吹雪が晴れて
クリムゾン伯爵邸―――、
練兵場も兼ねた広い庭の中央に、円い石版のような“それ”は設置された。
複雑に刻まれた陣模様が光を放つと、転移魔法が発動する。
十名ずつ、人々が繰り返して転移してくる。
教会関係者をはじめとした避難民たちだ。困惑顔で辺りを見回しながらも、兵士の誘導に従って歩いていく。
兵士たちも若干の驚きを見せていたが、ひとまず受け入れ作業は順調に進んだ。
その様子を、クリムゾン伯爵は腕組みをして見守っていた。
屋敷へシロガネが訪れてきたのは二日前だ。
エキュリアとセフィーナからの書簡を携えて、諸々の事情を打ち明けるとともに支援を求めてきた。
話し合いは友好的に行われた。
その間、シロガネは有無を言わさぬ冷ややかな気配を纏い続けていたが。
だからといって、クリムゾン伯爵が威圧に屈するといったことはない。
領地にとって負担になるのなら、哀れな避難民を見捨てる覚悟もある。けれど今回はその必要もなく、人道的に手を差し伸べる余裕が充分にあった。
「伯爵様のご厚情、真に痛み入ります。皆に代わって感謝を述べさせてくださいませ」
「同じ神々を信仰する者として当然のことをしたまで。面を上げられよ」
跪いた初老神官へ、クリムゾンは重々しく声を掛ける。
告げた言葉に偽りはない。
ただし同時に、恩を売っておきたいという思惑もあった。
「此度の問題は、陛下の乱心によって起きてしまった不幸。けっしてベルトゥーム王国が神々を蔑ろにしているのではないと、理解してもらいたい」
「……聖教国にはそのように伝えましょう。ですが、私程度の言葉がどれだけ聞き届けられるかは分かりませぬ」
「なに、個人としての限界があるのも、また当然のこと」
ここまでの遣り取りは、クリムゾンが予測したとおりだ。
だから予定していたとおりに、“口止めのお願い”もしておく。
「この転移陣や、あの少女についても、なかなかに理解が難しいのだ。故に慎重に扱いたいと思っている。分かってくれるか?」
「そうですな……口を噤むのは難しいとは言えませぬな」
いざとなれば、強引に秘密を守る手段もある。
ここはクリムゾンの領地なのだから、物理的に口を封じるのも簡単だ。
死人に口無し―――、
とはいえ、ひとまずは穏便な話し合いで片付きそうだった。
「スピア様が望むのであれば、私はいくらでも沈黙を守りましょう」
「む、そうか。実は我が領地もあの少女には恩があって……」
「真実の信仰というものを、スピア様には気づかせていただきました。聖教国は無論のこと、たとえ神々を欺くことさえ、スピア様のためでしたら厭いませぬ」
「……は?」
クリムゾン伯爵は、思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
まじまじとサルバモーブの顔を見つめる。
そこにあったのは陶酔や崇拝。
あるいは狂信にも似た光が、サルバモーブの瞳に宿っていた。
「これは、まさか……!」
ひよこ村の住民も同じような眼差しをしていたと、クリムゾンは思い至る。
そうして、あらためて避難民たちへと目を向けた。
全員ではない。けれどちらほらと、恍惚とした表情をした者が混じっている。
手を合わせて祈るようにしながら、スピアの名を呟く者もいた。
「また妙なことをしでかしおった! シロガネを呼べぇっ!」
クリムゾンは狼狽えた声を上げる。
けれど呼び出されたシロガネは、やはり冷然として答えた。
真実を語り合っただけです、と。
避難民たちが去って数日、野営地は平穏そのものだった。
時折セリスが騒ぎ出すこともあったが、まあ大した事件は起こっていない。
精々、デザートのプリンを巡って、スピアと睨み合ったくらいだ。
その事件も、エミルディットの一睨みで収束した。
転移陣も片付けられた。
迂闊に置いておくようなものでないのは、スピアも承知している。
クリムゾン領側の転移陣も、ひとまずは回収された。
いずれ正式に王都と繋ぐことになるのかも知れない。
ともあれ、それも無事に王都へ辿り着いてからの話で―――、
「ずいぶんと空気が綺麗に見えます」
スピアたちはいま、青々とした空を見上げていた。
まだ外へ出ると息が白くなる。
冬が明けたとは言えず、いつまた吹雪が訪れてもおかしくない。
それでも久しぶりに見る晴れやかな空に、皆の表情は緩んでいた。
「あれだけの吹雪の後だからな。空も洗い流されているようだ」
「こうしてみると、陽の光の有り難味を実感できますね」
「姫様、足下にお気をつけを……あ、あちらを見てください! 雪ウサギです!」
野営地の端を、二羽の白いウサギが跳ねていた。
積もった雪を舞い散らせながら、ぴょこぴょこと戯れている。
もこもこで丸っこく、可愛らしい。
見つけたエミルディットは目を輝かせて、うずうずと追いかけたそうにしている。
