幕間 その後のワイズバーン侯爵
屋敷の庭で槍を振るう。
ひたすら、一心に。
元より体に馴染んでいる動作を、さらに馴染ませ磨き抜いていく。
「まだまだか……これではきっと、あの娘に掠りもせぬ」
苦々しく呟きながらも、肉の余った頬は愉しげに緩む。
街に戻ってから、ワイズバーン侯爵は鍛錬を重ねる日々を送っていた。
レイセスフィーナを逃がしてしまったことは残念だと思える。
スピアに敗北したことも口惜しくある。
一連の出来事に関して、疑問も山ほどあるが―――、
それ以上に、雪辱を果たすべき相手を見つけたことに、ワイズバーンは充実感を覚えていた。
やはり根が武人なのだ。
配下の騎士や兵士たちに対しても、叱責や罰を与えていない。
レイセスフィーナを逃がしてしまったのは失態だと言える。
スピアに対して手も足も出なかったのも同じだ。
けれどスピアが死者を出すのを避けていたのは、ワイズバーンにも伝わっていた。
だから、その方針に従っている。
敗者は勝者に従う。武人としての誇りが、ワイズバーンの行動を縛っていた。
「もう一度手合わせを望みたいが……それよりも、国内での争乱が先になるか」
槍を止めて、大きく息を吐く。
太い首筋から流れる汗を拭いながら、ワイズバーンは今後に思考を巡らせた。
レイセスフィーナの動向や目的は、曖昧にしか把握できていない。
しかし王族が動いたのは確実。
となれば必然、国も動く。
現王の暴挙に対して貴族が連合して抗じるのは、容易に想像できた。
「殿下は、兄を討つ覚悟を固めたということか? もしもそうであれば……」
ワイズバーンは魔族に操られていた。
そこをレイセスフィーナの親衛隊に助けられた―――と、そういう筋書きになっている。
出鱈目であるのは、ワイズバーンがよく知っている。
けれど勝者の言葉である以上、それに従うのもまた敗者の務めだ。
「儂が行動を転換する理由にもなる、か」
救われた恩義に報いるため、レイセスフィーナに味方する。
そういった行動も、ワイズバーンの選択肢に入ってきた。
「殿下を勝利へ導き、恩賞としてあの少女との立ち合いを望むのも悪くないな……」
思考を巡らせながら、ワイズバーンは屋敷内へと戻った。
汗で濡れた体を軽く清めてから食堂へ向かう。
槍を止めた瞬間から、すでに食欲は疼いていた。
ワイズバーンが席に着くと、待機していた給仕が食事を並べる。
「最高級クルム牛の、リンゴソース添えでございます」
「ふむ……香りは上質だな」
食べられればいい。
これまでのワイズバーンは、質より量を優先してきた。
しかしいまは少々違っている。
後遺症とも言うべきか、スピアとの戦いでひとつの傷を負ってしまった。
「うむ……味も、良いのだろうな。食べられなくはない」
だが、とワイズバーンは眉根を寄せる。
料理人を責めるつもりはなかった。
原因は自分にあると分かっている。けれど不満を漏らさずにはいられない。
「食欲がそそられるほどではない。次の料理へ移れ」
味覚の変質。あるいは鈍化と言ってもいい。
それが、ワイズバーンに残された傷痕だ。
一度は魔物に取りつかれたのだから、命があっただけでも喜ぶべきだろう。
けれど、やはり辛い。
これまでは、たとえ安物のパンだって十人前は食べられた。
それがいまでは激減している。
最高級の料理でも三人前を食べるのがやっとだ。
いやまあ、並の人間と比べれば充分に食べているのだが。
それでもワイズバーンにとっては深刻な問題だった。
「む……この料理は新しいな」
「はい。干しアワビを主とした海鮮のスープでございます」
「海の味か。うむ、これならもっと食べられそうだ。持って来い」
腹を揺らして、ワイズバーンは追加を注文する。
けれど給仕役の男は、頭を下げ、申し訳無さそうに返答した。
「それなのですが……双子アワビという貴重な食材を使っておりまして、数を揃えるのは難しいのでございます」
「なんだと!? 金の問題か?」
「いえ。そもそも獲れる量が少ないそうです。南方のセイラールでも、年にいくつか見つかるだけだと……」
愕然として、ワイズバーンは頭を抱える。
折角、希望が見えてきたというのに、また暗闇に引き戻されてしまった。
いっそ自分の舌を噛み千切りたい衝動にも駆られる。
「くそっ! どうにかならぬのか!?」
「も、申し訳ございません。ですが、海の食材を仕入れるだけでも難しいのです」
給仕は深々と頭を下げる。
懸命な態度に、ワイズバーンも追及する気を失くした。
元より、給仕を責めてもどうにもならないのだ。
「……しかし、海鮮料理か。新しい味を求めるのも良いのかも知れんな。他にも美味いものが見つかるかも知れん」
こうしてワイズバーンの食道楽は加速する。
後に、ひよこ村にとって良い取引相手になるのだが―――、
それはもう少しだけ先の話。
お得意様確保な話でした。
短めですが、明日も更新です。