28. 戦乱の果てに
目が覚めて見知らぬ天井を映す事態に、慣れ切ってしまった自分がいる。
もはや、自分の部屋の天井など霧がかかったように曖昧模糊なものへと成り下がってしまった。
まあ、当然と言えば当然か、と常人ならば耐えきれないだろう経験の数々が脳裏を掠める。
フレイヤとかいう『女神』を魂に宿してからは、疲労の概念から解放されたように朝の寝覚めは快適なものになった。
それは裏返して、魔力さえあれば地獄であろうと熟睡できる、という人間離れした行為を無意識で行っていることなのだが……。
その事実に気付いているのかは知らないが、一応形だけの伸びをした後、ネグラジュ包まれた艶かしい肢体を思いっきり引き起こす。
さもないと、このまま不貞寝しそうになる。
「≪郷愁でありんすか? 似合わんでありんすね、小娘≫」
「…………朝からおばさんの小言聞かなきゃいけないの?」
「≪ふふんっ、余が何時までも年寄り口撃に弱いとは思わん方がいいでありんすえ。慣れる、などという人間臭い行為を、神である余にできない道理はないでありんすからね≫」
「いや、おばさんってオブラートに包んでたからね? 正直に言っちゃうとさ、BBA……」
「≪それ以上口を動かしたらシバクでありんすよっ! 不敬にも程がありんしょうっ!≫」
「慣れてないじゃん。あと、頭割れるから叫ばないでくれる?」
どうせ止めろ、といってもお構いなしに叫ぶのは分かりきっている。
故に、一言で済ましているのだが……そもそも千花が煽らなければ済んだ話である。
「≪それで? 失礼極まる小娘は変わらず事後処理でありんすか?≫」
「まぁ、ね……」
なんとも歯切れの悪い千花のルーティンと化した身支度は、終盤に差し掛かっていた。
そう、睡眠から目覚めた千花の、世界共通時深夜二時からスタートする一日の。
〈強進化世界線〉での麗人着こなすチャイナドレス(露出が最低限になるように改造されたものだが)を着た千花の姿は、やはり何時見ても美しい。
真紅に染まった彼女の雰囲気は、黒緋色のドレスを着ていた時とは違った魅力が溢れている。
「……? ソフィアは……っと、そうだった。お休みだったね」
「≪幻覚が視え初めていたでありんすからね、余が休むように命令したでありんしょう?≫」
「まっ、ソフィアだけじゃないけどね……」
快適さに関しては右に出るものがいない木造建築の廊下を迷いなく進みながら、二人はここ数日の激務を思い返した。
思い返す、という表現は適切ではないが──映像記憶に等しい記憶力を持つ二人にしてみれば見返す、という方が正しい。
閑話休題
数十世紀に渡って繰り広げられた戦争は、白英が戴冠したことによって終戦を迎えた。
加えて、突発的現れた“不神物”ーー全くもって不本意であるが──結果的にバーナード=リードの活躍をもって完全消滅した。
だが、問題は数え切れない程に膨れ上がった。
王家の血筋ではない白英が王位を継ぐのは如何なものか、そもそも何故王位に着くことができたのか、〈強進化世界線〉の山々の上半分をごっそり削ったのは何なのか(いや、それはこっちが聞きてえよ……と恨み節を吐いたのはフレイヤだ)等々…………。
その質問に一つ一つ答えていくことは不可能だ。
不平不満、質疑応答は星の数程に溢れかえっているのだから、纏めて事の顛末を発表した方が効率が良い。
その上で、尚疑問に思っていることがあるのなら、答えれば良い。
だが、終戦から四日が経った今の時点においても、事後処理は終わっていなかった。
その際たる要因は──
「≪声程度は、かけても良いと思うでありんすが≫」
「………………そう、だね。でも、私にできることはないよ」
「≪珍しく弱気でありんすが…………滅亡最終大戦でも起こるのでありんしょうか?≫」
フレイヤの冗談混じりの激励にすら答えを返す事のできない千花。
あの傍若無人のフレイヤが気を使う程には、千花は衰弱していた。
勿論、事後処理が思った通り順調に進んでいない現状とは無関係ではない。
