知らないお屋敷
眠りこけたスピアを客室へと運んだ後、エキュリアは父の執務室へと赴いた。
休みたいところだがそうもいかない。話すべき事柄は山ほどある。
「随分と、型破りな少女であるようだな」
「はい。しかし彼女に救われたのは事実です」
これまでの経緯を、エキュリアはあらためて語っていった。
包み隠さず。自分の目でみた事実すべてを。
スピアの行動を語るたびに、クリムゾン伯爵の眉根に皺が寄った。キングプルンを手懐けているとか、オークを撲殺するとか、とても子供の行動ではない。信じられないのが当り前だ。
とりわけスピアが使う魔法に関しては、エキュリアも説明が難しかった。
だけど証拠もあった。オークに殺された、エキュリアの配下にいた兵士たちだ。その死体は街の門をくぐる前に、スピアの『倉庫』から取り出されていた。いまは丁重に葬るために別の場所へ安置されている。
ひとしきり話を聞き終えると、クリムゾン伯爵は深い息を吐いた。
「特異な魔法と、子供とは思えぬ身体能力……何かしらの『恩寵』を授かっていると考えるべきか」
「しかしスピアは、神の名前さえ口にしなかったのですよ?」
「敬虔な信徒ばかりが『恩寵』を授かるとは限らん。神々は気まぐれだからな」
教会関係者は否定するだろう。けれど神々が人に授ける様々な『恩寵』は、必ずしも信仰とは一致しない。特定の試練を課す神もいれば、無作為に恩寵を授けて名すら告げない神もいる。
ある日、目が覚めたら枕元に神剣があった、なんて話もあるくらいだ。
「ともかくも無碍には扱えんな。しかしすべては彼女が目覚めて、話をしてからだ」
「父上、まさかとは思いますが……」
「戦力として頼ろうとは思わん。子供を死地に向かわせるなど、領主としても人間としても失格であろう」
エキュリアはほっと胸を撫で下ろした。
いまのクリムゾン領は一人でも多くの戦力を必要としている。スピアの戦闘能力はどれほどのものか測れないが、オークの軍勢に対して、多少なりとも被害を与えられるのは確実だろう。
神の恩寵は、絶望的な状況を覆す可能性がある。
だが、だからといって子供を戦わせたいとは、エキュリアも思わなかった。
「他にも考えるべき問題はある。まず、其方を唆したという近衛騎士だが……」
クリムゾン伯爵が話を切り替える。
室内の空気が緊張感を増した。これまでの話は、重要ではあっても、子供一人をどうするかという問題に過ぎない。しかしここからは、領地に住む大勢の人々、果ては王国の存亡にも関わってくる。
「”二人だけ”で間違いないな? 他に目撃者はおらず、確実に死んだのだな?」
「はい……どこかに連絡する余裕もない一瞬の出来事でした。不幸中の幸い、と言うのも憚られますが」
「ふん。死んで当然のクズどもだ。ともあれ、これでオークとの戦いに集中できる」
つまりは近衛騎士の死を揉み消す。
そうクリムゾン伯爵は言外に語った。
エキュリアとしては正しい対処だったと公言したいところだ。けれど余計な混乱を避けたい状況なのも理解できていた。
ともかくもいまは、領地の危機に向き合うべきなのだ。
オークの一匹や二匹なら、新人冒険者でも対処できる。けれど巣を作り、軍勢にまで膨れ上がったオークとなると話はまったく異なる。
国を滅ぼされた例もいくつか挙げられる。
たとえ百匹程度の群れでも、国軍が動いてもおかしくない。
理由もなく対処を遅らせるだけでも異常。
しかしクリムゾン伯爵は、もっと悪い事態も想定していた。
「まさか……援軍を出さないだけでなく、邪魔までしてくると? 仮にも一国の王がそこまでするでしょうか?」
「……さてな。あくまで可能性の話だ」
クリムゾン伯爵は言葉を濁した。
何かしらの確信はある。けれどいまは語るべき時ではないのだろう。
そうエキュリアも理解すると、話を本題へと移した。
「この街は、いつまで耐えられるのでしょう?」
