75. 覇王と鬼神の頂
唐突だが、想像してみてほしい。
眼前には抜き身の刃がぎらつきながらも、貴方の命を狩りとろうと刻一刻と近づいてきている。
かく言う貴方は雁字搦めの鎖が巻き付き、果ては数倍の重力がその身にのしかかっている。
さあ、貴方は一体何を思う? 潰える絶望か、それでも尚奇跡を信ずるか、一筋の希望をもって神に祈るか。
許容しなければならない、と何者かが強要せしめようとも、貴方は確固たる意思で生存を貫く通す信念はあるだろうか。
きっと、人間とはどうにもならない理不尽を前にしてしまうと自ずと諦めてしまう生き物なのだろう。
もし、絶望にも、不条理にも、ただ己の力一つで抗う者がいるのなら…………それは人間ではないのだろう。
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寂寥溢れる荒野の一角。
本来ならば赤砂が吹き荒れているのだろうが、こと現在地点に限ってはその限りではない。
灰だ。
では、一体何処から?
答えは簡潔だ。
たった一人の人間から。
魔法? 魔術? 呪術? 奇跡? いいや、違う……剣術だ。
暗黒旅団一番師団団長『鬼の副長』義揮灰三、曲者や猛者の割拠する暗黒旅団において一番師団の長を務め、リーダーであるリードを支える右腕。
平安時代の剣士然とした服装はグレーを基調とし、愛刀紫色・村正を油断なく構える姿に隙はない。
翻って、相対するのは二人の剣士。
剣士本人の背丈よりも高い野太刀を構える人類の護り手の灰峰凶。
十三の魂の結合体である戦乙女、ネメシア。
二人の周囲を吹き荒れる灰の斬撃は容赦なく襲い来たりて、当の灰三は一歩たりとも動いていない。
「……ッ! 想像、以上……ッ!」
「まったく、だなッ! これでは何のために増援として来たのか……!」
純白のワンピースに聖鎧姿のネメシアは穂先より柄に進むにつれて笠の広がる槍にて斬撃を叩き落としながらも、悪態を吐く。
左腕に装備した盾は一度の防御で、まるで切れ味のいい鋏を前にした紙のように綺麗に切断された。
彼女が魔力を練って生成した盾なのだが、ネメシアでは灰三の斬撃、ただ一筋にすら耐えられ得ぬ。
全方向から乱れるように放たれる斬撃は、しかして、まるで意思を持っているかのように的確に生じるために突破口を見つけるのはあまりにも困難。
それは凶もまた同感のように苦虫を踏み潰したような渋面を隠す余裕もない。
「同じ、“灰ノ太刀"なのだがな……ッ!」
もはや疑いようもない事実。
一心不乱に咲き乱れる斬撃の最奥で微動だにせず、まるで斬撃の試練を乗り越え肉薄する者を待ち望むように仁王立ちする男。
現状、凶とネメシアをその場で釘付けにしているその技術、その流派。
それはどこの誰よりも、文字通り血反吐を吐いて鍛え上げた凶こそが知悉しているモノ。
先代より、先先代よりも、それこそ開祖にだって劣ることはないであろうと自負していた灰峰凶を確定せしめる技。
いいや、いらぬ言説控え、認めよう。
義揮灰三は、豪魔流の始祖である、と。
覇をもって魔を討つ、そう在れかしとして連綿と紡がれてきた相伝の技である豪魔流。
数ある術の中で剣術、延いては当主にのみ許された皆伝の秘奥。
それこそが“灰ノ太刀”であり、他の誰よりも凶が熟知しているであろう奇術。
当代では比べる者がおらず、必然と凶こそが党首として十四代目を継ぐこととなった。
しかし、同様の“灰ノ太刀”とはいえ、灰三が党首として正当に認められていたか、とは頷けない。
「…………貴様、名は如何にした」
肚の底から絞り出すように紡いだ言葉は、まるで呪詛のように刻まれた。
凶の一言に込められた意思の重さは、ネメシアの意識を割き、灰三の眉をピクリと動かすに至った。
「豪魔流の当主は名を捨て…………初代当主の名を生涯にわたって継承しなければならない。よもや、知らぬとはいわないであろうな」
「……成程、合点がいった…………故に、貴様はそれを名乗っていたのだな」
今の今まで一言たりとも話さず、片手間で相手に徹していた様子の灰三が始めて凶たちを見据える。
彼を形容する灰色の瞳は刺殺するような眼圧を生じさせ、呼吸すらもままならない重圧を押し付ける。
「その名……灰峰凶は、迂生の一番弟子…………迂生が唯一伝導を赦した者の名だ…………」
