猫の名前
ある日、私は通勤途中の道で一人の男に出会った。その男は猫の写真を撮っていた。首輪がついていないからおそらく野良だったのだろう。男はカメラと自分の目線を猫に合わせながらパシャリパシャリと撮っていた。猫も別段逃げるでもなくその場にじっとしていて、時折前足で首をかいた。私は物好きもいるものだと思いその場を通り過ぎた。
次の日、猫と男はまたいた。その日も男は変わらず猫を撮り、猫もじっとしていた。私はどうしても気になって声をかけてみた。「すみませんが、あなた写真家かなにかですか。」「いえ、違いますよ。ただこいつがあんまりにもかわいいもんで。」男はスーツ姿だったので、まさかとは思ったが聞いておいてよかった。私と男の会話はそこで終わり、私は駅に向かって歩いていき男はまた写真を撮りはじめた。
その次の日も猫と男はいた。今度は私も男の邪魔にならないように座り込んで猫を眺めた。別に電車の一本や二本で変わるものでもない。「どうです、かわいいでしょう。」男は私にそう言ってきた。その猫は特別美人というわけでもなくごくごくありふれた感じの猫だったので私はええまあ、といった曖昧な返事をした。「実はこいつ、私が小さい頃家にいた猫にそっくりなんですよ。その猫は年寄りだったもので私が四歳位の頃に死んでしまったんですがね。それで数日前こいつを見つけてこれは、と思ったんです。それ以来ずっと撮り続けてるんですよ。」男はぺらぺらと喋った。昔の猫に瓜二つか。まるで女の話でもしているようだ。そういえばこの猫は男の前ではいやにじっとしている。もしかすると、本当に生まれ変わりなのかもしれない。
それから私は男と親しくなった。ある日の男は猫を撫でていた。猫のほうも喉をゴロゴロ鳴らしとても気持ちよさそうにしていた。私も撫でようとすると猫は凄い剣幕で威嚇してきた。またある日は男は猫に煮干しをやっていた。大丈夫なんですかと聞いたらこいつなら大丈夫でしょう、と笑って応えた。私もそれを聞いてなんだか安心したように感じた。そういえば名前はつけているんですか、と聞いたら男は首を横に振った。「名前があるとどうしてもその方向からしか見れなくなっちゃうじゃないですか。こいつはこいつです。いろんなところがあってのこいつなんです。だから名前はいらないんですよ。」レッテルとか、そういったことを言いたいのだろう。私はううむと唸った。名前のない猫、まるで夏目漱石だ。本当に猫のことがわかっている人は、名前なんて付けたがらないのだろう。
休日、私が駅の方まで歩いているといつもより手前のところで男と出会った。いつもはしっかりとして見える男がやけに狼狽えていた。もしや猫になにかあったのかもしれない。案の定、今朝は猫の姿が見えなかったようだ。それから私と男は必死で猫を探した。大声で名前を呼んで探そうとしたが、いかんせん名前がないので呼びようがない。しょうがないので「どこだー」などと小声で言いつつ猫を探していた。小一時間ほどたって、男が大きな声で叫ぶのが聞こえた。声の方へ行くと、草むらの中であの猫がぐったりとしていた。どうやら病気のようだ。私たちは急いで猫を病院に連れていき、半ば強引に診てもらった。どうやら風邪だったようで、幸いにもすぐに治るそうだ。この猫を飼うのかと獣医に聞かれると、男は少し悩んでから「はい。」とはっきりと応えた。
それから私は半月ほど海外へ行ったので、男と猫とは会っていない。
海外から帰ってきた次の休みに男に会うことを期待して駅まで歩いていると、いつもの場所で男と会った。男はこのあいだのことでお礼を言い、私を家へ招待した。男の家は小さなマンションで、もちろんあの猫もいた。やはり名前は付けていないそうだ。男が猫をおいとかなあとかで呼んでいるところを想像して、夫婦みたいだなと思いふふと笑ってしまった。「ああ、申し遅れました。私、上村と言います。」「ああ、こちらこそすいません。私は…」
深々と頭を下げる二人の人間を、猫は馬鹿らしそうに眺めていた。