後編
一方、その頃。勇者はサキュバスの予想通り城から少し離れた場所をべそべそと泣きながら歩いていた。
時折、鼻をすする音や魔王への恨み言を小さく響かせながら歩く勇者は、自分の上を大きな影が通り過ぎたことに気付き、魔物かと臨戦態勢を取る。
この心身の切り替えの早さは流石は勇者と呼ばれるだけのことはあり、歴戦の猛者であることを感じさせる機敏な動きであった。
「むしゃくしゃしてたから丁度いいや!魔物なら何でもいいから八つ当たりしてやる!」
「はぁい、勇者。調子は如何かしら?」
「げぇっ、サキュ姉!?」
地面に降り立った影の正体がサキュバスであることに気付き、その顔を見た勇者はファイティングポーズを取ったまま、思わず後ずさる。
笑顔ではある、しかしその目は笑っておらず、何をしてくれたのかしら?と非常に恐ろしい眼差しをしていたのだ。
「げぇっ、だなんて女の子がはしたないわよ?それで?何をしたのかしら?あのチョコはなに?私と作ったときは味見をしたら上手に出来てたわよね?包装も済ませて、後は渡すだけでOKにしてたのに、どうしてかしら?」
「え、えっとね?怒らない?怒らないって約束してくれたら話すから、落ち着いて、サキュ姉」
「あらぁ、可笑しなことを言うのね?お菓子のことだけに。私は別に怒ってないわよ?私を怒らせたら大したものだわ。それに私はこれ以上ないくらい落ち着いてるわよ。落ち着きすぎていつ噴火するか分からないけど」
間違いなく怒ってる!?勇者はじわりじわりと近づいてくるサキュバスに、じわりじわりと後ずさりして遠ざかる。しかし、後ろに石があることに気付かず、運悪くそれに足を引っ掛けて尻もちをついて転んでしまう。
そして転んだ勇者にサキュバスは近づいていき、ゆっくりと中指の第二関節部を突き出すように拳を握り、そっと突き出した部分を勇者のこめかみに当てる。
「さぁ、勇者。覚悟は済んだかしら?魔王様と私にごめんなさいは?言い訳をする準備はOK?」
「ご、ごめんなさいっ!あの後、やっぱり自分だけで最初から最後まで作ったのを魔王にあげたくなって!それでやっぱりバレンタインならハート型って思って作っちゃったの!包装は包装紙が余ってたから……自分でやりました!素直に言ったんだから、許して!?」
「素直なのはいいことよ?正直に話してくれた良い子の勇者は、うめぼしの刑は軽めにしてあげる」
こめかみに当てた拳をぐっと押し込むようにしながら、ぐりぐりと抉るように動かしていくサキュバス。
普通ならこれくらいでは音を上げない勇者も、魔王に次ぐ実力のサキュバスにこれをされると堪らない。
痛い痛いと悲鳴をあげながらどったんばったんのたうちまわり、逃れようとするもサキュバスはそれを許さず、寧ろ逃げようとすればするほど食い込んで痛くなるようにしていく。
「うぅぅ、まだジンジンする。酷いよサキュ姉……」
「したら駄目って言ったことをするからでしょう。私、言ったわよね?変なアレンジはするな、ハート型は駄目、人に食べさせるものはちゃんと味見しなさいって。だから怒ったの」
お仕置きが終わり、涙目でまだ尻もちをついたままの勇者は恨めしそうにサキュバスを見上げるが、サキュバスはすげなく勇者をあしらい呆れたように言う。
少なくともきちんと味見さえしていれば、あの甘くて塩辛いチョコを贈ってしまうことはなかっただろう。
折角、貴重な休日を潰してまで勇者に付き合ったのに台無しである。
さて、今までのやり取りから分かる通り、二人は友人であり、勇者が魔王に渡す為のチョコ作りをサキュバスは手伝っていたのである。
きっかけはサキュバスが人族の街へ情報収集をしに行ったときのことである。
人間に変身して喫茶店で甘味を堪能していたところに勇者がやってきて、正体を見破られてしまった。
普通の人間にはまず見破られない変身を見破られてしまったものの、街中で戦えば大きな被害が出るということで一時休戦。二人で甘味を食べながらガールズトークに花を咲かせた結果、二人は友人関係になったのである。