「最悪ならば数日……長くとも数ヶ月といったところか。敵の規模がいまだに把握しきれておらんからな。前回の衝突で、かなり削れたと思いたいところだ」
自分がいない間に情勢が変わったのでは―――、
そんな期待も込めての質問だった。
けれどエキュリアが想像していた以上に、事態は悪い方向へ転がっていた。
「先日、北のアルヘイス領で大型の魔獣が暴れたそうだ」
「なっ……!」
「噂ではオーガの群れともワイバーンが出たとも言われている。詳細はまだ不明だが、援軍は期待できないだろう。他の領地も余裕があるところは少ない。冒険者ギルドにも要請は出してあるが……元より、あそこの戦力は流動的だからな」
つまりは孤立無援。
街の外壁に頼って戦えば、まだ数千のオークを相手にしても持ち堪えられる。けれど敵を殲滅できる訳ではない。
そして時間は、繁殖力の強いオークにとって味方となる。
「このような話で迎えたくはなかった。しかしエキュリアよ、其方が無事であってくれたのは、心から嬉しく思っておる」
「いえ……私こそ何の力にもなれず、心苦しいばかりです」
歯噛みし、床を見つめながら、エキュリアは思う。
この危機を救う手立てはないものか―――、
一瞬、スピアの顔が脳裏をよぎったが、すぐに頭を振って打ち消した。
◇ ◇ ◇
小さな手で枕を掴む。顔を埋めるようにして抱き寄せる。
寝返りを打つと、艶のある黒髪がさらさらと砂粒みたいな音を立てた。
「うぅん……」
ぼんやりと目蓋を開いて”黒い”瞳を覗かせる。
しばし微睡みに身をゆだねていたスピアだが、ゆっくりと身を起こした。
半目のまま首を左右に回す。
「……何処だろう?」
知らない場所だ。だけどこのベッドはふかふかで居心地がいい。
酷い扱いはされていないから、人攫いに遭ったんじゃない。
そう判断したところで、くぅ、とお腹が鳴った。
「ん……もう朝? お昼?」
スピアは手元に円形の影を浮かべる。
まだ『倉庫』には、すぐに食べられるリンゴも残っていた。だけど影に手を入れただけで何も掴まずに引き戻した。
「はぁ、そうだったね……もう攫われた後だったんだ」
ベッド脇の壁に背を預けて、スピアはぼんやりと虚空を眺める。
ここ数日の出来事がいっぺんに思い出された。
いきなり洞窟に放り出されて、ダンジョンマスターになって、エキュリアと出会って、初めて見る魔物との戦いがあって―――、
人間も、二人殺した。
直接に手を下してはいないけれど、命じたのはスピアだった。
後悔はしていない。相手は救いようのない下衆で、一歩間違えればスピアも殺されるところだった。手加減なんて考えている余裕もなかった。
それでも殺人は禁忌だ。
スピアが知る限り、最も重い罪だ。
この世界では違うと認識していても、忌避感は拭い去れない。
ほんの少し前の自分とは、決定的になにかが変わってしまった気がした。
「……手が血に濡れて見える……なんてことはないんだね」
開いた両手を、スピアはじっと見つめていた。
その瞳に紅い輝きが灯る。
だけど深呼吸をして、一度瞬きをすると、また静かな黒色の瞳に戻っていた。
「うん……仕方なかったで済ませちゃいけない。私が決断して、命を奪った。それはちゃんと受け止めよう。それでもひとつずつ前に進んで……絶対に、家に帰る!」
あらためて決意を口にすると、スピアは拳を握って立ち上がった。
まだ寝起きで覚醒しきっていない身体を伸ばす。そうして柔軟体操をしていると、今更ながらに気づいた。
「着替えさせてくれたんだ……エキュリアさん? それとも侍女の人かな?」
いまのスピアが着ているのは、上着とズボンに別れた寝間着だった。白色の生地は手触りがよく、フリルが贅沢にあしらわれている。丸いボタンのひとつまで可愛らしい。
胸元を少し開いて見てみると、下着はそのままだった。
ほとんど膨らみのない胸も柔らかな布に包まれている。スパッツもそのままなのは下着だと思われたのだろう。
