36 歪な“愛”と純粋な“愛”
その日の食卓に並んだのはありふれた家庭で、平々凡々な家族が、一時の幸せを共有するためのメニューであった。
万民に愛されるだろうカレーライスという晩御飯には、栖本家に伝わる(詳しくは母親である栖本玲奈の家である因国家で継がれていたらしいが)由緒正しき隠し味が追加されている。
毎日のルーティンである勤務を終えたと言うのに疲れを一切感じさせない準一郎の感謝の言葉に、玲那が謙遜しながら答える。
毎日のように繰り返されている光景は、今日も普遍的な平和を思わせる。
家の中だと言うのにジャケットを脱いだだけの準一郎は、厳しい表情を崩そうとはしないが、やはり我が家では気が緩むのか時々額に刻まれた皺の彫りが緩む。
そんな彼の些細な変化に機敏にならねば何が起こるのか分からないのが、栖本家の日常だから。
「準さん、おかわりは?」
「…………少し」
端的で合理的だとでも思っているのだろうが、家族同士の会話にしてみれば冷淡もいいところだ。
だが、ここに本人の悪意は介在していない。
その準一郎の性格を熟知しているのか、控えめな色合いのロングスカートに厚手のセーター姿の玲那は特に気分を害した様子もなく台所に向かった。
一度だけ玲奈に聞いたことがあるが、二人は政略結婚紛いの出会いだったらしい。
……そもそもどうでもいいから話半分で聞いていた。
栖本家のダイニングテーブルは平均的な家庭が食事をするには少々大き過ぎるのではないか、と思うほどに広いので自ずと家族の距離も広がってしまう。
ピタリと背筋の伸びた準一郎は年相応の貫禄があるにも関わらず、体型は二十代のスリム体型を維持しており、身長も高いほうなのでなおの事若々しく見える。
そんな準一郎の正面には微笑を浮かべた玲奈が、彼女も準一郎と同じく実年齢を感じさせない若々しさであり、二十代前半の新妻とも間違うほどに。
今日も今日とて言葉にしなくても伝わるコミュニケーションを取っているのであろう二人を傍目に見ながら、玲奈の隣に腰を降ろした私こと栖本千花は辟易する。
いや、正確に言うなら二人の機嫌が良かったら儀式もないので好きなだけスキンシップをとってもらっていいのだが。
とか何とか冷め切ったカレーライスをモサモサ頬張っていると、正面から視線を感じる。
──今日もか…………勘弁してくれ
とか何とか心中で愚痴るが、まあ、それも仕方ない…………付き合ってやるか。
「……どうしたの、郷兄さん」
「あのな、千花。いつもそんな少量で……もっと食べなきゃ健康に悪いぞ?」
「う、うん……そうだね。でも、今日はあまりお腹すいてないかも……」
──誰のために私の分までお前に渡してると思ってるんだよ
……とは口が裂けても言えない。
もし、何かの拍子に、どれだけ小さくとも悪態か不満が溢れてしまうと、私は本家に逆戻りだ。
こんなところでも因国家の総本山である本家よりはマシだ。
「千花ちゃんは食が細いものね」
「だけど母さん、毎日この量じゃ心配だよ」
「……本人がいらんというのだから、いいだろう」
──もう、いい加減にしてくれ
マラソン大会だとか言う誰が考えたか分からない疲労感しか湧かない催しをようやく終わらせたのだ。
それに加えて、こんな茶番に付き合わなければならないとか……もう寝よう。
自分の皿に盛られた分の食事は完食し(眠気に耐えられない日に誤って残してしまったら翌日は雀の涙ほどもない量に変更されたので、それ以来完食するようにしている)ぞんざいな返事をしながら寝室に戻った。
「ふわぁ……ぇぇえ…………ちゅかれたぁあああ」
一日の間でこの瞬間程幸せなことはないだろう。
疲労の溜まった身体でフカフカ…………うん、まあそう思っておこう、なベットにダイブする瞬間、まさに至極。
忌々しい我が家で最大の警戒を解ける場所こそ自室で、それもなんの躊躇いもなく栖本千花の存在を受け入れてくれるのは我が愛しのベットだけだ。
このまま微睡に身を任せて終わろう……うん、それがいい。
❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒
