ほっと一息
夕陽が完全に沈む直前に、スピアたち一行は街へ辿り着いた。
少々無茶をして。平原を駆けて。
いや、正確には駆けるというより跳ねていた。
「と、止まれぇっ!」
見張りの兵士が大声を上げたのは当然だろう。厄介な魔物であるキングプルンが猛然と迫ってくるのだから。
夕陽を受けて跳ねる黄金色の塊は、とても非常識な光景を描きだしていた。
遠距離から魔法攻撃が放たれなかったのは、その塊の上に少女二人がしがみついていたからだ。
「す、スピア、もうちょっとゆっくり……」
「大丈夫です。もげません」
「なにが!?」
エキュリアが喚いていたおかげで、兵士たちの注意も引けた。兵士たちの中には、領主の娘であるエキュリアの顔を知る者も少なからずいた。
さすがに門の中まで突撃したら無事では済まなかっただろうが―――、
守備兵たちが作った隊列の前で、ぷるるんはピタリと止まった。
「こんにちは。はじめまして」
ぷるるんから降りたスピアは、丁寧に挨拶をする。
エキュリアも降り立ったが、蒼い顔をして項垂れていた。
「うぅ……視界がぐるんぐるんする……」
「え、エキュリア様……?」
兵士たちは武器を構えたまま、呆然として瞬きを繰り返す。
いったいこの状況は何なのか?
まともに答えられる者は一人もいなかった。
「エキュリアさん、この街、すごいですね。壁です。おっきいです。間近で見ると、やっぱり違いますね」
「ああ、うん……ちょっと待ってくれ。吐きそうだ……」
エキュリアは口元を押さえて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。ともかくも事情を説明するべきなのは分かっていた。
けれどエキュリアが立ち直る前に、一人の男が近づいてきた。
「エキュリア―――」
兵士の列を割って現れたのは大柄な男だ。クリムゾン伯爵家の長男であり、エキュリアの兄、ラスクード。騎士甲冑がよく似合っていて、厳しい顔立ちをしている。
ただ歩くだけで威圧を振り撒く。
混乱も押し黙らせて、ラスクードはエキュリアの正面に立った。
「この馬鹿者が!」
「っ……!」
ぱぁん、と乾いた音が鳴り響いた。
中空を見つめたまま、エキュリアは自身の頬に手を当てる。一拍置いて、平手打ちをされたのだと分かった。
「父上から話は伺った。考えなしに行動しおって!」
「しかし兄上、私は……」
「黙れ! 貴様の身勝手な行動で、どれだけの者が迷惑を被ったと思っている!
いいか、民を守るのが騎士の務めだが、容易く命を投げ捨てるなど―――」
ラスクードはまた手を振り上げた。
反射的に、エキュリアは目を閉じる。しかし痛みは襲ってこない。
だけど先程と同じように乾いた音は響いた。
「え……?」
目を開けたエキュリアが見たのは、頬を叩かれてふらつく兄の姿だった。
そこには跳びあがったスピアもいた。
何が起こったのか―――、
誰もが驚愕したものの、その答えは目の前の光景から明らかだった。
「エキュリアさんをいじめるのは許しません!」
「なっ……き、貴様、どういうつもりだ!?」
頬に真っ赤な手形をつけられ、よろめいたラスクードだが、すぐさま立ち直った。元より厳しい顔を怒りに歪めて、スピアを睨みつける。
まず子供なら怯えて泣き出すところだろう。
けれどスピアは腕組みをして堂々と立ち、力強く言い返した。
「やっと、街に帰ってこれたんですよ。オークも、魔物も、何匹も倒して。命懸けだったんです。そんなに苦労して帰ってきたのに……酷すぎます! 鬼です! 外道です! 血も涙もないんですか!? 事情があるにしても、兄だっていうなら、まずは優しく迎えてあげるべきです!」
一気に吐き出された言葉に、ラスクードの方がたじろぐ。
まさか言い返されるとは思っていなかったようだ。それでも伯爵家長男の誇りか、生来の気質か、いずれにしても小娘に言い負かされるなど我慢ならない。
「だ、黙れ! 無関係の者が口出しするな!」
「関係あります! エキュリアさんは、わたしの友達です!」
「家の問題だと言っている! 平民の小娘がしゃしゃり出るな!」
「しゃしゃり出ます! 退きません!」
もはや売り言葉に買い言葉だ。
スピアもラスクードも顔を歪めて睨み合う。互いに退こうとしない。
