ダンジョンマスターvs魔侯爵④
ワイズバーンが巨体を揺らして、一歩を踏み出す。
その動作に淀みはない。
ついさっきまで苦悶に悶えていたのに、膝の震えまで治まっていた。
ただ、眼差しは虚ろで、口元からは涎を垂らしている。
背中を丸めて、腕もだらりと下げて、何処となく虫を思わせる動きだ。
「ワイズバーン侯爵さん!」
スピアが元気良く声を掛ける。ぶんぶんと手も振ってみた。
けれどワイズバーンは、ぎょろぎょろと視線を巡らせているだけだ。
「完全に操られちゃったみたいですね」
仕方ないか、とスピアは息を落とす。
人間が魔物に操られる場面なんて、もう見たくなかった。
たとえそれが敵対した相手であっても。
「どっちにしても、叩きのめすのは同じなんですけど……」
スピアが迷ったのは一瞬だ。
けれどその一瞬を見抜いたように、寄生されたワイズバーンは地面を蹴った。
相変わらず、肥満体とは思えないほどに鋭く動く。
しかも先程までよりも突進の勢いは増していた。
魔物に寄生されたことで、肉体に何かしらの影響が及んだようだ。
まるで矢のような速度で巨体が迫る。
それだけでも、並の人間ならば目を剥き、為す術もなく潰されていただろう。
しかし―――、
「害虫は嫌いです」
ズドン!、と重々しい衝撃音とともに肥満体が投げ倒された。
掴み掛かってきた腕を、スピアが逆に掴み取り、そのまま投げたのだ。
つまりは、背負い投げ。
頭から落下したワイズバーンは、仰向けに倒れる。
その顎をスピアはまた鷲掴みにした。
もう一方の手は、『倉庫』から素早くひとつの小瓶を取り出していた。
「わたしの知ってる殺虫剤は劇薬でもありますけど……」
小瓶に詰まっているのは、蟻の駆除にも使った殺虫剤だ。
瓶の中にある時は液体で、蓋を取ると煙になって広がっていく。
「まあ、たぶん大丈夫でしょう」
根拠のない推測を述べて、開けた瓶をワイズバーンの口へ突っ込んだ。
液薬が咽喉へと流し込まれる。
途端に気化し、白煙となって立ち昇る。
ワイズバーンはじたばたと手足を暴れさせたが、それもすぐに止まった。
白目を剥いた巨体を、スピアは引っ繰り返す。
軽く背中を叩くと、ワイズバーンの口から息絶えた女王蟻がずるりと出てきた。
操られていた当人はピクピクと痙攣している。
「怪物化したら強くなる、なんてお約束はなかったですね」
単純な膂力だけなら上昇しているようだった。
けれど、スピアからすれば“それだけ”だ。
磨き抜かれた技を使うお相撲さんの方が、ずっと厄介だった。
直線的な動きしかしない魔物なんて、真っ二つにするのも簡単だったろう。
女王蟻が完全に息絶えたのを、スピアは確認する。
泡を吹いているワイズバーンの方は、ひとまず意識が無いだけだ。
「うん、生きてる。一件落着だね」
後遺症くらいはあるかも知れないけど―――、
そんな内心は言葉にせず、スピアは顔を上げる。
周囲には、唖然とした様子の兵士たちが立ち尽くしていた。
敵将を倒して勝ち鬨を上げる。
残った兵士たちはわらわらと逃げ去っていく。
スピアの知識にある戦場は、そんなものだった。
けれどどうやら、そう単純に片付きはしないらしい。
「敵将ワイズバーン侯爵、親衛隊長スピアが討ち取ったぞー!」
まだ生きてるけどね。
なんて胸の内で呟きながらも、スピアは腕を上げて宣言してみる。
たぷたぷとした腹を、軽く踏みつけもしてみた。
しぃん、と。
返ってきたのは静寂だ。
やや間を置いても、周囲にいた兵士たちが僅かに顔を歪めるだけ。
「……敵将、討ち取りましたよ?」
もう一回言ってみる。
勝ち鬨ポーズをあれこれと変化もさせた。
けれどやはり、周りの反応は芳しくない。
「な、なあ、どういうことだ? 侯爵様が倒されたのか?」
「俺に聞くなよ。っていうか、あのデブ……侯爵様は俺たちを操ってたんじゃないのか?」
「あの子、親衛隊長って言ったよな? 何者なんだ?」
「と、とにかく逃げた方がいいんじゃねえか? 戦いとかよく分かんねえし」
