくれていて安心する一方、条件という言葉が気になった。
少女は神様とやらから受けた条件を語り始めた。
どうやら、人間としての生を受けるためには神様からの条件を飲まなければいけなかったらしい。
自分の存在を相手に思い出してもらわないと視えないこと、だそうだ。
「もう一つだけ、条件がありまして……」
「まだあるの? 神様はほんとに意地悪だね?」
少女とクスクスと笑い合った。
「その条件を話す前に、わたしからも一つ質問させてください」
セルフで撫でるのが好きなのだろうか。少女はまた僕の右手を両手で持ち上げ、自分の頭の上に乗せて撫で始めた。
「今日、カフェに一緒にいた女の人は、誰なんですか? そうくんは、好きな人ができたんですか?」
今にも泣きだしそうな顔を向けながら言った。
「あぁ! 彼女は夏穂だよ、柿崎夏穂。覚えてないかな? 一度だけ、一緒にパンを持っていった人だよ。次の日にも君に会いに行って、リンゴゼリーをプレゼントしようとしていたらしいよ?」
「あぁ……あの人が、夏穂ちゃんだったんですね……! わたし、夏穂ちゃんの温かな手も大好きでした……」
「夏穂にも、また会えるよ。僕より驚くだろうけどね」
首を傾げて、微笑みながら少女を見た。僕の笑顔とは裏腹に、少女は俯いていた。
「夏穂ちゃんにも会いたいです。また二人に撫でてもらいたいです……」
「大丈夫だよ。明日は日曜日だし、夏穂に連絡取ってみるよ。そうだ、一緒にどこかに出かけようよ。夏穂もきっと喜ぶよ」
「お出かけですか!? してみたいです!」
少女の顔はパッと明るくなって、満面の笑みを見せた。
「そう、お出かけ。でも僕はそういうのに疎いからなぁ。夏穂にも聞いてみよう。きっと今どきの遊びを知ってるはずだよ。カラオケとか、ショッピングとか色々ね?」
「すごくすごく楽しそうですね……!」
「きっとすごく楽しいよ! それに喫茶店のマスターも、とっても良い人なんだよ」
「そうなんですか……!? あのおじい様は良い人なんですか!」
「それにコーヒーとチョコがとっても美味しくて、君にも食べさせあげたいなぁ」
「わたし、人間の食べるものって、まだ慣れてないんですけど、どうでしょうか……。あ、でもパンは大好きです! 二人がくれた、あの思い出のパンが大好きです! また食べさせて欲しいです!」
「この世界にはね、パンよりも、もっともっと美味しい物がたくさんあるんだよ! 一緒にたくさんお出かけしよう、約束!」
「……それができたら、どれだけ幸せなんでしょうね……」
僕の右手を離し、肩を落とすように少女も手をぶらんとした。少女は僕の胴に手を回して、力強く抱きしめた。力を込めてるからか、それとも他の意図があるのか、少女は震えていた。
「約束は、できそうにないです。ごめんなさい」
「どうしたの……?」
「神様からのもう一つの条件。それは――――」
ザーーーーーーーー!!
突然、雨が降り出した。
僕は少女の言葉を聞き終えて、絶句した。
雨はすぐに土砂降りになった。
痛いほどの雨に打たれながら、僕はボーっと立ち尽くした。
「そんな……。ごめんね……」
目の前に、少女はいなかった――。
【雨の喫茶店】
「神様からのもう一つの条件。それは……」
少女はこの言葉の後、こう続けた。
「大好きな人に思い出してもらえないと、消えてしまうんです」
とめどなく溢れる罪悪感に苛まれながら、僕は聞いていた。
「期限もあって……。十年だったんです。はじめは、十年もあれば大丈夫って思ってたんです。でも、間に合わなかったみたいです……」
少女の可愛らしい声が頭の中でこだまする。十年という月日を費やして、僕のことを一心に思ってくれていた少女の消失。
雨にしばらく打たれた僕は、感情のままに言葉を発してみた。
「僕のバカやろう……」
雨の音に虚しくかき消された。
ポケットの中でブーブーとスマホが振動している。長く振動しているから、アプリの通知の類ではなさそうだ。そこまで考えて、また雨に打たれた。
しばらく灰色の空と白く、茶色く濁った波を見ていた。
この雨の中、祖父を心配させるわけにもいかないと思い、帰路についた。
「ただいま……」
「おかえり!」
タオルを持って、駆け足で祖父が迎えてくれた。祖父は僕の頭にタオルを被せて、玄関の小上がりに座らせた。
祖父は全てを察したように、包み込んでくれた。
ポケットのスマホが再び振動する。無気力ながら、スマホを取り出す。
画面には「夏穂」と表示されていた。僕は冷えた指先で、緑のボタンを押した。
「もしもし……」