いつまでも続きそうな睨み合いだったが、やがて、ラスクードの方が焦れて一歩を踏み出した。
「ええい、訳が分からん! もういい! そこをどけ!」
ラスクードはスピアの肩に手を伸ばすと、力任せに押し退けようとした。
しかし体勢を崩したのはラスクードの方だった。
踏み出した足が、スピアの足で真横に蹴り払われていた。
さらにもう一方の足には雑草が絡みつく。そのまま地面ごとズレる。払われた足とは反対方向へ。
つまりは、股裂きだ。
さらに転がっていた大きめの石が、ラスクードの股間をしたたかに殴打した。
「ぬぼぉぁっ!?」
苦悶の声が響き渡った。
周りにいた兵士たちも、蒼ざめた顔をして内股になる。
そしてスピアは止まらない。
隙を作った上での追撃を、オーク相手に幾度も喰らわせていた。
「ま、待てスピア! やりすぎは―――」
エキュリアが慌てて制止しようとしたが、その時にはもうスピアの拳が振り抜かれていた。
小さな拳は、綺麗にラスクードの顎を打ち抜いた。
がくりと脳を揺らされたラスクードは、そのまま白目を剥いて仰向けに倒れる。
しん、と辺りは静まり返った。
「これで、私の方が正しいって証明されました。ちゃんと優しく迎えてあげてください」
―――いや、その理屈はおかしい。
誰もが同じことを思っていたが、それを口に出す者は一人もいなかった。
エキュリアも、頭を抱えるしかない。
その肩に、ぷよん、と優しく当たる感触があった。
「ん? 慰めてくれるのか……って、おまえも色々おかしいだろう!」
「ぷるっ!?」
ぷるるんは誤魔化すみたいに震える。
エキュリアの喚く声ばかりが響いていった。
王国の端に位置するとはいえ、クリムゾンの街は充分に栄えている。
鉱山資源に頼るばかりでなく、温暖な気候のおかげで農地も豊かだ。民衆はまずのんびりと暮らせるし、行商人も多く出入りする。
しかしオークの襲撃があって以来、街の活気は衰えるばかりだった。
陽が落ちれば、大通りを行き交う人の姿もほとんどなくなる。
そんな夜の街路を、スピアたちは静かに進んでいた。
二人と一体だけでなく、周囲には十名ほどの兵士もいる。
領主の娘であるエキュリアには護衛がついて当然。ぷるるんも、従魔とはいえ危険な魔物なので放置はできない。そしてスピアも、エキュリアの恩人であるとの説明はされたが、それ以上に警戒の目を向けられていた。
原因は当然、ラスクードを叩きのめしたこと。
領主の息子に対する暴力だ。エキュリアに庇ってもらわなければ、罪人として極刑を告げられていただろう。まあそうなったら、スピアは全力で逃げ出していたのだろうが―――、
ともかくも、その騒動については適当な理由をつけて誤魔化すことにした。
兄妹のちょっとした喧嘩だとか。子供の悪戯だとか。
そうして庇われたスピアは、大人しくエキュリアの隣を歩いている。
珍しく、しょんぼりと項垂れていた。
「もう気にするな。私を守ろうとしてくれたのは間違いないんだ。嬉しかったぞ」
「はい……」
ラスクードの言動は荒っぽかったが、それは妹を心配していたことの裏返しだ。もしもスピアが割って入らなければ、頬を叩いた後、大切な妹を抱きしめていただろう。そして無事の帰還を喜んでくれたはずだ。
そうエキュリアに聞かされて、さすがにスピアも反省していた。
「そうですよね。夜じゃあ街を見て回れないのも仕方ないです。まだ明日もあることですし、我慢します」
「って、しょぼくれてた理由はそれか!?」
スピアは反省をした。
だけどそれを引き摺りはしなかった。いつだって前向きなのだ。
それに、街を見て回れないのが残念なのも本当だ。
大きな街というだけなら、スピアは高層ビルが並び立つ都会も知っている。だけど規模の問題じゃない。石造りの建物ばかりが並ぶ、雑多な街の雰囲気は、スピアが知るものとはまるで異なっていた。
中世、欧州風、ファンタジー―――、
そんな言葉がスピアの脳裏をよぎっていった。
異質な文化に触れるのは、それだけでも胸が弾むものだ。
まるっきり子供みたいに目を輝かせて、スピアは夜の街を見回す。
灯りは少ないが、それがまた新鮮でもある。ふとすれば躓いてしまいそうな石畳の感触さえ、スピアには刺激的だった。