「……ッ!? 一番弟子だと……! ならば、貴様は開祖ではなく、始祖と……!」
「かく言う迂生もまた、後継に過ぎんが…………そうか、奴め…………中々どうして誠を貫いたか…………」
まるで剣聖と鎬を削っていたかの時同様に饒舌となった彼の眼は、既に二人から外され虚空を見つめていた。
彼の脳裏に移ろうのは灰峰凶を初めて名乗る男との時間か、はたまた、師との蜜月か。
緩んだ斬撃に戸惑う二人には想像だにしない情景なのだろうが、それでも心中に吹き荒れる因果の糸には戦慄する。
当代の灰峰を継いだ十四代目の初代とは平安の刻である、にも関わらず、義揮灰三は初代灰峰凶を一番弟子と郷愁込めて語った。
確かに、暗黒旅団そのものが世界線全土を旅する“自由”の使徒であり、地球と世界線では時の流れもまた異なるのかもしれない。
だが、だとしても、練り上げられた彼の剣圧は凡そ人ひとりの短い寿命では研鑽しきれない極地にまで到達している。
ならば──
「…………ネメシアには分からない柵。けど、これでハッキリした。暗黒旅団は不老不死……少なくとも、不老ではある」
そも二人の存在など当に忘却した灰三、運命という勧善懲悪をくそくらえと吐き捨てた不届き者を恨む凶では導くことのできない結論。
原理は不明確。
しかし、灰三の存在こそが証拠である。
「…………どうやら、死合の真最中にそぞろになっていたらしい……終わらせねば、なるまい」
空中より視線を下げた灰三は静謐の殺気をもって死合の続行を決めた。
いいや、それは死合ではないのだろう。
ネメシアと凶の二人は現代において強者として十二分の実力を保有している、といっても過言ではない。
しかし、所詮、強者なのだ。
つまりは、相手が悪かった。
「…………【綺羅・三式】」
先の死合によって感覚の研ぎ澄まされた灰三の放つ、不可視に限りなく近しい連撃。
視界の全てが灰の斬撃によって埋め尽くされる。
本能による危機感知の正常に作動したネメシアは間一髪で聖盾を展開し、剣士としての経験から瞬時に豪魔神冥流“覇王”をもって全霊の防衛に入った凶。
二人の行動は最善手であった。
欠缺があるとすれば、たった一つ。
灰三にとっての小手調べの一撃は二人にとって致命の一死となる。
「……ッ! 有り得ない、はず…………!」
「か、ははッ…………! これが、実力差かッ!」
地に膝を折り、睥睨する灰三を驚愕の眼差しで睨むしかできない。
〈聖ドラグシャフ世界線〉より五年近く剣聖の鍛錬に耐え抜き、強くなったのだと自覚していたネメシアの鼻っ柱は見事に粉砕された。
たった一度の技で立ち上がることさえできない圧倒的な実力差。
そも生物として次元が違うとしか思えない。
そう自然と思い浮かんでしまうこと自体、魔力人形である前提を差し引いても灰三の実力が桁外れであることが類推できる。
「これは、死合。相違ないな…………」
一歩一歩と間合いを閉ざす灰三。
それは間違うことなき死を受け入れると同義。
だが、一度身体に刻まれた灰色の恐怖は身動ぎ一つ許さない。
光を反射し淡く見受けられる太刀は着実に命を狩りとろうと接近する。
「【綺羅・一式】──」
刹那に煌めいた斬撃は確かに槍術師と剣士の命を屠るはずであった。
「そこな野太刀の男はどうでもよいが…………彼女はオレの弟子なのでな。悪いが、そう易々と殺らす訳にはいかん」
けれども視界には眩い程に迸る雷の網。
深紅に燃ゆる烈火の如き赤髪に、斬り殺せる程に鋭利な眼力、赤雷を纏うその姿はあまりにも鮮烈であった。
「やはり…………迂生を滾らせるは……貴様だけのようだ」
哂った…………獰猛に、野生的に、それでいて人間味溢れる笑み。
溢れ出る剣圧に無駄は一切となく、剣を交える好敵手を歓迎している。
「ハッ、そっくりそのまま翻そう」
千時剣聖が戦線に復帰した。
ただその事実が、ネメシアの心にのしかかっていた重荷をあっさりと浄化した。
『鬼神』と評される赤雷の剣士は、不敵に笑い、再戦へと身を投じる。
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それは死合などでは到底表すことのできない戦争であった。
一個人が一国の軍事力を体現しているようだ。
一振りで地形を変え、踏み込みで地を抉り、衝突する二つの核弾頭は衝撃波を生む。
練り上げられた灰は鋭利な斬撃と化し襲い来るも、抱擁するかの如き赤雷が相殺する。
