39. 善悪裁定
その後の記憶は殆ど存在しない。
記憶の残滓というべきだろうか、聞きたくもないのに頭にこべりついた情報を遡ると、大筋は理解できた。
この世のものとは思えない絶叫を聞きつけた住民が警察を呼び、両手を真っ赤にした私を見つけたらしい。
…………私が殺ったなんて記憶はない。でも、あの一瞬、あの目に見られた刻に頭に響いた聲に共鳴したのは確かだ。
──抗えッ! って、とっても強い言葉だったけど……どうしてかな? すっごく懐かしくて、今まで味わった事ないぐらいに暖かかった。
とかなんとか馬鹿正直にお巡りさんに言ってもきっとわかってくれないから言わなかったけど……これって、黙秘って言うんでしょ? なんだか大人の仲間入りをしたみたい。
「────ッ、もう、今日は寝なさい」
「ん? はーい」
思考を途切れさせた千花は正直なのだ。
それは恐ろしい程に純粋な“本性”であり、理解を拒んでしまう“奇怪”である。
時折ではあるが、玲奈には千花の“心奥”を垣間見ることがあった。
だからこそ、なのだろうか……たった一日で変わってしまった現実を、事件以降震えるしかできない郷次郎よりも容易に呑み込めた。
だが……まさか、誰も信じないだろう。
微笑を浮かべて自室へと戻るあの少女が、高校生とはいえ自身よりも遙かに大きな男の頭蓋を粉砕したなど。
司法解剖した結果は文句なしの頭蓋損傷による意識の欠陥。
だが、事情を話に来た警察の表情は疑問を全面に出していた。
まあ、それもそうだろう。
玲奈だって同じ立場なら首を傾げただろう。
凶器は修繕途中に放り出された外壁用のブロック。
衝撃箇所はたった一箇所。
そう、たった一度振りかざしただけで男子校生の頭蓋は死に直結してしまう程の致命傷を負ったのだ。
実物は証拠写真として見たが、大人でも片手で振りかざすには難儀しそうな程の重量を誇っていたブロックで、強姦されそうになった恐怖で錯乱した、小学三年生の少女が、明確な殺意をもって人をコロすなど──
「……、いいえ。それも今日で終わり──終わらせなきゃ……ッ!」
忌々しい因国家の存在を仄めかすだけで神経を逆撫でするようなものだと言うのに、彼女は親愛をもって接してくる。
もう、限界だ。
抑えきれない憎悪……ではない気がする。
幸いなことに準一郎は明日までは帰宅しない連絡が入っていた。
郷次郎のしでかしたこと、そして千花が襲われそうになったこと、その全ては警察によって出張に出ている準一郎にも緊急で伝えられた。
交わされた会話は精々が事件の概要をかい摘んで説明した程度だろうが、郷次郎に実害が生じていない以上、準一郎が仕事を切りやめてまで帰宅するとは思えない。
千花は十四歳未満であるために刑事未成年の要件に当てはまり、刑事責任は問われないらしい。
そもそも、千花は被害者であるために正当防衛が成り立つ、と言われた。
しかし、玲奈が警察による懇切丁寧な説明を聞いているか、と問われるのならば答えは否だ。
「もう、解放されるの…………私の手で、終わりにして見せるから」
一段一段千花の自室へ近付くにつれて鼓動が早くなっているのが分かる。
今から行うことは玲奈の人生にとって一世一代の大勝負なのだ。
ここで、全ての憂いを断つことこそ、彼女がこの先の人生を栖本として過ごすための条件なのだから。
────怖いかって? ええ、もちろん。なにせ相手は千花だ。
鼓動が響く度に震える手で振るわれた、ちんけな包丁ではあの柔肌に傷一つとして付けられる気がしない。
だが、彼女には分かっている。
千花は人間だ。
心臓を一突すれば、あの“怪物”の命は簡単に消せる。
────なら何で震えるって? 恐いから。だって相手は千花なのだ。
幾ら日人道的な躾をしたとしても、次の日にはケロッとした顔で話しかけられる。
一度だけ勇気を振り絞って問いただしたことがある。
「何故、そんなに穏やかにいられるの」って…………そしたら間髪容れずに即答した。
「だって私は“愛”してるから」だって。
おかしいだろう? “愛”している? どこに“愛”があった?