そして他人の恋愛の機微には敏いサキュバスは、勇者が魔王に淡い恋心を抱いていたことを見抜いたのだ。
「ごめんなさい、折角だから魔王に一番に食べて欲しくて味見しなかったんだ。そ、それにほら!甘いものに塩をかけると甘みが増すっていうでしょ?」
「……砂糖と塩を間違えた、っていうベタなオチじゃなくて良かったと思うところかしら。それにしても尋常じゃない塩辛さだったけど、何杯入れたのよ」
「大匙に大盛りで、駆け付け三杯、おまけで二杯」
「い・れ・す・ぎ!!魔王様を高血圧にする気!?」
ちなみに駆け付け三杯というのは酒宴の席に遅れてきた者への罰として、立て続けに酒を三杯飲ませたと言う話から来ており、つまり魔王は罰ゲームで塩味のチョコを食べさせられたようなものである。
チョコに塩を入れてると甘みが増すかというと、恐らくそうはならないと思われるので試すのは辞めておいた方が無難であろう。
頭が痛い、というように眉間に指をあてるサキュバスに、恐る恐る勇者が質問する。
「魔王、怒ってなかったかな?僕の事、嫌いになってなかった?」
「あー、怒ってはなかったわね。寧ろそれどころじゃなかったというか……嫌いになってないかっていうのも大丈夫。あの子も貴女のことを心憎からず思ってるんだから。そもそも、好きじゃなかったら説明をされた後にチョコを受け取ったりしないでしょう?」
ふぇ、と泣きそうになりながら聞いてくる勇者に、サキュバスは大丈夫よ、と言うように肩を竦めて首を振る。
そしてサキュバスから伝えられた意外な言葉に勇者は目を丸くして、ふぇぇと赤く染まった頬を両手で包んで、体をくねくねとくねらせ始める。
「貴女と戦った後はいっつも、今回はこういう戦い方をしてきた、仲間を守って自分に一人で向かってきた時の貴女はとても格好良かったとか、勝負を正々堂々、真正面から挑んでくる姿はとても凛としていて美しかったとか、凄く嬉しそうに楽しそうに私に話すんだから。女の子への褒め言葉としてはどうかと思うけど、勇者への褒め言葉としては最高じゃないかしら?」
「わー、喜んでいいのかどうか、複雑ぅ。でも、そうだよね、チョコを受け取ってくれたってことはそういうことだよね。それならちゃんとしたチョコを上げれば良かったなぁ」
もう少し女の子として褒めて欲しかったものの、それでも魔王が自分を好いてくれているということに喜ぶ勇者。それだけに塩チョコを送ったことを悔やんでしまい、項垂れる。
だから言わんこっちゃないとサキュバスは溜息をつき、屈んで勇者の頭をぽんぽんと撫でる。
「まぁ、大丈夫でしょ。あの子、女の子に免疫ないから告白されたってだけで内心では大喜びでしょうし、今頃ベッドの上でごろごろ転がり回ってるんじゃないかしら?好きな子に告白されたって。まぁ、自分の方から告白できなかったのを後悔してるかも知れないけどね。あの子ってそういうのに疎いから、勇者への気持ちが恋心だって気付いてなかったから仕方ないんだけど」
「えへへ、そうだったら嬉しいなぁ。あ、ねぇサキュ姉、さっきから魔王の事をあの子って言ってるけど、大丈夫なの?怒られない?あと、魔王の側にはサキュ姉がいるのに女の子に免疫がないって本当?」
泣いたカラスがもう笑った、項垂れていたのが一転、笑顔になったのを見てサキュバスは苦笑いを浮かべる。
そして勇者からの質問には顎に指先を当てて少し考えてから大丈夫だし、本当よと頷く。
「まぁ、立場上、普段は私が敬ってるけど姉弟同然に過ごしてきたからねぇ。プライベートだとついつい口に出ちゃうのよね。何せあの子が産まれた時から知ってるし、おむつだって変えてあげたことあるし。そのせいもあってか、私、あの子を男だと思ってみてないしあっちも私を女だって思ってないんじゃないかしら。ああ、でもあの子がすっごく小さい頃の話なんだけどね?あの子ったら私のことをおよ……ピィっ!?」
懐かしそうに昔の魔王の想い出を語っていたサキュバスだったが、突如として背後に現れた強烈な怒気を感じて小さく悲鳴を上げて口を閉ざす。
