47. 『 』は『 』へと──
目が覚めるという表現が正しいのかわからない。
しかし、事実立ち込めていた暗雲が退けられ、意識が覚醒する感覚はあるので凡その意味は正しいのだろう。
まるで墨汁をひっくり返したかの如き漆黒の中で、気だるげにむくりと身体を起こそうとする影。
豊満な果実をサラシで巻いただけの上半身に、美脚をこれでもかと強調するタイトな黒の長ズボン。
実にシンプルで妖艶な彼女の最大の魅力は、その身に纏う抱擁感であり甘えたい、という欲望を掻き立てる。
だが、半身を起こそうとした彼女の動きはガチャリッと無機質な音と共に半端な形で阻害された。
「……? 誰かな〜〜?」
相も変わらずおっとりとした口調ではあるが、その言葉に含まれた“圧”は普段の彼女とは比べ物にならない程に巨大である。
鋭い眼光で行動を阻害した原因に目を向ける絶世の美女──千百合は己の四肢を縛り十字の形で拘束している金色の鎖を捉えた。
背中に感じる金属特有の冷たさを意識の隅に追いやって【消失の素粒子】による解放を画するが、彼女の思惑はまたも阻害される。
「……ッ、【刻印魔法】が使えないですって〜〜? ちょ〜〜とだけマズいかも〜〜」
「《相変わらず危険性の把握が苦手なようね〜〜。ちょっとだけじゃなくて〜〜、すっご〜〜くマズいんじゃな〜〜い?》」
「ふゎぁぁああ〜〜っ! まさかまさか〜〜……私なの〜〜!? なんだか気持ち悪い感じ〜〜!」
千百合の身に刻まれた【消失の刻印魔法】第四段階“消失の素粒子”では、“黒砂”と呼ばれる素粒子を視覚化したものに触れてしまえば如何なる物質であっても消失させることが可能である。
だが、そもそも【刻印魔法】の使用ができなければ意味がない。
そんなただでさえてんやわんやな状況で、自分と瓜二つの謎の美女(手前で言うか)に声をかけられれば心音も自然と上がってしまう。
千百合にしてみれば漆黒の空間内に身を置いている経緯すら不明であるために、まさか声をかけられるとは思わなかったのが原因だろう。
改めて現状把握に努めようとするが、四肢を縛る鎖の違和感に加え、ニタニタと含み笑いをして見つめるもう一人の千百合の存在に思考を奪われ一向に進まない。
「《だから〜〜、危機管理が杜撰って言ってるでしょ〜〜》」
「……っん。ちょ、ちょっと〜〜!」
「《あなたは身動きが取れな〜〜い。抵抗することも〜〜、刺激を逃すために身じろぎもできな〜〜い。ど〜〜ぉ? わかってきたかしら〜〜?》」
「だ、からってっ! そん……なところっ、触らなくても……ぅんっ! いいでしょ〜〜!」
自由な千百合は緩慢な動きで近づき、十字に縛られているために持ち上げられた千百合のたわわに実った果実を横からなぞっていく。
妙に手慣れた千百合の動きは時折女性にとっては不用意に触られてはならない突起にも躊躇せず到達した。
しかし、いやらしい感覚には陥らず、切なく物足らない感覚に押し上げられてしまう。
サラシを巻いただけの彼女では抵抗するための防御壁もなく、下腹部から込み上げてくる刺激を脳内から追い出そうとするが、動きの制限された中では限度があり意味をなさなかった。
「《上下関係はし〜〜かりと叩き込まなきゃなね〜〜。あなたもそう思うでしょ〜〜?》」
「……ッ、どうか…………んね〜〜。分からされるのは〜〜、すこ〜〜しだけ……腹立たしいけれどね〜〜」
「《や〜〜ぱり、生意気ね〜〜。まあ〜〜、それが私でしょうけどね〜〜》」
己の命すら握られている状況であるにも関わらず、不適な笑みを浮かべて挑発する千百合。
しかし、不本意ながらも相手は自分なのだ。
取るべき行動、行き着くであろう思考、その何もかもを把握されている。