「とりあえずは、この格好のままでいいかな。動きやすいし。あとは……」
まずは顔を洗わせてもらおう、とスピアは部屋を出ることにした。
やはり廊下の風景も見知らぬものだったけれど、適当に進んでみる。ほどなくして人影が目に留まった。
「おはようございます」
「おや、お目覚めになられたのですね。気づかずに申し訳ございません」
廊下の先にいたのは、昨夜も会った侍女長だった。掃除をしていた手を止めて、丁寧に頭を下げる。
いまのスピアは伯爵家の客人扱いだ。たとえ子供でも、侍女からすれば目上の者なので礼を尽くすのは当然。本来なら、目が覚めた際にも誰かが控えていたのだろう
スピアからすれば、過分な歓待だと思う。
平時ならばともかくも―――。
「気にしないでください。なんだか人が少ないみたいですし」
伯爵家というだけあって、それなりに屋敷の敷地は広い。けれどそこに居る人間は数えられるほどだった。
屋敷内にいるクリムゾン伯爵や使用人、庭にいるぷるるんや見張りの兵士たち。
それらの気配を、スピアはすでに把握していた。
「オークの襲撃っていうのが関係してるんですか?」
「……スピア様は、とても聡いのですね。その通りです。屋敷に仕えていた者の多くが暇を出され、街を離れております。伯爵様のご慈悲によるものです」
ふむぅん、と気の抜けた返答をしつつ、スピアは感心もしていた。
貴族というものに、スピアはあまり良い印象を抱いていなかった。むしろ偏見を持っていたのだろう。「平民は黙って従えー」とか言って高笑いする貴族像が、真っ先に頭に浮かんでいた。
だけど違った。自分が間違っていた、とスピアは認める。
少なくともエキュリアやクリムゾン伯爵は信頼できると、考えを改めた。
そういった意味では、侍女長が言ったように”聡い”少女だった。
「それにしても……この屋敷に人が少ないと、よくお分かりになりましたね」
「え? だってそれは魔法に頼らなくても気配で……あれ? もしかして、変なことしちゃいました?」
侍女長は答えない。微笑を浮かべたまま、スピアの頭を優しく撫でた。
だけど一瞬だけ視線が泳いだのを、スピアは見逃さなかった。
「そろそろ昼食の時間ですね。お腹は空いておられますか?」
「えっと、はい。だけどまずは顔を洗わせてもらっていいですか?」
「承知いたしました。では、こちらへ」
丁寧に話を逸らした侍女長は、背筋をピンと伸ばして歩き出した。
静かに歩く後姿をスピアも追っていく。
「スピア様は、なにか苦手とされる食べ物はございますか?」
「草はちょっと嫌いです。虫は、我慢すれば食べられます」
「っ……料理人に腕を振るうよう申し付けておきます」
スピアは小首を傾げる。
侍女長の咽喉から微かな嗚咽が漏れたのに気づいたが、詮索はしなかった。
スピアがぐっすりと眠っている頃―――、
早朝に起床したエキュリアは、身支度を整え、いくつかの準備もして家を出た。
まず向かったのは教会だ。エキュリアを守ってオークに討たれた兵士たち、その遺体が安置されていた。葬儀の手配を済ませると、その足で遺族の下にも赴いた。すでに街を離れている遺族もいたが、後の生活に困らないよう助力を約束した。
次にエキュリアは、街の西門へと向かった。
西方からオークの軍勢は攻めてくるはずなので、門の近くには臨時の対策本部が置かれている。各部隊長を集めると、エキュリアは話を切り出した。
オークどもの動向を探るため、エキュリアは危険を省みずに偵察を行った―――、
そういう筋書きになっていた。
王国から見捨てられたことは、まだ一般の兵士には秘密にされている。まさか援軍を得るために身を差し出しに向かった、とも言えなかった。
事実を告げれば、兵士たちの士気は下がる。
怒りで戦えるかも知れないが、そう長くは続かないだろう。