今まで一度たりとも“愛”なんて“感情”を千花に向けた覚えはない。
それと同時に、今まで一度たりとも千花から“憎悪”を向けられた覚えもない。
────ああ、恐いよ。あの娘の心の内が理解不能すぎて恐い。
だから……、だから…………、だから終わらせる。
脳裏にこびりついて離れない純粋な千花の顔が、この世の何よりも恐い。
人間として根本的な機能が正常に作動していない彼女の存在が、思考の隅にちらつくだけで足がすくむ。
けれど、全てを終幕させることができるのは、今この瞬間しかない。
何も難しくない……簡単だ。
留めなく溢れ出した汗に濡れた右手の包丁を、毛布にすっぽりと包まっている目の前の物体に振り下ろすだけで終わる。
まるで何かに怯えるように、胎児を彷彿とさせて眠る格好に突き刺すだけでいい。
より一層早まる鼓動を抑え付け、警告を鳴らす理性を黙らせ、呼吸を止め────
────終ぞ理解されなかった狂おしい程の“愛”をもって生まれた千花を、“愛”すことも、“愛”そうとする努力すらしなかった玲奈にはする由もない。
毎晩のように都合のいいストレスの吐口として利用されていた千花の日常を。
その日も言い訳混じりの愚痴を携えて現れたある男は疲労がピークに達したのか、すぐに睡魔に連れて行かれた。
その場にいたのは“愛”ある少女だけだ。
静かに毛布をかけ、己は同じ階にある手洗いに向かい、身に覚えはなく抗いがたい睡魔に襲われた末に耐えきれずに眠ってしまった。
まるで何者かが、我欲の招いた滑稽な悲劇から遠ざけるように。
そして、慈悲深い『女神』に見切りをつけられた人間は疑問と混乱に呑み込まれる定めにあった。
それは取るに足らない興味であったかもしれないが、衝動に打ち勝てるほど彼女の精神力は強くなかった。
しかし、その人間は己の決定を悔むことになるだろう。
己の成した行動と、生じた結果の因果の齟齬に潰されるように半狂乱に陥った彼女に選択肢は残されていなかった。
いいや、残してもらえなかった。
“『女神』の裁定”は微笑む者を大いに選ぶ──たった一人の親友を護るために
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その日は昼間の纏わりつくような暑さとは程遠い、まるで真冬の朝に感じる寒気があった。
深夜とはいえ真夏日であるその日の気候には疑問を呈したいものだ。
不穏な報告を聞いた彼は急遽として出張先から帰宅した帰りであったのだが、あまりに寒気に面食らった。
幾ら地形的に離れているからといっても大差ないはずの気温がこうも変容するとは思ず、なにか言葉にできない“不安”を雲にして心中で渦巻かせていた男──準一郎は誇りに思っている我が家へと急足で辿り着く。
正直に白状するのならば、彼の思考にあるのは面子の維持だけだ。
今回のようにわざわざ無理を言って出張先から帰宅したのも、栖本家の嫡男である郷次郎が不祥事──刑事的未成年には該当しないとはいえ、未だ成人していない郷次郎の行動を不祥事と言うのは少し違和感があるが──を起こした、と一報を受け取ったからだ。
夕刻に差し迫ろうとしている時間に連絡してきた時は不機嫌にもなったが、ことがことだけになりふり構うこともなくなった。
必要ならば揉み消しも辞さないのだから、準一郎の中で郷次郎の存在がどれほど強大なのかが分かる。
郷次郎の不祥事に併せて準一郎は玲奈の判断にも高評価を与えていた。
詳細を知られては厄介な警察を相手に大した情報を与えることなく、問題の先延ばしを選択したのだから。
準一郎が対応しさえすれば、たかだか町の警官程度に遅れは取らない。
なにせ、彼は一度警視庁の人間の目すら欺いたことがあるのだ。
まあ、それも因国家との忌々しい繋がりを消して欲しい、と玲奈が懇願してきたために仕方なくやっただけだが。
しかし、準一郎は今まで玲奈に対して低評価を下したことはない。
およそ伴侶としては百点満点をつけられる程に完成された彼女の行動は、準一郎に不愉快な感情を生じさせなかった。
唯一あるとすれば、千花に栖本の名を与えなければならない現状だけだろう。
とはいえ、それも本日で終わりだ。
どうやら郷次郎の不祥事には千花が関わっているらしい。
詳細は追々聞く予定であったが、概要のみに当てはめて考えると有責性があるのは、千花自身に他ならない。
彼女の存在さえいなければ、郷次郎が性犯罪未遂に手を染めることもなかったのだから。
「…………ヤツは因国家に送り返す。決定事項だ」
己のプライド保全のためだけに建てた家の正面で呟き、扉へと手をかける。
……それは予震のようなものだったかもしれない。
凄惨に過ぎる現実を受け止めるための、無垢なる精神のままでは捉えきれない本震に備えるための幾許かの猶予であったのだろう。
準一郎は不意に込み上げてきた吐き気を堪えるために片膝をついてしまった。
何故なのかは知らない。
何が起こっているのかは理解したくもない。
だが、感じてしまった。
この家の中で……何か良くないことが起こっていると。
確かめなければならない、予震を感じてしまったのだから本震を受け入れなければならない。
震える手でこじ開けるように玄関扉を開く。
一見すると何もないように見える。
けれど、今の準一郎には視えた──日常では見て見ぬ振りに徹していた二階から、悍ましい程の“圧”が漏れ出していることに。
既に両手を塞ぐようにして抱えていた荷物はなく、それと同時に彼の中にあった確固たる理性も消え去っていた。
一歩一歩二階への階段を踏み締める度に、準一郎の精神は万力に締め上げられるようにキリキリと痛み出した。
普段では諸手を挙げて向かい入れた静謐な空気は、今では彼に牙を向く猛毒となって襲いかかってくる。
脅威の根源は二階に踏み入れてすぐに分かった。
鼻をつくような異臭が漂っていたからだ。
後数分もすれば家全体へと行き渡っていたであろうそれは、生理的嫌悪だけでなく精神的苦痛すらも保有していた。
目指すべきは視界に一片たりとも入れまい、と決意していた一室。
玲奈が連れてきた義理の娘である千花を、大義名分を持って押し込めていた牢獄。
準一郎にとっては、その部屋の扉を開けるために要した時間など正確には測れなかった。
一秒にも感じられたが、半日、果ては三日、体感時間という概念すらも皮肉の籠った笑みで一瞥することが可能なほどに感じられた。
しかし、彼は栖本準一郎なのだ。
生まれ持った確固たる理性が、合理性を追求する現実主義者足り得る信念が、彼を小さく、それでいて巨大な一室へと誘った。
──彼に後悔はなかった。
──一歩でも家の中へと入った瞬間には最悪の想像はしていた
──最悪の結果であろうと、人間としてありのままに受け入れよう、と覚悟はあった
だが、鮮血に染まる目の前の惨劇を前にして、一体どうして人間でいられよう?
魑魅魍魎を統べる『魔の王』ですら及ばない咆哮は、栖本準一郎という人間の崩壊を象徴していたのだろう。




