41. 『女神』による裁定
途切れ途切れの場面がツギハギになって脳内で再生される。
この世で唯一“愛”を向けられる相手である準一郎は既にこの世に亡く、あの悍ましい部屋で現実と直面した時には己のものとは思えない絶叫が喉を灼いていた。
狂おしい程の喪失感、我を失ってしまうのではないかと錯覚してしまう虚無感、そして、何より向ける者の居なくなった所在なき巨大な“愛”。
この絶望のみを与える無慈悲な世界で、たった一人で誰にも受け入れられない“愛”を抱えて生き永らえる。
想像しただけで発狂死してしまう。
事実、準一郎が千花を解放した瞬間には自分の“愛”が赦された、受け入れられたと歓喜に胸の中を支配された。
だが、現実はあまりにも酷な結果に終わってしまった。
準一郎が死んだ? 何故? 誰のせいで? ………………ははっ、分かっているだろう?
栖本千花という不純物が存在するだけで、玲奈と郷次郎の運命を狂わせてしまった。
その歯車の崩壊が準一郎の定めすらも、あらぬ方向に捻じ曲げてしまった。
──理解したくなかった。
自分の身勝手な“愛”のせいで命が消えたことに。
──憎悪すらなく、諦観だけに支配される
諸悪の根源たる“愛”を保有しているのは千花だというのに、最後まで生き残っているのは千花一人という現実
──心底絶望している自分に反吐がでる
自分自身でも勘づいている、抗いがたい“愛の波動”に呑まれてしまったが故に起こってしまった現実に。
ただただ足元から崩れていってしまう“絶望”に打ちひしがれながらも、それでも、足は止まらない。
“愛”のためならば、命を直接奪うような痛みすら頭の片隅に追いやり、幽鬼の如き足取りであるが、それでも一歩一歩を確実に踏みしめられる己の本性に、より一層の“絶望”を抱えて。
最低限の栄養のみで生かされていたがために、あまりにも細い腕で、想像を絶する程に軽い全体重をかけて扉をこじ開ける。
もはや失望に届いてしまう飽くなき“愛”。
己でも何が何だかわからない、ただただそこにある“愛”。
声を出して泣きたくとも、既に流すために必要な水分のない瞳からは何も流れない。
あるのは絶望に色を失った、憎らしい程に、殺したい程に“愛”に貪欲な意地汚い“怪物”。
「………………ね、──────っ」
地獄から這い上がる亡者を彷彿とさせる彼女は、手放しかけた意識を“愛”によって強制的に現実に戻される。
“愛”のために生きているのではない。
“愛”のために生かされているのだ。
「……し…………、──────ッ!」
久しく感じていなかった自然の光は、血に濡れ、衣服の代わりに巻かれた包帯を軽く超えてレーザーのように肌を突き刺す。
しかし、“何か”を求めてやまない“愛”は決してその歩みを止めてくれない。
幾ら千花の身体が痛みに叫ぼうとも、意思に反して“愛”が身体を動かす。
壊れた愚鈍で哀れな技巧人形という言葉がこれ以上似合う者は世界広し、といえども存在しないであろう。
「…………し……、────ね──ッ! わ゛──…………たしッ!」
憎悪と恐怖から解放され、より色濃い“呪縛”に囚われた少女の魂から搾り取られた言葉は、一点の曇りのない“愛ある言葉”であった。
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火刑に処すが如く照りつけていた光が消え去り、代わりに洪水のような雫が降り注ぐようになってどれほど経ったであろうか。
身体の芯から冷気に蝕まれ、皮膚が一枚の分厚いゴムのように感じられ、残りカスのように細い生命の糸が途切れかける。
だが、“愛”は千花という依代をそう簡単には離そうとしない。
刻一刻と目の前が漆黒に支配される感覚に、憎き“愛”の魔の手から逃れられる瞬間を心待ちにしていた千花が、最後の力を振り絞って視線を傍らの公園へと投げ入れた。
────その瞬間、熱を奪う冷気も、生き地獄を与える“愛”も、千花を縛る全ての事象が消え去った。
────或るのは、言葉を失う程に衝撃を与えた“耽美なる女神”だけであった
まるで己への戒めのように雫に打たれ、天を仰いでいる少女。
歳のほどは千花と同じ程度であろうが、纏っている“覇気”は妖艶な大人のそれ。
引き込まれてしまう程に艶やかな漆黒の長髪、世界有数の彫刻家ですら裸足で逃げてしまうであろう陶器のような肌。
濃い蒼のジーンズは目を奪われる美脚を引き立たせ、小さなロゴのみが印字されたシンプルな白のティーシャツ、ありふれた服装だというのに、彼女が着るとまるで印象が違う。
あまりに現実離れした美しさに身体中を駆け抜ける“痛み”も、呪詛を吐いていた世界にも、意識の片隅にすら残っていない。
一秒だったか、一時間だったか、はたまた一日であるか、体感時間が当てにならない感覚に陥った千花の視線の先、雫に濡れ背徳的な美貌の持ち主がフッ──っと視線をずらした。
“耽美なる女神”は目があった瞬間こそ驚愕に固まったが、すぐに千花の元まで駆け寄ってきた。