「……まあ、ここは私の生まれ育った街だからな。喜んでくれるなら、こちらも誇らしく思える」
いつまで在り続けられるか分からないが―――、
そう呟きながらも、エキュリアは嬉しそうに微笑んだ。
「ともあれ、今夜はゆっくり休んでほしい。私はまた父上に怒られるだろうが、恩人への礼を尽くすくらいは許されるだろう」
エキュリアは顔を上げて、街路の奥にある大きな屋敷を指差す。
「あれが私の家だ。歓迎しよう」
「エキュリアおねえさんは、本当にお嬢様だったんですね」
「ああ。らしくないのは自覚しているよ」
また苦笑を零しながらも、エキュリアの足は自然と速まる。
スピアも目を輝かせていた。
美味しいご飯と、ようやくゆっくりと休めるベッドを期待して。
玄関ホールに入ると、クリムゾン伯爵が待ち構えていた。
「おお、エキュリア! 無事でなによりだ。心配させおって」
「父上。ご迷惑を掛けて申し訳―――」
言葉を待たず、クリムゾン伯爵は娘を抱き締めた。まだエキュリアの鎧や服には血の汚れなどもついていたが、そんなものに伯爵は一切構わなかった。
恰幅のよい体が、エキュリアをすっぽり包むように抱き止める。
エキュリアは戸惑っていたが、すぐに肩の力を抜いた。
そんな親子の様子を、スピアは黙って見守っていた。
もう騒動を起こすつもりはない。ぷるるんを外で待たせておくことにも、すんなりと同意しておいた。
(貴族の礼儀なんて知らないけど、とりあえず大人しくしてればいいよね)
ひとまずの目的地に着いたことで、スピアにも幾分か余裕が生まれていた。
今後の身の振り方も考えなくてはいけない。伯爵と言えば、偉い人だというくらいは分かる。仲良くしておいて損はないはず。家に帰るためには、自由に動ける環境が必要だけど―――、
そういった思考も巡らせながら、スピアはぽつりと呟く。
「……やっぱり仲の良い家族って素敵ですね」
スピアの隣には、門から案内してくれた侍女長がいた。
髪は白く染まっている侍女長だけど、年齢を感じさせない。背筋はピンと伸びているし、鋭い緊張感を保ち続けている。
礼儀作法とかに厳しそうだ。でも涙もろかったりするのかな―――、
そんな印象を抱いたスピアだが、さすがに口にはしなかった。
「求められていないのに口を開くのは、無礼とされますよ」
小声で鋭く述べた侍女長だが、その手は優しくスピアの頭を撫でた。
スピアは素直に口を閉じて、こくこくと頷く。
「さて……其方がエキュリアを救ってくれたそうだな。まずは礼を言おう」
「はい。はじめまして。スピアです」
ひとしきり娘の無事を喜んでから、クリムゾン伯爵はスピアへと向き直った。柔和な表情を浮かべているが、眼差しには探るような色も含まれている。
「聞けば、ラスクードを打ちのめしたそうだな?」
非難するような口調ではない。
それはそうだろう。スピアの見た目は、街で遊んでいるような子供にしか見えない。いくら報告があったとはいえ、騎士を叩きのめしたなど信じ難い話だ。
あんまり子供扱いもされたくないけど―――、
ちょっぴりの反感を覚えつつも、スピアは軽く目を伏せて反省を示した。
「あれは失敗でした」
「ふむ……否定はせぬのだな」
クリムゾン伯爵の眼差しが険しさを増した。
だからといってスピアは何か反応を返す気にもならない。小首を傾げるだけ。
目潰しでも仕掛けてみようか―――、
そんな”らしくない”思考も頭を掠めただけで、面倒くささの方が上回った。
「父上、話は後にしましょう。スピアも疲れているのです」
「む……そうだな。部屋を用意させよう。ゆっくりと休むとよい」
促されて、スピアはほっと息を吐いた。
一礼しながら目蓋を伏せる。
「はい。休ませてもらいます」
スピアは柔らかく微笑む。その小さな体が揺れた。
ふらり、と。
まるで糸が切れたみたいに倒れ込んだ。
咄嗟に侍女長が抱き止めたが、スピアの全身からは完全に力が抜けていた。
「スピア!? お、おい、どうした!? まさか何処か怪我を……」
エキュリアもクリムゾン伯爵も大慌てで駆け寄った。
細い肩に手を回して、まじまじと様子を窺う。だけど―――、
「……眠っているのか?」
何日も緊張し続けていた反動が出たのだろう。
静かな呼吸を繰り返すスピアは、無防備な寝顔をさらしていた。