「ニンジンとかあげたら寄ってくるかな?」
スピアが『倉庫』からいくつか野菜を取り出す。
エミルディットはわぁっと嬉しそうな声を上げた。
「いいんですか? えっと、冬の食材は貴重だと思うんですけど」
「大丈夫。それよりも慌てて追いかけないようにね。怖がらせたらダメだよ」
「まだ雪は残っていますから、転ばないように注意してくださいね」
「はい! ありがとうございます!」
セフィーナからも許しが出て、エミルディットは雪ウサギの方へ駆け出す。
ぽてり、と雪の上で転んだ。
でもすぐに起き上がると、今度は慎重に足を進めていく。
小さな背中を、セリスも優しげに目を細めて眺めていた。
「一緒に過ごしたのはほんの数日でしたけど……別れるのを惜しく感じますわ」
傲慢で自分勝手なセリスだが、美点を上げるとすれば、素直なところだろう。
およそ隠し事をしようとは考えもしない。
勝負を挑みながらも、助けてもらったことへの感謝も抱いている。
スピアたちとの別れに寂しさを覚えているのも、間違いのない本心だった。
「もうちょっとゆっくりしてっても構いませんよ?」
「ふふっ、厚意は嬉しいですわ。ですが花の命は短いもの。わたくしには腰を落ち着けている暇はありませんの」
優雅にスカートを翻して、セリスは流れるような所作で一礼する。
吹雪が止んだ以上、すぐに出発すると以前から決めていた。
セリスは真っ直ぐに王都へ向かう予定だ。
スピアたちは衛星都市のひとつを目指すので、ここで別れとなる。
それに、気軽に同行しようと誘える旅でもない。
王国の一大事に関わっているのだから。
「貴方たちも、いずれ王都へ向かうのですわよね? その前に露払いをして差し上げますわ」
「露払い、ですか?」
「あの神官たちも言っていたでしょう? いまこの国は、王の乱心によってあちこちが大変だそうですわ」
だから、とセリスは得意気に口元を吊り上げる。
「わたくしが救ってやるのですわ! この国を! 苦しむ人々を! そして永劫に語り継がれる伝説の如く、スタンピート流舞闘術の名を大陸の隅々まで響き渡らせるのです!」
高らかな宣言が、雪原に響き渡った。
これにはスピアも目をぱちくりさせるばかりだ。
呆気に取られて立ち尽くしてしまう。
「救う、だと……? まさか貴様、王城に乗り込むつもりか!?」
真っ先に立ち直ったのはエキュリアだった。
伊達に誰かさんから驚かされてばかりではない。
「ふふっ、乗り込みはするかも知れませんわね。ですが、貴方の考えているように、王を弑するようなつもりはありませんわ」
「……ならば、何をするつもりだ?」
「決まっているでしょう! わたくしの舞いで魅了してやるのですわ!」
常人には理解し難い言葉だった。
けれどセリスは当然のように述べて、またくるりと身を翻す。
「相手を殺さず、魅了し、屈服させる美しさこそスタンピート流舞闘術の真骨頂ですの。たとえ暴君であろうと、わたくしの舞いで改心させてみせますわ」
スピアたちへ背を向けると、セリスは軽やかに跳躍した。
柔らかな新雪を光粒のように躍らせながら、真っ直ぐに駆け出す。
「では参りますわよ、ゴンザレス!」
静かに控えていた執事も一礼して、後に続く。
雪原を突っ切っていく二人を見送ってから、スピアたちは曖昧な笑みを浮かべた。
「やっぱり騒々しい人たちでした」
「悪い連中ではないのだがな。あの無茶っぷりは、ある意味ではおまえ以上だ」
「むぅ。わたしは無茶なんてしてませんよ」
「どの口が言うか!?」
声を荒げたエキュリアは、スピアの頬っぺたを摘み上げる。
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を横目に、セフィーナはくすりと笑みを零した。
「でも、あの真っ直ぐさは素敵ですね。どれだけの困難があろうとも乗り越えようとする……わたくしも見習いたいくらいです」
「確かに真っ直ぐではありますが……しかし、あれを見習うのはどうかと」
「そうです。わたしの方が真っ直ぐで素直です」
「妙なところで張り合うな!」
セリスが去っても、騒がしい旅になるのは変わりそうもない。
スピアたちも、しばらく天候の様子を見てから、午後には出発する予定だった。
もう空にはトマホークが舞っている。
サラブレッドが引く馬車も、シロガネが整備してくれているところだ。
「エミルディットちゃん、そろそろ小屋に戻るよ」
「あ、はい。でも、えっと……」
戸惑いながら、エミルディットは前後に首を回す。
幼い視線の先では、二羽の雪ウサギが仲良くニンジンに齧りついていた。
ただし、エミルディットの手は届きそうにない。
「ぷるるん、あとでエミルディットちゃんにも撫でさせてあげて」
ぷるっ!、と黄金色の塊が震えて答える。
その上で、雪ウサギも呑気に丸まっていた。