勇者もまたその怒気に青い顔をしてあわあわと慌てており、自分に向けられたものではないとはいえ、余波で動けなくなる。
「ねぇ、勇者。もしかして、今、私の後ろにいるのって最初がまで始まって最後がまで終わる方かしら?」
「えっと、うん。サキュ姉の呼び方だとそうなるかな?私、今まで何度も戦ってるけどこんな怒ってるのは始めて見た」
じゃりっ、じゃりっとこちらへと近づいてくる足音に、振り返ろうにも怒気の強さに振り返れないでいると、ぽん、と肩に手が置かれる。
そして地の底から響いてくるかのような、強烈な怒気を含んだ声で話しかけられる。
「話を聞いていれば、人の忘れたい過去を軽々しく人に話して……そもそも、どうして勇者とお前がそんなに親し気に話しているんだ?」
「や、やぁね?可愛らしいエピソードじゃない。あ、それと私が勇者と仲良くなったのは人間の街で色々あって。お世話になったからそれでなのよ」
年上のお姉さんに、覚えていないとはいえおむつを替えられたことや、お嫁さんになってと言ってしまったというのは、他人が聞けば微笑ましいエピソードではあるが本人に取ってはとてつもなく恥ずかしいことなのである。
それを好意を抱いている相手に暴露されてしまい、流石に普段は冷静な魔王も怒ってしまっていた。
「ねぇ、魔王。話を聞いていればって言ったけど、いつから聞いてたの?どこで聞いてたのかな?さっきまでどこにも姿が見えなかったのに、何で話の内容を知ってるのかなぁ?おかしいよねぇ?」
「あ」
勇者のいぶかしげな問い掛けに魔王の怒気が雲散霧消し、しまったという顔をしてしまう。
そして怒気が消えて動けるようになったサキュバスはそそくさと、自分より小柄な勇者の後ろへ隠れる。
「魔王様、もしかして姿消しの魔法を使われていたのではないですか?」
「姿消しの魔法?」
「名前の通り、姿を見えなくする魔法よ。未熟な者が使うと気配だったりは消せないけど、魔王様ほどの使い手なら、気配も匂いも、魔力さえも感知させることなく姿を消すことが出来るの」
「へぇぇ、そうなんだぁ?」
サキュバスと勇者の会話に冷や汗を浮かべる魔王。勇者とサキュバスの魔力を探って転移の魔法で飛んできたところで二人が何やら話しているのに気づき、何を話しているのか気になって姿消しの魔法で姿を消して盗み聞きしていたのだ。
転移の魔法も、普通ならば空間や魔力のゆらぎを感じさせるのだが、そこは魔王だけあって一切そういうものを発生させずに転移することが可能なのである。
「し、仕方ないであろう!魔力探知で勇者を探していたらサキュバスと一緒にいて、魔力の乱れもないから争っている訳ではないというのは分かったが、それなら何をしているのかとこちらに来てみたら、何やら話し込んでいて……」
「それで、気になって立ち聞きしていたという訳ですね。まったく、女の子の会話を盗み聞きするなんて良くないですよ、魔王様」
サキュバスの言葉に女の子?と言いそうになるものの、鋭い眼光を受けて言葉を飲み込む魔王。
口に出していたら血を見ることになっていたので賢明な判断である。
「ねぇ、魔王。僕を探していたって言ったけど、何か用だったの?えっと、さっきのチョコのこと?ごめんね?ちゃんと出来てたのがあったんだから、そっちをあげれば良かったのに、変なものを食べさせちゃって……」
「いや、チョコの事はいい。私の為にとしてくれたことなのだろう?ならば、私が怒る訳にもいかないだろう。私の分までサキュバスが怒ってくれたからな。そちらのことではなく……チョコを受け取りこそしたが、まだ返事をきちんとしていなかっただろう?」
魔王の言葉にはっとする勇者。バレンタインに告白をされたことならあるものの、したことはなかったので、チョコを渡して受け取って貰えれば嬉しいくらいに思っていたのだ。
なので、今更ながらに自分が魔王に好きだと伝えたことに真っ赤になってしまい、もじもじもじもじと挙動不審になってしまう。
そんな挙動不審な勇者に魔王は今まで一度もしたことがないような優しい笑みを浮かべ、そっと勇者の両手を握る。
「ぴゃっ!?ま、魔王!?」