「もしもし? どうしたの!? 大丈夫!?」
「あぁ……えっと、大丈夫だよ。ありがとう」
「今どこにいるの?」
「家にいるよ。祖父の家」
「蒼くん、わがまま言ってもいい?」
「ん? どうしたの?」
「今すぐ会いたい!」
「え!? 今から? 雨もまだ降ってるし……」
「ダメ! どうしても会いたいの!」
「……わかった。夏穂はどこにいるの?」
「私はまだおじいちゃんの喫茶店にいるよ」
「喫茶店ね……?」
僕の隣で祖父が微笑みながら、親指を立てた。
「ちょっと待ってて、喫茶店にすぐ向かう」
そこまで言って、僕は電話を切った。見計らったように、祖父が言う。
「さぁ、その喫茶店へと向かうとしよう」
よく見ると、祖父はすでに僕の着替えを持っていた。準備の良さに、クスッと笑った。
「うん、いこう」
玄関に置いてある傘を持って、雨の世界に出発した。
喫茶店へと向かう祖父の車中。僕は時々道を案内しながら、窓の外を眺めていた。
「あの子とは、会えたようだね」
「うん、ちゃんと会えたし、話せたよ。ちょっとだけ、間に合わなかったみたいだけど」
「わしも口止めされていて、そうやに言えなくて悪いことをしたね」
「ううん、おじいちゃんのせいじゃないよ。ありがとう」
赤信号に行く手を阻まれ、しばらく沈黙が続いた。フロントガラスに叩きつける雨の音が聞こえる。
「そういえば、おじいちゃん。さっきの電話の相手が夏穂だって分かってたの?」
何気ない疑問を祖父にぶつけてみた。
「いいや? 全くわからなかったが、そうか。そうやが子どもの頃に言っていた夏穂ちゃんか」
祖父はハンドルを丁寧に持ちながら、続けて話した。
「自分が困っているとき、辛いときに手を差し伸べてくれる人を、蔑ろにしてはいけないよ?」
僕は膝の上に手を置き直して、背筋をピンと伸ばした。
「人間、誰だって自分のことが一番かわいいと思う生き物。そんな中で、自分を大切にしてくれる人に出会えた。その時にすべきことは、気を使って距離を取ることじゃない。素直になって、信じ返してあげることだよ」
祖父の言葉を何度も噛み締めた。ゆっくりと頷きながら、奥歯で噛み締めた。
「ありがとう、おじいちゃん」
心からの感謝を伝えて、道案内を続けた。
程なくして到着したコインパーキング。喫茶店からの帰り道、たまに見かける場所だった。
車のドアを開けて、ぶつけないように傘を開いた。ビニールの傘にぼつぼつと雨が落ちてくる。
ぶつかっては落ちていく雨粒を眺めていたら、目頭がどんどん熱くなってきた。
無性に、夏穂に会いたくなった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「蒼くん!!」
喫茶店のドアを開けると、夏穂が飛びついてきた。
「蒼くん……蒼くん……!」
夏穂の声は苦しそうで、辛そうで、湿っていた。
僕はそっと頭を撫でながら、心配をかけてしまったことを痛感した。
「ごめんね、もう大丈夫だよ。どこにも行かないよ」
夏穂を少しでも安心させてあげようと、言葉を投げかけた。
すぐ後ろのドアが開いて、祖父が入ってきた。祖父はうんうんと頷きながら、マスターの方へと歩いていく。会釈を交わしてカウンター席に座った。
ふと夏穂が顔を上げた。そこには目も鼻も真っ赤になった顔があった。辛い物でも食べたかのような顔をする夏穂に、胸裏で少し笑ってしまった。さっきの僕よりもずっとずっと号泣する彼女に。
「大丈夫だよ。ちゃんと一緒にいるから」
「うん……!」
「マスター! 窓際の席、お借りします」
カウンターにいる和やかな雰囲気の二人に向かって伝えた。
「はいよ、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
僕は状況を整理しながら、夏穂に少しずつ伝えた。
「さっきは突然飛び出していってごめんよ。びっくりさせちゃったね」
夏穂に怒られないよう、まずは謝ってみせた。
「そうだよ~。いきなり出て行った蒼くんに驚いて……私、窓から見てたんだけど、路地から通りに抜けていく女の子のことを、なぜか蒼くんが追いかけていくし、もう何がなんだか……」
夏穂にはあの子が見えていたのか……! そうか、確かに夏穂は子猫のことをずっと覚えていたようだったし、見えていてもおかしくはない。
「そう! その女の子なんだけど、落ち着いて聞いて?」
難しい注文だとは思ったが、念のため夏穂に伝えた。
「うん、分かった」
「あの女の子、実は僕たちが子どもの頃に助けた子猫だったんだ」
