エピローグ 前編
夜の帳が降りて、空気も寒々として停滞している。
天幕を張って毛布を被っても野営には厳しい季節だ。
なるべく焚火を大きく保つようにはしているが、吐く息は白いままだった。
「スピアさんに頼りきりだったのを痛感いたします」
太い樹木に寄り掛かりながら、セフィーナは自嘲げに顔を歪める。
腰を降ろした地面も冷たく固い。じっとしているだけでもお尻が痛くなってくる。
隣にいるエミルディットも居心地悪そうに身をよじった。
「えっと……よろしければ、熱いお茶でも入れましょうか?」
エミルディットが躊躇いがちに申し出る。
主従二人のみが、天幕の中で膝を抱えて寒さに耐えていた。
外にはエキュリアもいて、焚火を灯しながら見張りをしている。薄い天幕越しに、時折動く影が見えていた。シロガネも外にいて身じろぎひとつせずに立っているのだけれど、念の為とエキュリアから言い出して夜番に就いたのだ。
ひとまず山岳地帯の包囲を抜けるのには成功した。
百名ほどの騎兵部隊とも出くわしたが、あっという間にシロガネが蹴散らした。
それはもう一言で済むくらいに、あっさりと。
そうしていまは森に身を隠して野営をしている。
セフィーナもエミルディットも、守られる側なのは自覚していた。
だから料理などのちょっとした作業くらいは手伝っている。
それでも夜を迎えるごとに、返しきれない恩が積もっていくのを感じてしまう。
「お茶よりも……エミルディット、こちらへ」
「え……あ、はい。失礼します」
セフィーナから促されて、エミルディットは肩を寄せる形で腰掛ける。
主人と並ぶなど、侍女の立場では本来は許されない。
けれどこの旅では、そんなことばかりだった。
「こうしていれば、少しは暖かいでしょう?」
「……はい。姫様、ありがとうございます」
肩を寄せ合い、同じ毛布に包まって、主従は笑みを交わす。
そうして、しばしの沈黙が流れた。
外から焚火の弾ける音が響いてくる。
「……あなたの負担になっているのは分かっていました」
ぽつりと、セフィーナが呟いた。
エミルディットは目を見開いて、否定の言葉を返そうとした。
けれどそれよりも早く、セフィーナが続ける。
「もっと頼れる主人であればよかったのですが、わたくしは一人では何もできません。とりわけこの旅では、情けない姿ばかり見せて……幻滅したでしょう?」
「そんなことはありません! 姫様は、私を救ってくださいました!」
「……侍女としての立場、食事や服を与えたことなら、わたくしの力ではありません。兄がやってくれたことですし、何より、王族としての権威を使っただけです」
王族として生まれた以上、個人として自由にできるものなど無い。
服も食べ物も、側仕えや騎士からの忠誠も。
ほとんどあらゆるものが、王族であるレイセスフィーナに奉げられたものだ。
エミルディットに与えられたものも同じ。
でも、だからこそ、とセフィーナは優しい眼差しをして述べる。
「心くらいは自由でありたいと願っております。そして、エミルディットに笑っていて欲しいというのも、心からの願いですよ」
「姫様……」
涙ぐむエミルディットの頭を、セフィーナはそっと引き寄せて撫でる。
まるで仲の良い姉妹のようだった。
「思い悩むことがあれば、相談してください。わたくしにはそれも嬉しいことなのですから」
「はい。もっと姫様を頼らせていただきます」
「ふふっ、すぐに怯えてしまう頼りない相談役ですけどね」
そんなことはありません―――、
そう言おうとしたエミルディットだが、肩を縮めて凍りついた。
いきなり轟音が響いてきたからだ。
なにか重い物が大地に叩きつけられたような音。
さらに、バキバキと樹木が圧し折れる音も混じっていた。
「い、いったい……まずは、外に出ましょう。エミルディット!」
「はい! すぐに逃げる準備も整っております!」
エミルディットが小さな鞄を背負うと、二人は天幕から出た。
何事か?、と声を上げようとした口は開いたまま固まる。
問うまでもない。問うても無駄。
そんな答えに行き着いて、二人はまじまじと正面を見つめた。
エキュリアもすぐ近くで立ち尽くしていた。
視線の先には、黄金色の塊がいた。
樹木を薙ぎ倒し、地面を抉り取ったあとで、ぷるぷると震えている。
どうやら派手に着地失敗したらしい。
その黄金色の上には、いつものようにスピアもいた。
いや、“いつものように”というのは少々異なる。
ぐってりと、うつ伏せになっていた。
「ただいまです」
むくりと起き上がったスピアが、何事もなかったかのように言う。
そんなところはいつも通りだった。
「ちょっと失敗しちゃいました」
「あのなぁ……無事なようだが、ちょっとではないだろう。どうしてこうなった?」
「急ぎすぎました!」