そのためか、現段階で挑発といった精神攻撃に意味はなく、却って、物理的な行動が制限され反撃不可能であると表すようなものである。
「それで〜〜? こんな大層な仕掛けまで用意して〜〜、あなたは何が狙いなのかしら〜〜? まさか〜〜、私にセクハラするためだけってことはないでしょ〜〜?」
「《そうね〜〜、とりあえず〜〜、あなたがまだまだ余裕綽々だってことはわかったわ〜〜》」
「ん〜〜? もしかして〜〜、あの程度の愛撫で私がビビるとでも思った〜〜?」
「《いいえ〜〜。千花ちゃんの一人格に過ぎないお人形に〜〜、快楽なんて期待するわけないじゃな〜〜い》」
「………………なるほどね〜〜。そういうこと〜〜」
時間にすれば数秒に過ぎない沈黙の後、何食わぬ顔で返答する千百合。
しかし、その内心は嵐の海が如く大荒れ模様であった。
彼女自身、気にしているかと問われれば無論心の片隅に、まるで魚の小骨が刺さったように違和感として存在はしていた。
背中を預けれらる仲間たち、千花はもちろんのこと、時雨やミリソラシアは千百合の出生をその目で確認している。
今思い出すと懐かしさに胸を引き締められるが、自分と瓜二つの気味が悪い存在に言われてしまえば嫌悪感の方が優ってしまう。
「《ねえ〜〜、あなたはどう思う〜〜? 人間としては出来損ないの過ぎる自分のこと〜〜》」
「…………ほんっと〜〜、性格悪いわね〜〜」
「《人の心に土足で踏み入って〜〜、勝手に食料を食い漁るあなたをよく〜〜く表してるわね〜〜。性格悪いってことば〜〜》」
目の前の千百合が一言一言、腹立たしい程に間延びした口調で話すたびに彼女の脳内にはかつての記憶がフラッシュバックする。
いいや、そんな生やさしいものではない。
かつては裏千花と名乗っていた頃の自分、それは千花の精神が弱りきったところを狙いすました立派な侵食であった。
今では親友として笑い合える時雨やミリソラシアにも無遠慮に牙を剥き、あまつさえ殺そうとすらしていた自分。
根拠のない殺意が、己ではない何者かによって植え付けられたのではないかと錯覚してしまう憎悪、そして、それらを受け入れて嗤う自分。
「《明言を避けないでほしいな〜〜って、私はきぃ〜〜っとすっごく可哀想なあなたに問うわ〜〜》」
「……、ぅん〜〜? なんの話だっけ〜〜? 私が超絶可愛いって話だっけ〜〜?」
映画のフィルムが矢継ぎ早に転写されるように過去の記憶に翻弄されていた千百合だが、彼女──ややこしいから裏千花としよう……うん、当てつけなんかじゃないよ?
「《あなたってほんっとに哀れよね〜〜》」
「……なんですって〜〜?」
「《あら〜〜? ようやく魅せてくれたわね〜〜、刻印の千百合を〜〜》」
腹立たしい程の笑顔を見せ、ニヤニヤと微笑む裏千花。
しかし、微笑みの中には薄れることのない“感情”の波があった。
それは紛れもなく千百合の在り方を糾弾するものであり、他の誰が許容しても、認めることはない不屈の意志が感じられる。
「…………けっきょく~~、あなたは何が言いたいの~~? そうやってねちねち話すだけじゃ~~、何も伝わらないわよ~~」
「《あらそう~~? ならハッキリ言わせてもらおうかしら~~。迷惑なのよ~~、あなた~~》」
正直にいって、千百合には一言も発することはできなかった。
ただどんな罵詈雑言が飛んでくるのか、と無意識に警戒していたために虚を突かれた側面もある。
だが、そんなことどうでもよかった。
如何なる批判よりも、どのような“負の感情”よりも、確定的な“死”よりも、彼女の言葉は確かに千百合の心を抉ったのだ。
──迷惑な存在
呪われた出生を持ち、一人格程度が愛される命を奪ってまで生誕を飾ろうとした。
栖本千百合はそも原点が違えているのだ、と自分自身に蔑まれたも同然なのだ。