「えぇ!? どういうこと!? 子猫!?」
案の定の反応で、クスッと笑った。驚くのも無理はない。僕だってさっきまで同じような反応をしていた。
「神様にお願いして、人間に生まれ変わって、会いに来てくれたみたいなんだ」
「よかった……! あの子、ちゃんとご飯とか食べて、生きてたんだね! よかった。っていうか、神様っているんだね!?」
夏穂は思ったよりもすんなり飲み込んだ。飲み込みの早さに、僕はあっけにとられていた。女の子はこういう時、頼りになるもんだと思いながら、うんうんと頷く。
「でも、消えてしまったんだよ。ついさっき」
「え! 消えて、って……」
僕の方を見ていた夏穂は、窓の外を見た。
「だから蒼くん、あんなにも辛そうだったんだね……。私さ、昔から蒼くんのこと大好きで、辛そうにしてるところみると、放っておけないんだよね」
ストレートに好意を伝えられて、心臓がドクッドクッと鳴り始めた。
「色々聞きたいことはあるけれど、まずはさ、蒼くんの悲しみを払ってあげたいなぁ」
夏穂は母親のような優しい目を僕の方に向けた。時間が止まって、音が消えて、今にも吸い込まれそうだった。
「ねぇ、私たちの『神様へのお願い』使わない?」
「え……。あ、そっか! そうだよね、僕たちにも可能性があるってことだよね?」
「そう! まだ諦めるのは早いよ、蒼くん」
それから夏穂は知っている限りのことを教えてくれた。
夏穂の祖母がまだ生きていた頃の話。
祖母はよく猫を撫でながら、子守歌のようによく話していたらしい。
「神様は本当にいて、一つだけ願いを叶えてくれるんだよ」
夏穂は祖母に何か願い事をしたことがあるか聞いたところ、まだ使わずに取っておいてあると答えたらしい。でも神様は少し意地悪で、それ相応の条件を付けてくるという。
「その話、信ぴょう性があるね」
「ん? どうして?」
「子猫だったあの少女も同じことを言ってた。条件を突き付けられたって」
「そうなんだ! 条件ってなんだったんだろう……」
「自分のことを知っている人にしか見えないことと、大好きな人に思い出してもらわないと消えてしまうことだったらしい」
「うっ、結構えげつないんだね、神様って……。」
夏穂は思い立ったように、ハッと素早く顔を上げた。
「え! ということは、蒼くんと話せたんでしょ? 大好きな人って、多分蒼くんのことだよね? でも結果、消えてしまった……?」
「期限が十年だったみたい。時間切れ」
「神様、容赦ないね……」
引きつりながら笑う夏穂につられるようにして、僕も苦笑いをした。
間に合わなかった罪悪感を思い出して、僕は唇を噛んだ。
「大丈夫、大丈夫だよ。蒼くん、私がいるからね」
夏穂はテーブルの対面越しに手を伸ばして、僕の頭を何度か撫でた。
「ありがとう、夏穂……」
人の優しさって、こんなにも温かいものだなんて、知らなかった。僕は夏穂の優しさに溺れそうな感覚に陥っている。
「あ、それでね? おばあちゃんに、どうしてそんなこと知っているのかって聞いたら『知ってる人は知っている、おばあちゃんのおばあちゃん、さらにもっともっと昔から伝わる話なんだよ』って言われたの」
「なるほど、それってさ、どうやって願えばいいんだろう?」
「ううん、私も半分はおとぎ話だと思って聞いてたから、そこまでは聞かなかったよ」
「そっかぁ、肝心な方法が分からないんじゃなぁ」
「蒼くん、諦めちゃだめだよ! まずは、やってみようよ!」
「え、今?」
「うん、今。ここで!」
気持ちが付いていかないことを自分の中で感じるが、夏穂の真剣なまなざしに気圧された。
「わかった、やってみよう。あの子が返ってこられるよう、願えばいいんだね」
「そう。準備はいい?」
夏穂は目を瞑って、両手を握る。その両手を顔の前に持っていった。僕も同じように両手を前に出して、心の声で願う。
「神様、お願いします。あの子をもう一度、返してください」
僕は目を開けた。夏穂はまだ祈っている。じっと見つめていると、夏穂もゆっくりと目を開けた。
僕には、何も起こらなかった。
窓の外、雨は弱まっていた。
僕たちは、どうしようもない虚無感に襲われた――。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
喫茶店で僕たちを見守っていた祖父とマスターは、夏穂と同じく諦めない方に票を入れた。その結果、喫茶店の中央にあるテーブルに四つの椅子を向かい合わせて、会議が始まった。
「蒼くんは諦めてるけど、私、絶対まだ方法があると思うの! ねぇ、おじいちゃん、おばあちゃんは他に何か言ってなかった?」
