18. 光陰矢の如し、わたしは日陰に佇む草の如し
「──【刻印】の再確。間引くか否か──」
無感情の“怪物”が目の前にいる。
明確な輪郭など初めから掴むことなどできないのではないか、と錯覚してしまう程に巨大な“悪意”が白英を包み込もうと動き出す。
“生命体”に余すことなく存在するはずの暖かさが、“怪物”からは一切感じられない。
いざ正真正銘の“無感情”である“生命体”を前にした場合、人間は成す術なく終わりを待つことしかできないのか、と取り留めもなく考えてしまう。
現状、彼女自身の己が置かれている環境に気づけていないため仕方がないが、あまりにも他人事のように感じられる。
いや、もしかしたら理解の及ばない存在を前にしてみると、皆一様に同じ反応を示すのではないか。
「(あー。やばいやばいやばいやばいやばいやばい、ですね。こーれは、やばいですね)」
心中では“怪物”から逃れる方法を探っているはずなのに、身体が全くいうことを聞いてくれない。
底なし沼に引き込まれた哀れな被害者のように藻掻くことすら、今の彼女には許されていない。
「(ま、まって…………! わたし、まだ……お礼をいえてない!)」
彼女が唯一可能な心からの願いも、“怪物”にとっては取るに足らないものである。
洪水のように流れ込む“感情”をグルグルと合成抽出している白英に、機械然とした無機質の“怪物”が、躊躇なく喰らいついた。
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馬車か? いや、馬車は泣きたいぐらいにお尻が痛くなったはずだ。
ならば、最新鋭の移動媒体か? いや、そんな大層なものにわたしが乗れるわけないか。
そうなら、この揺れは何なんだ? っていうか、わたし、浮いてる?
「……ッ!? ふわぁえっ!? こここここ、ここはっ!?」
「あっ! ソフィア、白英ちゃん起きたみたい」
「おはようございます、白英様。早速ですが、本日の予定をお伝え致します」
「お伝えは後でやって!」
いや、かかえられている? きっとそうだ、と直感をもって理解した白英の意識は急激に覚醒する。
「ふわぁえ!? しししし、師匠!?」
「…………目覚めたか」
「な、なななんで……師匠はわたしを俵みたいに…………?」
「んー、その答えは後ろだね」
「ふわぁえ!? せ、千花さん? 後ろって…………?」
乙女としての自覚が明確に存在する白英が、己の扱いに疑問を抱く空白期間など一蹴するかの如く、現実は押し寄せてきた。
全力疾走する剣聖の左肩に抱えられている白英は、少し首をもたげるだけで後方を確認できる。
一言で表してしまえば──山程の大きさを誇る砂鉄の塊が、規則的に胎動しながら迫ってきているのだ。
もはや口癖と化している叫びもあげることができない程には、目の前の異常事態は白英の常識外に位置していた。
「お分かりいただけましたか? 白英様が目を覚ました同時間に、“真天聖龍”様に警告をいただいたのです」
「ふわぁえ!? ソ、ソフィアさん!? 浮いてますよ!?」
「あー、白英様の第一声チャレンジは千花様の勝利ですね」
「呑気すぎませんか!? 緊急事態ですよね!? 世界とわたしの外聞の!」
「サラッとご自分の要件を入れているあたりポイント高いですね」
この人たちは一体全体何の話をしているのだろう? と言うより、現状を理解しているのだろうか?
──いや、だからなのかもしれない。
きっと、この人たちは終末が訪れようとも今のように巫山戯合うのだろう。
そして、笑いながら、さも休日の予定を組み立てるかのように世界を救ってしまうのだろう。
「ガァイっ!」
「黙れ、“真天聖龍”。そもそも貴様が現れてから異常が起き始めた。やはり、斬っておくべきだな」
「はいはい、千時先輩の私怨は置いといて…………」
「《これはどの歴史にも確認されていないでありんす。恐らく、〈強進化世界線〉固有の“生命体”と見るべきでありんすね》」
「対処法は?」
「≪現状においては…………打つ手なしでありんすね。なにせ、情報がないのでありんすよ?≫」
「つまり、やれるだけやってみようってやつだねっ!」
この時点でようやく白英にも状況がの飲み込めるようになってきた。
つまり、白英の意識が脈絡なく消失し、ヴェルが“何か”を伝えるように叫んだ次の瞬間には、“生命体”とすら呼称するのが憚られる“怪物”が現れたのだ。
その存在のことをどのように受け取ったのかは不明だが、千花たちは(恐らく本人たちが可能な最善の方法で)距離を取ろうと足掻いていた。
そして、剣聖に抱えられていた白英の意識が戻った。