その様相は一度目の殺り取りでは見受けられなかった莫大な威力が込められていた。
剣士同士の戦闘だというのに、鉄と鉄の衝突音は耳朶を打たず、代わりに鈍い自然の悲鳴が響き渡っている。
「【螺愚・五式】…………!」
「チッィッ! 重量にも程があるだろうが……ッ! 【旋・無刀】!」
けれど、その勝敗、優劣は火を見るよりも明らかであった。
「これで三度…………生成に回せる余力などないというのに……ッ!」
灰三の人智を超える暴力に加え、彼自身の爆発的な魔力に耐え切れず【剣の刻印魔法】にて生成した刀は持ちこたえられないのだ。
所詮は魔力を練って生成したに過ぎないのだ。
神話の大戦争もかくや、とされる戦闘にはついていけない。
「(…………致し方あるまいよ。今のオレは相応しいのか、試してやろうではないか)」
「………………居合だと」
「…………! ご主人様っ!」
“灰ノ太刀”と灰三の猛攻の最中、彼の取った行動はあまりにも異質に写った。
構えていた刀を虚空に溶かし、腰に差した唯一の刀へと手を伸ばしたのだ。
それも常に致命となり得る死の嵐に身を削られながら、居合を選択した。
閉ざされた瞳、一寸の隙も見出せない圧倒的な集中力は彼が正気であることを何よりも証明している。
「愉快………魅せてみろ、迂生に。その剣を…………!」
訝しむ灰三であったが、剣聖の剣圧を前に正面よりの突破を選択。
経験上、海千山千の猛者を相手にしてきたが剣聖のように死を目前にして、完全なる静を見せた者は皆無。
なれば、そこに一種の興味を宿すのもまた必然であるのだ。
「【爆愚・三式】……ッ!」
大振りの爆愚、それも最終式である三式は相応の予備動作が必要とされる。
それ故に、齎される破壊は常人の斬撃とは比べるまでもない。
「────【迅・無刀】」
だが、眼前に示しだされたのは灰三の予想だにしない情景。
質量を伴った三式は細く、緻密な一筋の雷に一刀の元に切り伏せられたのだ。
鼓膜をつんざく衝撃すら伴ったそれは、音速を超える初速を誇る。
たかが、居合。
されど、居合。
逆袈裟の要領で刻まれた斬撃は、深奥で暴れ回る雷と共に灰三へと声にならない衝撃を与えた。
初動は捉えられず、気付いた時には鮮烈な痛みが叩き込まれていた。
「鬼を活かす剣──鬼活剣だ」
鞘から開放されたそれは見事な波紋を描き、刀身は透き通る薄紅色をしていた。
眼を奪われる程に優れているが、何よりも釘付けにするは形容できない禍々しさであろう。
「よもや…………獲物を違えた程度で、これほどとは」
「フンッ! これをそこいらの鈍らと同列に語るな。数ある妖刀の中でも随一に狂気を内包している」
「狂気を含む…………いいや、狂気を見定めているのか」
「然り。剣がヒトを選定する、など戯言とばかり思っていたが。奇怪なことに十年前のオレでは抜けなんだ」
心底苛立ち吐き捨てる剣聖の様子からは虚偽とは到底思えない。
だとするのなら、鬼活剣はこの時点での剣聖を主と認め力を貸した、とされるのだ。
だが、そうでもないと納得できない。
素人目に見ても尋常ではない剣圧を誇る剣聖は、たった一振りの刀で数段階も格を上げたように感じられる。
「は、はは…………ははははッ! 見事、千時剣聖。それでこそ、迂生を滾らせる──ッ!」
音が凪いだ。
この世一切の有象無象がひれ伏すであろう圧が、心の底から愉しみ、悦楽に浸る男から発せられた。
光が収束され、魔力が途轍もない速度で練り上げられる。
眩い光と必然的に生まれる影は、見惚れる程の対比美を生み出す。
「…………はっ、まったく嫌になるね。かつての先達は豪魔の秘奥すら使うのか」
自嘲気味に嗤う凶のみが、事の重大ささに気づけていた。
かつて敵となり得た同門に対し、他でもない凶自身が使用した豪魔流当主にのみ許された奥義。
──豪魔神冥流“覇王”
「互いに二の手を引き出した、か」
「然り……故に、迂生と貴様はここに真の対等とならん」
今代最強格の両名にとって、間合いの概念などないに等しい。
五感に響く全てが己の領域。
真禍極限流の“鬼神”と豪魔神冥流の“覇王”。
古今東西の剣客すら霞んで見える両者の構えは、正に規格外の一言に尽きる。
与えた手傷は少なくとも、決着は存外早く着くのだろう。
剣聖と灰三はその事実を誰よりも感覚で理解し得ていた。