しかし、千花には物事の移り変わり全てが遅れて感じられた。
悠久の時を生ける正真正銘の『女神』と聞いても疑う者はいないであろう、そんな存在と目があった、ばかりでなく、彼女の元まで駆けて来るのだ。
存在そのものに叱責を加えていたであろう世界の音は既になく、千花自身の小さな心が脈打つ激しい鼓動だけに支配されていた。
「あ、あなたっ! なんて格好で外出しているの!? すぐに着替えなさい」
目と鼻の先には神がてずから創造したであろう美術品かと錯覚してしまう程に美しい少女。
濡れた長髪から滴る雫ですら目の前の『女神』を引き立たせためだけに存在する、いいや、世界ですら彼女という『女神』を美しく存在させるための器にしか思えない。
「────……………………………き、れい」
「はぇ? す、すこしだけ待ってくれるかしら? あなた、自分の状態をわかっているのかしらっ!?」
なんて、素晴らしいのだろう。
ただでさえ千花は『女神』と邂逅できただけで人生で感じたことのない幸福に満ちていたというのに、彼女は包帯だらけの愚者を心の底から憂いている。
その本音が、その優しさが、どんな良薬よりも千花の傷を癒していく。
少し上擦ったように感じられる『女神』であるが、身体は冷静に成すべきことわかっているようで、周囲を見渡し大人の姿を探しているように見える。
「………………、わっぁ──たし……、…………」
「……っ! あ、あなた血がっ! それに……何て量……ッ! 何があったと言うのッ!?」
どうやら『女神』が語るところによると千花は流血しているらしい。
だが、今この瞬間だけは、あの想像を絶する苦痛は嘘のように感じられない。
──“痛み”も、“絶望”も、『女神』の“愛”は溶かしてくれたから。
「……、────あな、たに────邂逅えてよかったっ」
「……っ!? 待ちなさいっ!」
何やら『女神』が声を張り上げているが、もう、どうでもいい。
千花という取るに足らない、“愛”に呪われた存在を視てくれる者がいると分かっただけで満足なのだ。
強張った両脚の力を抜こう。
“痛み”耐えるために力を入れ続けた身体を休ませよう。
ああ、今ならわかる。
今、この瞬間、私は笑っていると。
もし、もし、世界が千花という存在を赦し、このちっぽけな命が繋がるなら──この日のことは忘れない。
あまり鮮烈な“耽美の奔流”を、慈悲深い『女神』のことを、まるで『女神』を象徴するような時雨の日を──
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黒い、暗い、この世界の闇を一点に凝縮したかのような空間。
しかし、既に空間には取り返しのつかない程に大きな亀裂が、至る所に存在した。
「終いでありんす。そなたも理解したでありんしょう? 小娘の“愛”を」
「《不可解。不明瞭。模糊たる概念では救えない》」
「いいやッ、救えるのでありんすッ! そなたが諦めた少女はッ、諦めない者によって生きるのでありんすッ」
亀裂からは止めなく眩い光が溢れ、『女神』と“概念生命体”しか息づかない世界を照らす。
『女神』を縛る鎖は当に千切れ、二人は完全な対等たる位において最後の対談を行う。
「《前例なし。許容可能性は皆無》」
「そなたの許可などいらんでありんすッ! “愛”に苦しめられたあの娘の人生を、諦めたそなたなんぞに決められてたまるかでありんすえッ!」
「《“愛”を知らず、“愛”に生きる。滑稽に過ぎる。愚鈍極まる》」
「それでいいのでありんすよッ! 小娘はそれで、いいッ! 知らぬものがあるなら余が、このフレイヤが隣に立って探すでありんすッ! “否定”する者がいるのなら余が護るでありんすッ! 余はッ! 栖本千花の運命共同体でありんすからッ!」
相手が誰であろうとも、フレイヤは受けて立つ。
例え、世界全体と形容できるモノであろうとも。
それが、“信美なる女神”の在り方であるから。
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どこか落ち着くような苔むした香りが鼻腔を刺激する。
本来ならば、そのまま皆とお茶会を開催したいところではあるが、この香りこそが長い“過去”の終焉を意味している。
見渡す限り露出した地盤、途方もない深さの“大孔”。
その深淵において大の字で寝転がり、白い点とかした“大孔”の出発点を見上げる美女。
露出の抑えられた深緋色にチャイナドレスが汚れることも厭わずに、身じろぎ一つしない彼女は、心なしか安堵の表情に沈んでいた。
「……………………ありがとね」
「≪………………何がでありんすか?≫」
「ん〜、色々……かな?」
「≪何故に疑問形でありんすか?≫」
「確かに…………ぷっ、ははははははっ! ありがとうっ! ほんっとうにっ!」
「≪はっ、余にとっては朝飯前でありんすよ≫」
辿々しい感謝の言葉で始まった千花とフレイヤの会話は、段々と明るいものへと変わっていった。