「ん~、そう言われてもなぁ。『神様は一度だけ、誰にでもチャンスを与えてくれる』と、言っていたこともあったかの」
マスターの話に頷きながら、祖父が目を大きく開けて、何かを思い出したような顔をした。
「そういえば、だいぶ前に聞いたことがある。猫としての生を終えた日、雨が降っていたが、空は明るかったって」
「なんだろう、小雨ってこと? 雲が薄いってこと?」
夏穂は胸の前に腕を組んで、小さく唸りながら考え事を始める。
「もしかして、お天気雨……?」
僕がそうつぶやいた瞬間、三人が一斉にこちらを見て、同時に言葉を発した。
「それだ!!」
窓の外を見ると、今にも上がりそうな雨。うっすらとした雲が空を覆っている。
思い立ったが吉日と言わんばかりに、一斉に準備を始めた。もしも、それでだめだったら、と思うと、どうしても乗り気にはなれなかった。
喫茶店の裏手にある駐車場に向かった。店の裏口から出ると、庇が雨をカバーして、濡れずに移動できた。マスターと夏穂は何気なく乗り込んだが、僕と祖父はたじたじだった。
そこに止めてあったのは、車体が長いセダンタイプのグレーのスポーツカーだった。細かいラインが入ったピカピカのホイール、左右についたまん丸なライト。窓はフロントにだけついていて、いわゆるオープンカーだった。
「さぁ、乗って。行きましょう」
マスターが渋い声で言う。
いつもよりも格好良く見えた。
道中、自然が好きな祖父がお天気雨について話し始めた。
お天気雨の仕組みは、どうやら雨が地面に落ちるまでの間、その雨を降らせた雲が消えてしまっていること。僕たちが雨を認識している間に、雲は消滅していることがあるという。後は、雨を降らせる雲が小さかったり、風で雨が流されて、お天気雨だと感じることがあるらしい。
静かに聞いていた夏穂が、祖父に疑問を投げかけた。
「そういえばお天気雨って、狐の嫁入りって呼ぶこともありますよね?」
「そうだねぇ、狐の嫁入りについて、ちょっと話そうか」
ある日、村の男が山道でお天気雨に打たれた。
気を取られていると、いつの間にか、えらく美人な娘を見つける。その娘を追いかけていくと、雑木林に出た。
娘が太い木の周りを一周すると、見事な花嫁衣裳を纏ったという。
男は狐に化かされていると思いながらも、目を離せず、そのまま娘に付いていく。
狐顔の男がぞろぞろと集まり、狐の嫁入りだと確信する。
しばらく歩いていくと、小さな小屋に入っていく。
男は気になって、石段に上り、小さな穴を見つけて覗いた。
小屋の中では豪華な食事が振舞われている。
足が疲れてきた男は休憩しようと、煙管に火を点けた。
ぷかぷかと漂う煙は、辺りの景色を一変させた。
小屋だと思っていたものは、神社の社殿だった。
乗っていた石段は、神社の石灯籠の土台だった。
覗いていた穴は、灯篭の丸い穴だった。
狐だと分かっていながらも、化かされてしまうもんだと、男は言った――。
「まぁ、地域によっては脚色があったりなかったり、諸説あり、じゃな」
祖父はそう付け足した。
「ん~、何か手がかりがあるかも、と思ったけれど。やっぱり行ってみるしかなさそうね!」
夏穂は言いながら、運転席のマスターに道案内を続けた。
「ここら辺! おじちゃん、止めて!」
「あいわかった。この辺に車は止めておけないから、おじいちゃんたちは駐車場を探してくるよ。二人で行っておいで」
「ありがとうございました!」
僕はお礼を言って車から降りた。
そこは、学校のすぐ近くだった。僕たちは、一本の傘を差して歩き出した。雨は、少し弱まっていた。
当時、通っていた校舎を見ると、記憶がよみがえってくる。
僕たちは学校の正門を背にして歩き出した。
「蒼くん、覚えてるかな? 昔、私が学校の桜の木に見惚れてたら、毛虫が落ちたこと」
「あれ、そんなことあったっけ?」
「あったよ~! もう、蒼くんひどい!」
「ごめんごめん。それで?」
なんとなく覚えているけれど、記憶がはっきりしなくて、続きを覚えてなかった僕はとぼけて見せた。
「それでね、毛虫を見た私は怖くて動けなくなっちゃって……そこに蒼くんが登場! ってわけだよ」
「そんなヒーローみたいな感じだった?」
あまり覚えていない僕は鼻で笑いながら聞いた。
「そう! ヒーローみたいだったよ! それでね、蒼くんは毛虫をつまみ上げて、木に戻してたんだよ!」
「はは、なんかそんなことあった気もするなぁ」
「なんだこの人は……! 神様なのか! って思ったね!」