率直な感想を言えば…………実に歪であった。
吐き気を催しても何ら問題のない光景。
もし、最高の演出家でも脚本家でも何でもいいが、彼らが見たら発狂してしまうであろうクソッタレた茶番が繰り広げられていた。
まあ、それはそれとして……意識ははっきりとしている。
「≪余はフレイヤ──『女神』でありんす≫」
記憶が確かならば隠蔽した石碑は千花に見破られ、共に狂=ダロの仕掛けた何かしらに挑んだ……はずだ。
千花の魂に巣食ってからは目覚めるなんていう感覚は味わっていなかったために、久方ぶりに起床に近しい感覚に陥った。
だが、まさか…………こんな状況とは。
「≪状況整理でありんすが、余が視ているのは恐らく……小娘の過去≫」
あの歪と言っていいほどに曲がり切った千花の“愛”、その根源が過去に起因するものであるとの確証はあった。
なにせ千花の“愛”は上記を逸しており、単調な不幸による精神異常に過ぎないと断じていた。
だが、考えてもみてほしい。
幾ら捻じ曲がった“愛”だとしても、千花は現代人なのだ。
かつてフレイヤの神生を全うした神代よりも圧倒的に不幸の度合いは違っている。
彼女にしてみれば、精々が可愛がっていた子犬でも何でもを惨殺されて程度ばかり思っていた。
勿論、起こってしまった事態が何であれ、千花の心を蝕み、壊したことに変わりはない。
……のだが、まさかここまでとは
神代にも想像を絶ずる不幸に襲われた人間の集団はいた。
だが、彼ら彼女らの不幸は目に見えて、実態を持って襲いかかっていた。
「≪これが現代の災い……掴みかかれんが故の苦痛。これは堪えるでありんすえ≫」
──ましてや、それが年端もいかない小娘なら、尚のこと
「≪…………余にはどうすることもできんでありんす。『女神』の立場よりも遥かに身動きの取れない今の余には……何も≫」
ミステリ作品で言うところの神の視点、俯瞰的な立ち位置にいるフレイヤ。
普段の彼女、つまりは千花と共にいた時のフレイヤならば満面の笑みでこの情景うぃ眺めたであろう。
しかし、できない。
嘲笑い、貶し、侮辱する。
『女神』として傲慢不遜に振る舞ってきた彼女にとって、未知の感覚であろう。
心に虚無感を抱える感覚も、喪失感に精神を掴まれることも、無力感に苛まれることも──フレイヤは初体験なのだ。
❒❑❒❑❒❑❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒
愛しの微睡に身を窶してどれくらい経ったであろうか、自室の扉の前に気配を感じてむくりと身体を起こす。
まだ休息を欲している身体の悲鳴を無理矢理黙らせて、部屋の電気をつけようと動き出そうとした刻、来訪者はその姿を見せた。
「……っ、ああ、電気は大丈夫だよ。千花ちゃん」
「────ッ……っと、郷兄さん…………今夜はどうしたの?」
横目で確認した時刻は午前三時。
両親に気付かれないように慎重に扉を閉めている郷兄さんーー郷次郎はあまりにも常識はずれの時間に、疲れ切っている妹の部屋を訪れたことになる。
いや、常識どうこうの道徳的な視点ではなく、家族とは言え異性である千花の部屋へと事前に知らせることもなく、深夜に訪れる公序良俗に反する行動こそ責めるべきだろう。
しかし、千花にはそれができない。
確かに、郷次郎の機嫌を損ねることは準一郎からの評価を低落させることに直結し、下手を打てば本家に逆戻りだ。
今まで、邪魔者としての認識しかされていない千花が、いまだに栖本家にいられるのも、彼女自身が最新の注意を払って機嫌取りに徹したからだ。
だが、それだけではない。
血が繋がっていないことは知っているとは言え、兄として千花に接している郷次郎を、親愛の対象として捉えてしまったから。
面と向かって話したことすらない準一郎も、彼よりも嫌悪感を向けてくる玲奈にも、千花は親愛を抱いてしまったのだ。
だからこそ、千花は“愛”に従わなければならない。
──……、…………、………………、これは“愛”なのか?