そう、万事を片手間で解決してしまう秀才、そして、千花の唯一無二の大親友──華彩時雨が行方知れずなのだ。
いや、その表現すら適切ではない。
行方自体は〈強進化世界線〉そのものへと直接干渉することによって追跡は可能なのだが…………。
「バレちゃうんだよね、勝手に視てると」
「≪むぅ……まさかあの小娘も空間転移が可能でありんしたか……≫」
さらに、加えるのなら時雨の結界には干渉阻害の、現代風に表すのならセキュリティーネットのようなウィルス対策が施されているのだ。
しかし、問題点は千花が知らぬ間に強化された、という点にある。
自慢ではないが、千花は【愛の刻印魔法】の効力を最大限発揮させて仲間の能力は隅々まで把握している。
そんな千花が把握していない効力があった──それは即ち、時雨が行方知らずになってから新たに身につけたのだ。
階段を一段飛ばしで強くなっている千花が異常なだけで、本来なら【刻印魔法】を強化するにはそれ相応の時間がかかる。
千花は時雨の努力に誇らしくなる一方で、彼女の命を何よりも案じている。
ソフィアと白英曰く、“超日王の玉座”で時雨は今までの疲労が襲い掛かり瀕死状態であったという。
もし、そんな状態で一層負担のかかる技の研磨などしたら……想像は易い。
「私も気付かれないギリギリのとこで調整してるんだけどな……ちょっと集中が切れちゃうとダブっちゃう」
「≪休みなしの公務中にするからでありんすよ。捜索は余がやるでありんすから、小娘は公務に意識を向けるでありんす≫」
「そうは言ってもなあ。そろそろやりきらなきゃマズイのに、全体の四割も終わってないんだよ? 並行でやらなきゃ」
乱暴に木製の扉を開け放った千花は、この数日で定位置と化した執務机に座り込む。
そして、息を整えて目の前に終末が如く積まれている書類の山々に向かい合う。
「はあぁぁああああっ! やっぱり、時雨って凄いよ………………」
「≪記憶してる限りでありんすが、あの小娘はこれの三倍の仕事量を半日と三時間で片してたでありんすよ。のう、小娘。あの結界の小娘は人間でありんすか? ただ処理能力が優れてる、の一言では色々説明できんでありんしょう≫」
許されるのなら、城砦の如く聳え立っている書類を空間の彼方へ消し去ってしまいたい。
というか、千百合が手を貸してくれたら全部消せばいいんじゃないか? それとも、世界線の何処かに潜んでいる彼方にでも頼み込んで“否定”してもらおうか?
目の前の現実に向かい合うぐらいなら、刻印源皇の居処を掴む方が何千倍も楽だ。
………………冗談ですよ? この書類を纏めるのに何人の官僚が「ああ〜! ちょうちょ〜」とか言って人様の前に出せる状態ではなくなったと思っているのですか? やりませんよ? きっと…………
しかし、冗談抜きにして時雨の優秀さを再確認したのは事実だ。
コアド魔王国の国力をゼロの状態から世界線屈指の強国にした実力を疑ったわけではないが、まさか、ここまでとは思っていなかった。
『魔帝』としての処理能力と、フレイヤの知識があれば高々事務作業程度に躓く訳がない、と高を括っていたのも確かだ。
だが、それでも千花とフレイヤの二人どころか、五十人弱の官僚の作業効率より、時雨一人の効率の方が高いなど、どうして信じられよう。
「……! おはよう、気分はどう?」
「はいぃッ!? 千花殿っ!? な、なぜ、我に気付いて……!?」
「うん? まあ、ほら。アレだよ、勘ってやつ?」
「そ、そうか……? そういうものか…………?」
ガタンガタンッ! と慌てながら入室してきたのは、生死不明の大怪我を負ったために集中治療を受けていた紅玉だ。
しかし、あくまで今の彼女は目を覚ましただけだ。
身体中に巻かれた包帯が彼女の怪我の物々しさを語っており、烈火の如く輝いていた真紅の眼は片方が包帯で覆われていた。
それに加えて、足取りにも覚束なさを感じる。
だが、それも仕方がないのだ。
「紅玉、一番最後の記憶ってある?」
「い、いや…………確か、斉楚趙で韓信殿と対立した、のを最後に途絶えている」
