23.
高級ホテルのロビーのようだった。天井が高く、いくつものシャンデリアが吊るされている。室内も広い。広いスペースには、鮮やかな色のソファが何台も並べられている。アンティーク調の大きな古い時計も目立つように置いてある。しかし、時間を刻んではいないようだ。誰かが時間泥棒に合ったと言っていたのを思い出す。この世界では、時の概念もないのだろうか。
ネムノムネは中央の深紅のソファに座わり、長い脚を組む。座るとネムノムネの胸は重力で少し浮き上がる。
太一もその隣のソファに腰を下ろした。長いこと歩いていたので、大きなため息をつき、深呼吸もした。
「あなたなら、きっとできるわよ」
ネムノムネが決然と言った。
何ができるというのだ。
「星は好き?星座って素晴らしいわよね。星座の見方を知らない人間には、夜空の星もただの星なのよ。でも、星座を知っていれば、空いっぱいに動物をはじめ、色んなものが見えるのよ。素敵じゃない?」
確かにそれはそうだなと太一は思った。ネムノムネは、案外ロマンチストなのかもしれない。
「あなたなら書けるはずよ」
ネムノムネはソファに豊満な身体をあずけながら言う。
「書ける?」
「忘れたのかしら」
ネムノムネが立ち上がり、奥のテーブル……というよりは机の方に歩いていく。机には、デスクトップ型のパソコンが置いてある。
「思い出したかしら?」
星座のように頭の中の記憶と記憶の点を結ぶ。そうだ自分は小説家を目指していた。そのことを言っているのだろうか。
太一は、小さいときからとにかく書くことと読むことが好きだった。特に読むことの方が好きで、学生時代は一日に何冊も読むこともあった。そのあと、大学生の頃に、小説を執筆し始めた。社会に出てからも筆を持ち続けた。だが、趣味で書いていただけで、小説家を目指したことはなかった。周囲が反対したからだ。太一にとって、小説を書くことは苦ではなかった。それよりも、大学や大学院での論文を書くことが苦痛でたまらなかった。自分はしょせん、研究者には向いてないとそのとき確信した。想像することは何よりも好きなことだった。
これはクセなのかもしれないが、小さいときから空想癖があった。今では、それがストレスの発散に一役買っていることもわかっている。就寝前は、本当に幸せな瞬間だった。入眠の儀式のように、毎晩空想した。空想は非現実なことが多かった。魔法で空を飛んだり、悪の大王を倒す主人公になったり、ロボットとなり対戦したり。一人で空想の世界に浸ることが最高の幸せだった。
ただ、一方で文章力には自信がない。インプットは得意なのに、アウトプットが苦手なのだ。受験では、国語の点数は高いのに、小論文を書くとなるとまるで書けない。
しかし、小説を読んでいると、書きたくなる。ふつふつと執筆意欲が湧いてくるのだ。それは、好きなアーティストの音楽を聴いている中高生がギターやベースを握る感覚に近い。読むから書きたい衝動に駆られるそれだけだった。
当時、付き合っていた彼女に言われた。「太一なら書けるよ」
そのとき、はじめて小説を書いた。パソコンに向かって、想像力を駆使して、文章を紡いでいく。全く苦ではなかった。小論文は書けなかったのに、物語ならなぜか書けた。
書いた文章を彼女に見せた。面白いと言ってくれた。友達にも見せた。キモイと言われた。太一は処女作をある賞に出すことにした。五次選考まであるという。期待もせずに、プリントして出版社の賞に出した。
期待とは裏腹に何と最終選考まで残ったのだ。最終選考は五人の作家先生で決めるらしい。さすがの太一も期待した。
結果は落選だった。
空想の人物を登場させ、空想の世界を描く。思いつくままに筆を走らせた。賞に応募するや、とんとん拍子で最終選考まで残った。しかし、人生はそこまで甘くはないと悟った。
その結果がこれだ。主人公が、鏡の中や、絵の中に入り込んだ話を読んだことはあったが、さすがにこんな複雑な状況に追い込まれる話は聞いたことも読んだこともなかった。
「ぼんやりだけど、思い出した」
太一は、ネムノムネに伝えた。
「そう、それはよかった」
ネムノムネは、満面の笑みを浮かべた。
「書けるけど、ここでは書かない……書きたくないんだ」
太一は、今の心情を吐露した。
「わかったわ。それでは、もう少し旅を続けるのね。そこの入ってきたところから、山を登れるわ」
太一は、言われたとおり、入口に向かう。入口が出口か……。
「この世界は、対立軸で成り立っているわ。食べるものと食べられるもの、富を得るもの、搾取されるもの。アディオス!」
最後の言葉がスペイン語か!、と声には出さずに太一は入口なのか出口なのかよくわからないけれど、とにかくこの場所から抜け出した。