何か憑き物が消え去ったように清々しい笑みを浮かべて、フレイヤが現実に存在していたとすれば、そのまま抱きついてしまいそうな勢いだ。
「……私ね、思い出したよ。ずうぅと霧がかかったみたいにぼんやりしてた記憶」
「≪人間の記憶とは概してそういうふうにできているでありんすよ。まして、まだ童の小娘にどうこうできるものでもないでありんす。気に病む必要はないでありんすえ≫」
「ふぅ〜ん……励ましてくれるんだあ」
「≪……っ! な、何でありんすかっ! そ、その顔やめるでありんすっ!≫」
今まで千花の見せたニマニマ顔、それも飛び切り心温まる表情。
しかし、相手はフレイヤだ。
人慣れしていない彼女には照れ隠しさせる効果が大きすぎる。
「……あの後ね、包帯に血だらけの私を見かねた時雨が家まで連れてってくれて。そこから、交流が始まったんだ。わたしがマトモになるまで時雨の家に居候させてもらったんだ」
「≪そうでありんすか……大変でありんしたか?≫」
「うぅ〜ん……そうだね。三年間まともなご飯食べてなかったし。学校も長期療養ってことで休学してたし。それに……毎晩毎晩、眠ろうとするとね、あの天井が視えるんだ……うん、そうだった。その度に自分が自分じゃなくなっちゃったみたいな感じがしてね、喉が壊れるまで叫んでた」
「≪………………それは今も、でありんすか?≫」
「そうだね……正直に言っちゃうと、異質ーーかな」
「≪異質、でありんすか?≫」
「うん、そう。朝ね、目が覚めると……嫌でも天井が見えるでしょ? それが、ちょっとだけ……重なっちゃうんだよね」
傷口に触るようにゆっくりと、凝り固まった身体をほぐしていくように優しく。
フレイヤの問い方があまりにも心の底から千花を思っているからか、彼女もまた、まるで親に甘えるような声色に変わってしまう。
そう、既に二人の関係性は出会った当初から大きく変化した。
フレイヤにとって、千花は憎ったらしい怨敵から、護りたいと願う愛娘に。
千花にとっては、“愛”する仲間を甚振った敵から、甘えたいと渇望する母親に。
数えきれない悲劇を視てきたフレイヤですら、目を覆いたくなる程に凄惨な千花の“過去”。
かつてフレイヤがくだらない、と吐き捨てた“愛”に苦しめられた千花を、護りたいと願ってしまったのだ。
「あの“過去”ってさ……ほんとなんだね」
「≪……? 真意が掴めんでありんすね≫」
「──抗えッ! って言葉。聞いたら懐かしくなっちゃった」
「≪……ッ!? そ、それはッ! 時間的超越矛盾でありんすかッ!?≫」
「うん。あの“過去”はただ過去を過去として投影してるんじゃなかった。“過去”を“現在”で再演したんだよ」
「≪そして……再演結果が“本来の過去”として上書きされる…………知らなかったでありんす≫」
それは神代の魔術を知るフレイヤですら予想できなかった禁忌の所業。
歴史を思うがままに改変することのできる、正しく神に等しい、いいや、神を超える超絶技巧。
「私も。そりゃあ、“世界の意志”も怒っちゃうよね…………でも、だから私は嬉しいんだ」
「≪嬉しい? 何がでありんすか? 無自覚とはいえ、歴史改変手を染めてしまったのでありんすよ?≫」
「だって、本当にフレイヤが私を助けてくれたんだよ? “投影された偽物の私”じゃなくて……“本当に助けて欲しかった私”を……ッ、護ってくれたんだよっ? ねえ、フレイヤ…………私を助けてくれてっ、ありがとう」
嗚咽混じりの言葉だが、その真意は、その“愛”は、確かにフレイヤへ伝わった。
一人では潰されていた理不尽に抗う勇気を与えた恩人へ、未だ核心を得てしない“愛”をもって。
そして──
「……、それとね。これからも…………っ! よろしくねっ」
「≪……ッ! ふ、ふん。当たり前でありんすよ。余とこむす……千花は運命共同体でありんすからね≫」
「……! うん、うんっ!」
輝くほどの笑顔に、眩く光涙。
だが、千花の心に悲しみはなく、ましてや絶望などない。
狂おしいほどの“愛”に翻弄された少女は、親友の『女神』に救われ、家族となった『女神』によって前向けるようになった。
遠く、高い“大孔”から溢れる光が、深淵の中心にいる千花へと降り注ぐ。
それはまるで、新たな命を祝福しているかの如き神々しさ。
祝福の光を一身に浴びる彼女は美しく、地獄の底にすらその名が轟いていてもおかしくない程に人間離れしていた。
──『女神』フレイヤ
現代にある計画の一端で蘇り、たった一人の少女の魂に巣食うこととなった、正真正銘の『神』
──『魔帝』千花
逃れられない鎖となった“愛”に縛られ、命に変えても護ると誓った友を痛めつけた神と共生することになった『人間』
出会いから互いに相性は良くなかった。
しかし、二人は良く似ていた。
“愛”は分からず、しかしそれでも“愛”を求めていた。
だからこそ、互いに惹かれ、信頼していった。
そして──ここに、『女神』と『魔帝』の真なる魂の共生が始まる。
そう、これこそ、彼女たちこそ──『魔皇』であると