「…………私はあまりおすすめしないけどーー聞きたい? 何があったか。それと…………どうして王家の血筋じゃない白英が王様になれたか、も。あっ、後者は普通に聞いても大丈夫だよ」
「貴女を前にしては、何もかもお見通しだな────千花殿、聞かせてくれ。我には、それらを聞き届ける義務がある」
深夜の事務室は冷え切ったように暗い。
灯りといえば千花が使用している蝋燭の光のみ。
だが、それでも二人には蝋燭一つのか細い灯だけで十分であった。
声を潜める千花の言外の意図──内密な話だから、目立たないように──を把握できた紅玉だからこそ、この空気で良い、と断じられるのかもしれない。
着の身着のまま部屋を飛び出た紅玉は、ひたひたと包帯に包まれた裸足で千花の眼前まで歩み寄る。
勿論、千花も事務作業に勤しんでいた手を止め、適当な椅子に腰掛けた紅玉と向かい合う。
「……単刀直入に言うね。紅玉は……」
一度、死んだんだ
「…………………………そうか」
ほんの瞬き程度の時間ではあったが、千花にははっきりと感じられた。
ハツラツとしていた、いいや、常に責任からくる覚悟を宿していた紅玉の瞳に陰りが刺したのだ。
だが、紅玉の意識を現実に引き戻したのは、彼女が実際に死んだのなら、今この瞬間に息をしている己は何なのか。
「紅玉の聞きたいことは分かるよ。そうだね…………ソフィアから聞いたでしょ? “不神物”とかいう迷惑なやつのこと」
「あ、ああ…………迷惑? 聞くところによると身の毛がよだつ姿形をしていたそうだが…………迷惑か。そんな表現があったのだな」
千花と自分との間にある絶対的な価値観の違い。
三国の戦争状態ですら軽く受け止め、打開の策を数個も思いついてしまう圧倒的な強者。
そんな彼女からしてみると、世界線を崩壊させてしまうような“怪物”すら厄介者扱いなのか、と黄昏れる紅玉を放置し、千花は話を進める。
「あいつが顕現したせいで〈強進化世界線〉の因果律が狂っちゃみたいなんだよね。あ、よくわかんないし、もうちょっとマシな説明しろよビッチって思ってる?」
「……ッ!? 待ってくれっ! 千花殿のおっしゃりたいことは分かる…………ただ、真意をつかみ損ねただけで……なあ、びっちってなんだ? どういう意味なんだ?」
「思ったより純粋で私はわたしはとっても嬉しいよ、紅玉ちゃん。どうかそのままでいてほしいよ」
脳内で「«小娘ってセクハラしたでありんすか? あの小娘の不在がこんなところに響いているとは…………完全に予想外でありんすよ»」とか何とか言ってるが無視だ。
誰よりも千花自身が己の発言にドン引いているのだから。
「まあ、簡単に言うとね…………本来なら起こり得たであろう事象が、起こらなかったり。逆に、起こる可能性は皆無だった事象が、起こってしまったり、だね」
「成程、だな。我の場合は後者、ということだな。我が死んだ、という事象がなかったことになったのか」
「いぃ~ぐざくとり~っ! いやぁ。理解が早くて助かるよ。因みに、白英が王様になれたのも同じ理由だよ。“不神物”のせいで王位継承の条件が変わったからね」
紅玉は憑き物が消え失せたように納得の表情をしているが、千花は今回の説明に関して一つの重要な情報を彼女に渡していない。
もし、紅玉がその事実について知りたい、と願うのなら千花としては正直に話す気でいた。
しかし、紅玉が千花に対して疑問を口にすることはない。
いや、疑問が生じないように会話を誘導したのだから当然か。
「«甘いでありんすね、小娘。王位継承権を保有していたのは白い小娘であった…………隠す必要はないでありんしょう?»」
「(そうだね。隠す必要もないけど、わざわざ伝える必要もないんじゃない?)」
それは〈強進化世界線〉そのものへと干渉して、二人だけが有することのできた情報。
最早、星屑の如き途方もない数にまで膨れ上がった小競り合いの一つ。
“超日王の再誕”と呼ばれた少女は、父親であったある近衛隊長──今では元近衛隊長である、とある酒場の元チャンピオン──のささやかな願いによって、ある革命組織へと託された。
