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29.

 山小屋に入るやいなや、「待ってました」と誰かが言った。何人かの男女がテーブルに座っていた。テーブルには食事が並べられている。太一は、促されるまま、椅子に座る。

「じゃあ、いただこうか」

 男の一人が言った。フォークとナイフが皿にぶつかる音だけが部屋に響く。

食事は思いの外、美味しかった。牛フィレステーキの焼き具合はレアで、ナイフを入れると鮮やかな血が滴った。

 太一は、盗み見るようにして、室内に視線を向けた。古びた食堂。壁紙はところどころ引き剥がされたような状態だ。拳で殴って開いたような穴もある。

 片隅に積まれた椅子やテーブルは、埃が積もっていそうだ。清潔とは言い難い。食事を取る場所としては不適切だ。太一は顔をしかめかけたが、仕方ないことだと諦めた。ここは何十年も前に廃業した山小屋なのだという。

「コーヒーはないかな?」

ふいに声がした。男が老婆に向かって尋ねている。老婆は食事の最中だったが「ええ」と返事をして、立ち上がった。

一人はこの山小屋の持ち主だと聞いた。あの老婆がそうなのだろう。

「私が行きますよ」

女性がナプキンで口元を拭いながら、席を立った。

「食後のコーヒーまで、今夜のメニューですから」

女性が部屋を出ていった後の円卓には、太一の他に、老婆と先ほどから口数の多い男性、それから色の白い線の細そうな青年と派手な化粧の中年女性が残っていた。

「ゼロサムゲームはお好みかな?」

また、男が口を開いた。

 ゼロサムゲームとは、勝つ人がいれば、必ず負ける人もでるゲームだ。

 男は続ける。

「ヨーロッパには幽霊が出るんだ。知っているか?」

 太一はかぶりをふる。

「共産主義という幽霊だ」

 男が勝ち誇ったように笑う。

 太一は、全く面白いと思わなかった。

「一八四八年に発表された。『共産党宣言』の冒頭の言葉だ」

 女性が銀色のトレーに六つのコーヒーカップを載せて戻ってきた。女性は、その一つ、一つを皆に配ってから、また自分の席に戻った。太一は空になった皿を奥に押しやり、手前にコーヒーを手前に引き寄せた。ソーサーには二枚のクッキーが乗っていた。これも手作りらしい。太一はコックをしていたという女性に視線をやった。女性は中断した食事の続きを食していた。

「これで、最後の晩餐も終わりですね」

 今まで、一言も口をきかなかった青年が声を出した。

 そうだった。最後の晩餐。太一はようやく思い出した。これは、最後の晩餐。晩餐の後にあるのは、虚無。すなわち…。

 太一は再び目の前のコーヒーカップを見た。さて、どちらだろうか。コーヒーとクッキー。どちらがこの食事の締めくくりなのだろう。

他の人々の様子を窺うと、まだ誰もどちらにも手を付けていない様子だった。コーヒーを催促した男性でさえ、カップに手を伸ばしたり、伸ばした手を膝に下ろしたりしている。

 太一にはわかっていた。この六人の前に置かれたコーヒーかクッキーのどちらかに人生を終わらせるあるスパイスが入っていることを……。


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