混乱している兵士たちの顔を眺めて、スピアは軽く腕組みをした。
ふむぅん、と呻ってから首を回す。
背後で大人しくしていたぷるるんに手招きをすると、その上に跳び乗った。
「ワイズバーン侯爵は、魔物に操られていました!」
「え……?」
目立つところから投げられた声に、兵士たちの視線が集まる。
今度は、なかなかに良い反応だった。
分かり易い話の方が広まる。
真実かどうかは大した問題じゃない。
例えば、何処の誰とも分からない少女が暴れたという話より、伯爵令嬢が活躍したという話の方が広まったように。
以前にセイラールの街で遭遇した騒動から、スピアも情報の流れというものを学んでいた。
それが、また騒動を引き起こす可能性があるのはともかくも。
「裏で糸を引いていたのは、魔族です!」
「なっ……!」
「でもそれは、王妹であるレイセスフィーナ殿下によって見抜かれました!」
「おお!?」
「そして、親衛隊によって、魔族と魔物がまとめて退治されたのです!」
「おおおっ!!」
兵士たちが晴れやかな顔をして声を上げる。
お姫様の活躍、という分かり易い話は喜んで受け入れられた。
ちなみに、いまのレイセスフィーナは身分を隠して行動している。
だから大っぴらに名前を出すのはマズイ―――、
戦いの前にスピアも思ったことだが、すっかり忘れていた。
「魔族なんて恐れるに足りません。勝利です!」
「おお! レイセスフィーナ殿下万歳! ベルトゥーム王国に栄光あれ!」
スピアが煽ると、兵士たちが唱和する。
お祭り騒ぎとなって、話はどんどんと広がっていった。
いまは気絶しているワイズバーンにも、この話は伝わるだろう。
そして思い至るはずだ。
もしも“操られていた”時と同じ行動をすれば、今度こそ領民が反乱を起こす、と。
もちろんスピアは、そこまで考えて話をでっちあげたのではない。
だが結果として、ワイズバーンを縛る鎖を作り上げた。
「皆さんはもう安全です。気をつけて街まで帰ってください」
帰還を促す言葉もすんなりと流れ込んで、兵士たちの戦意は消え失せていく。
手近な者同士で声を掛け合い、帰り支度に取り掛かる。
まだ若干の混乱は残っている。
けれどひとまずは、スピアの望んだ方向で事はまとまりそうだった。
「あ、あの……」
恐る恐るといった感じの声が掛けられる。
スピアが振り向くと、幾名かの騎士が不安そうな顔をしていた。
ぷるるんに打ちのめされた騎士もいる。
その視線はスピアと、まだ倒れて意識のないワイズバーンとの間を巡っていた。
「貴方は、レイセスフィーナ殿下の騎士なのですか?」
「はい。親衛隊長です」
スピアは自信たっぷりに言う。
騎士の頬がヒクリと歪んで、また不安の表情が濃くなった。
「その、ワイズバーン侯爵はどうなるのでしょう?」
「まだ生きてます。手当てしてあげてください」
「え……? レイセスフィーナ殿下の命で処断されるのではないのですか?」
「知りません!」
細かい話はどうでもいい、とスピアは首を回した。
西の空を窺う。もうかなり陽が沈んできていた。急いで山岳越えをするにしても、セフィーナたちと合流するのは真夜中になってしまいそうだ。
「追って沙汰を下す、というやつです。たぶん」
あとは、お姫様に任せよう。
もう時間稼ぎは充分。軍勢で追ってくることもないはずだし―――、
そう判断したスピアは、ぷるるんに腰を下ろした。
「では、わたしも帰ります。お疲れ様でした」
スピアは屈託なく笑って手を振る。
戦いに来たのではなく、まるで友達と遊び終えて家に帰るみたいに。
「ぷるるん、もうちょっとだから頑張ってね」
「ぷるっ!」
そうして少女と黄金色の塊は、軍勢の頭上を跳ねて去っていく。
奇妙な後姿を、騎士たちは呆然として見つめる。
ただ幾名かは、その小さな背中に敬礼を送っていた。
ひとまずの決着。
尋問とか情報収集とか、細かいことはスピアは投げ出しがちです。
次回は、三章エピローグ、前編です。