勢いで誤魔化すように述べて、スピアはぷるるんから降りる。
そんな様子にエキュリアが頭を抱えるのも、まあいつものことだ。
セフィーナもくすりと笑みを零す。
エミルディットは眉根を寄せて、口元が緩みそうになるのを堪えていた。
「お腹が空きました」
「ちょっと待て。その前に、状況を……」
「承知いたしました、ご主人様。すぐにお食事をお持ちいたします」
シロガネに言葉を遮られて、エキュリアは渋い顔をする。
けれど追及はせずに溜め息を落とした。
困難な事態に、スピアが一人で対処してくれたのは間違いないのだ。
無事に帰ってきた仲間を温かく迎えたいのは、エキュリアも同じだった。
「話は、ご飯を食べながらしますよ」
言いながら、スピアは地面に手をつく。
そうして、あっという間に木造りの小屋が出来上がる。
常識外れだが、もうセフィーナたちには慣れた光景だった。
「まあ大したことでもなかったんですけど」
スピアに促されて、一同も小屋へと入る。
魔法によって明かりも灯され、セフィーナたちはほっと安堵の息を吐いた。
また合流できた。なにはともあれ、まずそれは嬉しいことだ。
朗らかなスピアの笑顔にも心が緩む。
でも、油断でもあったのだろう。
スピアの言う“大したことない”を素直に受け止めてはいけない―――、
そう理解していたはずなのに。
「ワイズバーン侯爵は、魔族に操られてました」
「え……?」
「それを、セフィーナさんが大活躍して助けました」
「はぁっ!?」
「そういう話にしておきました。英雄です。大勝利です」
「ちょっと待てぇっ!!」
エキュリアが大声を上げる。
セフィーナやエミルディットは、事態を受け入れるのにしばしの時間が必要だった。
翌朝―――、
スピアたちはまた東へ向けて出発した。
四人が乗り込んだ馬車を、サラブレッドが引いて草原を駆けていく。
「今更だが、始めから馬車を使えばよかったのではないか?」
「思いつきませんでした」
悪びれもせず、スピアは言う。
「それに、乗り心地はぷるるんの方が柔らかいですし」
「あれと比べるのは、まぁ……」
苦笑しつつ、エキュリアは窓から馬車の外を眺める。
ぷるるんが元気良く跳ねてついてきていた。
シロガネはひよこ村へと帰ったが、上空ではトマホークも目を光らせている。
やはり油断は禁物だが、しばらくはのんびりとした旅路を過ごせそうだった。
「どうせまたすぐに、騒動が起こるのだろうがなあ」
呟くエキュリアは、ちらりと対面の席を窺った。
セフィーナが空中を眺めている。
寝不足顔な上に、心ここに在らずといった様子だ。
いつの間にか、“六魔将の配下を倒した英雄”に祭り上げられていたのだ。
一晩経っても、その衝撃は抜け切っていなかった。
隣に座るエミルディットも、気遣う言葉を繰り返し掛けていた。
ただ、それとは別に思うところもあるらしい。
「あの、スピアさん……?」
躊躇いがちに、エミルディットが声を掛ける。
スピアは紙とペンを手にして、難しい顔で呻っていた。
「ん? いい技名でも思いついた?」
「何の話ですか! って、そんなことで悩んでたんですか?」
「まあ名前はともかく、そこから思いつく技もあるから。形から入るってやつだね」
「はぁ……えっと、よく分かりませんけど……」
曖昧な返答をしかけて、エミルディットはぶんぶんと頭を振った。
そうじゃありません!、と話を引き戻す。
「お礼を言いたかったんです。その、色々と心配していただいて……」
「んん? 気にしないでいいよー」
「ですが、失礼なこともたくさん言ってしまって……」
「大丈夫。ツッコミ役は大切だから」
朗らかに返されて、エミルディットは目をぱちくりさせる。
ツッコミ役とか言われても意味が分からない。
でも、自然と表情は緩んでいた。
「まだ私が何をしたいのか、はっきりとした答えは出ません。でも、姫様や皆さんの役には立ちたいと思いますし……子供だっていうことに甘えるつもりもありません。ですから、私に出来ることなら何だって言ってください」
胸の前で拳を握って、エミルディットは真剣な眼差しを見せる。
だけど以前とは違って切羽詰まった感じではない。
スピアも柔らかく微笑んで頷いた。
「だったら……まずは、お姉ちゃんって呼んでくれる?」
「それはダメです!」
あっさりと切り返されて、スピアは渋い顔をする。
「だいたい、スピアさんの方が子供っぽいじゃないですか!」
「むぅ。そんなことないよ。ですよね、エキュリアさん?」
いきなり話を向けられ、エキュリアは言葉に詰まる。
どちらも子供ではないか。
そう思っても、口にするのは躊躇われた。
「あ~……なんだ、仲が良いのはいいことだと思うぞ」
曖昧な返答に、ぎゃあぎゃあと二人は反論する。
そうして騒がしい馬車は、王都を目指して進んでいった。