けたけたと笑いながら、楽しそうに話す夏穂。その横顔を見ていると、昔、畦道を一緒に歩きながら照れていたことを思い出した。
当時と変わらない温度感。
さらさらとした髪が、可憐な横顔をちらつかせる。
なんて美しいんだ……。
そうか、僕はずっと前から夏穂のことが好きだったんだ。
心の奥底でせき止められていた何かが、ストンと落ちた気がした。
僕たちは一つ目の十字路を右に曲がり、少し細い道へと入る。
二人が横になって歩くにはギリギリのスペースだった。
子どもの頃は、こんなに狭い道だとは知らなかった。景色の見え方が変わって、年を取ったことを思い知らされた。
「横になって歩くには、少し狭いね。蒼くんが前を歩いて?」
夏穂も同じことを考えていたようで、前後に並んで歩こうと提案された。
「うん、わかった。じゃぁ、傘は夏穂にお任せするね」
僕は傘を夏穂に手渡して、さっきまでと変わらないスピードで歩いた。
ふと、後ろから話しかけられた。
「ねぇ、蒼くんは、好きな人とかいるの?」
「え? いきなり?」
僕はどぎまぎして、はぐらかしてしまった。
なんだかデジャヴのようなものを感じた。
「えへへ、ごめんごめん」
後ろから聞こえてきた声は笑っていた。
「ビックリするよ、ほんとに……」
このまま話を流していいのか、自問自答しながらも上手く答えが返せなかった。
どうしようと考えていた、その瞬間。
「私はね、いるよ?」
首筋のすぐ後ろから、右の耳に向かって夏穂の言葉が発せられた。
顔がカーッと熱くなってきて、心臓がドクンッドクンッと音を立てた。
心臓の鼓動に合わせて、体が動いているような感覚がする。いや、実際に動いてしまっているかもしれない。
そんな僕に追い打ちをかけるように、さっきよりも更に近い距離で、夏穂は甘い言葉をささやいた。
「蒼くん、君だよ」
体が熱かった。でも、まるで人肌の浴槽に浸かっているような心地良さに包まれた。
右耳は痛くもないのに、ジンジンとした。目を瞑ると、鼓動の音がバクバクと鳴っている。
僕も、伝えなくちゃ。
一瞬が永遠のように感じる。思考が、口が思うように動いてくれない感覚。
じんわりとする手汗を感じて、ズボンでゴシゴシと拭いた。
僕は振り返って、夏穂の目を見つめた。
心臓が今にも張り裂けそうになりながら、精一杯、言葉を発した。
「僕もです……」
その言葉を聞いた夏穂は、傘を落とした。両手を口に当てて、小刻みに震えていた。
「僕も、夏穂のことが好きです」
夏穂の左目から、一滴、しずくが流れた。
僕の目に映ったその姿は、とても美しかった。世界で一番、美しかった。
「ごめん……。嬉し過ぎて、つい泣いちゃった」
夏穂は左手で目の下を拭いながら言った。
正直、泣きそうなくらい嬉しい気持ちは僕にもあった。紙一重で泣かなかっただけだった。
いつもだったら、こうして感じたことも胸の内に閉まっているけれど、今なら大丈夫な気がする。
「僕も、今にも泣きそうだよ」
「え~? ほんと~?」
僕の顔を下から覗いて、夏穂の表情が明るくなった。
「あ! ほんとだ! 目がウルウルしてるー! 可愛いね、蒼くん♪」
「夏穂なんて、ウルウルどころか、完全に泣いてたじゃないか!」
言ってみたものの、からかわれていることに抵抗はなかった。
心を許した相手に軽くからかわれるくらい、なんてことないと知った。『ほんの少しの幸せを噛みしめながら、日々を過ごす。そうして人は大人になっていく』とマスターに言われた言葉を思い出した。
「夏穂? 今、僕たち、また一つ大人になったかもしれない」
「うん、そうだね!」
からかわれると思ったけれど、今度は大丈夫だった。戻ったら、また一つ大人になったと、マスターに伝えよう。
「ねぇ、でもさ、ほんとに神様が願い事なんて叶えてもらえるのかな?」
「そうやって弱気になるところ、蒼くんの悪い癖だよ!」
後ろを歩く夏穂から不思議そうな声が聞こえてくる。
「あれ、蒼くん? ここって、こんな建物あったっけ……?」
「僕も、初めてみた・・」
僕たちは口をポカンと開けて、ただひたすらに建造物を眺めた。
そこには古びた石造りの鳥居があった。鳥居のすぐ手前には石灯籠がある。奥には井戸のようなものがチラリと見える。さらにその奥には石造りの階段が四段、いや五段ほど見える。
「私たちが子どもの頃に来た時って、ここら辺、ただの草っぱらだったよね?」
「そうそう、どんどん草が伸びていって、その奥には竹やぶがあったね」
「蒼くん、背が高~い木はあるけど、竹やぶは……見当たらないね?」