援軍に期待させたまま士気を上げようと、昨夜、クリムゾン伯爵と決めた筋書きだった。
「まさか、エキュリア様がそこまでしてくださるとは……」
「命懸けで得られた情報、けっして無駄にはいたしませぬ!」
意気を上げる兵士たちの様子に、エキュリアは後ろめたさを覚える。
けれど情報を得たのは紛れもない事実だ。
この危難を乗り越えた際には、すべての真実を打ち明けよう。それが叶わぬ時は、自分の命も失われているはず―――、
そうエキュリアは覚悟を固めて、握り込んだ拳を背中に隠した。
「あの森辺りに出張っているとは、オークどもの偵察部隊かも知れぬな。オークメイジもいたという話ならば知恵が回る連中だ。只の狩りではあるまい」
「そうだな。十匹の群れというのも、狩りにしては多すぎる」
「奴らもこちらの様子を窺おうとしていると? 予想よりも襲撃が早まる可能性もあるか」
「それよりも、以前よりオークどもの武器が充実しているのが気になる。棍棒程度でも脅威になるというのに……」
細かな話し合いは兵士たちに任せて、エキュリアは席を立った。
軍議に参加したくもあったが、まだ他の仕事も残っていた。
「もう昼過ぎか……」
街に鳴り響く鐘の音で、昼食を食べそびれていたことに気づく。
一旦屋敷に戻って、なにか軽く摘もうと考えた。
それにスピアのことも気掛かりだ。屋敷にいれば安全だとは思えるが、昨夜はいきなり倒れたので、付き添っていたい気持ちもあった。
「しっかりしているようでも、やはり子供なのだ。疲れていたのだろうな……」
街の外は死と隣り合わせの無法地帯。
そんな場所で過ごすのが、子供にとってどれほど過酷であるのか。ちょっと考えれば分かることだった。
戦う力にはなれずとも、もっと気遣ってやるべきだった。
自分が支えるべきだった―――、
そう己を戒めながら、エキュリアは足を速めた。
門衛への挨拶も素っ気無く屋敷へと入る。
一度気になり始めると、どんどん心配になってきた。
もしもずっと眠ったままだったら?
いや、目を覚ましても一人で怯えているかも知れない。
知らない場所にいると知って、子供なら泣き出してもおかしくない―――。
「今度こそ、私が守ってやらなければ……ん?」
スピアがいるはずの客室へ向かおうとして、エキュリアは足を止めた。
食堂の方から声が聞こえた。
子供みたいな、スピアの声だ。なにかに驚いたように大きく響いてきた。
「目が覚めたのか、スピア……!」
駆け出して、エキュリアは食堂の扉を開ける。
そこで言葉を失った。
まず目に入ってきたのはテーブルの上に並んだ数々の料理だ。
新鮮な野菜のサラダから始まり、熱々のクリームシチューや、王国では手に入り難いクルム牛のステーキなど、美味しそうな匂いを漂わせている。
さらにテーブルの奥には、デザートとしてアップルパイ、大きなホールケーキと、果物を切り寄せたものも並んでいる。たとえ王族の誕生会でもここまで豪華ではないだろう、という贅沢なメニューだ。
その料理を、スピアは次々と口へ運んでいた。
「あ、へひゅひあはふ。ほひひいへふほ」
「……口に物を入れたまま喋るな」
辛うじて注意の言葉を返して、エキュリアは頭を抱えた。
スピアが元気一杯なのはいい。喜ぶべきだろう。
ご馳走をするのも約束していたので、贅沢すぎる料理にも目を瞑れる。
それにしても、いったい何がどうしてこうなったのか?
エキュリアの疑問に答えられそうなのは、スピアの傍らに控えている侍女長だ。
しかしその侍女長も、何故か目頭を押さえて涙を拭っている。口元には笑みが浮かんでいるので悪い涙ではないのだろう。
それらの状況をしばし観察して―――、
エキュリアは深く考えても無駄だと悟った。
「……よし。私も腹が空いていたところだ。相席しよう」
「はふ……んぐ。はい。ご飯は大勢で食べた方が美味しいですよね」
頬っぺたにソースをつけたまま、スピアは太陽みたいに微笑んだ。