「勇者、私もお前のことが好きだ。最初は敵同士であったが、何度も戦っている内に、誰よりも真っ直ぐで、何よりも正直なお前に惹かれていた。今回のことで可愛らしい一面を見て、自分の中の気持ちに気付いたよ。もう一度言う、勇者が望むなら何度でも言おう。お前が好きだ、ユレリア」
「あっ、今、名前で……うんっ!僕も魔王、ううん、マルキオスのことが好きだよっ!」
今まで、お互いに情が移ってはいけないと、名前で呼び合うことを避けていた二人だったが、想いが通じ合った今となってはその縛りは無くなっていた。
マルキオスに握られていた手を握り返し、ユレリアも想いを伝える。
そして、そのまま二人が見つめ合い、ゆっくりと顔が近づいていったところで。
「ごほんっ!!」
「うぉわぁっ!?」
「きゃぁっ!?」
サキュバスの大きな咳払いにより、慌てて離れていく二人。
ジト目で二人を見ながら、サキュバスは盛大にため息を零してみせた後、笑顔で拍手を送る。
「色々と手順をすっ飛ばしすぎです。それにそういうのは二人きりのときにして下さいませ。ですが、二人ともおめでとう。見守ってきた身としては二人の想いが通じ合って嬉しいわ。肩の荷が一つ下りた気分よ」
「サキュバス……いや、サーキュリア、ありがとう」
「ありがとう、サキュ姐」
サーキュリアの祝福に照れながらも礼を言う二人。にこにこしながらどういたしまして、と言うように手をひらひらと振るサーキュリア。
ただ、二人がこれから結ばれる為には色々と問題が山積みなので、それを考えると一つ荷が下りたと思ったら複数の荷がのしかかってきたんだけど、と内心で呟く。
まぁ、二人ならそれを乗り越えられるだろうし、自分も手伝えばその問題も片付けられるだろうと思うことにする。
「それでは、魔王様。これからのことについて色々とお話をしないといけませんので、申し訳ありませんが城に戻って頂けますか?勇者、申し訳ないけどいいかしら?」
「ふむ、サキュバスがそういうのなら仕方あるまい。ユレリア……いや、勇者よ。済まぬがそういうことなので、今日はこれで」
「むぅ、仕方ないなぁ。それじゃあ、一か月後、楽しみにしてるからね?」
私的な呼び方から公的な呼び方に代わったのを残念に思いつつも、ここは我儘をいう所ではないと納得してそう言うと、軽く屈伸をしてから勇者は走り去っていった。
ここから一番近い村までは馬で一日はかかったはずだが、と魔王は勇者が走り去った方を見ながらそんなことを思う。
「一か月後を楽しみにしていると言っていたが、何かあるのか?」
「ああ、魔王様はご存じないですよね。一か月後はホワイトデーという行事がありまして、バレンタインデーにチョコを貰った側が告白の返事をしたり、お礼をしたりする日があるのです。お返しするのも色々と決まりごとがあるのですが……それも含めて、城でゆっくり話しましょう」
「なっ!?そんな日があるのか?それでは早く城に戻らなければ!サキュバス、羽は出さなくていい、転移するぞ!」
一か月しか猶予がないではないか、と魔王は慌ててサキュバスの手を握り、城へと転移魔法を発動していく。
いきなり手を握られて、不意打ちだったせいで思わず頬を赤くしてしまうサキュバス。ちょっとこれは本気でまずいわね、と自分の男性への免疫のなさに驚く。弟としか思ってない相手に手を握られてこのありさまでは、このまま喪女一直線になりそうだと戦慄を感じてしまう。
実家から偶に送られてくるお見合い写真、いつもは捨ててるけど今度はきちんと見ておこう、そう思っている内に転移魔法が発動し、二人はその場所から姿を消す。
その後、人族と魔族の垣根を越えた二人の想いは二つの種族を大きく巻き込んだ問題へと発展していくものの、最後は概ね丸く収めることに成功する。
そして、大恋愛の末に人族と魔族が結ばれた初めてのカップルとして祝福され、二人は人魔融合の象徴として末永く語り継がれることになる。
その横では生涯独身を貫き、魔族で初めて聖女の称号を授けられ、永遠の処女と言われたサキュバスの惜しみない献身があったとも伝えられている。