──……、…………、………………、いいや、考えるのはやめよう。既に思考力は蜘蛛の巣を張ったように粘ついている。ここで思考を働かせても意味がない。
それよりも、(許可すら取らず、まるで当然かのように)ベットに腰掛けた郷次郎の機嫌を取ることこそ最優先しなければならない。
「さっきの夕飯の時は悪かったな……許してくれ。僕の配慮が足りなかったよ」
「……ゆう、は…………あぁ、だいじょうぶだよ」
「そうは言うけどね、千花ちゃんはもっと意見を言ったほうがいいよ。いつも母さんの言いなりじゃないか。確かに、千花ちゃんが実父でない父さんと打ち解けるのは難しいのかもしれない。でも、母さんは違うだろう? あの人とは前の家で物心着くまで一緒だったんだろ? なら、もっと気を許してもいいはずだ。でも、少し難しいかな? 母さんが珍しく酔った時にいっていたよ。前の家じゃあ、気持ちの悪い程に皆が猫撫で声で迫ってきたってね。でも、それは母さんが数代ぶりに生まれた念願に女児だったからだろう? 千花ちゃんを産んだ時点で家訓としての役割を終えたのだから、もっと普通になればいいのに。ああ、今のは持論だからね……母さんには内緒だからね」
つらつらつらつらつらつらつらつら、と。
殆ど毎晩聞きたくもない話を一方的に聞かされる。
かと言って、「今すぐ話をやめて帰って欲しい」などと言い放つのは論外だ。
だが、例えば彼の持論とやらに反論したとしても、彼は話をやめないどころかヒートアップしてしまう。
だから頷く、という最小限の行為が最善手だ。
まあ、難点もあるが……もし、寝てしまったら彼は今のような爽やかな口調ではなく、まるで千花が全て悪いように責め始めるから。
一度だけ不注意で居眠りをしたことがあるが…………惨かった。
先までにの諭すような口調はなりを潜め、万物の責任が千花一人の肩に乗っているような口調で更に苛烈に叫び出したのだ。
しかも、一通り喚き散らした後、青あざだらけになるまで腹を殴られたのだ。
おかげで授業中の居眠りもしなくなったから得したね。
あの時が冬でよかった。
もし、真夏のプールの授業があったのなら色々と面倒なことになっていたはずだ。
そうなると、本当に栖本家にはいられなくなる。
それだけはダメだ。
栖本千花は“愛”に生きなければならず、“愛”を裏切る行為は万死に値するから。
──……、…………、………………、何故“愛”に従わなければならない?
──……、…………、………………、ダメだダメ。思考は必要じゃない。いつの間にか郷兄さんも帰ったし、もう五時だ。仕事を始めなければ。
今日は雨っぽいし、洗濯はいらないや……後は、まあ、やりながら考えよう。
さあ、今日も頑張ろう…………うん、眠い。
❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒
既に回数は数えていない。
いいや、その程度の思考すら、今の彼女にはなかった。
「≪それは────それは、“愛”ではないでありすッ! 気付くでありんすよッ! 小娘ッ!≫」
これまでに『女神』として叫ぶという行為とはかけはなれた位置にいたフレイヤであったが、千花と共に世界線を渡り歩くようになってからは、その頻度の高さに驚きが勝る。
それと同時に、フレイヤに稀なる経験をさせた千花に対して、一種の感謝もしていた。
『女神』フレイヤとして生を全うしていたら決して出会うことのない“感覚”。
いつぞやに語った“感情”の有無。
フレイヤは神として完成されていたからこそ先天的に、千花は仲間を見殺しにした想像を絶する自責と無力感から後天的に。
“感情”が存在しないが故に、“感覚”もって語る。
「≪小娘……一体、一体誰がッ! それを授けたでありんすかッ!≫」
万民を分け隔てなく愛する。
それは美徳である。
だが、往々にして重荷になることの方が多い。
何故なら──“愛”は“愛する”ことを可能にするが、“愛される”ことを不可能にする。
しかし、“愛”をもってしても“愛される”者は存在する。
ああ、けれども、もし常人のそれとは比べものにならない“愛”を持つ者が、“愛”とはかけ離れた環境にいるのならーー“愛される”なんて救済は、どうなるのだろう。