故に、状況に変化を与えることが可能となった。
…………大枠はそんなところだろう。
「あっ!み、みんなは!?」
「みんなって? ここの人たちのこと?」
「はいっ! 呉蜀勾差のみんなですっ」
「何となく嫌な予感がしたから、私が保護しといたよ」
「……ッ! そうですか…………」
「≪この小娘…………まさか……≫」
「(そう言うことじゃない? 穏やかじゃないけど…………視ちゃったし)」
己の“感情”をうまく誤魔化したのであろう白英だが、千花とフレイヤにしてみればお粗末としか言いようがなかった。
(呉蜀勾差の特異性を考慮するのならば、一概に言い切ることは適切でないのだろうが)彼女にとっては家族といっても過言ではない間柄である彼らの安否に対して、落胆を示した。
だが、追従はしない。
『魔王』であった頃の千花ならばまだしも、今は『魔帝』としての千花を魂に刻んでいるのだ。
白英からの行動がない限り、千花が己で踏み込むような真似は決してしない。
そう、決めたのだ。
「アイツは“捕食”してるんだ。規則的に伸縮してるけど…………あれは咀嚼してるだけなんだよ」
「千花さん、アレの目的が分かるんですか!?」
「いやぁ……それがぜんっぜん視えないんだよね…………」
「≪そもそも、余らはアレの存在意義も、根源も、情報がないのでありんす。小娘の“眼”が作用する訳ないでありんしょう?≫」
「やっぱり、突っかかるしかないかな…………?」
「千花様?」
疲れを知らないのか疑問に思ってしまう剣聖に抱えられた白英だが、迫り来るアイツの存在は視認可能なのだ。
あの“生命体”は千花の言葉通り、砂鉄が中心に向かって縮む瞬間に周囲の木々や住宅を吸収していた。
言い当て妙だが、本当に──捕食し、咀嚼している
白英が目を覚ました時点で、呉蜀勾差の領土は完全に逸脱していた。
このまま何の対処法も思い浮かばなければ、この“生命体”を〈強進化世界線〉へと解き放ってしまう。
「やばいね。コイツ…………“洛邑”に向かう気だよ」
「ふわぁえぇぇぇぇええええ!? “洛邑”ってあの!?」
──実に不愉快
それが、千花の“怪物”への第一印象であった。
まるでどこぞの機械的殺人マシン(刻印源皇)に瓜二つと感じてしまう程に、“怪物”からの“感情”は皆無であった。
生きる上での最低限の行動──人間で言うところの呼吸の類──が“捕食”であると言わんばかりの堂々さに、嫌悪を通り越して呆れてしまう。
「≪他に“洛邑”があるのなら、話が違うでありんしょうが…………≫」
「よもや、この状況下で巫山戯る阿呆がいるか。栖本、対抗策は?」
「はっはっ! さっきから何度も言ってるじゃん」
「………………よかろう。殿は務める」
とんとん拍子に進んでいく作戦会議に口を挟む暇すらない。
この異常事態だというのに焦燥の欠片も見せないソフィアが一言も発さない理由が、白英にはようやく理解できた。
剣聖や千花という特にこれといった行動を示さずとも、その“貫禄”が透けて見える者らと共にいるのだから、ソフィアも尋常ならざる経験をしたのか、と予想は容易にたつ。
そんな彼女すら参加難しい会議である…………という訳でもない。
実際にはソフィアは意見を言えないのではなく、言う必要がないのだ(点付け)。
わざわざソフィアが状況整理などせずとも、二人(正確には二人と一柱)は最適解を叩き出してくれるだろう、といった信頼故なのだ。
「(そ、それはそれとして……そろそろ降ろして欲しいな…………)」
乙女として危機的状況から救い出してくれる“英雄”の存在を夢想していた白英だが、まさかその相手が殆どが騙し討ちで引き込んだ師匠(しかも一方的)とは予想だにしていなかった。
加えて、荷物扱いときた。
空気を読めるわたしじゃなかったら暴れてるね。
と心中でぼやくが、なお一層虚しくなるので即座にやめた。
「(……? やっぱり、何処かで?)」
作戦の細部を埋めるために、より精密な情報交換を行う二人を尻目に、白英は迫る“怪物”を見据える。
周囲の“生命”を一欠片も残さず喰らい尽くしていく“怪物”。
その姿はどこか懐かしさを孕んでいた。
だが、“怪物”と相対したのはこれが初めてだ。
だと言うのに拭えずにいる言いようのない“不安”は、漠然と白英の脳内を、魂の深奥にすら浸透し、より確実な記憶を引きずり出そうとしている。
「【刻印】の再確…………間引くか否か」
「……ッ!? 白英! それどこで聞いたの!?」
「ふわぁえッ!? え、えええと…………夢の中で?」
「…………千時先輩、さっきの作戦全部忘れて」
笑われるだろうか、と予想して発言を躊躇ってしまったが、千花から放たれた言葉は白英の予想を完全に裏切った。
