ダンジョンマスターvs魔将王②
点々と、赤い染みが床に作られていく。
整然と並んでいた長椅子はいくつも砕けて、そこら中に木片が散乱していた。
神像も同じく巻き添えを食らっている。
瓦礫となって散らばり、もはや無事な像の方が少ない。
そこに響くのは、一人分の荒い呼吸音。
スピアは自然体で立っている。涼しげな顔までしている。
ロマディウスばかりが一方的に叩きのめされ、ボロボロの姿を晒していた。
「何故だ……貴様は、ただの子供ではないか……」
「子供じゃありません」
さらりと述べたスピアは、軽く手を振った。
無傷ではあるけれど、少しだけ拳に痛みがあった。
何度も立ち上がってくるロマディウスを殴り続けたためだ。
なにもスピアは、痛めつけようとしているのではない。
相手が向かってくるから仕方なく、だ。
すでにロマディウスの剣は折れている。
そうなると徒手空拳、あるいは魔法での戦いになるが、どちらもスピアが圧倒していた。
ロマディウスが呪文を詠唱し、無数の光弾を放つ。
ぺちぺちと、手刀で叩き落とされる。
ならばと接近し、殴り掛かろうとする。
べちこーん!、と平手打ちで吹き飛ばされた。
床を転がり、呻きながら、それでもまたロマディウスは体を起こす。
もうどれだけ歯軋りしたかも分からない。
「ぐぅ……どうやら、俺では貴様を黙らせられぬようだな……」
並の者ならば、とうに諦めていただろう。
平凡な顔立ちとは裏腹に、ロマディウスは人並み外れた頑固者であるらしい。
目蓋を痛々しく腫らしながらも、眼光の鋭さは衰えていなかった。
「だが、貴様の仲間ならばどうだ?」
スピアに向けていた視線を横へずらす。
ロマディウスが睨んだのはエキュリアだ。広間の端でセフィーナを庇いながら、息を呑んで事態を見守っていた。
そのエキュリアへ向けて、無数の影が伸びる。
ロマディウスの足下から伸びた影は、さながら蛇の群れのように膨れ上がった。
一気に広がって、礼拝堂の四方を埋め尽くす。
エキュリアを捕らえ、操るべく―――しかしそれは叶わない。
「妄想の出番じゃありません」
スピアが手刀を払う。目の前の空間を裂くように。
それだけで、広がった影は霧散した。
あっという間に、元の礼拝堂の景色が取り戻される。
「ぐっ……これも無駄ということか。俺の力が、すべて無効化されている……?」
「無効化もなにも、最初から存在しないものです」
なんでもないことのように、スピアは言う。
「幻覚なんですから、そもそも人を傷つけるのが間違いです。どうせなら、もっと綺麗な景色でも作り出して、人を楽しませたらどうですか?」
ロマディウスは愕然として唇を震えさせる。
もはや返す言葉も出て来なかった。
スピアが指摘した通り、ロマディウスに与えられた力は幻覚を操るものだ。
視界内の者すべてに対して、あらゆる幻覚を見せ、惑わせる。忍耐と栄達の神から授かった力だというのに、実体を伴わないのはなんとも皮肉なものだった。
けれど、幻だからこそ制限のない脅威になる。
ほんの僅かでも幻を現実だと思った者は、そこから抜け出せなくなる。
つまりは幻覚が現実となる。
例えば腕が斬り落とされたと僅かでも思えば、実際にその腕は断ち切られる。
大量の血を失ったと思えば、そのまま昏倒し、失血死に至る。
下手をすれば、スピアもそうなっていただろう。
催眠術という程度ではない。
仮にも神の力の一端であるし、敢えて言うならば呪術に近い。
ロマディウスが望むままに、その視界内の現実は改変される。
そして他者にとっては、幻覚がそのまま現実となる。
“なんでもあり”という、使い方次第では何者をも屈服させられる能力だ。
しかし、スピアには通用しない。
「まあ、そんな力はどうでもいいんですが」
またあっさりと述べると、スピアは小首を傾げた。
「どうして、いきなり襲ってきたんですか? しかもなんだか必死ですし」
「ふざけた台詞を……貴様が無礼を働いたからだろうが!」
「ああ、無礼討ちってやつですか。やっぱり暴君ですね、っと」
スピアは身体を捻る。
掴み掛かってきたロマディウスの腕を、逆に捻り上げた。
そのまま体の向きを変えさせると、背中を蹴りつけて弾き飛ばす。
また神像を破壊して、ロマディウスは床に倒れ伏した。
「ぐ、ぅ……冗談ではない……貴様のような子供に、何が分かるというのだ……」
「無理はしない方がいい、っていうのは分かりますよ」
弾き飛ばされた際に、ロマディウスの腕は折れていた。
けれどその腕で自身を支えて、また立ち上がる。
スピアには通用しなかった幻覚だが、ロマディウス自身には効果を及ぼしていた。
だから傷の治癒も行える。
ロマディウスが望むままに、即座に。
これまで散々に打ちのめされても、ロマディウスはそうして立ち上がっていた。
ただし―――。
「どんどん顔色が悪くなってます。失った血や体力までは戻せないみたいですね」
その指摘も事実だった。
そもそも自分の力が幻覚だと、ロマディウスにはよく分かっている。
だから治療効果も薄い。
使徒になってから肉体的にも強化されたロマディウスだが、スピアにはまったく対抗できていなかった。