「…………あなたが私のことを認めたくないのはよ~~くわかったわ~~。でも~~、だからって~~、私がどうこうする訳はないんじゃな~~い?」
四肢を縛られ身動ぎ一つ許されていない状況であっても、千百合は一歩も引かない。
それどころか、まるで戦場にいるのではないかと思わせる眼光をもって裏千花を睨み返す。
かの『魔皇』に匹敵するであろう『鬼神』を己の身に降ろすように、相手に対して負けることのない不敵な笑みすら浮かべている。
「《ええ~~、そうよね~~。生き汚いあなたがそう簡単に生を諦めるわけないものね~~》」
だが、千百合の抵抗などどこ吹く風とばかりに受け流す裏千花。
彼女の瞳には妖しげな光が宿っており、千百合にとってはかつての自分を想起させる居心地の悪いものと化している。
「《でもね~~、私は疑問に思うのよね~~。あなたには~~、“愛”はあるのかしら~~?》」
「“愛”ですって~~? あるにきまってるじゃな~~い。私は~~っ」
「《ならどうして~~、ナーラちゃんを殺そうとしたの~~?》」
「…………ッ!? いいえ~~、あれは~~ッ!」
千百合の脳内に去来する韓燕譚と斉楚趙との戦線。
首都“洛邑”に攻め入る斉楚趙軍、千百合は韓燕譚の防衛を任されたナーラと相対したのだ。
ナーラと韓燕譚軍、そして時雨の戦略的支援を前にして枷を背負った千百合では攻め手にかけていた。
そう、故に────斉楚趙の勝利と大義のために、殺しを許容したのだ。
相手は〈聖ドラグシャフ世界線〉からの仲間で、それも時雨が心を許している程に素直で真面目な娘。
出会った当初は過激な尋問によってナーラには恐怖の感情を持たれていた千百合。
だが、それも仕方のないことであり、殊更気にすることでもないと諦観していた。
そんな見切りを付けていた千百合と違って、痛みも恐怖もあるだろうに臆さずに声をかけてきたナーラ。
後方支援を得手とし、正面戦闘能力のないにも関わらず最前線まで勇気を振り絞って現れたナーラに、敬意を示すことなく、外敵として認識し屠ろうとした。
さて、ではここで裏千花から投げかけられた設問に戻ろうか。
「《勝利のためなら仕方ないって~~? ねえ~~、千百合ちゃん、大義と命を天秤に乗せてしまうあなたに〜~、“愛”なんてあるのかしら~~?》」
「…………ッ、……」
もはや、千百合には返す言葉が思い浮かばなかった。
心中を見透かすように放たれた言葉の弾丸は、脆く柔肌のような千百合の精神を異常なスピードで削っていった。
本来ならば協力して現状を打開するべきであったのに、勝利よりも平和を選択しなければならなかったとういのに────ここにいる『死神』は殺しをもって解決しようとした。
確かに、あの刻は“不神物”の出現によって共同戦線が張られたために、ナーラに向けた鎌を外すことができた。
しかし、もし、仮定の話ではあるが、“不神物”が現れずに戦線が続いていたら? ナーラ、韓燕譚軍、時雨の均衡が何らかのアクシデントで崩れていたら?
勝利と大義を前に目の眩んだ『死神』は一体何をしていたのだろうか?
「《んふふ~~、知りたい~~? あなたの奥底に眠る『死神』の存在を~~》」
「……ッ! いいえ~~ッ! 必要ないわ~~!」
言いようのない悪寒。
先にも増して一層妖しい笑みを浮かべている裏千花を前に、千百合の本能が警鐘を鳴らしたのだ。
────これ以上はマズイ、と
「《大丈夫よ~~、視るのは簡単だから~~。まあ~~、耐えるのは難しいでしょうけど~~》」
「……ッ! あなた~~ッ!」
しかし、漆黒に包まれた空間では抗議の声は虚しく響くばかり。
ろくな抵抗すらも許されない千百合では抵抗もたかが知れており、気づいた頃には、その意識は闇の中に溶け込んでいた。