深刻そのもののような雰囲気を醸し出しているというのに、とても悲観的には見えない。
思案顔に不敵な笑顔──相手が何であれ完全勝利しか眼中にない『魔帝』
まさしく、今の千花を形容するに相応しい。
「≪一つの仮説は立てられたでありんす≫」
「改めて新しい作戦を作ったから、そっちで」
「よかろう。だが、大枠に変わりはないな」
「うん、詳しくは後で。今は行動あるのみだよっ! 【惨廻せし愛は此処に】っ!」
そう言った千花は躊躇いなく【愛の刻印魔法】による術式を構築する。
あの真躯となった“真天聖龍”の肉体にすら通用した千花の【愛の刻印魔法】によって底上げされた術式は、“怪物”にすら爪痕を残した。
空間圧縮が作用した“怪物”は砂鉄のような肉体が災いし、トマトが握り潰されたようにぐちゃぐちゃになってしまう。
「よし、ソフィア。ヴェルと白英と一緒に“洛邑”に向かってっ!」
「承知しました、千花様」
「は、はいっ! はいぃっ!? “洛邑”ですかぁああああっ!?」
「行きましょう、白英様」
「いやですよっ!? ふ、ふつうは何かしらの説明があると思うのですがぁあっ!?」
「その時間が惜しいのです。何のために千花様が時間を稼いだと思うのですか? 千時様、よろしいですね?」
「フンッ! 是非もない」
「ふわぁえええええっ!? ししし、ししょうっ!?」
目の前で生理的嫌悪を催してしまう“怪物”の形を、いとも容易く変容させてしまった千花への畏怖は一変してしまう。
本人の意思は関係なく進んでいく指令を飛ばす彼女の姿は、無理難題を押し付けるパワハラ上司のそれ。
事前情報の一つのなく“怪物”が目指すであろう最も危険な場所へとむざむざ足を運ぶバカがこの世にいるであろうか。
しかも、そんな死地とも言える場所に、怖気づくどころか千花からの命令が嬉しいのか、血気盛んに突撃を決行しようとするソフィア。
そして何よりも頼りにしていた師匠──剣聖からのゴーサイン。
迫りくる“怪物”、そんな人外の極地に位置する“生命体”をあろうことか真っ向から喧嘩を売る千花。
これだけで白英の許容範囲は限界を迎えていた。
しかし、現実とは残酷で無慈悲だ。
可憐なメイドと思いこんでいたソフィアの予期せぬ膂力に、抗う暇もなく剣聖の左肩から引きずり降ろされた白英。
ガタガタと震えて次に起こる“予想の範疇など超えてるだろ、ちくしょうめ”な現象を待つことしかできない彼女の姿は、庇護欲をそそるものがある。
「では、行ってまいります。【親愛なる聖友よ】」
「ふ、ふわぁえ…………?」
「わあぁぁ…………ちょっと小さいけど、“真天聖龍”だね」
「ガィイァアアアアッ!」
きっと、白英は疲れていたのだろう。
ソフィアの左肩に乗っかっていたヴェルが、純白のヴェールを纏って巨大化した、なんて現象を前に倒れてしまった。
もはや、「何故、ソフィアの魔法でヴェルが真躯“真天聖龍”には届かずとも、十分に巨大な龍に変貌するのか?」や、「っていうかそもそも千花もソフィアも何者なのか?」、「なにより、こんなやべぇ人たちに関わっていて大丈夫なのか?」といった疑問すら許されていないようだ。
「貴様を見ていると虫唾が走る。疾く去ね」
「ガィイアッ!?」
「うーわ。千時先輩サイテー。こんないたいけなドラゴンを傷付けるなんてー」
「三文芝居がしたいのなら、他所でやれ。おい、“真天聖龍”。貴様も大概にしろよ?」
「すっごい嫌いじゃん。そんなにイヤ? 私、“真天聖龍”が涙目になってるとこなんて見たくなかったんだけど…………」
「ガィイィィッ! ガァアアッ!」
「ふぇ!? ふわぁぁぁぁぁあああああっ!」
「≪ここまで弱小精神力の“龍”の珍しいものでありんすね»」
キラキラと涙を飛ばしながら飛び去るヴェルに対して辛口の域を逸脱した酷評が行き交う。
しかし、ガラスのようなメンタルがひび割れたとしても、ソフィアと白英をその背に乗せて飛び去るあたり、律儀というか何というか…………。
幾らヴェルのせいで散々な目に遭ったといっても、もう少し優しくなれないだろうか…………これではあまりにもヴェルが哀れだ。
〈聖ドラグシャフ世界線〉において大暴れした“真天聖龍”とは別物であることは一目瞭然であろうに、決して相まみえることのできない相手として二人は認識していた。
千花や剣聖たちとヴェルの間には、簡単に埋まるような溝は存在せず、ただただ“敵対者”としての認識しかない。
だからといって、いつまでもグダグダと遺恨を残す訳にはいかない。
故に、千花は任せたのだ。
〈強進化世界線〉の今後を左右する重役を護る者として。




