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ポストモダン文学論

作者: DJ克明

 自分は以前に「近代と現代のはざまで揺れ動いている」という意識があったが、本当にそういう状態が好ましいのかどうか、今では疑問に思うところではある。たとえば、現代人は現代文学を書かねばならないと思うのだ。できれば、近代文学より現代文学を書くべきじゃないのか。この現代という時代においては現代文学を書くということが一番、ベストではあるだろう。歴史性の認識である。現代では現代以降の文学か、あるいは新しい現代文学ともいうべき作品を模索するべきだと考えるのである。反対に、「現代で近代文学を書くことは歴史的意味を為すのか」。そういうことがずっと自分の中で思い考えてきたこと――近代と現代のはざまで揺れ動いているという意識の意味だった。


 近代文学と現代文学の意味とはいったい何だったのか。たとえば、自論であるが、近代とは「内面のファッション」で、現代とは「外面のファッション」であったのではないだろうか。内面のファッションとはあくまで「内面」の美なので人間論や青春論などがそれに当たるだろうし、外面のファッションというと文字通り、形而上学的、内面の「否定」ということが言えるであろうと思える。こう見ると、私だけか、いささか近代の方が魅力的であるという風に見えもする。ちなみに私は決して近代も否定できないと考えている。たとえば、近代文学の偉業の価値というのは歴史を経た今でも、その時の時間の意味は決して誰にも否定することはできない。


 ところで、私はどちらかというと現代作家、つまり、ポストモダンの作家であるという自負が強い方である。けれども、ポストモダン特有の「何も言いたくないこと」を「言」うということに、格別、意味があるとは思えない。しかし、なぜそれでも自分はポストモダンにこだわり続けているかというと、それはポストモダンを「しょうもない」こととして結論付けるのが嫌だからである。かと言って、ポストモダン作品の特徴である「倦怠」感や「アヴァンギャルド」を自身の作風に取り上げるということはまずしないでいる。なぜかというと、それは内面の重視、つまり外面の否定(ポストモダンの否定)が、逆に倦怠感を表すということで、ポストモダン的だという考えに基づいたものであるから。意味の否定の「否定」が究極的な意味の否定を表すからである。そういう意味では自分は近代寄りでもない。ちなみに、自分は近代文学を書いているつもりはない。まさにれっきとした現代文学に挑戦している。


 しかし(話が近代と現代を行ったり来たりしているけれど)、現代は近代の延長上に本当に在るのだろうか? そこは甚だ疑問であるところではある。つまり、現代は近代の模倣だけはしないまでも、やはり近代にあらかた言い尽くされて、何も主張することがなくなった時代を意味しているということがどうしてもあるだろうということだ。たとえば「近代は近代で良い、そして現代は現代でもっと良い」というのが現代であったらいいはずなのに、それがないように思えるのだ。そして、現代の作家たちが近代文学の模倣をしないというのは、文学史に名を残せないというならばまだマシだが、本当はそれでは飯を食っていけないからなだけではないかと思ってしまうのである。


 


  

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