父親たらんとした彼は、血生臭い戦乱の世に愛しの娘を放り出したくなかった。
だが、彼の願いは最悪の形で裏切られてしまった。
いずれ滅びゆく革命集団の仲介によって何不自由ない良家へと引き渡される──はずだった。
革命集団は彼の娘を祭り上げ一国を建国、さらには、彼のたった一人の愛娘を思った行動は国家反逆罪として罰された。
それどころか、彼の仕えた国は孤児を王位継承者として擁立した。
おどおどした彼女が次ぐべき椅子であったから、王座は開かれた。
生まれた頃から王位継承者として騙され続けた目の前の少女を護るために、“愛”のために己の人生と〈強進化世界線〉の“未来”を賭けた父親のためにも────そして、王女となった彼女が、決して父親を恨まないように。
千花は噓をつかない。
それは、三人の“こころ”に背く行為であるから。
だが、真実をすべて語らない。
それしか、皆を護る方法はないから。
だからわざと紅玉の蘇生の話を冒頭にもってきたのだ。
だからわざと、慣れないセクハラ発言まで行ったのだ。
「さって…………最悪の結果だけは避けられたけど大怪我にかわりはないからね。分かったら、今すぐ安静にするようにっ!」
「あ、ああ…………分かった──わかったからっ! わかったから我の頬をぐりぐりするのはやめてくれっ!」
半ば強引に執務室から追い出した千花はようやく一息つくことができた。
噓は言っていないにしても、騙してしることにはかわりはないのだ。
「…………業務に戻りますかぁ。確か、紅玉関連の──韓信とかいう汚物の自爆はまだ処理してなかったよね?」
「«そうでありんすよ。韓燕譚に居場所がなくなったとみると早急に他国に根を張ろうとする…………典型的な半端な賢者でありんすね»」
かさり、と数枚に渡り詳細に記された韓燕譚での大事件。
ナーラから聞いた韓信という彼女たちを奴隷のように扱った下種野郎が引き起こした、真面目に迷惑な最期の大惨事。
「負傷者三万人、重傷者二千人、死傷者百二十名。原因は韓信だけだが、焚きつけられた反乱軍が暴徒と化し、各地で大規模なテロ行為に及んだ…………か。時雨が警戒する訳だ。最悪のタイミングで最悪な形でぶち壊してくる」
「それ故に傀儡にし易い者でありんすが……今回に至っては状況が悪かったでありんすね»」
ペラペラと報告書を読んでいく限り、韓信は紅玉の死因となった自爆で爆発四散したらしい。
クソ野郎にはお似合いの最期だよ、と思う千花だが、もし“不神物”の因果律崩壊がなければ犠牲者は数倍の数にまで膨れ上がっていただろう。
どうやら韓信は悪運が極めて強いようだ。
ミリソラシアが本拠地である議事堂にまで急行していたタイミングでの惨事だ。
少しでも自爆が早ければ、彼女が殺してでもとめただろう。
「でも、みんなが私を信じてくれて助かったよ」
「«ふむ、そうでありんすね。あ奴らも胸の中には平和を志していたでありんしょう。喉から手が出るほどには、でありんす»」
現在進行形で白英を中心に〈強進化世界線〉全体の復興作業を行っているのは千花が宇黒城から別空間に拉致していた百万人の反乱軍だ。
勿論、韓燕譚の反乱軍を鎮圧したのは彼らだ。
フレイヤの言う通り、彼らも彼らなりに戦争を終わらせようとしていたのだ。
韓燕譚の一件もそうだが、他にも片づけなければならない重要事項は多々ある。
秦魏戎におけるネメシアの活躍、呉蜀勾差の取り扱い、そして、“不神物”を消し去った決定打となった男バーナード=リードの存在。
サラサラッ! と異次元の量の書類に筆を走らせ始めて既に三時間。
昇ってきた朝日の光に目を細めた千花は、次の瞬間、天啓を受けた神父よろしく──驚愕に目を開いた
あまりの衝撃に、机の上に並べられた書類を床にばらまいてしまう。
この光景を見た官僚たちは発狂するに違いないであろうが、今の千花には、そこまで気は回らない。
「……ッ…………ッ! 時雨────ッ!」
己の眼に飛び込んできた姿。
それは、数日にわたり拒絶されていた親友の存在であった。