不思議な感覚に襲われながらも、僕たちは進むことにした。鳥居の少し手前で、二人でお辞儀をして、レンガのように並べられている石畳の上を歩いた。
得体の知れない恐怖があった。もしかしたら夏穂も同じ感覚を味わっているかもしれないと思うと、途端に守ってあげたくなって、そっと右手を伸ばした。
夏穂の左手に当たり、受け入れるように手のひらを伸ばしてくれた。僕はその手のひらを掴むようにして、手を握った。
石造りの階段を上ると、左右を木々に覆われた参道へと出る。遠くに小さく拝殿が見えた。
歩いていると石畳は途中で切れて、固い土の上を進んだ。
「なんだか、不思議な場所だね……?」
しばらく続いていた沈黙を、隣を歩く夏穂が破った。
「そうだね……夏穂、離れないようにね?」
「うん、分かった」
夏穂の左手が、僕の右手をギュッと握り返した。僕たちはそのまま、恐る恐る歩いた。
遠くに小さく見えていた拝殿が、徐々に大きくなってきた。拝殿の前には石造りの階段が十段ほどある。
いつのまにか、木々の参道から抜けていた。上を見ると、薄い雲がしとしとと細かい雨を降らせている。
「転ばないようにね?」
僕は隣の夏穂に声をかけて、一段、また一段と登っていく。
「ここ……だよね?」
小さく見えていた拝殿を目の前にするも、想像するよりはずっと小さかった。正面には木造りの階段が五段ほど、その先にはふすま二枚ほどの入り口が見える。
「そうだね……。きっと、ここだね」
僕は夏穂に向かってこくりと頷く。
「あ! そういえば」
夏穂が目を大きく開けて言った。
「ん? どうしたの?」
「神様への願い事って、多分一生に一度だけだよね?」
「そう、みたいだよね」
何か思うことがあるのか、浅く何度もうなずきながら夏穂が確認する。
「神様は意地悪で、何を条件に出してくるか、分からないんだよね……」
「無難な条件を提示してくれることを祈るしかないね……」
苦笑いしながら夏穂に言った。
「そうだね、分かった!」
夏穂は何かが吹っ切れたような顔をした。
「よし、それじゃ、いくよ!」
僕は願い事をする合図を送った――。
【神様の意地悪】
ゴクリ、と生唾を飲む。
「よし、それじゃ、いくよ!」
僕たちは拝殿に向かって願い始めた。両手は、拳のように握らず、手のひらを合わせて合掌した。
僕は願った――。
「あの子を、人として生き返らせてください。僕の人生の枷になる条件なら、なんでも飲みます。どうか、あの子を返してください」
私は願った。
「あの子と、蒼くんと、ずっと一緒にいさせてください。これ以上、蒼くんから幸せを奪わないでください」
二人は強く、強く願った。
弱まっていた雨は、まだ降り続いていた。二人を照らすように、晴れ間が差した。
二人の脳内に、声が聞こえてきた。
「願いは聞き入れた。代わりに、其方らに課そう。この先、つがいの魂が永久に現れぬことを覚悟するがいい……」
「蒼くん……? 蒼くん?」
「夏穂……?」
まぶたをゆっくりと開けて、声のする方へと体を向ける。
「大丈夫……?」
「うん、大丈夫みたい。夏穂も大丈夫?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
どうやら、夏穂の方がほんの少し早く、意識が戻ったようだ。
「ねぇ、蒼くん? 何か変な声、聞こえた?」
まじまじと僕の顔を見つめて質問してきた。僕は正直に答える。
「うん、しっかり聞こえた。条件まで……。でも、つがいのたま? し? って何だろう?」
「私も確証はないけれど……。つがいの魂って言ってた気がする。つがいは、対になる雄と雌とか、夫婦とかの意味があるよね」
「なるほど。それの魂ってことは……要は、運命の出会いが無くなりましたってこと?」
「そういうことかも……」
僕たちは数秒見つめ合った。口角と両頬が徐々に上がり、目を細める。
「はっはっは! 僕たちにとって、困らない条件だったね!」
「はは、そうだね、蒼くん。私たち、もう出会っちゃってるもんね!」
想像していなかったノーリスクにあっけにとられながらも、喜びを分かち合った。
僕たちは石造りの階段の最上段に腰を下ろして、余韻に浸った。
階段から入り口側を見た時、参道の傍らに骨組みだけになった傘と、欠けた茶碗が見えた。
「それにしても、神様ってほんとにいるんだね~! 私、実はちょっと半信半疑だったから、びっくりしちゃった」
「え~!? 僕のことを引っ張るようにしてここまで来たから、てっきり夏穂の方が信じてるもんだと思ってたよ!」
