金木犀に何かを
何かがあるという日ではない。ただ秋らしくからっと晴れていたという以外には。でも暑かったり冷え込んだり台風が通り過ぎたりと天候が目まぐるしく変わっていった日々からすると、何か落ち着いて過ごせる日ではある。特別なことがあれば嬉しいけれど、無ければないで穏やかな夕べを過ごすのも悪くはないかも知れない。
仕事場から帰宅する時間になったけれど、ちょっとどこかに立ち寄りたい気持ちがあった。出来れば車で10分くらいで行ける所が良い。同僚の女の子に何か面白い場所がないか尋ねてみると、
「と言われても、飲み屋さんくらいしかないですよね~」
と答えられた。それもそうである。というか地元民だからこそ、殆どの場所は行きつくしてしまってそこから更に面白い場所となると少し遠くに行かないと見つからないという事は分りきっている。生憎今日は飲みに行きたい気分ではなかったし、適当にお城山の方にでも駐車して他の人同様スマホ片手にブラブラしていようかなと思った。
外に出るとこれでもかという程「金木犀」が薫る。
「あ・か・き・色の…」
非常に印象的でノスタルジックな雰囲気の名曲のサビを自然に口ずさみたくなる。金木犀が『赤黄色』だという事を知ったのもその曲のお陰で、何というか人生の彩が増えたように感じる。多分来年も再来年も、またこの季節になったらこんな風に口ずさみたくなるんだろうなと思った。
丁度良いので車に乗り込んで、スマホをカーステレオに接続してその曲を掛ける。ある人が「金木犀がどれなのか教えてくれ!」とネットで呟いていたのを見て会って教えてあげたいなと思ったけれど知ったら知ったで、
「ああ、これだったのか!!」
と納得するに違いないと思ったりする。まだ匂いを嗅ぎたいなと思ってサイドガラスをオープンにした瞬間、一陣の風が吹き抜けて心地よく感じた。日はまだ落ちていないけれど、次第に空が赤焼けその少し下にわが町を見守る山の輪郭がぼやけ始めている。何となく切なくなってくるが、気を取り直して車を発車させる。
軽で急な坂を登っているといつも大丈夫かなと思ってしまう。過去に自分が陸上部だった頃に、急坂でまったく足が動かなくなってしまった経験があって、どうもそれを当てはめてしまうらしい。馬力がそこそこある車だと聞かされているので信頼してペダルを踏み込む。大きなエンジン音が少し頼もしく感じた。
登りきってすぐ道を折れてお城山に到着する。既に似たような事を考えたらしい人が既に駐車場から歩いて出てくるところだった。車を停め、降りてから自販機でコーヒーを買ってスマホ片手に歩き出す。文明と文化が見事に融合したゲームのお陰でこのところ平日でも人が跡を絶たないこの城跡で、やはり自分も同じように歩きながらモンスターを捉まえる。リアルでは少し痩せ細っている猫が居た。
一通りスポットを巡ってから、車に戻り、音楽をかけながら少しボーっとする。
「今日は特に無かったなぁ…」
モンスターはまあまあ捕まえたし、アイテムも補充できた。悪くはない気がする。でも何だろう、ちょっと慣れ過ぎてしまって感動が減っているのかも知れない。そろそろ蒼くなり始めている空を見てから辺りに停まっている車を眺め、しばし物思いに耽る。
『特別』な事はない。それなりに満足していて欲しいものも手に入りつつある。何かあるとすれば、時々ある予想外の面白い事。なにより一週間もすればこの町は祭りでにぎわう。寂しいとはまた違う情緒。
ただ…
「そうか、ただ今日が何事もなく終わってしまうのが勿体ないんだろうな」
時々思うのである。何かする時間は今日みたいに取ろうと思えば取れる。いつだってちょっと遠くに出掛けようと思えば出掛けられる。でも毎日そんな事をする気持ちはない。ほとんど分りきった日常、何だかんだで同じことをして過ぎてしまう時間。
やはり何処からともなく金木犀の薫りが漂ってくる。
匂いは何かを呼び覚ます。こんな気分になれている自分…を忘れたくない、どこかに留めておきたいのかも知れない。青春ともまた違った、言うなれば人生というものをふっと客観的に見ているそんな黄昏。私は思い立ってもう一度車を降りた。けれど、何をするわけでもなくすぐまた車内に戻った。
エンジンを掛ける。帰りはラジオにしてみようと思った。
『ではリクエストの多かったこの曲をどうぞ』
偶然にもその曲が掛かった。いや偶然ではないのだろう。多くの人が同じように金木犀の匂いで思い出し、この曲が掛かったのだろう。他の人もこの曲を一緒に聴いているのだと思ったら自分で掛けたのとは違って聞こえた。
<もしかしてこういう展開を待ってたのかも知れない>なんてちょっと愚かな事を考えそうになって笑った。