「さて、どうしましょう? 捕まえて連れていった方がいいんでしょうか?」
背後へと、スピアは問い掛ける。
視線を向けられたのはセフィーナだ。はっとして我に返る。
「あ、その……ええと……」
あまりの事態に驚くばかりで、セフィーナの思考は追いついていなかった。
それでもいくつか深呼吸をすると、真剣な表情を取り戻す。
「……兄と、話をさせてください」
セフィーナは静かに歩み出る。
危険な行動ではあったが、エキュリアやエミルディットも黙って見守った。
このまま暴君の首を討つ、という選択肢もあった。
国の安定だけを考えるならば、それが最も合理的な手段だったかも知れない。
けれど実の兄の命だけでも救いたいからこそ、セフィーナは行動を起こしたのだ。
それをスピアも承知している。
いざとなれば、という覚悟はあっても、いまは警戒を緩めないだけで充分だった。
そうして兄妹は、僅かな距離を置いて向き合った。
「兄様……わたくしは、兄様を止めるためにやって参りました」
「……そうか」
ロマディウスの返答は、苦々しげに濁っていた。
それでもスピアに向けていたような憎悪や軽侮はない。
敵意を溢れさせていた視線は足下へ落とし、セフィーナの顔を見ようともしなかった。
「ですが、兄様を否定するつもりはありません。これまでの行動は、何かしらの事情があってのことと思っております。それを聞かせてください。一人で抱え込まず、わたくしにも兄様の力にならせてくださいませ」
顔を背ける兄に対して、セフィーナは真っ直ぐに訴えかける。
その言葉には真摯な想いが込められていた。
「……其方には関係ないことだ」
「いいえ。わたくしも王族です。どれほど辛いことに対しても、目を逸らさぬと決めたのです。そして……この国で、魔族が企みを巡らせていることも知っております」
ロマディウスが目を見開く。
そこでようやく、セフィーナと視線を交わした。
「気づいていたのか……」
「城を出てからのことです。六魔将の配下を名乗る者に襲われました。スピアさんのおかげで事無きを得ましたが……兄様は、彼らに脅されていたのですか? どんな事情があるにせよ、わたくしが味方になりますから……?」
くっ、とロマディウスが笑声を零す。自嘲の混じった暗い笑みだ。
「魔族など恐れるに足りん。六魔将ですら、俺の力に屈している」
「っ……では、これまでの行為はすべて、兄様の意志によるものだと……?」
「おまえが襲われたのは手違いだがな。だからレイセスフィーナよ、俺の元へ戻ってこい。何も心配することはないのだ。国内の乱れもすぐに鎮めてみせる。その次には国外へも遠征し、この大陸も、魔族領も、すべてを手に入れてみせよう」
だから、とロマディウスは手を差し伸べる。
けれどセフィーナはすぐに首を振った。
兄が頼りないとか、もうすでにスピアに敗北しているとか、そんな理由ではない。
国のためというのも、また違う。
セフィーナはただ、ロマディウスのために、その手を取ることは出来なかった。
「兄様は、そんなことを望んではおりません」
セフィーナはまた真っ直ぐに眼差しを注ぐ。
静かにロマディウスの瞳を見据えて、その心の奥底まで覗き込むかのようだった。
「今回の旅で、わたくしは様々な方と出会いました。恐ろしい魔族や、情熱的な踊り子、熱心な聖職者……そしてスピアさんやエキュリアさん、エミルディットも。王宮にいて、王族として仮面を被ったままでは得られなかった出会いです」
「……何を言っている?」
「種族や立場が違っても、それぞれに望む未来や、夢を持っていました。それを語る時には、どの瞳もとても綺麗に輝いていたのです」
常に他者の目を見ようとする―――、
それは人一倍臆病だからなのか、あるいは分かり合いたいという想いなのか、セフィーナ本人は意識したこともない。
けれど、だからこそ嘘には敏感だった。
だからこそ、出会ってすぐにスピアを信用したのだろう。
ロマディウスの瞳が暗く濁っていることも、容易に察せられた。
「大陸の覇権や、魔族領など、兄様にはどうでもいいことなのでしょう? この国の王位にさえ興味を持っておられないように感じられます。では、本当の望みは何なのです? 何を抱えておられるのか、打ち明けてください」
「っ……レイセスフィーナ……」
繰り返し問われ、詰め寄られて、ロマディウスは後ずさる。
そこに傲慢な王の姿はない。
くしゃくしゃに歪められた顔には、悲哀まで滲んでいた。
「言えぬ……言えぬのだ。真実を知れば、おまえも……」
「分かりました!」
張り詰めた空気を裂いて、まるっきり場違いな明るい声が響く。
その声の主は、もちろんスピアだ。
皆の注目が集まる中で、胸を張って、スピアは涼しげに言う。
「すべてはセフィーナさんのための行動だったんです。間違いありません」
セフィーナもロマディウスも呆気に取られて言葉もない。
エミルディットも同じく。
ただ一人、エキュリアだけは顔を歪めて思っていた。
もしや黙っているのに飽きただけ、
適当な思いつきで言っているだけではないのか、と。
この作品で一番儚いのは、シリアスさんかも知れません。
次回は、③です。
まだバトルは終わりません。