「それは、蒼くんのためだよ?」
首を傾げながら、僕の顔を覗きこむ。上目遣いになった夏穂の顔に見惚れて、にやけそうになった口元を咄嗟に隠した。
「あぁ~、いま蒼くん、照れてるでしょ~!」
「照れてな……そりゃぁ照れるさ! こんなに可愛い子に覗きこまれたら、誰だって照れるって!」
今度は夏穂が口元を隠した。目はにこにこ笑っている。
二人して同じ行動を取りながら、もう一度笑い合った。
「そういえば、狐の嫁入りの話って、なんだったんだろうね?」
「ん~、僕も夏穂も、これ以上運命の人とは出会えない。ということは、将来結婚するのなら、僕は夏穂と、夏穂は僕と……?」
そこまで言って、唐突に顔が熱くなってきた。夏穂は僕の顔を見て言う。
「私は、蒼くんと? なになに?」
夏穂の顔からは笑みがこぼれている、いや、噴き出している。ニヤニヤとしながら、更に僕に問い詰めようとした瞬間だった。
「そうくん! かほちゃん!」
僕は左から、夏穂は右から、声がする後ろの方へと振り返る。
僕たちは顔を合わせて、せーの、と声を揃えて、精一杯の笑顔で伝えた。
「おかえり!!!」
【スミレの花】
僕たちは三人並んで、親子のように手を繋いで、参道の道を戻っていた。
いつの間にか雨も上がって、雲一つない晴天になっていた。
お天気雨の日は、何かいいことが起こる、そんなジンクスが僕の中に芽生えた。
隣からは何やら耳が痛い話が聞こえてくる。
「ひどいよね~! 蒼くんったら、スミレちゃんのこと忘れちゃうなんてさ!」
「そうです……! そうくんはひどすぎます! こんないたいけな少女のことを、十年も思い出さないなんて! それに、夏穂ちゃんのこともずっとほったらかしにするなんて!」
「だ~か~ら~、ごめんねってば~!」
僕が謝ると、二人は揃って笑い出した。女の子が二人集まると強い。さっきまでの可愛らしい夏穂のことが恋しくなった。
「でも、本当に嬉しいです。大好きな二人に、こうしてまた会えて……」
「ほらほら、泣かない泣かない! 涙は大切な時に取っておかないとね!?」
夏穂は言いながら、ポケットから猫が描かれた可愛らしいハンカチを取り出して、少女の顔を拭う。
「なんだかこうしてみると、親子みたいだね」
僕は思ったことを何気なく言葉にした。
「えぇ~!? 私、まだ高校三年生だし、子どもだって生んでないのに~!」
「夏穂ちゃんは、スミレのママはいやなんですか?」
「違うの! いやとかじゃなくて、なんていうかほら、段階的な? ちょっとずつ大人の階段を登ろう的な?」
ぷくっと頬を膨らませて、しかめっ面をしながら僕の顔を見る夏穂。やり返してやったといわんばかりに、得意げな顔をして見せた。よくわかっていない少女を残したまま、僕たちは微笑み合った。
「あ、そういえば蒼くん! スミレちゃんの名前! どうして聞かなかったの!?」
「えっ!? あの時は聞くタイミングなんてなかったんだよ」
「そうくん、スミレの名前ちゃんと覚えてくださいね!」
「は、はい……!」
背筋をピンとして、木々に響く程の声で返事をした。
「スミレの名前は、おじ様からもらった大切な名前なんです」
僕はスミレという名前を祖父が付けたと聞いて、納得した。
「うちのおばあちゃんの名前が 『澄子』で、スミレの花が大好きだったから、おじいちゃんもきっとそこから名付けたんだろうね」
「素敵ね~! 私なんて、夏に生まれたっていうことと、後は響きと画数で決められちゃった名前だよ~!?」
「夏穂って名前も十分素敵だよ、ね? スミレ」
「はい! 夏穂ちゃんの名前すごく好きです!」
「スミレちゃん~、ありがとう~!」
「とっても呼びやすいです!」
「呼びやすいからか~い!」
僕と夏穂が二人でスミレにツッコミを入れた。
その声は綺麗にハモっていて、三人でまた大笑いした。
僕たちしかいない参道に、幸せそうな声が響き渡った――。
【エピローグ】
「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」
店は多くの人で賑わっている。今のお客様でカウンター席、テーブル席ともにほぼ満席だ。
昨日まで十年に一度クラスの大雨が降っていたが、今日は一転して雲一つない快晴。みんな外に出たくてウズウズしているのだろう。
「はい、蒼くん。二番テーブル綺麗になったよ。お客さん、リンゴゼリー美味しかったってさ!」
「それはよかったよ、ありがとう。それじゃ、すぐで悪いけど、次は三番テーブルにこの蒼君ブレンドと、コッペパンを持って行ってあげて。このトリュフチョコは、サービスって伝えてね」
「了解~!」
「あ、スミレは?」
「さっきね、友達に誘われて、遊びに出かけたよ。『帰ったらコッペパン食べるから、よろしくね!』って言ってた」
「全く……仕方ないなぁ」
僕と夏穂は笑い合いながら、仕事を続ける。胸元に付けているスミレのネックレスを優しく撫でた。
「お店が忙しい時くらい、手伝ってくれたらいいのに……」
ひとり言をつぶやきながら、レトロプリンに使う卵液を混ぜる。
手伝って欲しい相手はスミレではなく、マスターだった。
祖父とマスターはあの一件から意気投合し、最近はバイクでツーリングに行ったり、海に釣りに行ったりと、大人を楽しんでいる。あそこまで謳歌しているのを見ていると、マスターの亡くなった妻、夏穂の祖母に当たる人は、もしかしたら、こう願ったんじゃないかと思っている。
「旦那が幸せに暮らせますように……」
愛を知って、まだ十年くらいの僕には、そう思えて仕方ない。夏穂はどう思うのか、今度聞いてみよう。
左手の薬指を撫でながら、そんなことを思った。
カランカランと、ベルが心地良い音を立てた。
「いらっしゃいませ~、お好きな席へどうぞ!」
スーツを着て、ビジネスバッグを持つ男性が来店した。開いてる席をキョロキョロと探す。
「ごめんなさい、こちらへどうぞ。お好きな席とは言ってみたものの、僕の目の前のカウンター席しか空いてないですもんね」
僕は浅く頭を下げながら、笑顔で伝えた。
「ありがとうございます」
男性も笑顔で応えながら、入り口から近く、五脚設置されている内の一番端のカウンター席に座った。鳥の巣のようなふわりとしたもじゃもじゃ頭をぽりぽりと掻きながら、メニューを開いた。
僕は水を差しだしながら、なんとなく元気がなさそうな男性に声をかけた。
「今日は祝日なのに、大変ですね?」
「あっ? えぇ、そうなんですよね。うちの会社、休みがあって無いようなもので……」
「あらあら、それはさぞ大変でしょう。よかったらどうぞ、サービスです」
桜の形をした薄灰色の小鉢に、まん丸なトリュフチョコを二個ほど乗せて渡した。
「いいんですか……? ありがとうございます。わたし、チョコ大好きなんですよ」
「それはよかった、ぜひ召し上がってください」
男性はぷっくりと可愛らしい指でトリュフを掴み、小さな口に入れた。
「美味しいですね……」
「ありがとうございます。よければ、こちらもどうぞ」
「おっと、コーヒーまで?」
「はい、これもサービスです。蒼君ブレンドって言うんです。チョコと相性バッチリですよ」
おでこに四、五本ほど、深めのしわを寄せながら、ズズッと口に含んだ。男性は目を閉じて、ハァと静かに息を吐いた。
「とっても美味しいです。こんないいものを、サービスなんかでいいんですか?」
「はい。とてもお疲れのようだったので。僕は誰かの悩みを聞いてあげたり、誰かの心を癒せたらいいなぁ……なんて思いながら、この仕事を始めたんです」
男性は顔をこちらに向けながら、目を瞑ってコクリ、コクリと頷く。
「昔、ある人に言われたんです。出会いを大切にしなさい。自分の信じた道を進みなさい、と」
「ほぉ……それは素敵なことですね」
「ありがとうございます。そうして、ほんの少しの幸せを噛みしめながら日々を過ごす。教訓のような、座右の銘のような……生きる指標のようなものですかね」
「それはまた深いですね……。ふらっと立ち寄った喫茶店で、そんなことまで聞けるとは。人生何があるか分からないですね」
男性はアンパンのような可愛らしい頬を上げて、ニッコリと笑った。
そして、思い出したかのように目を大きく開いて、何度か頷いた。
「あぁ……! それで、このお店の名前なんですね!」
「その通りです」
「改めまして、ようこそ『喫茶一期一会』へ! メニューは何になさいますか?」
僕は首を傾け、飛び切りの笑顔をサービスした。
読了ありがとうございました。
この作品は、わたしが人生で初めて書き上げた物語です。
子供の頃から本を読むのが苦手で、ずっと避けてきました。
しかし、とある音楽家のライブを鑑賞したことをきっかけに、感動を受けるだけではなく、人にそれを与えたいと思いました。
小説家になるための教本を購入して熟読しつつ、約三百ページの小説を生まれて初めて読了しました。
読み終えた時は、映画を見た後のような感動があったのを覚えています。
いつか自分の作品がそういう存在になれることを祈りつつ、これからも物語を書こうと思っています。
本当にありがとうございました。